6話
やがてふっと音が止む。
ジルベルトが静止し、その腕に抱かれたエヴェリーナも止まる。一瞬、世界が止まったかのような静寂。
次の瞬間、歓声と拍手とが爆ぜた。
とたん、エヴェリーナは弾かれたように意識を戻し、ジルベルトを見た。
ジルベルトはわずかに、優しげにさえ見える笑みを浮かべていた。
「――悪くない」
ふいに発せられたその声が、エヴェリーナの胸を震わせた。
何か抗いがたい力でジルベルトに向かって引き寄せられていくように感じ、狼狽えて目を伏せた。
「……お相手していただき、光栄です」
決まり切った答えだけをなんとか口にし、するりと男の腕から逃れる。
ざわざわと胸が騒いでいた。
――危険な人物だ。
ただ、そういう直感があった。宮廷内における火種になりかねない人物というだけではない。
それ以上の、言葉にしがたい別の何かがエヴェリーナの心をかき乱すのだった。
(近づいたらいけない……)
そうしなければ、余計に面倒で、また傷つくことになる。そんなおそれがあった。
――ふいに、疑問が頭をよぎった。
(あの人は……妻妾を持っているのだろうか)
なぜか、そんなことが気になった。いないはずはない。あれほどの男性なら、さぞかし多くの美女を囲えるだろう。
しかしジルベルト自身の噂は耳にしても、彼が侍らせているだろう女性の話は聞いたことがなかった。
ジルベルトと踊ったということは、エヴェリーナの父にもすぐに伝わった。
いったいどういうことかと険しい顔でしつこく問い質されたが、ただ踊っただけだとエヴェリーナは短く答えた。
実際、ただそれだけのことだった。
あるいはジルベルトには何か別の意図があったのかもしれないが、そこまではエヴェリーナにはうかがい知ることはできない。
父にしても、ジルベルトという存在に安易にかかわるべきではないと考えているのは明白だった。
深入りするなという言葉に、エヴェリーナは重くうなずいた。
けれど、ふとした瞬間に思い出す。
――悪くない、という言葉。
あれは、自分の動きがよかったということだろう。たったそれだけのことが、妙に心に残っている。
だがそのたび、エヴェリーナは頭を振って耐えた。ジョナタもマルタもジルベルトも、自分から遠ざけてしまいたかった。
彼らが、自分の心から消えるまで――ただ耐えるしかない。
嵐がやってきたのは、エヴェリーナがそんな決意を強くしてしばらくした後のことだった。
宮廷内に静かな嵐を起こしている男、ジルベルトその人が、元王太子妃候補の侯爵家を急遽おとずれた。
当主夫妻とエヴェリーナは動転した。
ほとんど不意打ちのような来訪だった。他の身分のものなら無礼を怒り跳ね返すところだが、相手はかの第一王子である。
夫妻の動揺がおさまらぬうちに、ジルベルトは表面上は穏やかで丁寧に、だが有無をいわさぬ奇妙な圧力でもって
「エヴェリーナ嬢を少々借りるぞ、侯爵」
と言って、館から連れ出した。
エヴェリーナ自身もまた、動揺を顔に出さないのが精一杯だった。気づけば、黒い幌付きの馬車に乗せられ、大きな館へ連れてこられた。
王都内にある彼の別荘であるらしい。
「しばらく留守にしていたもので行き届いていない部分もあるだろうが、他の場所で好奇の目にさらされるよりはましだろう」
ジルベルトはそう言った。
エヴェリーナは否定も肯定もできなかった。確かに、ジルベルトと連れ立っているところを他人に見られたらいやでも噂になるため人目は避けたい。
微妙な立ち位置の第一王子と、婚約破棄されたばかりの元王太子妃候補だった。
――が、そもそもジルベルトがこのように自分を引きずり出さねばいいだけのことだ。
エヴェリーナはようやく動揺をやりすごし、相手を警戒した。
「……わたくしにどのようなご用件ですか」
「そう警戒するな。暇潰しの相手を探していてな。まあ、私の目にとまった運の悪さを嘆くんだな」
ややくだけた、だが尊大な態度そのものにジルベルトは言った。あまりに悪びれたところがなく、また含みのない様子でエヴェリーナは困惑した。
――ジルベルトから滲む尊大さはジョナタとはまるで正反対だ。しかし不思議と、彼においては自然であるようにも思えた。
大きな館の中は静かだった。あまり使っていないためか、どこかひんやりとして人の生活している気配がない。
エヴェリーナは前を行く長身の背に向かって言った。
「……こちらにご夫人はいますか。ご挨拶をしておきたいのですが」
気が進まなかったが、決しておろそかにしてはならない行動だった。ただでさえジルベルトの妻妾には誤解されかねない状況なのだ。せめて挨拶はして、やましい関係などではないと主張しておかねばならない。
ジルベルトは振り向きさえせずに言った。
「誰と勘違いしているのか知らんが、私はいまだ妻帯していない。むろん愛人もいない」
エヴェリーナは大きく目を見開いた。
そして、不可解なほど動揺した。
(結婚していない? 恋人もいない……?)
そんな馬鹿な、と思い、だがジルベルトが戯れや嘘をついているようにも思えなかった。
弟のジョナタも決して多情な人ではなく、浮いた噂がほとんどなかった。――エヴェリーナに夢中だったからと周りは囃したてたが、そうではないとエヴェリーナ自身が知っている。
一途な人々なのかもしれない。
エヴェリーナはふとそんなことを思い、なにか無性に気恥ずかしさのようなものを覚え、ジルベルトの後ろ姿から目を逸らした。
広い応接間に通される。向かい合うように置かれた椅子、その真ん中にテーブルがあり、テーブルの上には盤があった。
均等に区切られた陣地に、決まった位置に置かれた各種の駒。
ジルベルトはごく自然に、椅子をひいてエヴェリーナに着席を促した。
エヴェリーナは慎重に、礼儀正しく腰を下ろす。
ジルベルトもまた、エヴェリーナと向かい合うように腰を下ろした。
「さて、エヴェリーナ嬢。あなたはむろん、盤遊戯もできるな?」
「……多少は心得があります」
内心で訝しみながらも、エヴェリーナは首肯する。
盤遊戯は上流階級の知的な遊びとして広く好まれ、エヴェリーナも当然のことながら教育の一環として手ほどきを受けている。
何度かジョナタの相手を務めたこともある。
エヴェリーナ側には白い駒が並び、ジルベルト側は黒が並んでいる。
ジルベルトの長い指が、黒い駒の一つをとってもてあそんだ。
「なら付き合え。言っておくが、手ぬるい勝負は私をもっとも退屈させるものだ。全力で勝ちに来い」
鋭い目が射る。
先日の夜会と同じ――挑戦的で、まるで宣戦布告のようだ。
エヴェリーナはかすかに息を飲む。渇きを覚えた喉で、精一杯つとめます、といつもの答えを返す。
そして白い指で、駒の一つを持ち上げた。




