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灰燼の王冠  作者: 危機麒麟
9/14

導きの灯 エピローグ「灰色の馬」

---


 指先が、届かなかった。


 白い炎の中に姉がいた。俯いた横顔。肩の線。黒い髪が白に灼かれて輪郭だけになっている。声はない——声はとうに失った。高かったのか低かったのか、柔らかかったのか、笑うときどう変わったのか。もう思い出せない。


 だが姿はわかる。あの背筋の伸び方を見間違えるはずがなかった。


 アシュルは手を伸ばした。


 白い炎は熱くなかった。熱がないのではない——温度という概念がそもそも意味を持たない場所だった。そして、匂いがない。薪でも油でも焦げでもない、ただの空気の匂いすら消えていた。匂いになり得なかった空気。鼻腔の奥で、嗅ぐという行為そのものが宙に浮いた。


 指先が光に触れる寸前、振動が割って入った。音ではない。空気でもない。骨の芯を内側から揺さぶるような波が手首の関節を輪にして掴み、指先と白い炎との間に半歩の距離を強いた。伸ばした腕が、アシュルの意思とは無関係に押し戻された。手首から先が、アシュルのものでなくなった一拍だった。


 膝が崩れた。


 誰かの手が背後から肩口を支えた。シグルの掌だった——大きく、乾いていて、北方の冬に慣れた硬さがあった。だが掴んだのではなかった。崩れる身体の重心を、下から受け止めただけだった。


 そのとき、時間が崩れた。


 数秒が遠のき、半瞬が引き延ばされた。姉の輪郭が揺れたのが先なのか、振動が手首に回ったのが先なのか、膝が落ちたのが先なのか——前後の順序が白い光の中で溶けた。


 白い炎の中で、姉の輪郭が微かに揺れた気がした。振り向いたのか。それとも炎が揺れただけなのか。押し戻されたのが一拍前だったのか一拍後だったのかも、もう確かではなかった。


 わからなかった。


---


 封庫を出たのは午後だった。


 白い石材の聖域に冬の陽が傾きかけている。蔦に覆われた封庫の壁が、光の中で妙に鮮明だった。地下の空洞で白い炎を見た後では、石と蔦と鉄格子のこの現実のほうが夢に近い。


 地上の冷気は、封庫の冷気とは質が違った。地下の冷たさは湿って粘りがあり、骨に絡みついて離れなかった。地上の冷たさは乾いて軽く、表面で跳ねる。


 足の裏で石畳を踏み直した。硬い。鮮やかに硬い。その感触だけが、地上にいるアシュルと地下にいたアシュルを繋ぐ細い糸だった。


 空気を吸った。冷たくて、乾いていて、底のほうに古い灰の匂いが沈んでいる。十三日間嗅ぎ続けた匂い。変わらない。匂いがある、というそのことが、妙な安堵を連れてきた。


 七火の間に戻ると、大祭司が待っていた。


 広間の空気は地上より一段重く、冷たかった。石壁から染み出す湿った冷気に、消えた香炉の古い残り香が混じっている。


 白い法衣。金の帯。表情がない。この男が何を知っていて何を知らないのか——封庫の最奥に白い炎があることを承知の上で七人を送り込んだのか、それとも扉が開くとは思っていなかったのか——まだ測れなかった。


 「盟約の試煉は成就された」


 大祭司の声が石壁に響いた。樫の長卓には昨日の血盟の杯はもうなく、卓面に残る赤黒い染みだけが儀式の痕だった。指を近づけずとも、乾いた鉄の匂いが卓の上にまだ薄く漂っているのがわかった。


 「第二の試煉——知略を告げる。場は蒼氷派の領都・霜都。候補者は三日後に聖域を発ち、十四日の旅程を経て霜都に至れ」


 大祭司の視線は七人のどこにも向いていなかった。卓面の赤黒い染みだけを見ている。昨日までならその無表情を「読めない」と思っただろう。今日は違って見えた。目を合わせないのは、合わせられないからだ——そう感じた。根拠はない。ただ、封庫の扉の向こうを見た人間とそうでない人間のあいだに、細い溝が一本引かれただけだった。


 短かった。説明ではない。通達だった。


 ユエンの碧い瞳が微かに動いた。自分の領地での試煉。有利に見えて、失敗すればどの家よりも面目を失う。あの目は反応を計算している——自分の反応ではなく、六人がユエンの反応をどう読むかの計算を。


 シグルが腕を組んだまま鼻を鳴らした。「三日か」


 ルキウスが訊いた。「霜都までの道は一本か」


 大祭司は答えなかった。巻物を畳み、背を向けて広間の奥へ消えていった。


 七火の間に、七人はいなかった。シリンは封庫の廊下で大祭司の従者と何かを言い交わしたまま姿がない。オーシンは随員の老人に呼ばれて先に出た。ライラは——ここまで下りてこなかった。白炎の間を出た瞬間から、ライラは唇の色を失ったまま壁に寄りかかっていたから、立ち上がれなかったのかもしれない。数えるとは、見ない者まで数えることだと知った。


 卓の脚の付け根に、原炎の七つの玉の刻印がある。風化してほぼ消えかけた、爪ほどの大きさの痕跡。到着した日にこれを見つけたとき、心臓が跳ねた。今は——封庫の白い炎を知った後では、この刻印は千年前の火の指先の跡にすぎない。


---


 夜。居室。


 窓の外に封庫の影が沈んでいる。暗い塊。あの壁の向こうの地下に、白い炎がある。姉がいる。


 窓枠の隙間から細い冷気が差し込み、頬の片側だけを撫でていった。油灯の炎が一度揺れ、焦げた獣脂の匂いが鼻先に立ち、すぐに油の甘い匂いに沈んだ。匂いがある。そのことが確かだった。


 文机の前に座り、左手の指先を擦り合わせた。


 薄い。


 小指と薬指の先端。昨日まであった質感の厚みが、一枚の膜を隔てたように遠くなっている。鉄の格子を握ったときの冷たさが、以前なら骨の芯まで響いたものが——今は皮膚の表面で止まる。


 試した。


 文机の木目に指を滑らせた。硬い。乾いている。わかる。次に手の甲を触った。皮膚の下の骨の硬さ、血管の微かな隆起。わかる。だがいずれも、感触の鮮やかさが半歩退いている。頬に指を当てた。アシュル自身の体温が、アシュルのものとして届くまでに一瞬の遅れがあった。最後に唇に触れた。唇だけは、まだ近い。濡れた内側の粘膜が指先を覚え返してくれる。——指先から遠ざかっていく順番があるらしい、と思った。末端から、体の中心に向かって、感覚が引いていく。


 音に喩えるなら、隣の部屋で鳴る弦だった。聞こえてはいる。だが振動が届かない。


 封庫で術を使ったわけではない。白い炎に手を伸ばしただけだ。だが原炎の残滓に触れかけた——あの一瞬が、何かを削ったのかもしれない。兆候にすぎない。本格的な喪失には程遠い。だが境界を踏み越え始めている。


 イシュタは消えたのではなかった。


 三年間、アシュルは姉が消えたと思っていた。帝都で何かを追い、何かに巻き込まれ、禁忌魔法の代償で存在ごと薄れたのか、あるいは焔武帝に消されたのか。どの可能性も考えた。安宿の四畳半で、油灯の炎を見つめながら何度も。


 油灯の炎が一度、揺れた。


 帝都で口を塞がれた——その仮説が、炎の上で先に灰になった。骨を残さない燃え方だった。禁忌の代償で輪郭から崩れていった——その仮説は芯の縒りのように細くなり、すぅっと消えた。焔武帝の手で抹消された——その仮説は芯の根元で小さく爆ぜ、黒い点を一つ残して引いた。


 だが——どれでもなかった。


 姉はここにいた。白い炎の中に。原炎の残滓のただなかに、三年間。


 触れられない。声が届かない。存在はある。確かにそこにいる。だが間にあるものが遠い。物理的な距離ではなかった。白い炎そのものが、この世界と姉の場所の間に引かれた境界線だった。


 写本を机の上に広げた。油紙を開いた瞬間に、古い墨と乾いた紙の匂いが立った。鼻にはっきり届く。楔形に似た古代文字が褪せた墨で書き連ねてある。端に姉の筆跡の書き込み。細い、研究者の字。


 紙の縁を指でなぞったとき、繊維のざらつきが——指先の鈍った側ではなく、爪の根元の側で——確かに届いた。


 書き込みを目で追った。


 古代文字のいくつかに細い丸が引いてある。丸の傍に、姉の手で新しい墨が一文字ずつ添えてある。「綻」——走り書き。別の行の余白には小さな矢印が二本、互いに向かい合う形で描かれ、その間に「継承のたびに」と添えられている。さらに別の頁では、七つの短い縦棒が並んだ図の上に、右端の二本だけに斜線が引かれていた。斜線の下に「要補修」。どの走り書きも、講義のためではなかった。姉が姉自身のためだけに残した手控えの、最短の語彙。


 頁を繰った。後半は手順書の体をなしていた。番号を振った工程。材料の名。時刻の指定。その欄外に、姉の字でもう一行——「独りで為すには器が足りぬ」。その一行だけ、墨が濃い。書いた時の指の力が紙の繊維を潰して、裏まで黒く染みている。


 ——封印が綻び始めている。


 姉の目的はこれだった。一人で背負おうとして、そして背負いきれなかった。


 そして白い炎の中にいる。直そうとして呑まれたのか。それとも——自ら入ったのか。


 どちらにしても、姉をあの白い炎から出さなければならない。


 蒼氷派の氷の図書館には、焼かれた歴史の断片が凍結保存されている。原炎の時代の記録が眠っている可能性がある。封庫の写本だけでは足りない情報が、あの氷の中にあるかもしれない。


 霜都に行く理由が、一つ増えた。


---


 出発の朝。


 聖域の正門前に馬と護衛が揃っていた。馬が六頭。荷車が二台。護衛の騎兵が十二騎——太陽派八騎、荒嵐派と月影派が二騎ずつ。曇天。冬の風が正門の旗を煽り、鞭のような音を立てている。


 風は首筋と耳の後ろに直に差し込んでくる冷たさで、外套の襟を立てても間に合わなかった。馬たちの呼気が白く固まってはほどけ、革と汗と藁の混じった厩の匂いが風に断続的に運ばれてくる。雪の匂いはなかった。降らないまま乾いていく冬の空気だった。


 アシュルの馬は、ルキウスが手配した余りの牝馬だった。灰色の、大人しそうな一頭。名前を訊いたら馬番の少年が首を傾げた。


 「ないです。余り物なんで」


 名前のない灰色の馬。鞍は使い古しで、鐙の革が一箇所繕われている。近寄ると、なめし油の古い匂いと、馬体の湿った温みが重なって鼻先に届いた。牝馬の胴から立ちのぼる熱は、冬の風の中で一段濃く、肺の奥まで届く温度だった。少年は悪びれもせず馬の首筋を撫でて去っていった。


 ——候補者の馬には名がある。証人の馬にはない。名を与えるとは、物語の中に席を用意することだ。


 アシュルには、まだ席がなかった。


 各家の候補者が順に現れた。


 シグルが最初だった。北方産の大きな黒馬を引いて。鎧は着けていないが、腰の戦斧は外さない。鐙に足をかけ、一息で跨った。挨拶は言葉ではなかった。跨る動作そのものが、この場への態度の表明だった。


 オーシンが随員の老人に付き添われて出てきた。穏やかな面立ちに緊張がにじんでいる。老人の節くれだった手がオーシンの肘を一度だけ掴み、そのあと背中を軽く押した。掌が離れたとき、オーシンの旅装の肩口に土の屑が微かに残った。湿った土と若葉の匂いが、ほんの一瞬、正門の風に混ざって散った。


 ライラは紅い旅装。曇天の下で朱が沈んだ色合いになっていたが、唇の朱だけが鮮やかだった。その唇が、声にならない何かを繰り返し呟いている。歌の一節か、祈りか、覚え書きか——鼓膜ではなく肌の側に、熱を帯びた微かな振動が届く。朱謡派の娘は、白い炎の前で失ったものを唇だけで歌い直しているようだった。


 ユエンは既に馬上にいた。いつ来たのかわからない。碧い瞳を細めて隊列の全体を走査している。何かを数えている目だった。荷車の数か、護衛の編成か、空の雲の動きか——数えているものは外からは見えない。だが、数えることを止められない者の目だった。


 シリンが——気がつくとそこにいた。暗い髪を旅装の頭巾に収め、暗い瞳だけが布の間から覗いている。どこから現れたのか、足音の記憶が残っていない。馬の扱いは手慣れていた。


 ルキウスは正門の石柱の傍に立っていた。白い外套。曇天の光を受けた金色の髪が鈍く沈んでいる。馬上ではなかった。白い炎の下で見たときの強さはない。だが金色の瞳だけが——あの時と同じ重さだった。目が合った。ルキウスが微かに顎を引いた。一拍、長すぎるほどの沈黙が流れ、そして顔を戻した。言葉はなかった。帝王学にはない種類の沈黙。


 七人。


 十六日前、アシュルは一人でこの門をくぐった。擦り切れた外套に背負い袋一つ。末席の椅子。裏切り者の血。


 今も外套は擦り切れている。背負い袋も同じものだ。だが——七人の間に、何かが通っている。白い炎の前で共有した畏怖。同盟ではない。友情でもない。もっと手前の——同じものを見た、という事実だけが作った、何か。


 言葉にしようとすると、すり抜けた。信頼ではない。まだそう呼ぶには早い。肩の後ろに、誰かの呼吸の気配があるというだけのこと。背後を見なくても、そこに他の六人がいると身体が知っているというだけのこと。振り返れば崩れる程度の薄さ。それでも、十六日前にはなかった気配だった。


 だが——初日よりは、近い。


 門をくぐる前に振り返った。


 七火の聖域。白い石材の建物が丘陵の上に並んでいる。尖塔の旗が風に煽られている。中庭の枯木。その向こうに封庫の棟。窓を塞がれた壁。蔦。あの下に、白い炎がある。


 姉がいる。


 ここを離れる。姉を残して。


 だが、逃げるのではない。姉は動かない。千年燃え続けた炎の中にいる。十四日では消えない。


 ——必ず戻る。


 馬に跨った。名前のない灰色の牝馬がアシュルの体重を受けて微かに揺れた。鐙の革が軋む。鞍の下から、馬の体温が腿の内側に染み上がってきた。その温みは——近い。指先より、はるかに近い。手綱を左手で握った。革の感触——冷たい。だが冷たさが、一枚向こうにある。


 牝馬は小さく鼻を鳴らしただけだった。嘶かない馬だった。


 隊列が動き始めた。


 正門の黒鉄の門を、七人と護衛と荷車がくぐっていく。門柱に刻まれた六つの家紋——太陽、半月、嵐雲、大樹、氷結晶、紅炎——が曇天の光の中で薄く浮いている。その最下部に、七つ目の紋章が削り取られた跡がある。苔と黴に覆われた窪み。到着した日にそれを見つけた時の胸の痛みを、今ははっきりとは思い出せない。


 記憶が薄れたのか。代償か。それとも——十六日で、アシュル自身が変わったのか。


 丘陵を下ると、聖域が後ろに退いていく。白い石の建物が曇天に溶ける。尖塔の旗がまだ見える。曇天の光は影を作らない光だった。物に触れずに通り抜けていく光。


 風が冷たい。この冷たさは指先の鈍さとは別の種類だった。冬の空気。乾いていて、古い灰の匂いが底に沈んでいて、肺の奥まで通る。


 帝都の屋根が街道の先に広がっていた。太陽派の紋章が軒先に並び、鈍い金色の列をなしている。あの街を通り抜け、東門を出て、蒼氷派の領地へ向かう。


 霜都まで十四日。


 灰色の牝馬の蹄が、石混じりの街道を打っていた。蹄鉄と小石が擦れる乾いた音が、耳にははっきり届く。だが鞍の下で伝わってくるはずの震動は、一枚向こうにあった。腿を通って腰骨まで届くはずの馬の歩みが、途中で薄い膜に濾されている。


 音は近い。振動は遠い。


 名前のない馬と、末端から薄れていくアシュルと。——歩調だけは、合っていた。


 手綱を握り直した。指先の感覚が——薄い。


 薄いが、まだ、ある。


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