とある男の追憶━終
「――嫌な仕事だ」
早朝、ロイはいつも通りの隊服に身を包み、巨大な鉄扉の前でそう呟いた。
少し離れたところで「何か言いましたか?」と怪訝そうな表情を浮かべている門番に、何でもない、と手を振って誤魔化す。
しばらくすると、先ほど館の方へ走っていったもう一人の門番が向こうから駆けてくるのが見え始める。彼はロイの近くに立つ門番に目配せすると、きびきびとした動作で敬礼の姿勢をとった。
「王国騎士ロイ・クロウラー殿、主がお待ちです。どうぞ、お進みください」
ぎしぎしと重苦しい音をたてながら開いていく扉を見て、ロイは表情を引き締めた。その顔から、感情と言えるものが薄れていく。
完全に開かれた門を潜る寸前、一度だけ、ロイは後ろの通りを振り返った。まだ朝早いこともあって、人々の姿は見えない。舗装された赤茶けた通りの端、近くの店のものか、そこに積まれた木材の山に僅かな間だけ目をやった後、ロイはゆっくりと道を歩み始めた。
広大な敷地の奥、その威容を見せつけるように立つ大きな邸宅。しばらく進むと、その扉の前に壮年の男が立っていたのが見えてきた。髪にところどころ白いものが混ざり始めたにもかかわらず、その厳めしい表情から老いによる衰えは片鱗すらも窺えない。
ロイが近づくと、その男――ブラウ・レバントリアは深く皺の刻まれた口元に仄かな笑みを浮かべた。
「まさか、副団長殿じきじきにご足労くださるとは。恐縮ですな」
「ブラウ殿ほどの大貴族となれば、当然のことです」
深々と頭を下げようとするロイ。それを留め、ブラウは後ろ手に屋敷の入り口を押し開く。
「昨日の依頼のことでしょう。せっかくおいでいただいたのですから、どうです? お礼とは言えませんが、少しゆっくりしていかれては」
その様子に、ロイはいささか眉を潜めそうになった。息子二人を失ったというのに、ブラウにそれを悲しがる様子はない。
代わりに優秀な者を他の家から迎え入れればいい。そんな考えが、どこか滲んでいるように感じられてならない。この男も、所詮はその程度にしか彼らのことを見ていなかったということか。
「いえ……お言葉はありがたいのですが、まだ事後処理などが片付いておらぬもので」
ロイの言葉に、残念そうに眉を下げるブラウ。だが、それはすべて見せかけだ。今までのやり取りの中で、彼の目が全く笑っていないことにロイは気が付いていた。
「……それは残念です。では、報告をお聞かせ願いましょうか。もちろん優秀な騎士様のこと、これ以上ないほどにうまくやってくれたものだと、考えてよろしいのでしょうな」
僅かに顎を持ち上げたブラウ。まるでそれ以外の結果を出せなければ役立たずだと言わんばかりの口調に、しかしロイは一切動揺を見せなかった。
相手の目を見据え、淡々と必要な事項のみを列挙していく。
「昨日の内に、ライト・レバントリアは始末いたしました。混乱が広がらぬよう、なるべく早く処分したとは思いますが、なにせあれほどの事件です。噂を抑えることはできないかと」
そこでいったん言葉を切り、ロイは懐から細長い箱を取り出した。簡素な作りのもので、幅も狭く、それほど大きいものではない。
それを、ブラウの方へと差し出した。
「これが、確実に回収しろと仰っていた〈大蛇〉です」
「おぉ、素晴らしい!」
掠めとるようにして差し出された箱を取ると、ブラウは即座にその中を確認した。中に納まっている銀色の装飾が施された鞭を見て、満足そうに頷いている。あたかも、それだけで失ったすべてが取り戻せたとでもいうように。
「いや、流石は王国騎士! なんとお礼を申し上げてよいのやら……依頼をして正解でした。相手は手負いとは聞いていましたが、私の部下では多少手間取ったでしょうからな」
そっと閉じた箱を自分の懐にしまい込んだときには、彼の高圧的な態度は消え去っていた。しかしそれも束の間、そこに滲むようにして浮かび上がった感情に、再びロイは目を細めていた。
「して、どうでしたかな? 我が不肖の息子は――いや、あんなものはもう息子でもない。かの恩知らずの罪人はどんな最期を? 見苦しく、惨めに足掻いてくたばりましたか」
「それは――」
ロイは反射的に「その通りです」と答えようとして、ふと、何かがその出掛かった言葉を押し留めたのを感じた。
普段なら必要がないと蓋をしていたはずの感情。それが、僅かに顔を覗かせた。
「……どうしました?」
急に顔を下向けたロイを訝しむように、片方の眉を吊り上げるブラウ。再び上げられたロイの面には、普段どおりの硬い表情。そこに一瞬だけ浮かべられた苦笑に、ブラウが気付いたはずもなかった。
「――確かに、あれがあの男にとって、ふさわしい終わり方だったのかもしれません」
■
ロイは再び鉄扉を抜け、門番たちの視線が届かないところまで歩く。早朝ということもあって、いつもなら賑やかな通りは、全く違う場所のようだった。
そこで、ロイは近くに積み上げられた酒樽の山へと視線を移す。
「もういいだろう。出てこい」
その声に反応し、何かが身じろぎする気配。少ししてから、恐る恐ると言ったように、一人の少年が酒樽の影から顔を覗かせた。丸く大きな眼鏡の奥には、少しばかりの怯え。
確か、名をキッシュと言ったはずだ。昨日聞いた名を思い返していると、目の前の少年はおずおずと口を開いた。
「あ、あの……どうでしたか」
「心配するな。ばれていない」
心底安心したという表情を浮かべた少年に、ロイはやや呆れたように息を洩らした。
「疑うはずもない。どうせ適合者ではないあの男には、確かめようもないのだからな――『大蛇』が本物かどうかなど」
ロイの脳裏に、昨日の記憶がうっすらと甦る。
王城を囲む巨大な壁の近くで言い争う声を聞いたのは、ロイがライトの断罪を終えた後。行ってみれば、王城の警戒にあたっていた騎士と、キッシュの姿があったのだ。
面倒だと思いつつも話を聞いてみれば、彼はライトの友人だという。確かに、ロイは以前、酒場で彼と一緒にいるキッシュの姿を見ていた。更に驚いたのが、彼の話した事件の真相だ。ライトの起こした事件に疑念を抱いていたロイは、それでようやく事件が起きるまでに経緯を理解することが出来た。
そして、自分の決断が正しかったこともその時悟った。
「――あの後、お前は俺に偽物の『大蛇』を渡した。何故だ? 俺はお前が助けようとしていたライトを裁いた人間だぞ。場合によってはお前も関与を疑われる可能性もあった」
「それは……」
キッシュは、言いにくそうに目を伏せた。だが、ロイには分かっていた。この少年は、自分なりの考えがあってそうしたのだ。その理由を知りたかった。
「……悔しいじゃないですか」
「悔しい?」
その言葉に、キッシュは小さく頷いた。
「結局貴族の言いなりで……何もできないというのが、嫌なんです。その、騎士であるあなたに言うべきことでは、ないのかもしれませんけど……」
「だが、俺はあの男を――」
「あなたは、違う気がした。ライトのことを理解してくれる人だ。だから話したんです」
「……なるほどな」
つまり、彼なりの反抗の証ということだ。もしその見立てが違っていて、ロイが彼を裁く可能性も恐れずに、己の意志で決断した。
本来自分はこんなことに手を貸すべきではないのだ。だが、気が付けば彼が差し出したものを受け取っており、断れる状況ではなくなっていた。
何故、自分はこんなことをしているのか。それは分からない。そんなこと、あってはならないはずなのに。
考え事に没頭していた頭に、キッシュの声が入ってきた。顔を上げれば、いつの間にか彼は微苦笑を浮かべている。
「実は僕……もうライトに会えないってことが未だに信じられなくて。彼のことです、もしかしたらどこかで……何でもなかったように、ふらっと現れるんじゃないかって……」
「それは……」
「分かってます。そんなことはありえないことくらい……って、何言ってるんでしょうね、僕は」
苦笑の色を深め、「それでは」と背を向けたキッシュ。
――でも、あのライトなら。
ロイは、先ほど言葉にされなかったその先を聞いた気がした。
■
学院史上最大となった忌まわしい事件。それから半年という時間が流れた。
青く澄み渡った空に、チャイムの音が高々と響く。午前の講義の終了、そして学生にとっては昼休みという至福の時間の始まりを意味する。
次々と講義室から溢れ出す学生の群れの中。二人組の少女のうち、一人が口を開いた。
「へぇ、じゃあレナちゃんもあの事件で……?」
レナと呼ばれた少女は、ウェーブのかかった金髪を揺らして苦笑する。
「えぇ、もう使われなくなった倉庫に閉じ込められて……でも、リズさんほどではありませんよ。そちらの方が大変だったとお聞きしましたから」
「リズでいいって。それに、私もなんやかんやで無事だったから。ウィオル先輩もいたし、あと――あれ?」
不意に、ぱたぱたと振っていた手を止めるリズ。考え込むように、そのおとがいに手を当てる。
「他にも誰かいたような……あはは、気を失ってたからかな、よく覚えてないや」
誤魔化すように笑うリズだったが、レナの顔に差す影に気付きその言葉を止める。何かを言い出そうとして、言ってしまってもいいのか迷っている。そんな表情だ。
「どうしたの……?」
彼女とは最近知り合ったばかり。しかし、リズは彼女のそんな表情を見たことがなかった。足を止め、心配するように、その顔を覗きこむ。
すると、彼女のきつく結ばれていた唇が僅かに緩んだ。
「キッシュさんやウィオルさんから止められていたんですが……でも、これでいいはずがないです。だから、隠すのはやめますね。私は……危ないところを助けてもらったんです、ライトさんに」
「ライト……?」
聞きなれない名前。リズはその名を聞いても、顔も知らなければどういった者かも分からない。
しかし、不意に脳裏に閃くものがあった。
「……ああ、そういえば!」
「え……思い出したんですか⁉」
思わず手を打ち合わせるような顔――実際にリズはそれをやったわけだが――を浮かべたリズに、レナの表情も明るいものになった。
「うん。キッシュとか、サイ先輩が話してるときに聞いたことあるよ。何でか、その後すぐに気まずそうな顔するけど」
「あ……」
その言葉に、表情を強張らせるレナ。しかし一方のリズは悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「なになに、みんな私に隠し事でもしてるの? もしかしてレナちゃんの彼氏とかー? 別に私、そうだとしても嫉妬なんかしな――」
唐突に伸ばされた腕に両肩を掴まれ、リズは言葉を途切れさせる。
てっきりふざけているものだと思っていたのだが、予想に反した力が込められていること、そして何より、レナの悲しそうな表情に、その考えが間違っていたことを悟った。
「どうして……どうして、思い出してくれないんですか? あなたの想いは、そんなものだったんですか……? それじゃあ、あの人が報われないじゃないですか!」
ぎりっ、と肩を掴む手に一層の力が加わる。あまりにも突然のことに硬直していたリズだったが、生まれた痛みに思わず掠れた声が洩れた。
「ちょっ……レナちゃん、痛い……」
痛苦に顔を歪められた表情にどれだけの力を込めているのか知ったのか、ハッとしたように飛びのくレナ。
「ご、ごめんなさい! ついムキになってしまって……大丈夫ですか?」
「うん……ごめん、私もちょっとふざけすぎたね」
「いえ、そういうわけでは……」
そう言って俯きそうになり、レナは慌てたように顔を上げた。
「あ、あの、ちょっと用事を思い出したので……また放課後、ご一緒しても?」
「うん、大丈夫。じゃあ、また放課後ね!」
少なくなり始めた学生の集団に少女の姿が紛れてしまうと、リズは小さく首を傾げた。
一体どうしたというのだろうか。普段はあんなに穏やかな性格の彼女が、少しからかわれただけでああも怒るとは思えない。
「……後で、もう一回謝っておこうかな」
誰にでもなくそう独り言ち、彼女は食堂へと足を向けた。もしかしたらキッシュが既にいるかもしれない。レナも一緒に、三人で食べようとしていたので少し残念ではあるが。
――三人?
その数に、頭の中のどこかが疼くのを感じた。
レナとリズが知り合いになったのはつい最近のことだ。しかし、リズはその前からレナ以外の誰かがいた気がするのだ。名前も、顔も、声すらも思い出せないのに、何故かその考えは正しいのだと、内なる声が訴えてくる。
――嫌だ。
直感的に、そう思った。
これが思い出せないのは、嫌だ。忘れてはいけないことな気がする。それが自分に深くかかわっていて、本来ならそれを忘れてしまうことが堪らなく苦しいはずなのに、何も感じられない自分が、嫌だ。
気が付けば、足は目指していた食堂の進路から逸れていた。歩みも、急かされているように速い。自分がどこに向かおうとしているのか、それすらも分からないのに、歩みは緩まない。十字に分かれた廊下を左に曲がり、一層人気のなくなった通路をそのまま突き進む。そして、中庭へと通じる扉を潜る。
外は、気持ちがいいくらいの快晴だった。そこかしこから、開花した草花が微かな芳香を漂わせている。
しかし、リズはそんなこと気にもかけない。目的の場所が見えると、彼女は歩みを走りへと変え、百メートルほど走ったところでようやくその足は止まった。荒い息を整えながら、目の前にそびえたつものを見上げる。
空を鮮やかな淡紅色に染め上げる巨木。豊かに蓄えられた花弁が、少し強く吹いた春風にゆすられる。
その情景は、まるで何かの魔術のように見る者の心を不思議と引きつける。
「ここだ……」
意識することもなく、ひび割れた声がリズの口から洩れた。先ほど不思議な違和感を抱いた時、一瞬だけこの場所が浮かんだ。何か、特別な意味がこの場所にはある。そんな根拠のない衝動に突き動かされ、自分は今、ここにいるのだ。
だが――。
「……何で、思い出せないの」
苦しそうに、少女の顔がくしゃりと歪められる。ここが、大切な場所だと分かっているのに。ここなら、思い出せると考えたのに。
思い出そうとすると、真っ白な靄がそれを遮る。まるで、何かの呪いのようにその記憶だけが鮮明にならない。
きっと、レナが怒ったのもそれが原因だ。リズは、自分から何か大切な記憶が欠落していることを、確信とは言えないまでも、感じ取った。
レナが先ほど口にした名前。今まで体を突き動かしていた衝動によって、紛れてしまったそれを思い出そうとした、その時。
視界の外から伸びた何かが、リズの腰に、腕を巻き込みながら巻き付いた。
「……え?」
陽光を受けて白銀に輝くそれは、視界の上から伸びていた。見上げれば、どうやら大樹のかなり上方から伸びているらしいことが窺える。
そこまで確認した時、不意に、ぐんっと上に体が引き上げられた。
「ひっ……ええぇっ⁉」
気が付けば、足はすでに地面から離れていた。魔術を使おうにも、両腕の自由が利かないのではどうしようもない。
小枝にぶつかり、花弁の雲海を抜けそのたびにどちらが上でどちらが下か分からなくなってくる。
「ちょっ、目、目が……」
成す術もなく、ぐるぐると完全に目を回した時、ようやくその体は、すとん、と太い幹の上に着地した。別に上手く体勢を立て直したのではなく、勝手にそうなったのだ。
「ははっ……わりぃ、ちょっと失敗したわ。まぁ、それはそれで似合ってると思うぜ?」
ピンク色の花弁に塗れた姿を指しているのだろう。すぐ後ろで何者かの声が聞こえた。
――あまりにも、横暴だ。
「ちょっと! いきなり何てことすん――むぐっ」
抗議するべく、無礼者へと振り向こうとするリズ。だが、後ろから伸ばされた手がその頭を押し留めたことで、相手の顔を見ることは叶わなかった。しかし、その視界の端に、緑色の袖らしきものが見えた気がする。
「だから悪かったって。でも、顔を見られるわけにはいかねぇんだ。怖い上司から厳命されててね」
「……」
その口調は軽いが、手には確かに強い力が込められていた。しぶしぶ、リズは顔を元の位置に戻した。すると男の逆側の腕が、リズの肩に置かれる。それは押さえつけると言うより、むしろ落ちないよう支えているようにも感じられた。
タチの悪い学生の悪戯だろうか。それとも、もっと危険な何者かか。
今のところ害意らしきものは感じられないが、言うとおりにした方がいいだろう。どちらにせよ、未だ拘束が解かれていないのだから、攻撃もできない。
「ここで、何してるんですか?」
答えが返ってくるまでには、僅かな間があった。
「……前に、ある人と約束しちまってな」
「……はぁ」
さっぱり意味が分からない。それならばその人のところへ行けばいいではないか。一体何故、それがこの状況に繋がるのか。
しかしリズがそれを尋ねるよりも、男が口を開く方が早かった。
「でも、いろいろあって、俺はそれが果たせなかった――いや、果たさなかったんだ。間違っていたのかもしれないけど、それが、その人のためになると思ったから。そうするのが、一番いいんじゃないか、ってな。でも――」
そこで、男は不意に言葉を切った。
それが起きたのは、その時だ。
今までよりもひときわ強く、風が樹木を揺らした。そのあまりの勢いに、リズは顔を俯かせ、再び顔を上げた時――その光景に言葉を失った。
「あ――」
日差しを受けて舞う、無数の桜色の花びら。この樹だけのものではない。国中から風に乗ったそれらが、至る所で空を彩っているのが見える。城壁の向こうでも、同じ光景が確認できた。
始めて見る城壁の外の世界。それは、彼女にとって想像の域を出なかった場所だ。いつか見てみたいとは思っていたが、それがこのような形で叶うことになるとは考えても見なかった。
薄雲のかかった稜線に支えられた無限の大空が、少しずつ花びらを飲み込んでいく。
頭の奥深くで、澄んだ破砕音が響いた。
次いで、見覚えのない光景が脳裏に映し出される。
どうやら、二人の男女が何かを話しているようだ。
――ね、今度私にも木登り教えてよ
――はぁ? いいのか、優等生様がそんなことやって
――いいの! 私がやりたいっていうんだから、ね?
――……分かったよ
――やった! 約束だからね!
一人は自分だ。もう一人の少年は見たことがない――いや、ある。記憶よりも深い場所に刻まれた何かがそう叫んでいる。
その、少年の名は――。
不意に、リズの体を拘束していた鞭が解かれた。同時に、男が立ちあがった気配。聞こえてきた声には、何かを諦めたような、どこか自虐のような響きが含まれていた。
「意味がないってことくらい、分かってるんだ。本来なら、多分嫌われてただろうし……まぁ、俺の最後の意地だ。じゃあな」
そうして離れそうになる男の手。それを、リズは両手で覆うように掴んだ。男が声を上げる間もなく、それを自らの胸へと引き寄せる。
「おい、何を――」
「そんなこと、ないよ」
未だ擦れ合う葉の音の中、男が息を呑んだのが分かった。握った手が、その驚きを如実に伝えてくる。
胸の内の感情を、衝動を、リズはどうしていいのか分からなかった。胸の内には記憶を消すことで己を犠牲にした彼に言いたいことは山ほどあったし、感謝もたくさん伝えたい。
だが、はっきりと分かっていることが一つ。
彼は別れを告げに来たのだ。自分と居場所が変わってしまった今、もう一緒にはいられない。
ならば、何を、どういう形で伝えるべきか。未曽有の大事件の責任をその身一つに背負った、最も大切な人に。
そして迷った末に、彼女は答えを導いた。
「きっと……きっと、あなたの想いは『その人』に届いてる。だから、『その人』もこう思っているはず――」
恐らくは最後であろうこの時間に。
せめて――この言葉だけでも。
「――大好き、って」
一筋の涙が、頬を伝った。
振り返って、彼の顔を見たい。抱きしめたい。
そんな衝動を、彼女はこみ上げる嗚咽と共に飲み込んだ。
おそらくは、彼も同じ思いでいるはずだから。
リズは、抱え込んだ手に一層の力を込める。こうしていれば、抱えているすべての感情が伝わってくれるのではないかという期待を込めて。
頭上で、乾いた笑いが聞こえた。しかし続いた言葉は、涙に濡れている。
「はは……そうだったら、めちゃくちゃ嬉しいな」
そして、名残惜しそうに彼の手がリズから離れる。
それが、限界だった。
「――ライトッ!」
くしゃくしゃになった顔で、リズは勢いよく振り返った。
だが、淡紅色に染め上げられた視界の中。もうそこに、少年の姿はない。
「私……」
どれだけ抗おうとも、その努力をからかうように零れそうになる涙。すると――。
「――リズさん!」
誰かが、自分の名を呼んだ。下の方を見れば、視界を覆う木々の隙間から見知った少年の呆れ顔が見えた。
「あ……キッシュ」
「あ、じゃないよ! もう、なかなか来ないから探したんだよ!」
そういえば、元々キッシュと食堂で待ち合わせていたのだ。今更ながらそれを思い出した。
「……そうだよ。私も、強くならなきゃ」
呟き、ごしごしと制服の袖で目元を拭う。上げられた顔には、笑みが浮かんでいた。眼下に見える少年に、勢いよく手を振る。
「待ってて、今下りるから!」
そして、もう一度だけそこから見える風景を見やる。
多分、これから別々の道を歩むことになるのだろう。彼も想像もできないような道を歩み、いずれは、自分以外の誰かと――。
チクリ、と胸を指す淡い感情を、今度こそ涙と共に飲み込む。
「――私よりも可愛くなかったら、許さないからね」
言葉と同時、ふわりと風が少女の頬を撫でた。
どこかで、少年の苦笑が聞こえた――そんな気がした。
■
学院を囲う長大な壁。背をもたれさせながら、ロイは閉じていた両目を薄く開いた。
「ずいぶんと、時間がかかったな」
周囲には、彼以外誰の姿もない――が、それに答える声が生まれた。
「うっせーな。いろいろとあったんだよ」
ロイの隣、何もないはずの空間に、滲むようにして一つのシルエットが形づくられていく。一瞬のうちに、そこには一人の少年の姿が浮かび上がった。
緑色の隊服。そして腰に結わえられた白銀の鞭。
その顔には、僅かに不満の色が見て取れる。
「大体、お前が『誰にも見られるな』って条件さえ出さなけりゃもっと簡単にだな……」
「もし見られて騒がれたらどうする。ここには、お前のことを知っている人間が山ほど――少しくらいは、いるだろう」
「おいこら、今なんで言い直した」
「……ともかく、見られていないのなら構わない。それよりも」
そこで言葉を切ると、ロイは壁から背を離して少年に向き直る。その目には、揶揄や冷やかしの色は一切ない。
「本当に、いいんだな? 騎士となることに後悔は――」
「またそれかよ! 何度目だお前、記憶力大丈夫か⁉」
がしがしと頭を掻き、少年は面倒そうに口を開いた。
少しだけ赤く腫らした目と、いつも通りの不敵な笑みを浮かべて。
「別に後悔なんかねぇよ。ってかそうしなけりゃ、また犯罪者に逆戻りだしな」
「……ならば、よろしく頼むぞ。新入り」
「へっ、今はそう呼ばせておいてやるけど、俺はすぐに出世するぜ」
少年は、勢いよく己の胸を指さした。左胸に付けられた、騎士を示すプレート。
そこに記された、彼の新しい名。
――「ルイス・ロアルド」。
「いずれ、この名をあんたと同じ地位に刻む。それまで、首を長くして待ってな」
次いで、びしっと突きつけられた指先に、ロイは長い溜め息を吐いた。
「馬鹿め。副団長は二人もいらない」
「あ? じゃあお前が団長でいいよ」
「阿保め。レイ団長はどうなる」
「あー……じゃあお前の兄貴は、『大団長』とか?」
「勝手に新しい地位を創るな」
付き合いきれぬ、と先に歩き出すロイの背を、慌ててもう一つの影が追いかける。
次第に小さくなる、二つの影。次第に小さくなるそれらを、午後の講義開始を告げるチャイムが追いかけた。




