7話
かつてジョナタとも、こんなふうに向き合って何度か指したことがある。
――ジョナタの攻め方は、彼そのものという感じがした。
王太子らしく、正々堂々としていて、相手の虚を衝くような戦法は好まない。
そして相手が女性なら――古き良き騎士道精神に則って、手加減をする。
慈悲と寛容によって相手に華を持たせながらも、最後は勝利する。
だから、エヴェリーナは、それが王族らしい、王子らしい指し方なのだと思っていた。
――なのに、ジルベルトは。
「……もう一度だ」
ジルベルトは無感動に言った。好戦的な表情はすでになく、ことさら無表情をつくろっているようだった。
駒を元の位置に戻しながら、エヴェリーナは小さな衝撃を受けていた。
――まるで歯が立たなかった。
あっけないほどすぐに負けた。
半ば無意識にジョナタの攻め方を想定していたが、まったく違った。
大胆にして勇猛果敢。速攻。
ジルベルトの戦法は、まさにそれだった。
考え込むような仕草をしたのはわずかな間のことで、あとはずっと駒を動かし続けた。
様子見などというものがなく、激しさで飲み込むかのようだった。
気づけばエヴェリーナは防戦一方で、否、ジルベルトの起こす嵐に飲み込まれ、まともに防御態勢を固めるまでもなく敗北していた。
ジョナタのような手加減というものを感じなかった。
勝負になっていない――これでは、ジルベルトがひどく退屈するのは間違いなかった。
(……もう少し)
エヴェリーナは、心の内にわきあがってきた熱のようなものを感じた。
もう少し抵抗して、まともな勝負にしなければ。
その決意で、二戦目は一戦目より少しだけ長く続いた。――だがまたも、呆気なく敗北したという表現を免れなかった。
「もう一度」
ジルベルトはまた無表情に言う。
駒を並べ直す。
エヴェリーナの体は強ばっていた。盤遊戯でこれほど緊張感を覚えたのは久しぶりだった。
とんでもない強敵だ。しかも彼は第一王子で、対応が難しい。盤遊戯といえど、然るべき対応をしなければならない。
むしろ、王子だからこそ――。
「詰みだ、ご令嬢」
エヴェリーナは目を瞠った。信じられない思いで盤面を見る。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。だがいつの間にか、否、頭から迷いを消せぬ間に侵略され、盤面を支配されていた。
かすかな――けれど確かに、倦んだようなため息が聞こえた。
「もういい。他のものにするか」
ジルベルトは低い声で言った。
エヴェリーナは、かっと頬に熱がのぼるのを感じた。ジルベルトは露骨な言葉を投げかけてこない。――だが、彼の声の抑揚や、ことさらに表情を消している様が、深い失望を表しているようだった。
この程度なのか、と言われている。
もういい、他のものにするなどという言葉は――この盤遊戯では相手にならないと見切られたも同然だった。
それが、エヴェリーナ自身も驚くほど胸に堪えた。奥歯を噛みしめ、考えるよりも先に、顔を上げて口を開いた。
「もう一戦、お願い致します」
「……これ以上やっても無駄だ、ご令嬢。私は生ぬるい勝負をするつもりはないし、ジョナタのように相手に勝ちを譲るといった考えもない」
ジルベルトの声は冷ややかだった。
エヴェリーナは言葉につまり、頬をはたかれたような熱さを感じた。ジルベルトの言う通りだった。
はじめから、手ぬるい勝負は好まない――全力で来いと、言われていた。
迷っていい相手などではなかった。
かすかに侮蔑の滲む、ご令嬢という言葉。他の、王太子妃候補でなかった令嬢たちと一緒にされようとしている。
いやだ、とエヴェリーナの心が叫んでいた。
自分は王太子妃候補として――それだけのために努力してきたのだ。盤遊戯とて全力で取り組んできた。
見下されたままここで引き下がることなどできない。
エヴェリーナは静かな怒りを燃やして、ジルベルトを射た。これまで、決してこんな目で相手を見たことはなかった。
「もう一戦だけ、お願い致します」
強く、声に力をこめる。
ジルベルトは数度瞬き、意外なものを見るような目を向けたあと――ふ、と好戦的に笑った。
「いいだろう、もう一度だけだ。私をあまり退屈させてくれるなよ」
エヴェリーナは言葉少なくうなずき、再び駒を持ち上げた。
盤遊戯には相手の性格や知性の片鱗があらわれるとされている。
だからこそ、相応の指し方が求められる。正々堂々、それでいて相手に慈悲も見せるというジョナタの指し方のように。
エヴェリーナもまた、王太子の伴侶としてふさわしく、鷹揚で優雅な、慈悲深い指し方を心がけていた。
そこでは勝ち負けは重要ではなかった。勝敗ですら、指し手にふさわしいか否かという付加的な価値でしかなかった。
――だが、ジルベルトの前にそれは一切無意味なものになった。
試されている。
夜会の時にも感じたそれを、いまも強く感じていた。
だから――エヴェリーナはこれまでの指し方をかなぐり捨てた。本気で来いと言う、ジルベルトの言葉通りにした。
気づけばエヴェリーナはあいまいな微笑の仮面を脱ぎ捨て、神経を集中させて盤面を見つめていた。
対峙するジルベルトもまた、身を乗り出して盤面を睨んでいる。――そこにはもはや倦んだ気配はない。
互いに静かな緊張と集中が生じている。
そしてそれが盤面を拮抗させていた。
――否、わずかに一方が優勢だった。
次の一手を指すまでの時間が、互いに長くなる。
ざわ、とエヴェリーナの血が沸き、体が熱くなった。かすかに震える指で、駒を盤面に置いた。
「――詰み、ですわ」
昂ぶりを抑えようとして、だが声がわずかに上擦る。
束の間、ジルベルトが目を見開いたような気がした。しかしほんの瞬きの間のことだった。
数秒後、高揚の波がすうっとエヴェリーナからひいていった。
――やってしまった。
これまで自分が積み上げてきた完璧な淑女像からすればあるまじき指し方、決着だった。
ジルベルトは気分を害したかもしれない。
苦さが口に広がり、何か釈明しようとする。
だが、男の整った唇が微笑を象った。
「――ふ。思わせぶりな言動は女の嗜みとはいえ、ずいぶん出し惜しみしてくれたものだ」
はじめからこうしろ、とジルベルトは明るい響きで続け、駒を並べ直しはじめた。
さらなる再戦を望んでいるようだった。
エヴェリーナは虚を衝かれ、にわかに混乱した。慎重にジルベルトをうかがい、少しためらってからおずおずと口を開く。
「あの……ご不興を買ったのではありませんか」
「はじめの三戦はな。私は気が長いほうではない。はじめから全力で来いと言ったはずだ」
ジルベルトの淡々とした言葉に、エヴェリーナははっとする。
――負かしたことに、不快感を覚えたのではないということのようだった。
「手加減していたのだろう、弟相手のときには」
弟以外にもそうだったのだろうが、と揶揄の笑みを含んでジルベルトは言った。
エヴェリーナは目を丸くした。突然、これまで誰もしなかった指摘をされ、頬が熱くなった。




