第36話 虫の知らせ
フロストリアは、まだ遠い。
だが、確かに近づいていると感じさせる空気があった。
霧が晴れた先の街道は、深い緑に飲み込まれる。
エルフの森。
木々は異様なほど背が高く、枝葉は重なり合い、空を隠している。
日差しは細く切り取られ、地面にまだらな影を落とす。
「……ここからが、エルフの領域です」
レグルトの声が、いつもより低い。
「何かあるの?」
ひかりが問いかける。
「いえ。ただ、この森は――」
言葉を選ぶように、一拍置く。
「争いを、嫌います」
「嫌う?」
「正確には、反応すると言った方が適切かも知れません。刃も、魔法も、流された血も」
ひよりは、無意識に森を見上げた。
風がないのに、葉が揺れる。
音もなく。
「エルフの森は、生きています。ここで無益な争いをした者は、道を失うのです」
「迷うってこと?」
つむぎが聞く。
「ええ。二度と、外へ出られなくなります」
冗談めいた響きは、ない。
車は減速し、そのまま森の奥へ進む。
空気が、変わる。
肌に触れる感覚が、どこか重い。
ひよりは、胸の奥がざわつくのを感じた。
そして――
「……つむぎ?」
ルームミラーを見てひかりが気づく。
つむぎの様子がおかしい。
視線は前方だが、焦点が合っていない。
「大丈夫?」
「……うん」
応える声がわずかに揺れた。
つむぎは、違和感を感じていた。
(……違う)
森の奥から。
あるいは、もっと遠く。どこかで誰かが傷ついている。
突然、つむぎが胸元を押さえた。
「……っ」
「つむぎ!」
車が急ブレーキをかけて止まる。
ひかりが駆け寄る。
「どこか痛い?」
「違う……」
つむぎは、息を整えながら首を振る。
「……誰かが」
「誰か?」
「……苦しんでる」
ひよりの背筋が、冷える。
「苦しむって……誰が?」
つむぎは答えない。
答えられない、という顔だった。
代わりに、ぽつりと零す。
「……遠い。でも、近い」
レグルトが、森を見渡す。
「この森は、血と記憶に敏感です。特に――」
視線が、つむぎに向く。
「強い因果で結ばれた存在には」
ひよりの中で、点と点が繋がる。
脳裏に浮かぶのは、ヴァルドの姿。
娘のミリアはつむぎに似ているとレグルトは言った。
つむぎを見つめる視線……。
あのとき感じた、胸を掴まれるような違和感。
「つむぎちゃん……」
ひよりは、慎重に声をかける。
「それ、ヴァルド将軍じゃない?」
つむぎの肩が、びくりと震えた。
ゆっくりと、頷く。
「……名前、分からないけど」
小さく息を吸い、
「……でも、多分、その人。位の高そうな服が血まみれになっている」
森が、ざわめく。
ひよりは、確信に近いものを覚えた。
血の繋がり。
直接ではなくとも、魂の系譜のようなもの。
時間を超えて、なお残る結びつき。
だから、この森が反応した。
だから、つむぎが感じてしまった。
虫の知らせのように。
「……やっぱり」
ひよりは、心の中で呟く。
この世界は、偶然で出来ていない。
進むほどに、証明されていく、私たちとの繋がり。
そのとき。
森の奥から、足音がした。
軽い。
だが、気配は圧倒的。
木々の間から、一人の人物が現れる。
長い銀髪。
尖った耳。
年齢は判別できない。
だが、ただ立っているだけで分かる。
――格が違う。
「驚いたな」
穏やかな声。
「人間が、音楽で道を開くとは」
レグルトが、かしこまって静かに頭を下げる。
「……森の守人」
「その呼び方も、久しい」
エルフは、つむぎを見た。
ほんの一瞬。
だが、確かに目を細めた。
「……血が、騒いでいるな」
ひよりの心臓が、跳ねる。
「ようこそ、エルフの森へ」
その言葉は、歓迎でも警告でもあった。
フロストリアへの道は、ここから、本当に始まる。




