後 騎士アルブレヒト卿の見解
――存在しないはずの村が現れた。と、聞いた時、騎士アルブレヒト卿は、まず己の耳を疑った。だが話を持ってきた友人は、まったくおなじ言葉を繰り返した。彼は冗談は言うが嘘はつかない。少なくとも、アルブレヒトが、すぐにそうとわかる嘘は。
「……村って、村?」
「村ですね」と友人は言った。「しかも、足を踏み入れた人間が帰ってこないと、まあ、そういう話です」
「ええと、どんな村なんだ?」
「わかりません」友人は肩を竦めた。「どうして」と問うと、「だって、近くで見て、帰ってきた人がいないから」と尤もらしい返答をされた。
「うーん」と唸りながら天井を見上げる。高い天井だ。アルブレヒトの背丈の三倍はあるだろう。
城の一室だ。防衛用ではなく居住用に造られた建物のため、住み心地と見た目はすこぶるよい。一年くらい前まで赴任していた砦の、殺風景でごつごつしていて、冬には凍えるほどに寒くなった自室とは雲泥の差だ。地獄と天国だ。ここはまだ本格的に怪物の被害を受けていない、という意味でも。
アルブレヒトは長椅子の背に体重を預けて脚を組んだ。
「……で、それを私に言いにきた意味は?」
なんとなく予想はできている。それでも聞いてみる。
案の定、友人はため息をついた。切れ長の目は、ただただ面倒臭そうだった。
「いつまで食客しているつもりなんだと若干お怒り気味の城主様から、たまには働いてくれてもいいのではないか、と。何故か俺に」
「う」
「アルブレヒト卿のご実家は、確か今、財政状況がお悪いのではありませんでしたか、本当にご送金をいただけるのでしょうか、と。何故か俺に」
「し、仕方がないだろう! 父から手紙はあったぞ、すぐに用立てると!」
「っていうか、どうして、騎士団と盗賊団を見間違えるんですか! 軍馬の弁償なんてできるわけないでしょう、一財産ですよ!?」
「その話は終わったはずだ!」アルブレヒトは思わず立ち上がって、睨んだ。
まさか、か弱い女を取り囲んでいる薄汚い集団が正規兵で、囲まれて震えているのが女に擬態した怪物だったなんて、遠くからわかるわけがないじゃないか。思わず彼らに斬りかかり、馬を一頭傷つけてしまったのは確かだけれど、死んだわけではないし、治りそうな傷だった。成り行きだけど怪物退治だって手伝った。弁償なんて言ってくるのがおかしいのだ。
「なんで、私達が、ただ飯食らい扱いされなきゃいけないんだ!」
監禁して実家に手紙を書かせたのは城主の方だというのに。
「出された食事にけちをつけるからでしょう、足りないとか。太りますよ」
「うるさい!」
「文句があるなら城主様に言えばいいのに」
と、正論と聞こえなくもないことを言われたのを無理やり聞き流す。誰にだって苦手な相手はいるのだ。
しばらく二人で相談(という名の言い争い)を続けたが、そのうち、騒ぎを聞きつけた城主がやってきて、「迷惑をかけてくれたのだから、償いとかもしてくれていいのではないかね」とか「それとも旅の騎士殿は、怪異を恐れる臆病者なのでしょうかね」とか、とにかく嫌味をばんばん投げつけられ、アルブレヒトはついに「そこまで言うなら、わかりました! この件は私達が調査してきましょう!」と啖呵を切ってしまったのだ。
城主は満足そうに頷いた。友人は無言で小さく首を横に振った。かろうじて、解決してきましょう、なんて言わなかった、ぎりぎりの自制心は褒めてくれてもいいのに。
というわけで、騎士アルブレヒト卿と、その信頼する友人であるところの平民ランツェは、その謎の“村”とやらに向かうことになったのだった。
「このまま逃げませんか」とか「貨も荷物も、殆ど取り上げられたぞ」とか、ひそひそ話し合いながら辿り着いたのは、本当にただの村だった。
山間にひっそりと佇む小さな集落。木組みの小さな家の連なりと、狭い坂道。道は舗装されていないが、よく踏み固められており、乾いた明るい土色をしている。道行く人々は質素だがよく洗われた衣服を着て、二人のことを珍しげに眺めていた。「騎士様だ」と誰かが囁くのが聞こえた。「ついに、領主様が動いてくれた!」
「なあ、ランツェ」アルブレヒトはこっそりと友人に語りかけた。「城主殿に担がれて、別の面倒事を押し付けられたんじゃないか、これ?」
「そうですかね」ランツェは首を傾げた。アルブレヒトは彼を見上げて言葉を待った。彼は勘がいいから、何かに気づいたのかも知れないと。だが彼は「風がぬるい、気がします」と呟いただけだった。
しばらく立ち止まって様子を見るうちに、二人の前に少女が現れて頭を下げた。彼女はティアナと名乗った。年頃はアルブレヒトとおなじように見えた。お待ちしていました、騎士様、と彼女は言う。何のことだと問いかければ、山の害獣を退治しにきてくださったのでしょう、と彼女は答えた。何のことだ、と、二度目の言葉は、ランツェに肘でつつかれて飲み込んだ。話を合わせろという合図だろうと察しを付けて、アルブレヒトはぎこちなく微笑んだ。
「任せてくれ。私達が来たからには心配はいらない」
手を差し出す。ティアナは驚いたように目を見開いて、それから、アルブレヒトの手を握った。触れた手のひらは、まるで体温がないかのように生ぬるかった。
それから村人の集団に押し流されて最も大きな家に連れて行かれて宴会など開かれた。出された料理も、侍ってきた女達も、みな、温度がなかった。「食べないでくださいよ」などと小声で言ってくるランツェに「わかってる」と頷くと、水袋を隠し渡された。これで飲んでいるふりをしろというらしい。まるで葡萄酒のような色をしたその水はやたらと苦く、アルブレヒトは本気で嫌がらせを疑った。
そして、翌日、ティアナの案内で山に入ったのだが――
「で、ここはどこなんだ」
アルブレヒトは周囲を見渡した。急に怪物が現れたと思ったら、突然、見知らぬ場所に立っていた。額の横あたりに、まだあの奇妙な落下感が残っている気がして、軽く頭を振った。
ひどく薄暗く、遥かな頭上から僅かな光が注いでいる。足元は固く、古い石床のように見えた。表面に砂塵がつもっているので、靴の底で何度かこすり、よくよく目をこらして、ようやくそうとわかった。目が慣れたわけではなかったが、見渡せば、壁らしき影があるのも見えた。
アルブレヒトは鎖帷子の上衣の隠しから光石を取り出し、鞘から少しだけ出した剣の刃に当てた。石はたやすく砕け、断面から柔らかな光を放ち始めた。
自分はどうやら、古い建物の中にいるようだ、と、既に察していたことを改めて確認する。
砂塵にまみれた石造り。壁には精巧な細工が施されている。神話か何かの一場面を再現したもののようで、いずれにも女がおり、彼女が男と向い合っていたり、家の前に立っていたりしている。女神信仰の変形だろうかと思ったが、よくわからない。今は無理に理解する必要もないだろう。
「ランツェ」
返事はない。
「ランツェ、どこだ?」
返事はない。
アルブレヒトは舌打ちして、光石を掲げた。誰の姿も見えない。石の床ばかりが続いている。随分と広い廊下だ。或いは横長な部屋だ。目を凝らす。灯火が届くぎりぎりの距離に四角い影が見えた。
棺だ。アルブレヒトは思った。見てもいないのに。
あれは、よくないものだ。と、直感が叫んだ。
よくないものを、調査するために来たのだ。調査というのがどういうものか自分でもよくわかっていなかったが。原因を突き止めるという意味であればもう終わったと言える。ここに足を踏み入れ、帰ってきた者がいないというなら、帰るためには調査以上のことをしなければならない。わかっていたことだ。結局、どうにかしなければならない。……あの性悪城主め!
「うわ、見るからに怪しいですね、あれ」
「うわあ、びっくりした!」
アルブレヒトは軽く飛び退いて友人を睨みつけた。友人はアルブレヒトを見下ろして、それから、軽く咳をした。革の上衣も、顔も衣服も、砂塵に塗れていた。
「どこにいたんだ?」
「あっち」と、彼は推定棺らしきものと逆側を指さした。「少し気絶していたようです……王子様、呼んでましたね」
「呼んだ。いないかと思った」
「心配おかけしたみたいで」
「まったくだ。で、ここはどこだと思う?」
問いかける。友人は、目を細めて周囲を見渡した。この男なら暗視だってできそうだ、とアルブレヒトは思った。
「妖精信仰みたいですね。あっちの端、泉から出てきた女を、人間の男が……狩人かな? とにかく、男が見つけたところ。その横は結婚式ですね」
「よく見えるな」
助かるが、釈然としない。
「暗闇に早く目を慣らす方法って、あるんですよ。今度教えてさしあげましょう。で……ここから」と、友人は、一つの装飾を指さした。その指が横に動いていく。「ここまでが、幸せな夫婦の生活ですね。女が糸を紡いでいたり、料理をしていたり、子供をあやしていたり、機織りをしていたり」
「…………」
で、あれが、と、友人は、指をまた横へと動かした。今度は装飾の一つ分だけ。
「収穫祭、のように見えますね」
「そうか」
「そして、その最中に軍隊が村を襲っているところ」
「え」
「そして、女が刺し殺されるところ」
村が焼かれるところ。
人々が逃げ惑うところ。
女の夫が、弓を手に立っているところ。
無人の廃墟に、取り残された少女が、ただ一人。
「最後は」
「ランツェ!」アルブレヒトは堪らず彼を怒鳴りつけた。
信頼する平民の少年は、切れ長の目で彼女を見下ろした。
「王子様」
「……だって、それが本当なら」
存在するはずがない村。生ぬるい風。体温のない手のひら。地形を無視して連なる無数の山々。
「彼女たちは、何だ。これは怪物じゃない」
友人は困ったように笑った。普段は飄々として、何でも任せろと言わんばかりなのに、アルブレヒトが本当に頼ろうとすると、いつもこういう表情をするのだ。その度に、何かとんでもない誤ちを起こしたのではないかと不安になる。
「怪物ですよ、王子様」
「でも」
友人は半ば囁くように低く言った。
「幽霊なんていません、王子様。死の先なんてない。そうでなければ、この世界はとっくに死に埋もれてしまっています」
結局、彼はアルブレヒトが考えていることなど見抜いているのだ。滅ぼされた村の念が、この奇妙な現象を起こしている。だとしたら、その中に存在する人々は犠牲者だ、と。その考えを、彼は迷いなく否定した。通りのよい声が廃墟に響くのは、いっそ不吉にさえ感じられた。
「まだ何ができるかわかっていません。対処法を見つけてから悩みましょう」
ぽんと鎖帷子越しに背を叩かれた。アルブレヒトは思わずよろけて、苦笑した。
近づいてみれば、棺と見えたのは、ただの石の台のようだった。元はよく磨かれていただろう表面は、やはり砂塵に覆われている。幾つかの大きなひび割れが、長方形を微妙に崩してしまっている。
アルブレヒトがそれを見下ろしていると、友人は、槍の穂先を覆っていた布をほどき、石の表面を拭った。アルブレヒトは文字が書かれていることは予想していたが、それが何語だかわからないことまでは予想していなかった。
十秒近く、睨んでみる。知っている言葉に近いものはないかと望みを込めて。
そして口を開いた。「ランツェ、読んでくれ」
「無理です」
「どうして!?」
「どうしてって、知識階級から知識を求められても困りますが」
「えええ……」
「がっかりされても」
アルブレヒトはため息をついた。「あれだ。触ってみたら、何か都合よく光って、何か説明してくれたりしないかな」
「じゃあ、どうぞ」
「……そこは止めるところだろう」
馬鹿話をしたいわけではなかった。が、実際に触ってみるというのも気が進まない。嫌な予感がするのだ。何かを間違えていると、意識の隅で警鐘が鳴っている。だが、何を間違えているのか? わかっている、気がする。違和感は些細だった。だけど、決して無視してはいけない。
「ランツェ」アルブレヒトは言った。
「なんですか」と少年は応えた。普段通りの、感情を読みづらい仏頂面で。青年と呼んでもよい年頃だったが、アルブレヒトは友人のことをそう思ったことはなかった。
「最後は、何だ」
「…………」
彼は視線を巡らせた。そして最も遠い装飾があるだろう場所を指さして、言った。
「女と男、子供が、家の前で笑っています。そして下に、文字が」
彼は言った。
「“せめて物語の中では、彼女に待ち人を返してあげたい。女神よ、どうか救いを。彼らの魂が空に還れるように”」
アルブレヒトはその言葉に目眩を覚えた。つまり、この建物は、一人の少女のためにつくられたのだと、彼は言ったのだ。
思わず周囲を見渡す。光石ではすべてを照らし切れないが、古い、石造りの、堅牢な建物であるということだけは改めて見て取れた。建築様式で時代がわかればよかったものの、とにかく、古いということしかわからない。
すべてがまやかしであることだけが確かだ。
深呼吸する。一度、目を閉じる。そうすることに僅かに恐怖があった。しかし、呼吸を落ち着かせて再び瞼を開いても、少年は何もせずに待っていた。そうはならないと思っていたから決心は僅かに鈍った。
「ランツェ。……間違いないんだな」
「ええ」
彼は頷いた。
アルブレヒトは軽く目を伏せ、そして抜き様の刃で少年の体を貫いた。
悲鳴にならない呼吸。刃を掴まれるより早く、アルブレヒトは剣をひねった。手応えは柔らかかった。げぼ、と、口から黒い血が溢れ出す。体を折った彼が手を伸ばして、アルブレヒトの手首を掴んだ。
「王、子…様?」
「ごめん」
アルブレヒトはその手に抗い刃を押し込みながら言った。
「だけど、彼の手は、もっと温かい」
やがて抵抗が途絶えた。長身が力を失って前のめりに倒れる。からんと音を立てて槍が床に落ちた。
アルブレヒトは慌てて刃を引き抜いて後退り、見慣れた友が死んでいくところをぞっとした心持ちで見ていた。「読めないって言ったばかりじゃないか」呟く。これは偽者だ。この現象が何であれ、この建物が何処であれ。偽者なのだ。
「すぐわかるような嘘を、つくな」
ここに足を踏み入れた者が誰も帰ってこないのならば、この幻は悪いものなのだ。取り殺されるか、魅入られるのか――どちらだとしても。と、アルブレヒトは心の中で唱えた。正統な理由のようにも思えたし、言い訳のようにも思えた。いや、そんなことよりも何よりも、友人ではない何かが友人そっくりに振る舞う様が恐ろしくてたまらなかったのだ。
目の前には少年の骸が横たわっている。
アルブレヒトは震えを押し殺し、刃を振って露を払った。黒い染みが点々と床に落ちた。
「彼らの魂が空に還れるように……」
呟いたことに意味などなかった。ただ黙っていることに耐えかねたのだ。女神の祝福がありますように、という祈りの文句まで続ける気にはならなかった。人殺しの直後にそんなことはできない。たとえ人間ではないとしてもだ。
深呼吸。まだ腕が震えている。偽者なのだから、倒したら消えてくれればいいのに。
アルブレヒトは強引に視線を逸らした。ひびが入った石碑。意味がわからない文字の羅列。わからない、が、きっと、この建物の主である少女の来歴や物語が刻まれているのだろうと思った。それこそ壁の装飾とおなじような。
「待ち人を返してあげたい、なんて」
誰がこんなものを造ったのかは知らない。篭められたのがどんな願いであれ、ティアナは悲痛な眸をしていた。隠しているつもりで、短剣を握りしめて。仇を取るといいながらも、彼女は諦め切れていない。ここでは彼女の父も母も、まだ生存の可能性があるから。旅人を取り込んで、その度におなじ物語を繰り返して、希望を探し続けることさえできるのだろう。そしてきっと、今までずっとそうしてきたのだろう。
だけど。
零に近いのに捨て切れない希望ほど残酷なものはない。
剣を持った腕を、上げる。この直感が正しいかどうかはわからなかった。或いはこれを独善というのだろう。それでも。
「これじゃあ彼女は永遠に両親と会えないじゃないか」
振り下ろす。刃は鋭い音と共に弾かれた。腕を伝わる衝撃に柄を離しそうになり、無理やり握り締めた。
石の表面に細い亀裂が走った。きんと石材が悲鳴を上げ、そして二つに割れた。上辺がずれて、落ちる。中は空洞になっており、納められていた錆びついた短剣が、真っ二つに折れていた。
アルブレヒトはため息をついて剣を収めた。
まさか本当に割れるなんて思わなかったとか、本当にこれでよかったのかとか、果たして事態の解決に繋がるのかわからないとか、色々と思うことはあったけれど、どの疑問も解消しようがなくて、とりあえず乱暴に頭を掻いて踵を返した。
とにかくここを出て、そして本物の彼を探さなければならない。
外に出ると、眩い光が目を射た。アルブレヒトは片手で目を庇い周囲を見渡した。
元は家屋であったらしき石材の残骸が散乱しており、崩れた壁には焼けた跡があった。
今度は何なのだろうか。山だったり、訳がわからない建物だったり、廃墟であったり。
「……王子様!」
声に視線を向ければ、少し離れた場所から友人が近づいてくるところだった。まさかまた偽者じゃないだろうなとアルブレヒトは彼をまじまじと眺めた。
「どこに行っていたんですか? 随分と探しました」友人は批難するように言った。
「お前こそ」アルブレヒトは言い淀んだ。脳裏に浮かんだ悪い幻を追い払おうと、瞬きをする。「お前こそ急にいなくなったじゃないか」
「もちろん、害獣を退治してきたんですよ。王子様抜きで」
「は?」
「大変だったんですから。酸とか吐くし」
「酸!?」
何を言っているのかわからないが、何かひどい気はする。
友人は珍しく、嘆息混じりに嘆いてみせた。「上衣を駄目にしました。高かったのに」
「そういえば着ていないな」
「気づかなかったんですか……」
ひどく呆れた声で言われ、アルブレヒトは、よかったこれは彼だと思った。自分でも何故だかよくわからなかったが。
そしてその途端に緊張の糸が切れてしまったように、へたりこんでしまいたくなった。
「い、いや」アルブレヒトは彼を見ようとしたが、うまく視線を合わせられなかった。
友人が訝しげに覗きこんできた。「元気がないですね。お腹が空きましたか?」
「違う! 何でもない。先に怪我の心配をしろ!」
抗議すると、そんなものないって見てわかりますよと一蹴された。
観念して「お前の偽者が出たんだ」と言うと、相手は一瞬ぽかんとしてから苦笑した。俺は生きてますよ、気にしないでください、と。まったく聡い男だ。気味が悪いくらい。
彼はアルブレヒトの手を取り、「この通り」と言って、すぐに放した。一瞬だけ、アルブレヒトは彼の体温を感じた。
「俺も似たようなの倒しましたし。怪物だか怪奇現象だかよくわかりませんが、知ってる相手の幻が出てくるみたいでしたね」
「……ちなみに、お前は誰を倒したんだ?」
「いろいろ。城主様を殴るのはちょっと楽しかったです」と友人は答えた。アルブレヒトは、自分がそっちならよかったのにと思った。
友人は更に言う。
「城主様とか、害獣とかを倒して。最後には湖に行き着いて」
「湖?」
「ええ、湖。畔にティアナの両親がいて、抱き合って消えてしまいました」
「……そうか」アルブレヒトは吐息した。
「全体的に、今回は、何だったんでしょうね」友人がぼやいた。
アルブレヒトは振り返った。だがそこにあるのは打ち捨てられた、教会らしき廃墟だけだった。
「なあ、ランツェ」
吐息する。
「魂とか永遠とかって、あると思うか」
友人は困ったように笑った。それからわかりませんと前置きして言った。「でも信じるのは無意味ではないと思いますよ」
「そうか」
「ええ」
――彼らの魂が空に還れるように、女神の祝福がありますように。
やはり声には出せなかったが、胸の内だけで呟いた。
風が吹いた。その冷たさにアルブレヒトは身震いした。
見上げれば空は高く青かった。秋の空だ。
◆
やあおつかれと迎えた城主の軽い口調に、アルブレヒトは一瞬、殺意を覚えなくもなかった。
だからといって元々は自分が悪いということを忘れることはなかったので、どうにか笑顔を保つことができた。「調査と言いましたが、折角なので解決してきました」などと言ってみる。城主は片方の眉だけを動かして、「それはさすが武勇に名高いアルブレヒト卿だ」などと適当なことを言い出した。そんな評判、聞いたことがない。
とにかくざっくりとした報告をして、「あの廃墟に心当たりありませんか」と訊ねてみる。
城主は「私が私の領地のことを知らないと思っているのかね」と言ってきた。アルブレヒトが睨むと、彼は咳払いして、言い換えた。「資料が揃っている、という意味だが。きみたちが出発してから色々と調べてみたのだ」
できれば先に調べて欲しかった。
もう二百年くらい前のことだ。国が戦争で荒れていた頃、職にあぶれた傭兵団によって、領内の村が略奪に遭った。収穫祭の最中で、集まっていた人々のほとんどが犠牲になった。兵役に出た男たちが帰ってきた時には、焼けた瓦礫の山ばかりが残っていた。男たちのうち、一人が――
「一人、なんと言えばよいかな。感傷的な、信心深い、いや、気の触れた男がいて。恋人の死を受け入れられず、いつしか神格化してしまったのか、教会の跡に、恋人を祀る祭壇を造りはじめた。真っ青な、不気味な建物で……粗末なものだったらしいが。教会が取り壊して、男は連れて行かれた。それからは、元々、不便な立地であったし、避難民を別の場所に移してしまったから、放りっぱなしにしていたのだ。亡霊でも出たのかと思ったが。どうやら怪物だったのだな、アルブレヒト卿」
「…………」
城主は肩を竦めて、「どちらでもよいことだ」と言った。「行方不明になっていた者も、周辺で発見された。事態は解決したと言ってよいだろう。この働きに感謝して、食費の請求は勘弁しよう」
「……っ!」
アルブレヒトは、今こそ拳で話をする時だと思ったが、友人が袖をつまんで、我慢しろと伝えてきたので、両手を握りしめたまま歯ぎしりし、自分の忍耐を褒め称えることにした。
[ 終 ]