第一話 死体からは盗まない
血の臭いより先に、焼けた金属の臭いがした。
ダンジョン第六層。
崩れた通路の奥で、非常灯が赤く明滅している。
壁際には三人分の装備が散乱していた。
折れた槍。
砕けた盾。
半分まで溶けた革袋。
そして、その中央に二人の遺体がある。
白石律は通路の入口で足を止めた。
床に残る爪痕を見る。
壁の亀裂を見る。
天井から落ち続ける細かな砂を見る。
数秒後、背負っていた回収箱を下ろした。
「周囲の魔力反応はありません」
腰の測定器を確認し、後ろにいる救助員へ告げる。
「崩落の危険があります。入口から三メートル以上は入らないでください」
「白石さんは?」
「確認してきます」
律は返事を待たず、通路へ入った。
足を置く場所を一つずつ選ぶ。
割れた石。
乾きかけた血。
魔物の体液。
どれも踏まない。
最初の遺体は、壁にもたれるように座っていた。
胸部の防具が大きく裂けている。
律は手袋を交換した。
首元へ指を当てる。
瞳孔を確認する。
腕に巻かれた探索者証を端末で読み取る。
死亡確認時刻。
遺体の位置。
装備の状態。
周囲の状況。
一つずつ記録していく。
腰には、鞘に収まった長剣が残されていた。
刃こぼれはあるが、柄には目立った損傷がない。
装備登録情報を開く。
所有者の氏名と、目の前の遺体の探索者証が一致した。
律は長剣に管理札を付けた。
抜かない。
価値を調べない。
そのまま遺体の横へ置いた。
「高そうな剣だな」
声は、奥から聞こえた。
律の手が一秒だけ止まった。
崩れた岩の陰。
積み重なった荷物の隙間で、人が動いた。
二十代後半ほどの男だった。
左脚に簡易固定具が巻かれている。
脇腹から血がにじみ、顔には汗が浮かんでいた。
それでも右手には、短剣が握られている。
律は男の足元を見た。
血だまりは小さい。
応急処置は済んでいる。
左脚の固定具も正しい位置にある。
自分で処置したのだろう。
「意識ははっきりしていますか」
律が尋ねた。
「見れば分かるだろ」
「お名前をお願いします」
男は舌打ちした。
それでも探索者証を見せた。
律は端末で照合する。
死亡者二名。
生存者一名。
事故申告に記載された人数と一致した。
「救助要請は送信済みです。二十分ほどで搬送班が到着します」
律は男の脇腹を見る。
「止血材がずれています。交換します」
「近づくな」
短剣の先が上がった。
律は足を止めた。
男は律ではなく、遺体の横に置かれた長剣を見ていた。
「その剣、俺が持っていく」
律は長剣の管理札を確認した。
「所有者は、こちらの方です」
「もう死んでる」
「はい」
「だったら、使える人間が使った方がいいだろ」
非常灯が赤く明滅する。
男の頬に、光と影が交互に落ちた。
「こいつはもう使わない」
男はそう言い、岩壁を支えに立ち上がろうとした。
左脚が震える。
だが、視線は剣から離れない。
「あの剣があれば、今回の損失を埋められる」
「売却する予定ですか」
「悪いかよ」
「回収依頼の記録では、剣は個人所有です。共同資産ではありません」
「俺たちは同じパーティーだ」
「同じパーティーであることと、所有者が同じであることは別です」
男の指に力が入る。
律の声は変わらなかった。
「遺品は、登録された遺族へ返却します」
「遺族が剣を使えるのか?」
「使用できるかどうかは、所有権とは関係ありません」
「売るだけだろ。だったら俺が売っても同じだ」
「同じではありません」
律は端末を男へ向けた。
画面には、長剣の登録情報が表示されている。
「遺族が売却するのは、所有者から相続した財産の処分です」
端末を下ろす。
「あなたが持ち出せば、窃盗です」
男の口元が引きつった。
「ずいぶん綺麗なことを言うんだな、遺品回収屋」
律は返事をしなかった。
遺体の装備を一つずつ確認する。
胸部防具。
探索者証。
通信端末。
腰袋。
破損した回復薬。
すべてに管理札を付けていく。
男の呼吸が荒くなった。
「お前らだって、使えない装備は処分するんだろ」
「正式に放棄された物は処分します」
「じゃあ、あいつが捨てたって言えばいい」
律の手が止まる。
「ご本人から、その意思を確認しましたか」
男は答えなかった。
「死亡する前に、あなたへ譲渡する記録を残しましたか」
「そんな時間はなかった」
「では、確認できません」
律は再び作業へ戻った。
遺体の指に、銀色の指輪が残っている。
血で滑らないよう布を当て、ゆっくりと外す。
小さな封印袋へ入れた。
「ふざけるな」
男の声が低くなった。
「俺は生き残ったんだぞ」
律は指輪の袋を閉じた。
封印部分を二度確認する。
「はい」
「生きてる俺より、死んだ奴の持ち物が大事なのか」
律は立ち上がった。
手袋の汚れを布で拭う。
右手。
左手。
指の間。
爪の周囲。
「あなたの止血を優先しました」
律は男を見る。
「救助要請も送信しています」
一歩だけ、男との距離を詰める。
「生存者の救助と、遺品の所有権は別の問題です」
「俺は、この剣がないと終わるんだよ」
男の視線が揺れた。
「装備を失った。仲間も死んだ。依頼も失敗した。治療費だってかかる。何も持たずに帰ったら、もう探索者を続けられない」
短剣を持つ手が震えている。
恐怖ではない。
焦りだった。
ここで長剣を持ち帰れなければ、積み上げてきたものをすべて失う。
男の顔には、その計算だけが残っていた。
律は腰の端末を操作した。
「今回の回収契約には、生存者の搬送費と初期治療費が含まれています」
「その後はどうなる」
「分かりません」
男の顔が歪んだ。
「だったら、黙って渡せよ」
「できません」
「正義の味方のつもりか?」
律は首を横に振った。
「遺品回収員です」
「同じだろ!」
「違います」
返答は短かった。
男は岩壁から手を離した。
左脚を引きずりながら、長剣へ向かう。
律が進路に立つ。
「これ以上近づかないでください」
「どけ」
「遺品への接触をやめてください」
「俺の仲間だ!」
「だからこそ、お返しします」
男の眉が動いた。
律は端末を胸元へ戻した。
「最初の警告です」
「警告?」
「短剣を床へ置いてください」
「置かなかったら?」
「持ち出せない状態にします」
男は一瞬、黙った。
それから笑った。
乾いた声だった。
「遺品回収屋が、探索者を止めるのか」
律の視線が男の肩へ落ちる。
右肩の防具が割れている。
肘を上げるたび、留め具が鎖骨に触れていた。
握っている短剣の鞘は、腰の後ろ。
刃は既に抜かれている。
男の重心は右足。
左脚をかばっているため、踏み込める方向は一つしかない。
「二度目の警告です」
律の声が、わずかに低くなった。
「短剣を置いてください」
「死体漁りが」
男が踏み込んだ。
短剣が、律の脇腹へ向かう。
律は半歩だけ前に出た。
避けなかった。
男の手首を外側から押さえる。
同時に、割れた肩当ての隙間へ指をかけた。
短剣が律の上着をかすめる。
次の瞬間、男の右腕が背中側へ折り畳まれた。
鈍い音が通路に響いた。
男の膝が床へ落ちる。
悲鳴は遅れて出た。
短剣が石床を転がる。
律は男の腕を離さない。
「右肩を脱臼させました」
淡々と告げる。
「腕を動かさないでください。血管を傷つける可能性があります」
「て、めえ……」
男が左手を腰へ伸ばす。
律はその手を先に取った。
腰帯の内側から、小さな折り畳みナイフを抜き取る。
「隠し武器を確認しました」
ナイフを短剣から離れた位置へ置く。
続けて、男の通信端末を外す。
画面には送信途中のメッセージが残っていた。
長剣を持ち出し、事故現場で発見した拾得物として売却する。
協力者とのやり取りだった。
男の顔から血の気が引く。
「見るな」
「証拠として保存します」
「消せ」
「できません」
律は端末を操作した。
記録保存。
位置情報。
発見時刻。
通信履歴。
すべてが回収業務の報告書へ追加される。
男が歯を食いしばる。
「俺が錯乱してたって言えば終わる」
律は床へ視線を向けた。
砕けた荷物の横。
小型の配信端末が転がっている。
表面は傷だらけだったが、赤い稼働灯は消えていない。
「そちらの端末は、事故発生時から配信を継続しています」
男の目が配信端末へ動いた。
「通信障害から復旧した時点で、録画データは地上へ同期されました」
「嘘だ」
「確認しますか」
律は配信端末を拾った。
ひび割れた画面に、視聴者数が表示されている。
数字は今も増えていた。
男の口が開く。
声は出なかった。
短剣を向けたこと。
二度の警告。
遺品を売ろうとした発言。
隠しナイフ。
協力者との通信。
すべて残っている。
事故による混乱では押し通せない。
拾ったという言い訳も使えない。
仲間のためだったとも言えない。
男は、自分が何を失ったのかをようやく理解した。
探索者としての信用。
所属先からの処分。
窃盗未遂。
遺族との関係。
そして、自分だけは生き残ったという事実まで、疑いの目で見られる。
肩を押さえたまま、男はうつむいた。
「俺は……これからどうすればいい」
律は返事をしなかった。
新しい手袋を取り出す。
男の脇腹に巻かれた止血材を外した。
「何してる」
「ずれています」
傷口を洗浄する。
新しい止血材を当てる。
固定する。
脱臼した肩が動かないよう、腕を胸元へ結ぶ。
「痛み止めは使用しましたか」
「……まだだ」
「意識確認が難しくなるため、搬送班の到着後に使用します」
律は男の瞳孔を確認した。
脈拍を測る。
呼吸数を数える。
「二十分って言っただろ」
「残り七分です」
「俺を助けるのか」
律の手は止まらなかった。
「生存者ですので」
遠くから、複数の足音が聞こえ始めた。
搬送班の声。
救助用の照明。
担架の車輪が石床を進む音。
律は立ち上がり、遺体の横へ戻った。
長剣を専用の回収布で包む。
留め具を閉じる。
封印番号を記録する。
最後に、持ち主の探索者証と照合した。
男がその背中を見ていた。
「その剣、本当に遺族へ返すのか」
律は振り向かなかった。
「はい」
「向こうが、いらないと言ったら?」
「正式な放棄手続きを確認します」
「その後は?」
律は包んだ長剣を回収箱へ収めた。
蓋を閉じる。
鍵をかける。
「その後であれば、回収対象です」
搬送班が現場へ到着した。
律は負傷者の状態を報告する。
脇腹の裂傷。
左脚の骨折疑い。
右肩の脱臼。
意識清明。
使用していない薬剤。
確保した武器。
保存済みの証拠。
一つも省略しない。
担架へ乗せられる直前、男が律を見た。
恐怖とも怒りとも違う表情だった。
理解できないものを見る目だった。
律は既に、次の遺体の前に膝をついている。
手袋の汚れを拭う。
探索者証を読み取る。
装備を確認する。
そして、誰に聞かせるでもなく言った。
「死体からは、盗みません」
赤い非常灯が明滅する。
回収箱の中で、長剣の管理札が小さく揺れた。
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