六、直里 その二
えっ?
さっき見たばかりの光景に目を疑う。
私は瞬きを繰り返す。
ここ……学校の屋上よね?
ブリッジキックマンと話したばかりの場所で、机と椅子も太陽も同じ位置。
まだ、場所や時間を移動していないのだろうか。ブリッジキックマンがいないから少しは時間が飛んだことも考えられるけれど、そもそも私の記憶が時系列どおり進んでいるのかも疑わしい。場当たり的に場面展開されているだけの可能性だってある。舞台で床がくるくる回るみたいに、ブリッジキックマンの手のひらの上で遊ばされているだけかもしれない。
階下がうるさい。
生徒達が大声で叫び、悲鳴も聞こえる。
屋上のドアは都合よく鍵がかかっていない。
急いで階段を駆け下りた。
声は二階から。私とは逆方向から走ってくる生徒達にぶつかりそうになる。どの顔も影のようなものが邪魔をして黒い。アニメやマンガのモブキャラよりも作りが雑すぎる。いまはそんな不気味さに構っている暇はないのだ。
どうやら二年三組の教室から生徒達が出てきている。
教室に入っていくと、窓際の隅のほうで、あり得ない光景が展開されていた。エリカが椅子に座らされ、ガムテープで縛られ、口もふさがれている。傍らに立っている直里が冷たい視線を送っていたけれど、私の気配に気づくとにっこり笑った。
「何してるの?」
まったく状況が掴めない。
「エリカを人質にして、あなたを待ってたのよ」
直里は状況の説明をすませると、すっきりした顔で満足そうな顔をする。
「この世界のことを把握してるみたいね」
「まぁね」と、今度はウィンクをする直里。
「エリカを縛っておく意味あるの?」
私からするとさっさとすぐに消さないほうが不思議だった。
「あるよ」
直里はエリカの頭をぽんぽんと軽く叩いた。ペットに近い扱い方だ。
「これからどうするつもり?」
「エリカを殺されたくなかったら、あなたも大人しく椅子と一体化してね」と言ったあと、粘着テープの巻芯を指で回して、早くして、みたいな威圧感を出す。
エリカは口をごもごもさせて何か言いたそうで、目で訴えてきた。助けを必死でアピールしている。
思考をフル回転させてみた。エリカをすぐに消せたはずなのに、私が来るまで待っていたのはまとめて始末するつもりなのだろう。それしか考えられない。
「私を脅迫するには理由が希薄ね」
抽象的な言葉で時間を稼ぐ。果物ナイフがあればそんな必要もなかった。体をさりげなく触っても、残念ながら凹凸の感覚がない。
さっき気を失う前にブリッジキックマンから聞いたのは、各人格に一個の武器が配分されているという “優位になること ”の貴重な情報だった。持ってなくても身近な何処かにある、と言われた。教室のどこかにあるのかしれないけれど、いまは探す余裕がない。
「どんな脅迫なら屈してくれのかしら」
直里はうれしそうに目を細めた。
「私を心配して家まで付いて来てくれた記憶は残ってる?」
「もちろん」
「別人みたいね」
「あなたもね」
「私の家に来たあとブリッジキックマンに会ったんだ」
「そうよ」
直里は悪びれることなく返事をした。ブリッジキックマンは私意外の人格と会っていた事実を隠していたことになる。
「やっぱり私達ってブリッジキックマンの腐った性格が根っこにがっしり張り付いているみたいだね」
「そこは否定しないわ」と言ったあとで、直里は持っていたガムテープを後ろのロッカーに置く。
「ブリッジキックマンの人格を乗っ取るには、まだ他の人格も消さないといけないのよね」
「一網打尽を目論んでいたんだけど、アヤメを人質にしてもお母さんは助けにこない確率は高いわね。とりあえず邪魔な人格を地道に殺していくしかないのかぁ~」
直里は地道という言葉に力を込めて面倒くさそうに言う。自分の人格以外を消すのは確かに骨が折れそう。
「忘れているようだからもう一度言うけど、私はエリカのために縛られる気はないからね」と直里に向かって言うと、それまでバタバタしていたエリカの動きが止まって、片方の目から涙がこぼれ落ちる。
「エリカ、同情を誘っても無駄よ」
私が言うつもりだった台詞を直里が横取りした。
エリカは涙が流れていなかったほうの目からも涙をこぼして頬に伝わせた。親友だと思っていた二人から殺すことを前提に会話が進んでいるのだから、当然泣きたくなるだろう。
そんなエリカを見ていると、心臓が締め付けられる想いになる。
私が胸を痛めてる?
人格のくせに、生意気な感情なのかもしれない。
「ブリッジキックマンからどこまで、この世界のことを教えてもらってる?」
唐突に直里が訪ねてくる。
「それを教えて、私が得することってある?」
きっと不安なのだ。私のほうが情報を多く掴んでいるんじゃないかと、疑念が拭えないんだ。
「それもそうね」
諦めたような口調で直里が鼻で笑う。
「私ね、ブリッジキックマンにお願いしたことを忘れてた」
「なに?」
「他の人格を全て消すことができたら、エリカと私を残してほしい……ってね」と私が言うと、直里はいまにも “えっ? ”と口から出しそうな顔になる。無防備状態。直里はブリッジキックマンから精神世界のことを打ち明けられただけで、私のように条件を引き出すなんてことはしていない。そこが私との違い。一瞬でも悩ませることができた。
直里に向かって突っ込んで、不意打ちの先制攻撃を仕掛ける。もちろん計算があっての行動で、ブリッジキックマンから聞いたばかりの “優位になること ”の二つ目を実戦する。この世界はオリジナルの人格じゃなくても自分の記憶を超える場所、つまり自分の知らない範囲は、創造力で出来上がるということ。それは場所などの地理的な条件だけでなく、自分の体の動きも現実の世界の人間以上のことが可能。イメージさえすれば超越的な動きに限界がない。意識的じゃなくても無意識に構築されるかもしれないとブリッジキックマンに言われた。また意識的でもイメージに動きがついてこられない場合もあるだろうと言われた。おそらくオリジナルの人格のブリッジキックマンが現実世界で体調を崩しているのが影響しているかもしれないと言われた。
このことを知っているのは第一の人格である私だけらしいけれど、直里がすでに感づいている可能性もあると言われた。人を消したいと考えれば武器を手に入れたいと考え、イメージすることはあり得るのだから。
まず、体の硬い部分を使う。肘か膝がベスト。そう考えるだけで鋭角に肘を突き出している自分がいた。避けられる!と感じると、顔面直撃寸前に直里にしゃがんでかわす。余計な予測をすると、そのとおりになってしまう。現実の世界ではドーパミンをシナプスから手足の筋肉へ伝達してくれるのはもちろん本体の自分だけ。こっちの世界では相手の動きも創造力でコントロールできてしまうときがあるみたいだ。直里のいまの動きは無意識に近いだろう。完璧に操るとなると、かなりの集中力が必要になってくると思われる。
私のガードはがら空き。直里が頭を上にあげるだけで私の顎をヒットする。一発もらう覚悟と、ワンテンポ遅れたけれど膝蹴りの準備もしていた。でも、直里は一歩退く。逃げたとか、避けたとか、とは違う。教室の後ろにあるロッカーを背中で隠した。
何のために?と思ってしまった時点で、創造力が先を越されたことになる。
「動かないでね」
笑うのを我慢するかのように直里がにやける。
そうか、武器がロッカーに入っているんだ。と思ったときはすでに遅かった。
「それは何?」
「これはね……」後ろに手を回してロッカーからダンボールを大事そうに抱えた。「ニトログリセリンよ」と言って突き出す。中身が見えた。白い緩衝剤に埋もれて化学の実験で使われるビーカーが入っている。淡黄色の油状な液体が静かに眠っていた。「びっくりしたわ。本を読んで “これいいな 〟と思ったら具現化されて現れるんだもの」
「危険な液体なのはわかるわ」
刃物とか簡単な構造のものなら創造できても、化学物質はかなりハードルが高いはず。
「本棚がたくさん並んでいる部屋で、分厚い化学の本を読んで、濃硝酸と濃硫酸の化学式なんかの記憶が残っていたのよ。すでに少量で実験済みで、混合させた液に霧状のグリセリンを吹き込むとちゃんと爆発したわ」
直里は化学の知識をひけらかして、爆発が可能なことを宣伝してくる。
「あなたの言葉だけじゃ信用度ゼロね」
「だったら、浴びてみる?」
直里はダンボールからビーカーを取り出した。缶ジュースの蓋に付いているプルリングみたいなものを外す。「いつでも床に叩きつけてやるわ」静かにビーカーを傾け一滴だけニトロを落とすと、煙が出て床に穴が開く。
「すごい、すごい」
私はわざとらしく拍手してあげた。
直里がビーカーを両手で持ち上げた。淡黄色の油状な液体が揺れた。ニトログリセリンを私とエリカの頭からかける気だ。
直里の行動を先読みする。バスケットのシュートみたいにビーカーを天井に向かって投げる。私はエリカを椅子ごと引っ張って逃げようとする。爆発から逃げ切れるのは直里だけ。私とエリカは爆発に巻き込まれて体がバラバラになるイメージが浮かぶ。最悪だ。
先読みしたとおり、直里がビーカーを天井にぶつける勢いで投げて、ほぼ同時に逃げていく。ちょうど私達の頭上付近。どうやら詰んでしまったらしい。体が勝手に動いてエリカに駆け寄る。椅子の背もたれを掴んで引きずる。けれど、重くて思うようにいかない。
友達を助けようとした結果がこれ?正義感?友情?この世界で生き残るために必要ないものが芽生えた瞬間に、消されるなんて、皮肉そのもの。体が燃えるのだろうか、それとも気づかないうちに爆発して痛みを感じないで消えるのか、後者のほうに願いを込めて目を閉じる。
ガラスが割れる音が虚しく響き、罰ゲームみたいに頭から “水 〟をかぶった。
そして、私達は濡れただけ。
暑い時期にはちょうどいいくらいの冷たい液体。さっき見たときはドロッとして粘着性だったはず。
「ど、どういうこと?」
「さぁね」と、私はエリカの口に貼られたガムテープを取りながら言う。
「まさか、ニトロから水に創造力を上書きしたの?」
驚いた様子の直里。驚きは隠せない。創造力という言葉を口にしたということは “優位になること ”を知っていたらしい。ブリッジキックマンの顔を思い浮かべて踏んづけてやった。どうりで私の攻撃をきれいに避けられたわけだ。でも、余裕があったように思えないから、先制攻撃が功を奏して集中力が欠如したのかもしれない。
「さすがに一番目の人格の創造力はひと味違うわね」
そう言って直里は教室から出ていく。
エリカの手や足に巻かれているガムテープを剥がしてから追った。
次に直里が何をするのかまったく読めない。創造力が働かない。走りながらで余裕がなく、具体的なイメージが乏しい状況。
直里の姿が廊下になかった。けれど、階段を上っていく音は確認できた。
屋上?!
一階に下りて街に紛れたほうが逃げやすいはずなのに、追い詰められる場所に 向かってくれた。目的がわからない。
屋上へ行くと、直里が後ろ向きで立っていた。
さっき私が目覚めたときの机も残っている。
「アヤメ、どうやって私を殺すつもり?」
質問が飛んできた。どうやら待っていてくれたらしい。
「屋上から突き落としてあげる」
適当なことを言ってごまかす。
「それは……いい方法ね」振り向いた直里の笑顔は歪んでいた。不気味なくらい生気がなく、破滅的な作り笑いにしか見えない。「私は絶対に現実の世界で暮らしてみせる」内心は卑怯な手で私達を消そうとして、失敗して腹を立てているだけ。
「暮らすなんて、かわいい宣言だね」
ブリッジキックマンの寿命がそれほど長くないことを直里は知らないらしい。気の毒すぎて優越感に浸れない。
「アヤメ……」
エリカが後を追って来てしまった。
「なにしに来たの?」
「一緒に逃げよう」
エリカが手を引っ張る。
「いいから」
手を振りほどいて拒否をした。
「エリカも来てくれたのね」直里は一転して穏やかな表情になった。「さっきの失敗の教訓を生かすわ」
その一言のあと、バリッと空気を切り裂く音がした。青空が欠けていく。まるで窓ガラスが割れたみたいに落ちてゆく。歪な形で抜けたところに淡黄色の空が新たに現れた。ガラス片は不規則に落下を続ける。抜けた空が色違いだけかと思っていたら、見覚えのある液体の色であることに気づいた。嫌な予感しかしない。
「まだまだよ」直里の楽しそうな台詞が精神世界の新たな一面を見せられる引き金になった。バリッという音は断続的に起こり、爆発音と化す。途端に淡黄色の壁に取り囲まれた。「これだけたくさんあれば、全部を水に変えるのは難しいでしょう」ニトロが入ったガラス製らしき容器がうず高く積み上げられ、隙間なく並べられている。私とエリカはニトログセリンの輪の壁に閉じ込められてしまった。
「あなたも無事でいるとは思えないけど」
直里は外側にいるけれど、ニトロの量からすると学校を丸ごと吹き飛ばせるはず。
「心配しなくても大丈夫。蛇のようにとぐろを巻いているから、私がちょっと押してあげるだけで、そっちに倒れていくように並べてあるから」
教室にあったビーカーじゃなく、直方体のガラスケースに入っていることが太陽の光の加減でわかった。ドミノ倒しの仕組みで、私とエリカはとぐろの中心にいて、外側に直里がいる。彼女が肘を伸ばすだけで私達は消されてしまう。
「これっって……」エリカがやっと状況を飲み込めたらしく、目をキョロキョロと挙動不審に動かせる。「あっ!」と声を上げると机を倒して、動揺を自分であおっている。
そのとき、机の引出しから何かが落ちたのを私は見逃さなかった。
ここにあったんだ……そこに、私の望みが転がっていた。
思考をフル回転させて自分の行動を先読みする。
落ちている “望み ”に飛びついて、間を空けずに投げた。ニトログリセリンが入ったガラスケースを瞬間移動するみたいに通り抜けて、直里の左胸に突き刺す。悲鳴を上げる暇なく崩れ落ちた。
「苦しまなく消せてあげたんだから、感謝してよね」
私は倒れている直里の亡骸に軽蔑の眼差しを送った。
直里の命が途絶えたことが要因なのか、とぐろを巻いていたニトログリセリンがふわりと煙のように消える。
私は直里に近づいて、望みという名の果物ナイフを左胸から抜き取った。血をイメージしてしまったせいか過剰な量の赤い血が体から流れてしまった。
「す、直里は死んじゃったの?」
あれだけのことをされておきながら、エリカは目に涙を溜めて同情するかのような訊き方をしてきた。落ち込んだ様子で動かない直里をただじっと見ている。
「私を責めたければ責めれば」
私は怒り気味に言う。直里に嫉妬していたのかもしれない。
「直里と三人で生き残る道はなかったのかな」
「おめでたい性格ね」
嫌味しか出てこない。けれど、囁くほど小さな声なので、エリカに聞こえたかはわからない。
私とエリカに目に見えない壁ができた。二人の間に絆があったかといえば疑問だけれど、そんな悩みを吹き出す光景が目の間に展開された。直里の目、耳、鼻、口から黒い液体が出てきた。空気にさらされ酸化してドロドロに固まった血液かと思った。でも、その液体は意識があるかのように動きはじめた。黒い蛇みたいに直里の体をぐるぐる巻きにして覆う。黒いミイラになってしまったのも束の間で、溶けて屋上のコンクリートに浸み込むと跡形もなく消えてしまう。いま目の前で繰り広げられたのは、ブリッジキックマンの精神世界で死を意味しているのかもしれない。
「本当にここは現実の世界じゃないんだ」
エリカが落胆した様子で直里が消えたところを見詰める。染みひとつ残っていない。
「こっちの世界の方が現実だと思えばいいじゃない」
言ったあとで、自分でも意味不明な慰めの言葉だと思った。
「アヤメは心が痛む?」
エリカがしんみりする質問を投げかけてくる。
「痛み?そんなのわからないわ」気持ちを半分も吐露できず、中途半端な気持ちの不満が出た。エリカがこれまで見せたことがない知的な表情で私を見詰めたからだ。「何か言いたいことでもあるの?」
「直里は怖かっただけなんだよ」
「直里が怖がっていた?」
意味がわからず、訊き返す。
「この世界で消えてしまうことが怖かったんだよ」
私や直里と同じブリッジキックマンの分身のはずなのに、エリカには思いやりの心があるらしい。
「そんなことわからないでしょ」
冷たい言い方になってしまった。“怖かった ”が理由だとしても、そんな乙女な発想の企てが直里にあったとしても、同情する材料にならない。彼女は卑怯な手を使って私達を消そうとしたのだから。
エリカがふら~と歩き出す。柵が見えなかったのか、体をぶつけた。その姿があまりにも無気力に映った。
「ここから飛び降りれば“ 消えた ”ことになるのかな」
「ちょっと自殺するつもり?」
さすがに心配になる。
「私が消えれば、アヤメは現実の世界へ行けるんでしょ?」
「あのね、あなたを助けるために私がどれだけ苦労したと思ってるの。果物ナイフが矢のように飛ぶように、しかも直里が仕掛けたニトロの壁を通り抜けたり、心臓を一突きして直里の苦しむ姿をあなたに見せないようにしたり、どれだけ集中力を使ったかわかる?」
感情的になってしまった。支離滅裂でエリカに理解できたかは疑問。
「ご、ごめん。直里がニトロの入ったビーカーを投げたとき、かばってくれたよね」
「わかってもらえたなら、いいんだけど」
恐らく私の説明は威圧という形で通じてしまった。反省の意味をこめて作り笑顔ではあるけれど、怒っていないことを濁した。
「あれ?あんなところに子供がいる」
エリカが急に話題を変えて校庭を指差す。
私にも青い半ズボンをはいた小学校二、三年生くらいの男の子が校庭を自転車で周っているのが見えた。ちょっとおかしい。直里がエリカを人質にして、クラスメイトが逃げた。そして、いまは生徒の姿がない。そこまでは、精神世界の原理原則に伴っている気がする。けれど、男の子の顔が遠めからでもはっきり見えた。髪型はおかっぱ、丸い輪郭、黒目部分が多く、目と目の間隔が広く、短い鼻柱はまだ未成熟。
私は平均的な視力……のはず。三階建ての屋上から校庭にいる子供の顔まではっきり見えるのは違和感がある。
「私、あの男の子の顔がちゃんと見えるんだけど、エリカはどう?」
「典型的な童顔……だよね」
エリカも尋常なくらいはっきり見えているらしい。
説明のつかない現象が起こるのは、ブリッジキックマンが原因。なんたって彼の精神世界なのだから原因があるはず。まるで、男の子に気づけ!と意思表示されているみたいだ。男の子の顔を見せる、ということは新しい人格?勘ではあるけれど、そんな気がしてならない。
二人で校庭に向かった。
男の子は笑顔で自転車をこいでいた。友達がいるわけでもなく、校庭を周っているだけで、何がそんなに楽しいのかわからない。
「ちょっと、聞きたいことがあるんだけど」わりと大きな声を出したはずなのに、男の子は見向きもしてくれない。完全に無視された。「飽きるまで待とうか」
しばらく待つことを決めた途端、エリカが思いがけない行動をとった。
「とまって!」
エリカは両手を広げて男の子の前に立ちふさがる。
危ない!
叫びそうになる寸前、男の子はブレーキを踏んでくれた。
「いきなり飛び出してきたら危ないじゃないか。僕になにか用でもあるの?」
不機嫌そうではあるけれど、利己的な訊き方だった。
「君はここでなにをしてるの?」
尋ねたのは私。エリカは深く深呼吸をして胸をなで下ろしている。
「遊んでいるだけだよ」
「楽しい?」
「僕はレーサーなんだ。もう少しでゴールだったのに、邪魔しないでもらいたいな」
男の子は大人びた口調で答える。顔とのアンバランスさがかわいく思えた。男の子にはサーキット場で疾走するイメージが目に映っていたのかもしれない。
「邪魔してごめんね」
「わかってもらえたならいいよ」
素直なところも見せてくれて、私はほっとする。
「こんな時間まで一人で遊んでいて、お父さんやお母さんは心配しないの?」
陽が傾いて私達の影を細長く伸ばしていた。現実の世界だと、そろそろ両親が心配になってくる時間帯。
「もう少しで帰るから、大丈夫」
「ところで、お父さんやお母さんの顔を覚えてる?」
「そんなのあたりまえでしょ……あれ?えっ……どんな顔していたかな……」
男の子から落ち着きが消えて、涙目になる。子供らしい反応ではある。
「いきなり聞いたら、かわいそうだよ」
エリカが耳打ちしてくる。確かに混乱させてしまったかもしれない。このままだと大泣きしてしまう。
「お姉さん達が、お父さんやお母さんを捜してあげるよ」
エリカが安請け合いした。しかも “達 ”をつけて、私を巻き込むつもりらしい。
「あのね、この子も両親の記憶がないのよ。だから、存在しない」
今度は私がエリカにヒソヒソ話をした。
「うん。でも、ほっとけないよ」
「それもそうだけど」
行動を共にする流れになりつつある。反対するつもりはない。もし新しい人格だとすると、捜す手間がはぶける。消すとなれば、エリカは反対する……だろうな。
「君の名前は?」
エリカが男の子の視線までしゃがんで尋ねた。
「沢木……沢木 京」
聞き間違いかと思った。
「本当に君の名前は沢木京なの?」
私は念を押してみる。
「もう一度だけ言うよ。僕の名前は沢木 京」
小さいつぶらな瞳で私を見詰める。
「あのね、お姉さんの知っている人で、沢木京って同じ名前の人がいるんだけど」
「そんなこと、僕に聞いてもわからないよ」
当然の答えが返ってきた。多分この子は何も知らない。
「そんなに焦って聞いても駄目だよ」
エリカにも正当な駄目出しをくらってしまい、私は落ち込む。
進展が望めそうもない状況で困惑していると、私は気を失った。タイミングよく睡眠薬を飲む時間がきたみたいで、これほどブリッジキックマンと気が合うとは思わなかった。