第一部 姉(二十二)
文九郎が辻斬りと強盗への用心に、二人以上で迎えに来てほしいと新見屋敷へ言伝てしたところ、酒井と川村に加えて、木刀を差した中間二人の四人が綾音を迎えに来た。四人とも会うなり綾音の顔を穴があくほど見つめたから、綾音が窘めていた。その後には四人の視線が一斉にもの問いたげに文九郎に向けられた。
文九郎の目にも綾音の纏う気が変わったと映っていた。家臣に見せるすました表情も以前の死んだ魚の目と能面ではない。
文九郎は「綾音様には神明様での一日を楽しんでもらえたようで、なによりでやす」とだけ答えておいた。
「あら、『姉ちゃん』でしょう?」
すかさず綾音が返してきた。
綾音が大泣きしていた時に近くにいた侍は、間違いなく酒井だ。心配してこっそり様子を見に来ていたのだろう。その事を正直に言わないのだから、こちらも言う必要はないと文九郎は思った。
文九郎は新見屋敷まで綾音についていった。四人も得物を持った供がいれば、何事も起こらないだろうが、ここで別れては途中で投げ出すような気がしたのだ。太吉爺さんの「最後までちゃんとお世話するんだぜ」が頭に残っていた。
綾音は帰路の間中、例の楊弓屋で貰った土人形を大事そうに抱えていた。酒井が「なんでございますか、それは」と尋ねても、「ある所で貰ったのです」とだけ答えた。
新見屋敷の門前で文九郎は辞した。
綾音と文九郎は西向きの部屋で仕出しを食べながら、細々とした思い出を交互に話し、綾音は時々文九郎の話にも自身の思い出にも涙ぐんだが、大きく泣き崩れることはなかった。最後の方では跡継ぎにならなくても、これからも新見屋敷へ時々訪れることを文九郎に約束させた。また綾音が時々庄兵衛長屋へ行くことも文九郎に承諾させた。綾音はその約束を守るようにと、門前での別れ際に文九郎に念押しした。
「また神明様へのお参りに付き合ってくださいね」
綾音は抱えていたお粗末な武者人形を両手で文九郎の顔の高さまで上げて言った。
「承知しやした」
文九郎はその武者人形のおでこを軽く指で弾いた。
綾音の口許がわずかに緩んだ。笑ったと見る人は少ないかもしれないが、一段と纏っている気が軽やかになった。
二人のやり取りを見ていた新見家の家士たち四人は揃って口があんぐり開いていた。
文九郎がいざ帰ろうとしたら、綾音は文九郎が一人で帰るのを心配し、川村に日陰町まで送らせると言ってきた。
それでは最後に川村が一人で夜遅く帰ることになると文九郎は断り、その代り木刀を貸してくれと頼んだ。木刀を持っていると分かれば、こんな貧乏人をわざわざ襲う酔狂な盗賊はまずいない。辻斬りは一人だ。相手が一人ならなんとかなる。
さっさと門内に入ってくれればいいのに、五人は文九郎の姿が見えなくなるまで門の外に立って見送っていたようだ。
文九郎は大きな仕事を一つやり遂げた気になっていた。
これで何もかもうまくいくほど世の中甘くないのはわかっているが、一つ大きな壁を越えたのは間違いない。
微かではあったが、綾音が笑ってくれたのが何より嬉しい。そして自分を見る目には母親のような慈愛が感じられた。
そう思う文九郎の綾音への気持ちは、亡き母と妹への思いが重なっているのかもしれない。
文九郎は次は綾音を何処へ連れだすのが良いだろうかと考えながら、坂道を下っていった。
空に下弦の月がようやく顔を見せて間もなく、文九郎が気持ち軽く足取りも軽く、檜坂から北回りで日陰町へ帰ろうと、溜池近くまで戻ってきた時だった。すぐ近くで男の悲鳴が聞こえた。
辻斬りか。この前は辻斬りを謎の賊がつけていた。揃っている可能性もある。
文九郎は声のした方に走った。
「た、助けてくれーっ!」
声に聞き覚えがあった。寅吉だ。
――寅吉を襲うたぁ、辻斬りを見逃したくなるじゃねえか。
少しばかりがっかりしながらも、文九郎は足を緩めなかった。
声が聞こえた稲荷のある角を曲がると血の臭いがして、刀を振り上げている男が目に入った。頭巾を被っている。成りからして浪人だ。
しかしその後ろ姿は前に見た辻斬りの後ろ姿ではなかった。目の前にいる浪人はあの侍よりも二寸は大きいだろう。
その向こうには腰を抜かしたのか、地面を這う男が二人いた。
「よせ!」
文九郎の声に刀を振り上げたまま浪人は後ろを向いた。振り向きざま、一蹴りで文九郎との間合いを詰め、ぶんと刀を振り下ろしてきた。
文九郎は刀を避けながら咄嗟に手にしていた提灯を侍に向かって投げた。
浪人は軽く提灯を交わして、また刀を文九郎めがけて振り下ろしてきた。
まだ目が暗さに馴れきらない中、文九郎は気配を感じ取り、真横にした木刀でなんとかその刃を受けとめた。両手持ちがギリギリ間に合った。
だが次の瞬間、後ろから刃唸りが聞こえた。相手は一人ではなかったのだ。




