10. カイ
朝食の準備がすっかりできたのを見計らったように、カイさまは食事室に入ってきた。テーブルの上を見て、小川にこぼれた陽光のように表情をやわらげる。
「おいしそうだね、テア。ありがとう」
「どういたしまして。さ、冷めないうちに召し上がってくださいね」
「うん……きみは?」
「もういただきましたよ」
「そう……」
真に貴族的な仕草で椅子に腰掛けたカイさまは、青とも緑ともつかぬ、うったえるような美しい瞳でわたしをじっと見上げた。
「今日も一緒に食べてはくれないんだね」
「カイさま。使用人と主人は同じテーブルにつくものではないんですよ」
「だけどテア、ここにはぼくときみしかいないのに」
「そうですねえ。でもカイさま」
わたしは呆れて首を振った。
「カイさまが学園にお入りになってからはずっと、わたしたちはほとんど二人暮しみたいなものじゃないですか。今までと大して変わりませんよ」
「…………でもテア、ぼくは……」
「カイさまがわたしに何をさせたかろうと、わたしはこの生活が気に入っているんですから。もちろんご命令なさるというのなら従いますけど……わたしはどうがんばったってカイさまたちのような貴族にはなれませんし、そう見えるようにふるまうことだってできません。それに、第一わたしの望みはそうじゃないってことは、どうか覚えておいてくださいね」
「……うん、わかったよ、テア。それなら、すべてはきみの望みのままに」
誓うようにそう口にして……。カイさまは夏を閉じ込めたような視線を皿の上に落として、きれいな声で「いただきます」と言った。
テーブルクロスは白
ガラスの花瓶には森の小花
カトラリーは金
皿は瑠璃の空に飛ぶ金の蝶
金の卵立てに半熟のゆで卵
黄金のトーストにはすぐりのジャム
学園に入ったころから何年も何年も、ほとんど変わることない食事。食べ終われば、ここでは学舎や王城に向かう代わりに、カイさまは二階の書斎か実験室に籠もる。昼食にはわたしがサンドイッチをふた切れそのどちらかに運び、夕食は何かに没頭していない限りカイさまは降りてきて食事室でとってくれる。来なければ簡単に食べられるようなものだけやはり持っていき……そして、カイさまはふと顔を上げて「ありがとう」と言うのだ。
単調な生活。
けれど決して退屈ではない生活。
カイさまがこの館で作っているのは、特殊な植物の種や魔法仕掛けの蝶や鳥などの庭に生きるものたちだった。彼はときおり完成したそれらを箱に詰め込んで荷運び鳥に持たせ、どこかにいる注文主とやらに送る。
わたしもカイさまにいくらかの種をもらって館の外に菜園を作っていた。花を植えなかったことについてカイさまはそのうち何か言うだろうかとも考えてはいたが……。
この日珍しく館の外に出てきた彼が、館の近くに自然に生えた、空が墜落したかのようなブルーベルの海を見つけ、思わず大の字に沈み込んで良い気持ちで歌っていたわたしの横へやってきて、猫のように無言で寝転がったときに、そんな懸念は一気に消えた。
この禁忌の森と正反対の光と生命に満ち溢れた森には、庭園として世界を区切らなくとも数え切れぬほどの花々が咲いたし、鳥や獣たちは自然のものにしか出せぬ原初の声で幾千ものことごとを話し、歌った。ここではすべてのものが自由で、それでいて調和していた。
人が何かの意図を持って手を加えることなど許されぬような小世界。
わたしの歌が止まったとき、カイさまはいつの間にか解けていたわたしの金褐色の髪をひと房指に絡めて、この世ならざるものを映す魔法使いの目を細めて言った。
「……そうしていると、きみは本当に女神のようだね」
それがあまりに小さなころと同じく透明で生真面目な口調だったので、わたしは思わず声を立てて笑ってしまった。姉君やヘレーネさまや彼自身のほうがよほど美しく神々しいというのに。
「はじめて会ったときにも言っていましたね」
「うん……」
カイさまはわたしの髪を片手の指先でもてあそびながら、まどろむようにまぶたを伏せた。そして、それでもまだまぶしいとでも言うようにもう片方の手を目の上にのせる。木々の隙間から降り注ぐ陽光が夢のように白い肌をきらめかせていた。
森は彼の瞳そのものの緑と青に染まり、世界は鳥の声と梢の音で満ちていた。
──しばらくして。
「昔……姉上が亡くなったとき」
「え?」
姉上? わたしはカイさまの持ち出した話題にぎょっとして身を起こしかけたが、なんとか思いとどまった。そうしてはいけない気がしたから。でも……姉上? わたしの目の前で、瞳を隠したまま、上辺だけの笑みの浮かばぬ、しかしそれによりさらに高貴に思わせる形の唇が動く。
「なんていうんだったかな……子供の棺には天の国の絵を入れるだろう? 子供が迷わず女神のみもとにたどり着けるよう」
「ああ、ええ。そう、天のみちしるべ……わたしのような階級では神官さまや家族の描いた簡単なものですけれど、貴族のお家では有名な画家に依頼して、ときには一枚絵ではなく冊子のようにするとか聞きました」
「そう……姉上の棺には一流の画家に描かせた数枚の絵を綴ったものが入れられたよ。……美しい花々で溢れる楽園の地図、天使たち、女神の絵……世界を映す泉のふちに腰を下ろし、慈愛に満ちたほほえみを浮かべて下界を見守っている、光をまとった女性……」
わたしはほとんど呆然としたままカイさまの唇から流れる綺麗な声に聞きいっていた。彼が姉君のことを、それも姉君の死のことを話すのなんて、それこそ出会ったとき以来のことだったので。
けれど、カイさまはまるでそんな事実などないかのように話している。
「ぼくはその女神が忘れられなかった。絵の中の……その横顔がとても印象的で……女神というのは決してこちらを振り向いてはくれないものなんだと思ったんだ」
静かな川のせせらぎに似た声。わたしははじめてカイさまに会ったときのことを思った。『でも、おねえさんは女神さまでしょう?』きれいで品が良くてつくりものみたいなお坊ちゃま。
「きみを見たとき、ぼくは本当にきみこそが女神なんだと思ったんだよ。噴水の横できみは歌を歌っていたね。ぼくに気づかず……」
密やかに立っていた小さな小さな少年。女神を探して。
決して振り向かぬ、絵の中の女神……。
「でもきみは振り向いてくれた」
大きくなった彼はおあいそではない笑みを浮かべて、曲げていた腕を伸ばして手のひらを日にかざした。陽光は矢のように長い指の間から白い額に突き刺さる。瞳はここではない過去を映しているようだった。幸福な過去を。
「そして……きみはぼくにこう言ったんだ『どうしたの?』って。ぼくを気にかけてくれたんだ。世界全体に上辺だけの慈悲をこぼしたりはするけれど、個々の人間を決して見たりしないであろうと思っていた女神が。ぼくは信じられなかったよ」
いつのまにか──深くなりすぎる前の、みずみずしい青緑の夏を閉じ込めた瞳がわたしを見ていることに、わたしはいきなり気が付いた。昔のままの色で、でも昔とはどこか違う……わたしはその瞳を見つめ返した。
「でも、わたしは女神じゃありませんでした」
「うん……」
がっかりしましたか? と聞きかけたわたしが口をつぐんだのは、ただ、何も言えなくなってしまったからだった。なぜって……だって。
「うん、だからね……」
彼は笑ったのだ。
心臓が止まりそうな本物の、心からの幸せそうな笑顔。
そして──
「だから、ぼくはとても嬉しかったんだよ、テア……」
目を見開くわたしを瞳の中にとらえたまま、カイさまは指に絡めた金褐色の……わたしの髪に唇をあてた。
いったんテアとカイのお話(回想編)は区切りです。
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