8話
「あのジョナタのことだから、おそらくあなたが手加減したこと自体にも気づいていないのだろう。だが私にはそういった配慮は不要だ。勝敗の意味がなくなる勝負ほど無意味なものはない」
平板な抑揚の言葉は、だが妙にエヴェリーナを動揺させた。
――見抜かれていたのか。だから、はじめから本気で来いと言ったのか。
ジョナタにさえ見抜かれなかったことを、この目の前の男は容易に見抜いたというのか。
(なぜ……)
にわかには信じられなかった。どうしてジルベルトは見抜けたのだろう。
――盤遊戯を習得する最中で、自分に意外な才能があったことは、師や家族にしか知られていない。
その奥深さと戦略の無限性に引き込まれ、しまいには指南役が音をあげるほど熱中し、高い勝率を誇った。
長じてからあまり対戦する機会はなくなったが、少なくともエヴェリーナのまわりで、エヴェリーナをまともに負かせる指し手はいなかった。
それはジョナタも例外ではなかった。
しかしジョナタ相手にまともに勝つなどというのは、彼の妃としては歓迎すべきものではない。ゆえに、エヴェリーナはジョナタの慈悲をむげにしない程度に優位に立ち、最後には負けた。
――だが、いま目の前にいる相手にはそういった配慮がまったく無意味であるらしかった。
「……申し訳、ありません。決して両殿下を侮ったわけでは」
「わかっている。だから私相手にはくだらん配慮はしないことだ。私はジョナタとは違う」
ジルベルトは落ち着いた、低く耳によく通る声で言った。怒りを引きずってはいないが、同じ過ちや侮辱は許さない――そんな強い意思のうかがえる響きだった。
その長い指が、ふいに駒の一つを取った。
「……あなたがそのように自分を抑え、陰鬱に日々を過ごしているのはなぜだ?」
盤に目を落としていたエヴェリーナは、はっと目を上げた。
指で駒を弄びながらも、ジルベルトはエヴェリーナを射るように見つめている。
「ジョナタとの婚約が白紙になったとはいえ、修道院にでも行きかねないほどの自己謹慎ぶりらしいな。そこまで思い詰めるほど、弟を愛していたのか?」
エヴェリーナは一瞬、頭の中が真っ白になった。
真っ直ぐな問いが胸に刺さる。
――婚約が解消されて以来、こんなふうに真正面から問い質されたことはない。
とっさにエヴェリーナは目を伏せた。どくどくと鼓動が乱れはじめる。
答えるまでもないことだ。落ち込んでいるのも陰鬱な顔をしているのも、すべて婚約を解消されたためだ。
誰にもわかりきったことで、ゆえに誰も正面から問うてはこなかった。
――愛していたのか、などと。
まるで嘲るかのようだ。だが、ジルベルトの声に陰湿な響きも棘もない。
ただ、冷徹に確かめようとしている。そんな気がした。
(わたくしは……)
エヴェリーナが自分の中を振り返ると、ふいに濃い霧が立ちこめてくるような錯覚があった。
言葉がうまく見つからない。それでも、第一王子を前にしてその下問に答えないなどということは、許されることではない。
「わたくしは……、ジョナタ殿下にふさわしい者であれと、教育されてまいりました。わたくし自身もそのつもりで、王太子妃として誰からも認められる人間になることが、目標でした。けれど、わたくしでは足りなかったようで……」
言葉をもつれさせながらも、エヴェリーナの脳裏に二人の姿が浮かんだ。ジョナタとマルタ。
――マルタのどこに、自分が及ばなかったのだろう。
自分の何がいけなかったのか。これまで積み重ねてきたものは、マルタのどこに負けたのか。
なんの気負いもなく、ただ自由に奔放にジョナタの側に立つマルタを見ると、自分の足元が崩れていくように感じた。
崩れて、そこにのぞくのは底なしの深い闇だ。闇には絶望という名をしている。
(わたくしが、これまでやってきたことは……)
果てのない暗い考えにとらわれ、かすかに身震いする。
「――なるほど。これまであなたの目指すべきものであった王太子妃という目標を突如失った、というわけだ。それで?」
沈みゆこうとする意識を、明瞭な声が切り裂いた。
「まあ、王太子妃ともなれば、やがては国母だ。望みうる最高の地位、権力が得られる。当然の野心ではあるが」
「!」
エヴェリーナは弾かれたように顔を上げた。
ジルベルトはかすかに笑っているように見えた。いたって貴人らしい、静かな冷笑的表情がそこにあった。
「完璧な淑女像も、その野心のためならば納得の作り込みだ。なのにそれが報われなければ落ち込みもするか」
「ち……違います!! 無礼な……っ!!」
エヴェリーナはかあっと頭に血をのぼらせた。とっさにいつもの淑女像を装うことを忘れていた。
――野心。権力。
ジルベルトの言葉で、漠然としたものは低俗な形に押し込められてしまったように感じた。
突如声を荒らげられても、ジルベルトは冷ややかな微笑を崩さなかった。
「では、何だ?」
エヴェリーナはぐっと唇を引き結ぶ。ジルベルトを睨む。
そんなもの、と喉まで言葉が出かかる。
だが響きの良い低い声が先制した。
「私欲や野心ではない――だが、愛でもない」
エヴェリーナは大きく目を見開いた。
返された言葉が胸を貫いて、息が止まる。
愛ではない。
その確信に満ちた言葉にとっさに反発したくて、しかしできなかった。
――けれど、それなら。
それなら、自分のこの痛みは。呆然と立ち尽くして、前へ進む気力を失った理由は。
「ゆえに問うている。なぜあなたはそれほど意気消沈しているのか」
ジルベルトの強い目が、正面から射てくる。
エヴェリーナは――それに対する明確な答えを持てなかった。




