第四十二話 止めた救助網を、勝手に使う
午前四時十二分。
第八層の吊橋はまだ暗かった。
橋長、百八十メートル。
下は地下河川ではない。
黒い霧が溜まった裂谷で、底は見えない。
森下は橋の入口で、白い筋の入ったU字ピンを手にしていた。
「同じのが二十六本あります」
通信の向こうで笹木が息を呑む。
『全部?』
「目視できる範囲だけ」
『橋、止められる?』
「管理者がまだ来てません」
午前五時。
三つの探索団。
物資車二台。
総勢二十七人が渡る予定。
正式な閉鎖権限は橋梁管理会社にある。
現場の警告だけでは強制停止できない。
律は第五層から言った。
「管理会社へ緊急停止を申請します」
森下が返す。
「間に合わなかったら?」
律は答える前に、別の声が入った。
成瀬だった。
『東都名義で停止要請を出す』
「救助網は停止中です」
『救助網を使うとは言ってない。橋を止める』
成瀬は電話を切った。
十分後。
管理会社から回答。
《現場確認まで通行注意》
閉鎖ではない。
森下が笑わなかった。
「注意で二十七人止まりますかね」
新堂雅人の言葉が残っている。
可能性で家賃は待ってくれない。
午前四時四十分。
最初の探索団が予定より早く来た。
金獅子ではない。
六人の中堅班。
班長が橋を見る。
「閉鎖じゃないんだろ?」
森下がU字ピンを見せる。
「破断の可能性があります」
「可能性ね」
「白い筋が入った同型部品が二本、別設備で割れました」
「この橋は割れてない」
「今は」
班長は舌打ちした。
「今日、八層東の依頼がある。遅れたら違約金だ」
森下は止める権限を持たない。
「渡るなら、私は記録します」
「脅しか?」
「違います。名前を」
班長が睨む。
その時、橋の中央で金属音が鳴った。
小さい。
一度だけ。
森下が振り返る。
吊橋の補助索が、数センチ落ちた。
「下がって!」
今度は権限ではなかった。
声で全員が下がった。
二本目の音。
橋の右側が傾く。
U字ピンが一つ、弾丸のように飛んで岩壁へ刺さった。
班長の顔色が変わる。
「閉鎖だ!」
彼自身が叫んだ。
◇
橋は完全には落ちなかった。
右側補助索が三本切れ、床板が二十度傾いたところで止まった。
問題は、橋の中央に整備員が二人いたことだった。
管理会社の夜勤班。
破断音を確認するため、先に入っていた。
一人は命綱でぶら下がっている。
もう一人は傾いた床へしがみついている。
救助網は停止中。
それでも、笹木の端末には各層の連絡先が残っていた。
『第八層西救助班、応答』
『第七層入口、担架二』
『第五層、片瀬です。落下外傷前提で準備します』
誰も中央配信の再開許可を取らなかった。
笹木が勝手に接続した。
「必要なら後で処分受けます」
律は言う。
「記録します」
『今それ言う?』
「事実だけです」
安西が確認札を見る。
第八層西から橋まで、最終目視十二分。
魔物反応なし。
工事車両一台。
「西班を入れる。東側は使わない」
『東の方が近い』
笹木が言う。
「東は最終確認二時間前。西」
安西は線を引かない。
理由だけを出す。
救助班長が決める。
『西から行く』
蓮見は第五層で、橋梁メーカーの構造図を開いていた。
「補助索三本なら主索はまだ持つ。ただし中央で荷重動かすと危ない」
律が聞く。
「固定点は」
「左右へ逃がす。中央へ集めない」
久我は第七層で訓練中だった。
通信を聞いて槍を持つ。
『行く』
安西が止める。
「左肩」
『動く』
「救助班がいる」
『あいつら一点固定できるか』
安西が一瞬黙る。
律が口を開く。
「久我さん」
『何だ』
「行ってください」
片瀬が舌打ちする音が通信へ入った。
『帰ってきたら二人まとめて固定する』
◇
救助は四十分続いた。
律は現場へ行かなかった。
右腕が使えないからではない。
行かない方が多くの情報をつなげられた。
久我は橋の手前で《一点固定》を使い、救助索の支点を岩壁へ止める。
第八層西班が一人目を引く。
蓮見が荷重変化を読む。
「今、右を引かない!」
安西が搬送先を第七層へ変える。
「第五まで下ろすな。時間が増える」
片瀬が第七層の治療師へ処置を指示する。
「意識ある方を先に見ないで。ぶら下がってた人から」
森下は橋の入口で、渡ろうとする物資隊を止め続ける。
強制権限はない。
それでも、傾いた橋を見れば誰も進まない。
二人目を引き上げた直後。
主索の一本が鳴った。
久我が叫ぶ。
「離れろ!」
全員が岩壁側へ飛ぶ。
橋の右半分が裂谷へ落ちた。
床板が霧の中へ消える。
救助員一名が転倒。
久我の左肩がまた外れた。
整備員二名は生きていた。
吊橋は使えなくなった。
第八層東西の物流は最低一週間止まる。
物資隊の契約も止まる。
大損失だった。
◇
朝九時。
成瀬が現場へ来た。
壊れた橋を見る。
「救助網、使ったな」
笹木が答える。
「使いました」
「停止命令中だ」
「はい」
「誰の判断」
「私です」
安西も言う。
「経路判断は俺」
蓮見。
「荷重判断は私」
片瀬。
「医療は私です」
森下。
「現場の停止呼びかけは私」
久我は肩を押さえたまま笑う。
「俺は勝手に来た」
成瀬は最後に律を見る。
「あなたは」
「接続を止めませんでした」
「命令違反を止めなかった責任?」
「はい」
成瀬はしばらく橋を見る。
「二十七人が渡っていたら」
誰も答えない。
数字にする必要はなかった。
成瀬が続ける。
「それでも、停止判断が間違いだったとは思わない」
「私も思いません」
律が言う。
成瀬が振り返る。
「じゃあ何を変える」
律は答えなかった。
安西が先に言った。
「中央の開始と停止をやめる」
笹木が続く。
「必要な機能だけ、現場が使えるようにする」
蓮見。
「一か所止まっても全部止まらない」
片瀬。
「患者を送る先も一つにしない」
森下が成瀬を見る。
「誰か一人が救助網を持たない形にします」
成瀬は律ではなく、五人を見た。
「それで費用は誰が持つ」
最後の問題だけは、まだ残った。
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