第一部 姉 (八)
昨夜、万作爺さんの番小屋へ太吉爺さんを迎えに行った帰り道、文九郎は父親が五百石の旗本の惣領だったことを知りながら、これまで隠していた理由を教えてくれと爺さんにつめよった。
「あちら様が認めなかったからだ。岡っ引きの娘に手をだすわけがない、騙りだと抜かしやがったんだ。俺は怒りで手が震えたが、あっちが認めねぇものをこっちがうだうだ言ったところでどうにもなるめぇ。お文もそれで良いと言った。父親は身持ちの悪い貧乏侍にしておくとな。ほんとのことを言ったところで誰も信じねぇだろうし、却って面倒に巻き込まれかねねぇ」
太吉爺さんはぼそぼそと答えた。しかし、その目には怒りがあった。
「……てことは、お袋と爺ちゃんは、一度は新見のお屋敷に出かけたんだ」
「あの酒井ってのがやって来たからだよ。お文はとうに諦めてたのにな。産まれた子が男の子だったってことで、あの酒井が様子を見に来やがった。バカ殿が酒の飲み過ぎで死んだ後のことだ。けどな、お文はおめぇを連れていかなかった。取り上げられると思ってな」
そこで太吉爺さんは横を歩く文九郎に顔を向けた。
「おめぇの父親をバカ殿呼ばわりしてすまねぇな。だがやからかしたことが俺に言わせりゃ、小悪党にも劣る野郎でな」
文九郎は驚いて太吉爺さんを見返した。
「なんで謝るんだよ。これまでに聞いた限りでも俺だってバカ殿だと思うよ。五百石の若殿なことにあぐらかいて、遊びまくり、町地の娘をつまみ食い出して、挙げ句に酒の飲み過ぎで死んだんだからよ」
太吉爺さんはまた前を向いた。目は遠くを見ていた。
「見た目は女形役者になれそうなくれぇの優男でな。そんな男が良い着物着て若様だと目の前に現れて甘い言葉を囁きゃ、世間知らずの若い娘が次々に釣られたのも無理はねぇ。お文のやつは、相手が本気じゃないとわかってたけど拒めなかったと抜かしやがった。一時の夢で良いと思ってたとまで言いやがった。一時の夢でおめぇは一生をふいにしたのかと俺は頭に血が昇ってお文に手を上げちまった。俺自身にも腹が立ってたんだ。俺がもちっと娘の面倒をみてたら……」
そこで太吉爺さんは言葉を切った。
文九郎が初めて聞いた母の話だった。それだけバカ殿に惚れていたということだ。
女の何割かわからないが、一定数が駄目な男とわかっていても惹かれ、尽くし続けるのは何故なのか。
おなぎもそうだ。間夫はいわゆる渡世者、破落戸である。破落戸にもそれなりに気のいい奴がいないわけではないが、そいつは時におなぎに暴力をふるっているらしい。文九郎には全く理解できない。
おなぎのことをお梅に話したとき、そんな奴、あたしなら、すぐに手を切るよ、しつこく言い寄ってきたら、舌噛みきってやると威勢よく恐ろしいことまで言ってくれたのが、文九郎には救いだった。お梅まで「そんなもんだよ」と言ったなら、文九郎は「女ってやつは俺には一生わからねぇ」と思ったことだろう。
「どこまで話したかな」
太吉爺さんの呟きに文九郎は即座に答えた。
「バカ殿が死んだ後に酒井ってぇ侍が長屋に来たから新見のお屋敷に行ったってところまでだよ」
「酒井が長屋にやってきたのは、屋敷内で生まれた男子は一人だけで、しかも身体が弱そうだったんで、慌ててあちこちに産ませた男の子をかき集めようとして、だった。あのバカ殿は正直に町中で孕ませた女のことを屋敷内で話してたんだな。ったく、余計なことしやがって。こっちは乞われて仕方なく行ったのに、けんもほろろで門から追い出された。思い出しただけで腸が煮えくり返る」
文九郎には爺さんの全身に怒りが見えた。
「俺がうまれたことでお袋も爺ちゃんも嫌な目にあっちまったんだ……」
「おめぇが気にするこたぁ何もねぇ。お文はおめぇが腹にいるときから産着やむつきを嬉しそうに縫ってた。酒屋の後添いに入る時もおめぇを連れていくつもりだった。それを止めたのは俺だ。その方がお文にもおめぇにも良いと思ったんだ。お文は俺を恨んだろう……おめぇも俺を恨んでるかもしれねぇがな」
「俺が爺ちゃんを恨むわけねぇじゃねえか。爺ちゃんが良いと思ってやったことに間違いはなかったと思うよ」
文九郎の言葉に太吉爺さんは再びちらりと横を歩く文九郎の顔を見たが、それきり黙り込んだ。
今となっては、文九郎には太吉爺さんが文九郎を連れて後添いに入るのに反対した本当の理由がわかる。
先妻の二人の子はどちらも男の子で、当時は七歳と二歳。文九郎が連れ子として入れば、次男になった。
以前は先妻の二歳の子と三歳の我が子を育てる気遣いや大変さからだろうと思っていた文九郎だが、もしも自分が三一侍の子だったなら酒屋に連れて行かせたことだろう。
しかし五百石の若殿の隠し子である。もしもそのことが発覚したら、かなりの確率で「御家騒動」が勃発する。先ほどの甲州屋の態度からしたら、まず間違いなく勃発する。また御家騒動にならなくても、五百石の若殿の隠し子であることが、悪い奴らの強請や騙りのネタにされかねない。連中のネタ探しの嗅覚は鋭いのだ。
岡っ引きとしてそんな例を幾つも見てきた太吉爺さんは、そうした厄介事が起こることを絶対に避けたかったに違いない。
お文と文九郎を守るために、太吉爺さんは文九郎を手元に置いたのだ。母のお文も太吉爺さんの真意がわかったから、文九郎を手放したのだろう。
文九郎は母と祖父の決断に身体の芯が熱くなるのを感じた。しかしそんな素振りを爺さんに見せるつもりはない。これまでどおり振る舞うだけだ。それが文九郎の祖父への愛情であり、思いやりだ。
いつものようにお梅の荷売り屋で菜を買って長屋に帰ると、酒井幸右衛門が細面の若侍と二人で文九郎を待ち受けていた。前に文九郎をつけていた面々だ。
太吉爺さんはというと、店の奥にある窓に向いて、つまり酒井と若侍に背をむけて、胡座をかいて座っていた。
酒井は文九郎の姿に飛び上がるように上がり框から立ち上がると、懐から封書を出して文九郎に両手で差し出した。
「文九郎様、姉君、綾音様からの文でございます。お受け取りくだされ」
文九郎はすぐには受けとらなかった。訝しげに封書から酒井の顔に目線を移した。
「我らはこれでお暇いたします。明日、御返事を伺いに参ります」
「そちらのお侍はどなたで?」
文九郎の問いに酒井が慌てて若侍を紹介した。
「川村久之助でございます。わたくしともども中小姓でございます」
中小姓は当主の護衛をする、親衛隊になる。徒士のお役としては上位になるが、この時代の五百石の旗本が雇う二刀を帯びさせる奉公人は用人と中小姓くらいである。
文九郎は再び姉がしたためたという封書を見た。
文九郎の七つ上の異母姉、綾音は正妻の子ではなく、文九郎同様、母親は町人だが、しがない長屋住まいの岡っ引きの娘であるお文と違って大店の娘だそうだ。側女として正妻と共に屋敷に住んでいたらしい。その母親はろくでなしの若様が惣領のまま急死すると、まもなく実家に戻され、半年もしないうちに尾張の豪商の後添いになったという。
綾音は屋敷に残って祖母に育てられ、満十七で七百石の某旗本の家へ嫁いだが、たった五年で子ができないことを理由に三年前に離縁されたと、今日の昼間に仕事場へ現れた栗本が文九郎に教えていた。
「相手の殿様はすぐに再婚したが、いまだに子がないらしい。原因を嫁のせいにしたところが、てめぇのせいだったってぇオチだな」
ちなみに御家人の娘を母にもつ綾音の異母妹、文九郎のもう一人の異母姉になるみつえは、二年前に四百石の番士の家に嫁ぎ、昨秋、男児を産んだという。
多彩な情報網を持つ御町の旦那はあっという間にそこまで調べあげていた。
文九郎はその話を聞いてまだ見ぬ姉を気の毒に思っていたから、その姉からの文だと聞いてはとりあえず目だけは通そうと思い、無言で封書を受け取った。
すぐには開封せず、酒井と川村が長屋の木戸口を出るのを見届けてから封書を開いた。
表の「文九郎殿へ」も中も、繊細な読みやすい楷書で書かれていた。これが姉の字かと文九郎は筆跡を目で追った。
文の内容は、一言でいえば、腹立ちはもっともだが、一度でよいから新見の屋敷へ来てほしいということだった。
会いたいならばこちらから出かけるのが筋だろうけれども、祖母は足腰が弱っており、当主である弟は病で起き上がれない。自分一人が会いに行くのは二人に申し訳がない。だから、文九郎に御足労願う……と書かれていた。
文九郎は迷った。文九郎母子を蔑み無視してきた、考えただけで腸の煮えくりかえる新見家だが、どんな屋敷なのか、ろくでなしと呼ばれる父親が同じである姉と兄はどんな顔をしているのかという好奇心も文九郎の中で疼いていた。
そんな文九郎の迷いを解いたのは、意外にも太吉爺さんだった。
無言で文に目を通し、読み終えた後も黙りこくったままの文九郎に、太吉の珍しく穏やかな声が聞こえた。
「お文とおめぇを屋敷に入れるなと言ったのは大殿様で、それに反対しなかった大奥様も許せねぇが、当時七つだった姉君は、おめぇのことを最近まで知らなかったんじゃねぇかな。離縁になって兄弟に当主が代替わりした実家に戻った娘は、大抵肩身の狭い思いをしてるもんだ。苦労をしてる分、おめぇのことが気になってるかもしれねぇよ」
文九郎は翌日、約束通り庄兵衛長屋に現れた酒井に「綾音様には一度会ってみやす。けど、それだけでやすよ。すぐにお暇いたしやす」と、返答した。しつこく迎えを寄越すと言ってきたのは、言葉荒く断った。