第40話 位相の楔(くさび)
森が、低くざわめいた。
風ではない。
地そのものが、古い記憶を呼び起こすような震えだった。
「本来、人間と我らは別の位相に在った」
セリオスの声は静かだが、揺るぎがない。
「位相……?」
ひかりが眉を寄せる。
「同じ星に存在しながら、重なり合わぬ層。異なる次元で共存していたのだ。太古よりな」
ひよりは息を呑む。
伝承、神話、妖精譚。
自分たちの世界に残る数々の記録。
「……あれは空想じゃなかった?」
「断片的な接触の記憶だ」
セリオスは頷く。
「未来人の移住が、その境界を歪ませた。時間軸を捻じ曲げ、位相の膜を薄くした」
「……だから精霊や魔物や、あなたたちが?」
「見えるようになった。干渉できるようになった」
森の奥で、淡い光が瞬く。
「我らは人間の創造物ではない。もとよりこの星の住人だ」
世界は、壊れただけではない。
重なってしまったのだ。
⸻
「人間との共存が始まった」
セリオスは続ける。
「未来人の中には、我らと心を通わせ、子を成した者もいた」
ひよりの視線が、無意識にレグルトの方向へ向く。
「……魔法を使える人は」
「その血を引く者だ」
セリオスの視線が重なった。
「人の姿を持ちながら、魔力を宿す」
「レグルトは……」
「エルフとの混血の末裔だ」
「そして魔導士が長命な理由がそこにある。グランのようにな」
沈黙が落ちる。
だが、そこに温かさはない。
次の言葉が、更に空気を凍らせた。
「だが為政者は、力を欲した」
声が硬くなる。
「人を超えた力。魔法。長命。潜在能力」
ひかりの拳がぎゅっと強く握られる。
「利用しようとしたの?」
「選別し、管理し、支配しようとした」
森がざわりと揺れる。
「強制的な交配や、人工的な交配が行われることもあった」
「ひどい……」
「ゆえに記憶を消した」
「人間だけではない。我らの側の記憶もな」
ひよりが顔を上げる。
「……あなたたちも?」
「そうだ」
セリオスの瞳に、かすかな怒りが滲む。
「魔王が全ての記憶を消したのだ。この世界の均衡を司る者としてな」
⸻
「魔王は悪ではない」
その言葉は、森を震わせた。
「秩序の楔だ」
ひよりの瞳が揺れる。
「先代の魔王は、歪みを一点に縫い止めていた」
空を見上げ、手をかざして詠唱する。
すると、空に細く残る亀裂がうっすらと見えた。
「あれと同じだ。裂け目を自らの身に引き受け、位相崩壊を防いでいた」
「……でも討伐された」
「我らも真実を知らなかったのだ」
低い声。
「記憶は消されていた。人間と同じように、我らも信用されておらなかったのだ」
ひかりが呟く。
「……じゃあ、正義だと思って倒したの?」
「そうだ」
セリオスの拳が、わずかに軋む。
「結果、楔は失われ、均衡は崩れた」
重い沈黙。
「ゆえにアマローネが魔王の役割を継いだのだ」
「リリアス……」
「彼女は戦いの中で理解した。魔王は倒すべき存在ではないことを」
「だが、気づいた時には遅かった」
「故に、自らを楔とし、歪みを一点に縫い止める存在となったのだ」
セリオスの瞳にうっすらと涙が見えた。
「グランは、その封印を固定するため、代償として召喚魔法を封じた」
三人は息を呑む。
「だが、何者かが、その封印に触れた」
空の亀裂が、わずかに脈打つ。
森の奥から、かすかな耳鳴りが漂う。
ひかりが呟く。
「じゃあ……魔王は……リリアスは封印しないといけないの?」
「違う」
セリオスの目が細くなる。
「魔王は……アマローネはまだ完全には封印を解かれてはおらぬ」
「え?……」
「だが、魔王という楔を破壊し、歪みを全面化させようとする者がおる」
世界は三度目のやり直しへ向かう。
空の裂線が、わずかに震えた。




