1. 欲した光
私の最初の記憶はとても幸せなものだ。私の存在すら知らぬ父が母に買い与えていったという邸宅には多くの使用人がおり、すばらしい家具やドレス、宝石や美術品など綺麗なものであふれていた。
そして、その中でも一番美しいといえるモノは私の母であり、私が最も愛し、愛されたのも母だった。
『私の愛しいヘレーネ』
私がいつもその姿を思い浮かべようとして無意識に描くのは、庭園の中で花に囲まれ、私を優しく手招く母の姿だ。そのようなとき、私はいつも母に駆け寄り、その優しい腕の中に身を投げかけたものだった。
『お歌うたって、お母さん!』
舞台女優だった母。ほんの少し魔法も使えて、いつでも多くの人々に慕われていた母。
『大好きよヘレーネ……いつでもそばにいるわ』
ずっとずっと共にいられると思っていた。なのに。
『どうか、それだけは忘れないで……』
ある日母の美しい瞳は閉ざされ、二度とは開かなかった。──そして、その瞬間、私はすべてを失ったのだった。
……住むところも、食べるものも、愛も幸せも。
永遠に自分のものだと思っていたすべてを。
色々なゴタゴタとした出来事のあと、わたしは顔も知らなかった「父」というヒトのもとに引き取られることとなり、言葉もほとんど話せぬ異国へと渡った。……それからの地獄の日々。
父も、まま母も、その子どもたちも、私を蔑みはしても決して愛しはしなかった。どんなに必死で言葉を覚えても、笑顔を作って見せたとしても、すべてが無駄で、無意味で。ひとつずつ諦めて、閉ざしていくしかない私はどうしようもないほど孤独だった。
寂しくて寂しくて、いつのまにか世界の全てだった母の愛すら砕けて消えてしまったような気さえしていた。
そんなとき。
『どうしたんです、お嬢さま?』
声が聞こえた。凍えきって石になりかけていた心に最初に入ってきたのは、姿ではなく、その声だった。忘れかけていた母のような、ひどく柔らかで優しくて、梢から降り注ぎ大地で踊る光のような声だった。
──彼女自身の髪と同じ。
声のあとに私の目に映った彼女の中で、もっとも彼女自身を表しているのはその髪色だった。人を圧倒し突き離すような神々しい金でも、蹴倒された体を無情に打つ土の色でもない、あたたかい陽光をまとう金褐色の髪。
彼女は甘やかな母のような声で私に話しかけ、手を差し出し、光り輝く庭園に連れ出して歌ってくれた。あのころの私は彼女の行動にすぐに反応を返すことができなかったが、どれほど彼女の歌を愛し、共に過ごす時間を好み、姿を見るときを心待ちにしていたか。とても言葉では言い表せない。
『こんにちは、ヘレーネさま。今日はなんの歌を歌いましょうか』
優しい優しい、姉のような、四つ年長のひと。
彼女は私にとっての太陽そのもののような存在だったが、彼女にとっての太陽は私ではなく、とうの昔に決まっていたらしかった。
『わたしのあるじ』
そう彼女が深い親しみと愛情を込めて口にしていた存在が、あの「彼」であることに、わたしは長いこと気付かずにいた。
──カイ。
父やまま母が嫉妬と羨望を込め、異母姉たちは頬を染め、異母兄が忌々しげに口にする、ふたつ年上のいとこの名。きれいで物腰柔らかで、魔法が使えて、屋敷の人々に愛されていて、ひどく冷たい少年。異母兄が私に手を上げる場面に遭遇しても、心底──被害者も加害者も──どうでもいいとばかりに無関心な蒼翠の瞳で通り過ぎたひと。
当時の私は他人の顔を覚えるような気力もなかったが、その、自分を取り巻く悪意も善意も愛も誰も彼も何もかも、私に対し絶対君主のごとく振る舞う異母兄すらも、すべては道端の石と同じといったような瞳は妙な小気味よさと共に心に残っていた。まるで、下界の人間に関心を払わぬ女神の使いであるかのよう。……だから。
『何をしているのかな』
私はあのとき、ひどく驚いたのだ。
女神のような歌声に誘われ、現れた異母兄。見つかってしまった私達。耐えられぬような悪夢の時間──振るわれた乗馬用のムチ──それを止めた少年。私を立たせ、彼から見れば従兄である異母兄に向き直ったときの、見たこともないほど恐ろしい眼差し、激情によってのみなる無詠唱の炎。
──消えろ。
そう、彼は言った。唇だけで。私を支える手も、青い顔で震えながら踵を返した異母兄を見送る瞳も凍てついて。そんな中でただ、彼のすべての注意が、ここに現れてから一度も視線すらやっていない“彼女”に向けられており、彼らが分かちがたく結びついていることだけが伝わった。彼は、彼女ひとりのためだけにそこにいた。
ゆえに私はまたたくまに彼のことを信頼する気になり、とても好きになった。このとき私が救ってほしかったのは私自身でなく、私を救ってくれた彼女だったから。そして、彼が私と同じく彼女を自分の世界の中心に置いていることがわかったから。
異母兄がこれ以上彼女に関心を持たぬよう私に慈悲をたれるふりをしていた彼は、かの悪魔の姿が見えなくなってからようやく捨て置く振りをしておいた彼女にかけより、そのまま二度と離れないかに見えたが……。カイは彼女を家に送り届けてから、私を自室に呼び出した。
「やあヘレーネ」
鳥かごに似た窓の前に立っていた彼は気怠げに振り返り、使用人に通された私をお決まりの人形のような微笑みで出迎えた。しかし椅子や茶を勧めようとしなかったあたり、いささか化けの皮が剥がれかけていたと言えるかもしれない。
「今日は災難だったね……。いや、今日も…かな。とにかく、ぼくはきみを今の生活から助け出してあげようと思っているんだけど……構わないかな?」
私は彼をまっすぐに見た。不審に思ってではない。これまで彼が私を無視し続けていたのは私に関心がないからであるのは明白であったし、今さら私を地獄から救い出す気になったのは“彼女”が原因であるということも明らかだったからだ。わからないのは原因ではなく目的のほうだった。
「私を救おうとしているのは、テアさんと同じことを感じようとしているため? それとも単なる嫉妬?」
「案外…はっきり聞くんだね」
カイは心地よさそうにくすりと笑みをこぼした。人形には決してできない笑いかただ。それだけで私は彼の目的がどちらかわかった気がしたし、実際に彼はやや表情を改めて言った。
「彼女はぼくの唯一の光だよ。きみにも……わかるだろう?」
彼にとって、彼女は光そのものであり、彼自身は光を恋い慕う矮小な存在に過ぎなかった。醜く闇を這いゆくもの。光になろうなどと考えたこともない、ということだ。もちろん私にはわかった。それをさとったカイはもはや私への敵意を隠す気も失せたらしく、猫のように私に近寄り、悪魔のような表情で顔を覗き込んでくる。
「だから……テアにはぼくのことをいちばんに考えていてほしいんだ。このほの暗い退屈な檻で見つけた唯一の光源……。テアはぼくのすべてなんだ。きみには近付いてほしくない」
「なぜ?」
「きみはぼくより“かわいそう”だから…だよ。彼女はとてもとても優しいから、かわいそうな子を放っておけない。ぼくも……“かわいそう”だから、テアは気にかけてくれるんだ」
本当は、ぼく自身には彼女に哀れんで慰めてもらうような、“かわいそう”なことなんて、何もないのだけれど…ね。そう言って、彼は夏の小川のような瞳で傷だらけの私をうらやむように眺めやった。彼女の気を引けるのならば、どんな苦痛も彼にとっては甘美なのだろうと伝わってくる目。
カイはひとつため息を吐いた。
「きみのことは……うっかりしていたよ。ぼくとしたことが、あの暴力的な従兄に彼女を近付かせないことばかり考えていて、今日まできみの存在を失念して野放しにしてしまった。だから……きみには幸せになってもらわなきゃいけない。彼女がまた完全にぼくのもとに戻ってきてくれるように」
いいね? と差し出された彼の手を取ったのは、完全にカイを信じ切っている彼女に対する愛情と、誰より深く彼女を愛するカイ自身に対する好意、そのふたつゆえで。しかしそれでも私が彼へ、すでに彼女の心は完全にあなたのものだと伝えなかったのは、わずかな嫉妬心ゆえだった。
──そして私は長くその選択を後悔し続けることになる。




