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 聞き間違いかと思った。

 昨日、塔子が目をつけていたお高いデニムパンツが売り切れたというのだ。追加で入荷する予定もないという。

「代わりにこちらのお色はどうですか。明るくて人気なんですよ」

「……四万円弱もするような、あんな高いパンツが飛ぶように売れちゃうんですね」

「うちには二本しか入ってこなかったんですよ。系列の店舗に聞いてみましょうか」

 店員は申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「お願いします」

 なぜ買っておかなかったのか。しくじった。買い物は一期一会だ。

 このセレクトショップは塔子のお気に入りで、手頃な値段でセンスのいい服がほしいとき、会社帰りによく立ち寄っていた。

 あのパンツは一目見て心惹かれたが、値段が値段なのでとりあえず試着だけさせてもらったのだった。試着してイマイチだったら諦めがつくから。

 だがサイズも誂えたようにぴったりで、このパンツにはあのシャツが合う、いやラフなTシャツもいいかも、などと次々とコーディネートが浮かんだ。一晩考えて、明日も欲望が萎えなければ買おうと思った。残業したり休日出勤したり、部長のくどい説教や次長のダジャレにつきあったりして魂を削った対価の給料をはたくには惜しくないと結論づけた。後悔はすまいと意を決して、このありさまである。

 店員が摺り足で寄ってきた。その顔を見たらなにを言うのか見当がつく。

「お客様ぁ、申し訳ありません。他の店舗でも売れてしまったようで……」

「……そうですか」

「一昨日発売の雑誌に紹介されたので、そのせいでしょうね。完売したのは」

 店員はファッション誌を広げた。着用しているモデルは塔子より十歳以上若い。

「でも別のお色はまだ残ってます。私は個人的にはこちらの明るいほうが好みなんですけど。だってそのほうが華やかで……」

「また来ます。ありがとうございました」

 白っぽいパンツを手に掲げた店員に頭を下げて塔子は店を出た。

 完売したデニムは紺にグレーとグリーンを混ぜて、さらにウォッシュをかけたような珍しい発色だった。そこが気に入っていたのだ。明るいほうは私みたいなアラサーが履いていたら、大掃除で汚してしまった白にしか見えない。

 落胆はしなかった。というか、正しくは、回避できた。ファッション誌に載ったと聞いて、買わなくてよかったのだと納得した。

 雑誌と同じ物を買い求める程度の客だと思われるのが癪なのだ。そう思えば悔しさはない。

 しかし四万円を使うつもりだったので肩透かし感は否めない。現金ではなくクレカで支払うつもりではあったけれど。パンツひとつに四万円は、中小企業に勤める塔子にとって清水ダイブの覚悟がいったし、それ相応に高揚して臨んだのだった。

 物は考えようだ。五千円のパンツなら八本、一万円のパンツなら四本買える。今日は土曜日でまだ午前中だ。買い物を楽しむ時間はたっぷりある。

 もっと素敵なパンツが見つかるかもしれない。ぐっと視野を広げてみたらどうだろう。いつも行かない店も行ってみよう。立ち寄る店が同じところばかりだから新しい物に出会えないんだ。モールには百以上の店舗がある。くまなく探せば逃した獲物よりずっといいものが見つかるだろう。

 買い物熱を冷まさないように、塔子は丹念にショップをめぐった。

「いいかも」と思ったものはあった。だがそれはパンツではなくコートだった。新入荷の秋冬物だ。去年着倒したコートは毛羽立ちが気になっていた。買い換えてもいいかも。

 塔子はそっとタグを確認した。十五万円。高い。予想よりはるかに高い。それもそのはず、北欧の有名アウトドアブランドのロゴがついていた。

 これをまとって颯爽と歩く姿を想像した。かっこいい。自分で自分に惚れそうだ。胸が熱くなった。

 ぱっと見ではどこのブランドだかわかりにくいデザインだ。だがそれがいい。わかる人にだけわかればいい。誰も気づかなくても構わない。自分の機嫌が取れれば充分だ、と思っていたところで、店員がやってきた。

「いかがです、試着してみませんか」

「素敵なコートですね。でもまだ早いかなって」

「オシャレなかたは季節を先取りするものですよ。上品なラインなのでお客様にとてもよく似合うと思うんですよね」

「上品なラインか……。あ、これ、雑誌に載ってたりしてませんか」

 雑誌に操られやすい客だと思われていないか、確認しないと気がすまなかった。

「いいえ、残念ながら。ちょっとお値段は張りますけど、有名アウトドアブランドの製品でして。生地は薄く見えますけど真冬でもこれ一枚で充分。薄手のコートと厚手のコートを二枚用意するよりお得ですし、着膨れしませんし、流行に左右されない型なので長く着れますよ」

「へえ、なるほどね」

 店員の口上は淀みなかった。

 塔子の熱はますます昂ぶり、まずは試着だけでもしてみようかと一歩踏み出したとき、割って入る人物が現れた。

「こんにちわあ、また来ちゃったあ。秋物の新作増えた?」

「いらっしゃいませ。さっそくのお召しありがとうございます。やはりよくお似合いですねえ」

 六十の坂を越えてそうな女性だ。短い髪をオレンジ色に染めてピンクのレンズの眼鏡をかけている。口紅と同じ真っ赤な靴は先が尖っている。エメラルドの大粒リングとメタリックブルーのネイル。鮮やかな色彩を寄せ集めたカラーパレットのよう。そしてあのコートを羽織っていた。

「ふわふわのニットが入荷しました。絶対にお似合いだと思います。こちらへどうぞ」

 六十坂は常連なのだろう、店員はにこやかに店の奥へと案内する。

 急速にコートへの興味を失い、塔子はそっとハンガーを戻した。六十坂とお揃いになるのがいやなのではなく、六十坂を越えることができないと気づいてしまったせいだった。

 頭を振って気を取り直す。デニムパンツを買いに来たのだから浮気した自分がいけないのだ。

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