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灰燼の王冠  作者: 危機麒麟
7/14

第六章「約束の歌」

---


 石壁の冷たさが、背中に滲みていた。


 夜明け前の回廊。冬の空気が柱の間を抜けるたびに、古い石材の匂いが立ちのぼる。苔と、砕けた石灰と、もう誰も焚かなくなった炉の残り香。どこかで鳩が低く鳴いている。まだ暗い空から降りてくる湿った気配が、石柱の表面に薄く結露していた。


 指先がいつもより冷たい。昨日、封庫の扉に光を灯してから、冷えが戻らなくなっている。


 三つ灯った。残り四つ。扉の隙間から白い光が漏れていた——あの向こうに、姉が見つけようとしたものがある。


「残り四家」


 ルキウスの声が、回廊の静寂を薄く裂いた。文机の上に広げた帝国の略図に、指が置かれている。袖口の金糸が松明の光を弾き、白い衣の下で手首の腱が浮いていた。七火の間から運び出した予備の卓に三人が肘をつき、冬の朝を待っている。


「荒嵐派、深根派、蒼氷派、朱謡派。この四家を説得する」


 断定の声。余計な修飾がない。


「四家を、どう動かしますの」


 シリンが問うた。石柱に背を預け、藤色の袖を合わせている。昨夜の涙の痕跡はない。だが目の底に残る翳りが、以前とは別のものに変わっていた。


「封庫の扉のことは伏せましょう。ですが封印の劣化と各領地の異変の関連は使えますわ。アシュル——あなたの知識が必要です」


 アシュルは頷いた。


 あの扉の前に姉は立ち——そして消えた。その先を知るには、七人で扉を開くしかない。


「シグルから行く」


 短く言った。「北方の異変は、あの男にとって——」


「理屈で動く男ではありませんわ」


 シリンが遮った。棘のない声。事実だけを載せた口調。


「あの方は率直ですわ。回りくどい話を嫌う。事実だけを正面から。そのほうが響くのではなくて」


「同感だ」


 ルキウスが短く言った。


「正面から行く」


 アシュルは二人の言葉を噛んだ。初日の顔合わせで、あの男は灰鎖派の候補を見た時に何も隠さなかった。興味がない、という目。兵の経験がないと聞いた瞬間に視線が外れた。


 だが嘘がなかった。それだけで、信用の最低線を超えている。


「シグルは俺が行く。ルキウスはオーシンを頼む」


「深根派の少年か」


 ルキウスの視線が、略図上の穀倉地帯に落ちた。


「穀倉地帯の枯死も封印の劣化に起因するなら、響くだろう。ただ——」


「あの子は十五か十六です」


 シリンが言った。微笑のまま、だが声の底に触れるものが変わった。


「大人たちの論理で押してはなりませんわ。あの子が抱えているものに、まず耳を傾けて」


 ルキウスの顎が僅かに引かれた。松明の光が金茶色の虹彩を掠め、瞳の奥に何かが過った——帝王学の枠に収まらない、もっと生な逡巡。


「わかった」


 短い。だがその二文字を口にする前の一拍に、重さがあった。


「ユエンはわたくしが」


 シリンが名乗り出た。


「蒼氷派とは既に情報共有の下地があります。あの方は損得で動く。封庫の秘密を対価にすれば食いつくでしょう。ただし、条件をつけてくるはず」


「最後に——」


 アシュルは口を閉じた。


 朱謡派。ライラ。


 紅い衣の少女。初日の顔合わせで、あの少女はこちらを見て微笑んだ。観察でもなく、警戒でもなく——何か、匂いを嗅ぐような仕草だった。


「ライラは俺が行く」


「朱謡派は最も読みにくい」


 シリンの唇の端が、ほんの僅か、揺らいだ。


「あの子は感情で動く——だが、どの感情で動くのかが読めない。わたくしの誘導が最も通じなかった相手です。質問に質問で返し、物語で答え、直接的な回答を一度も返さなかった」


「だからこそ、理屈では駄目だ」


 冬の風が回廊を抜けた。外套の裾が翻り、首筋を冷気が撫でる。指先が痺れている。以前なら冷えを感じたはずだが、今はただ感覚が薄い。


 物語で答える少女。ならば——物語が、あの少女の言葉だ。


「ライラには——物語を渡す」


 ルキウスとシリンが、同時にこちらを見た。


---


 シグルの居室は、聖域の東翼の中でも最も質素な部屋だった。


 扉を叩いた。拳が木を打つ乾いた音が、石の廊下に散った。返事はない。代わりに、風切り。足の踏み替え。呼吸の律動。


 剣の素振り。


 三十数えた。打ち込みの拍が止まり、荒い呼吸が一つ、二つ整えられて、扉が開いた。


 額の白い刀傷。風に灼けた肌に汗が浮いている。太い首。嵐雲の紋章を縫い込んだ麻の上衣は袖がまくられ、腕の筋が冬の光の中で鬱血したような赤みを帯びていた。


 汗と、鉄と、北方の荒地にだけ生える草の匂い。外套に染みついた風土の名残が、扉の隙間から押し出されてきた。


「なんだ」


 一語。それで十分だという声。


「時間を貰いたい」


「話か。入れ」


 部屋の中は温石の温みがほとんどなく、窓が半分開いている。外の風が直に吹き込み、頬が引き締まった。北方の人間にとって帝都の冬は温いのだろう。


 床に木剣が転がっていた。壁に掛けた外套の下に、本物の剣の柄が覗いている。文机は使われた形跡がない。書架には何も置かれていない。家具より雄弁な空白。


 シグルは窓枠に腰を下ろし、腕を組んだ。待っている。説明を、ではない。こちらが嘘をつくかどうかを、見ている。


 口の中で言葉を組み立てていた。原炎。存在を燃やす火。千年前に七つに分けられ、各家の血統魔法に変質した断片。継承の儀のたびに器の隙間から微量が漏れる構造的な欠陥。漏れた火が世界の「在る」ことを微かに焦がし、魔力の濃い獣の中にある存在の火を焚きつけて、理性の膜を焦げ落とす——そういう機序。


 並べれば、正確な説明になる。


 だが、シグルの眼を見て、削った。


 額の傷の下の、隠すことを知らない眼。この男は弟を魔獣の群れに喰われている。嵐壁砦の守備隊を喰われている。理屈の緻密さは、この男の中で一度も火を灯さない。千年前の仕組みを十行並べるより、一行の方が届く。


「北方の魔獣が活性化している原因がわかった」


 シグルの体が動いた。窓枠から腰が浮く。腕が解かれ、両手が膝を掴んだ。


「——なんだと」


 立ち上がった。木剣が足元で転がり、壁にぶつかって乾いた音を立てた。二歩でアシュルの前に来た。見上げなければ顔が見えない。汗の匂いが間近に迫り、風に灼けた肌の下で、首筋の血管が浮いていた。


「もう一度言え」


「封印の劣化だ」


 それだけ置いた。原炎の性質も、継承の儀の欠陥も、漏出の機序も——全部、喉の奥に押し戻した。問われれば話す。この男は、問わないだろうが。


「千年前の仕組みが、手入れをされないまま限界に近づいている。北方で起きていることの根は、それだ」


 シグルは黙ってアシュルを見ていた。歯を食いしばったまま、視線を外さない。問い返してこない。追加の説明を求めない。この男は既に、北方で体で知っていたものに名前を与えられたところだ。名前が正しいかどうかは後で確かめればいい。根があると聞ければ、今は足りる。


「——止められるのか」


 真っ先にそれだった。理屈でも確認でもない。止められるかどうか。この男の目が見ているのは、北方の雪原だけだ。


「手がかりがある。聖域の封庫に。だが七火の力が揃わなければ開かない」


「オレは何をすればいい」


 即答。条件も対価も聞かない。


「帝都の連中は知っていたのか。原因を」


「知らない。知ろうとしなかった」


 シグルの拳が、膝の上で白くなった。額の傷に手が行きかけ——止まった。


「……弟が死んだのは、三年前の冬だ」


 声が変わっていた。低いまま、だが底から何かが剥がれ落ちたような響き。


「嵐壁砦の守備隊が魔獣の群れに襲われた。オレは帝都に兵の増援を求めていて——間に合わなかった」


 窓の外で風が唸った。半開きの窓から吹き込む空気に、雪混じりの鉄の匂いがした。北方の風だ。石壁の冷気と混じり合い、部屋の温度がまた一段落ちた——はずだが、アシュルの指先はその変化を拾わなかった。


「千年前のツケだろうが昨日の失態だろうが、関係ない。原因がわかったなら止める。オレの兵をこれ以上死なせない」


 アシュルはシグルの目を見た。額の傷。その下の、隠すことを知らない眼。


「七火の力が揃わなければ、封庫は開かない」


「七火」


 シグルは膝の上に両手を置き、指を組んだ。


「全員揃えるのか。あの狐どもも全部」


「全員だ」


「……面倒だな」


 だが、額の傷に手は行かなかった。


「いいだろう。北方が救えるなら、付き合う」


 立ち上がり、木剣を拾い、壁にかけた。木と壁がぶつかる硬い音。それで話は終わった。


 扉の前で、シグルが背中越しに言った。


「お前は正直な奴だな。正直すぎて、いつか喉を掻き切られるぞ」


 忠告か。褒め言葉か。おそらく、両方だ。


---


 オーシンへの交渉は、ルキウスに託した。


 結果は、その日の夕刻に回廊で聞いた。


「あの少年は——知っていた」


 ルキウスは石柱に片手をつき、中庭の冬枯れの木々を見つめていた。斜陽が金茶色の虹彩に差し込み、瞳の奥にある翳りを一瞬だけ照らした。声が——いつもの断定の刃を欠いていた。


「穀倉地帯の土壌が枯れ始めていること。それが人の手では止められないこと。封印の劣化とは結びつけていなかったが、大地がおかしいという確信は——体で知っていた」


「何と言っていた」


「言葉は少なかった」


 ルキウスの口元が引き結ばれた。


「最初は声が小さくて、聞こえなかった。私が穀倉地帯の異変と封印劣化の関連を説明した時——あの少年の手が、石畳に触れた。片膝をついて。掌を押し当てた。しばらく黙って。それから」


 ルキウスが、ゆっくりと言った。


「『——大地が泣いている。ずっと前から。でも、僕の声では——誰にも届かなかった』」


 回廊の風が紋章旗を鳴らした。


「引き受けたよ。あの少年は」


「そうか」


 アシュルは頷いた。指先を握って開いた。冷えている。朝からずっと。あの少年の大きな手と、石畳の上で根を張ろうとする体の癖を思い出していた。十五か十六の少年が、大人たちの政治の中で、大地の声をひとりで背負っている。


 ——大地が泣いている。


 比喩ではないのだろう。深根派の継承の儀を経た者には、それが文字通りの感覚なのだ。


---


 ユエンとの交渉の報告は、翌朝、シリンから受けた。


 中庭に面した渡り廊下。冬の朝日が白い石畳を斜めに照らし、石柱の影が幾何学的な縞を描いていた。シリンの藤色の衣がその影を踏んで揺れている。朝の空気は乾いて冷たく、吐く息が白い。


「予想通り、条件を出してきました」


 シリンの微笑は完璧に制御されていた。だが肩の力が僅かに抜けている——計算通りに事が運んだ後の、月影派の娘の呼吸。


「ユエンはこう言いましたわ——」


 シリンは声を変えた。低く、乾いた声。温度のない丁寧語。蒼氷派の代表の声が、シリンの喉から正確に再現された。


「『我々の条件は一つ。扉の向こうで見つかったもの——その記録権はシュアン家が持つ』」


「記録権」


「ええ。知識の独占ではなく、記録する権利。何が見つかったか、何が書かれていたか——その一切を蒼氷派が文書化し、保管する。氷の図書館に加えるのでしょう」


 シリンの微笑は崩れない。


「巧みな条件です。知識は形式上は共有する。だが記録を握った者が、歴史の書き方を決める。ユエンはそれを知っている」


「呑んだのか」


「呑むふりを。交渉は、ここから始まりますわ」


 シリンの暗い瞳に、影が一層深くなった。


「ただし——一つだけ。交渉の最後に、ユエンはこう付け加えました」


 再び声色が変わる。碧い瞳の、あの温度のない声。


「『興味深い——いえ。有益な話でした』」


「……自分で訂正したのか」


「ええ。あの方は常にそうします。感情の言葉が口をついた瞬間に、論理の言葉に言い直す。『興味深い』を『有益』にすり替える。訂正の頻度が——あの方の感情の温度を測る、唯一の尺度です」


 シリンの視線が石畳に落ちた。


「凍らせているだけ。まだ死んではいない。それが蒼氷派の継承の儀の代償なのか、それとも——」


 微笑が一瞬だけ揺らぎ、仮面の隙間から別の光が覗いた。


「ともかく。蒼氷派は条件つきで応じました。残りは——」


「ライラだ」


「ええ。最も難しい相手」


---


 朱謡派サヒル家の候補者の居室は、聖域の東翼の中でも異質だった。


 扉の前に立った時、最初に届いたのは匂いだった。香辛料の残り香——丁字と、桂皮と、もう一つ、南東の海辺でしか採れない何かの樹脂の甘い煙。温石の温みとは違う種類の熱が、扉の隙間から滲み出ている。——指先は相変わらず冷たい。だがこの熱は、指先ではなく別の場所で感じていた。鼻腔の奥。喉。匂いの中に混じった温みとして。


 扉を叩いた。


 返事がない。


 もう一度。


「——入っていいわよ」


 声に、旋律があった。囁くような、歌うような。言葉の尾が微かに揺れて消える、不思議な響き。


 扉を開けた。


 部屋の中は薄暗かった。窓の帷が半分引かれ、冬の午後の光が細い帯になって差し込んでいる。その光の帯の中に——紅い衣が揺れていた。


 ライラは窓辺の椅子に横座りしていた。膝を抱え、片足を椅子の座面から垂らしている。年齢相応の——まだ大人の女性にはなりきれていない体つき。黒い髪が肩の上で波打ち、唇に引かれた朱が、薄暗い部屋の中で血のように鮮やかだった。


 笑みを浮かべていた。だがその笑みの意味が、読めない。


「灰鎖派のアシュル。ライラはね、あなたに会いたかったの」


 自分の名を、他人のように呼ぶ。三人称の距離感。その向こうに、幼さとも老成ともつかない何かが潜んでいる。


「俺もだ。話がある」


「ライラにはわかるわ。あなた、何か焦っているでしょう?」


 唐突だった。


「……焦っている、と言えば焦っている」


「嘘。本当はもっと。でもそれを表に出さないのね。灰の下に火を隠す人」


 言葉が一瞬、喉の奥で止まった。この少女は——他者の感情を読む。それも、表面に現れていない感情を。


 椅子をもらい、向かい合って座った。ライラは膝を抱えたまま、首を傾げるようにアシュルを見ている。唇の朱を指先でなぞる仕草。褐色の肌に散った髪の一房が、光の帯に触れて赤銅色に光った。


「聖域の東翼の奥に、封庫がある」


「知ってるわ。ライラ、耳だけは良いから。あなたたちが何度もあの棟に通っているの、聞こえていたの」


 ——いつから気づいていた。


「封庫の扉を開くには、七火の力が揃わなければならない。四家分の力が足りない。協力を願いたい」


 ライラは黙っていた。笑みは消えていない。だが目が——笑っていなかった。黒く深い瞳が、アシュルの顔の奥を覗き込むように据えられている。


「ライラに届く言葉と、届かない言葉があるの。あなたの今の話は——届かないほう」


 静かに言った。


「扉がどうとか、封印がどうとか——それはあなたたちの物語でしょう? ライラの物語じゃないもの」


「帝国全体の問題だ。北方の魔獣も、穀倉地帯の枯死も——」


「それもライラには遠いの」


 遮られた。声に旋律はまだあったが、どこか硬質になっている。


「ねえ、アシュル。ライラに嘘はつかないで。あなたが七火を揃えたいのは帝国のためじゃないでしょう? あなたの目はね、帝国なんか見ていない。もっと近くの——もっと小さなものを見ている」


 心臓が一つ、打った。


 この少女は——謡焔魔法の副作用か、それとも生まれながらの鋭さか——こちらの感情の輪郭を、正確に指でなぞっている。


「……姉を探している」


 口をついて出た。策略でも交渉でもない。この少女の前では、処世術が通じないということを、肌で理解した。


「封庫の中に——姉の手がかりがある」


 ライラの瞳が、微かに揺れた。


「お姉さま」


「ああ。三年前に消えた」


「……消された?」


「そうだ」


 沈黙があった。ライラは唇の朱を指で撫でた。考え事をしている時の癖だとわかった。


「ねえ、アシュル」


 ライラの声から旋律が薄れた。囁くような響きは残っているが、歌い手の抑揚が消え、素の声に近づいている。


「灰鎖派って、どんな家だったの?」


 不意の問いだった。


「……どういう意味だ」


「だって、誰も語らないでしょう?」


 ライラが膝を抱えたまま、体を前に傾けた。黒い瞳が真っ直ぐにアシュルを見ている。笑みは消えていた。


「灰鎖の乱。裏切り者の家。帝国公式史にはそう書いてある。ライラも紅焔港でそう教わった。でもね——」


 指が唇の朱を離れた。


「物語が消されるのはね、人が消されるのと同じなの」


 その一言が、回廊の冷たさとは別種の何かを、アシュルの胸に突き立てた。


「紅焔港にはね、たくさんの物語が集まるの。船乗りが運んでくる。商人が売りに来る。でも、灰鎖派の物語は——一つもないの。一つも。何百年も前からこの帝国にいた家の物語が、港に一つも流れてこない」


 ライラの声が、かすかに震えた。


「消された物語は、歌にならない。歌にならない物語は、忘れられる。忘れられた人は——最初からいなかったことになる」


 アシュルは——その言葉を聞いて、息が止まりかけた。


 原炎の代償。存在を燃やす火。記憶が消え、歴史が消え、最終的には「在ったことすら忘れられる」。


 灰鎖派に起きたことは、禁忌魔法の代償と同じ構造だ。


 ライラはそれを、理屈ではなく——物語の感覚で掴んでいる。


「……灰鎖派は」


 声が出た。自分の声だとわかるのに、喉を通り抜ける感触がひどく薄い。


「俺が知っているのは——姉が遺したものと、封庫で見たものだけだ」


 処世術が剥がれていた。帝都の書記の丁寧語でも、仲間の前の砕けた口調でもない。もっと古い声。灰色の荒野で姉の背中を見ていた頃の声。


「姉は——写本を持っていた。灰鎖派の古い記録の断片。帝国の公式史とは違うことが書いてあった」


 ライラは動かなかった。膝を抱えたまま、黒い瞳がまっすぐこちらを見ている。笑みはない。


「公式には、灰鎖派は反逆者だ。封印を壊そうとした。危険な実験を行い、暴走を起こし——粛清された」


 言葉にすると、慣れているはずの痛みが喉の奥で灼けた。


「だが姉の写本には、別の姿が記されていた。灰鎖派は封印の番人だった、と。各家が原炎の断片を封じている間——灰鎖派だけが、その封印の綻びを見張り、直す役目を負っていたと」


 部屋の空気が、微かに変わっていた。香辛料の匂いが消えている。丁字も桂皮も——部屋に充満していたはずの匂いが、声だけを残して退いている。ライラの謡焔魔法ようえんまほうが無意識に場を支配しているのか——二人の間のノイズが消えて、言葉だけが残っている。


「写本にはこうも書かれていた——封印は時とともに薄れる。灰鎖派はそれを知って、皇帝に進言した。修復が必要だ、と」


「……聞いてもらえなかった」


 ライラが言った。主語がない。旋律もない。


「ああ」


 低い声が出た。


「写本によれば——皇帝は聞かなかった。封印を直そうとした試みが事故を起こした時、それが口実になった。裏切り者として。老人も、子どもも。灰色の衣を着た者は全員が」


 最後まで言えなかった。——言い切る必要はなかった。ライラの指が唇の朱に触れて、離れた。


「——姉が、この場所に来て消えた」


 それだけ言った。


「姉は信じていた。俺たちは裏切り者じゃない、と。俺はその答えが——封庫の扉の向こうにあると思っている」


 沈黙が落ちた。


 香辛料の残り香。石壁の冷え。窓の外の、霜が降り始めた石畳の匂い——夜気が冷えて水分を絞り出す、あの乾いた鉱物の匂い。同じものが同じように漂っているのに——何かが変わっている。音が遠くなっている。ライラの謡焔魔法が空気の層を一枚一枚剥ぎ取って、声以外のすべてを薄くしているように感じた。


 ライラの頬を、涙が一筋伝い落ちた。


 声に旋律は残っていなかった。歌い手の抑揚も、少女のやわらかな語尾も消えて——ただの、掠れた声だった。


「……歌にする価値がある」


「歌にしてほしくて語ったんじゃない」


 声が出ていた。自分でも驚くほど、低い声が。


 ライラは涙を拭わなかった。涙の膜を通して、黒い瞳がアシュルを見つめた。一瞬だけ——部屋の空気が焦げた。甘い樹脂の残り香が一斉に燃えたように、熱い何かが顔を撫でた。


「だからこそ、歌にする価値があるの」


 旋律のない声だった。だがその一言に、紅焔港の大劇場で何百もの物語を聞いてきた少女の確信が宿っていた。返す言葉がなかった。


「語りたくて語る物語は、どこにでもあるの。でも——語りたくないのに、語らなければならない物語は」


 ライラが自分の胸に手を当てた。褐色の指先が紅い衣の上で、かすかに震えていた。


「ここが、熱い」


 アシュルには判別できなかった。この涙が——ライラ自身の涙なのか。こちらの感情を謡焔魔法が受け取って、反響として流れたものなのか。だが少なくとも今の声は——「ライラ」が消え、旋律が消え、残った声だった。


「条件があるの」


 涙の跡に触れないまま、ライラが言った。


「物語を聞かせて。灰鎖派の物語を、全部」


「——全部?」


「全部」


 ライラの声に、ほんのわずかだけ旋律が戻った。涙で赤くなった目の奥で、炎に似た何かが揺れている。


「紅焔港に流れてこなかった何百年分の物語。——歌にする。消された物語を、もう一度、人の記憶に灯す」


 アシュルはライラの目を見た。


 この少女が見ている灰鎖派は、アシュルの知る灰鎖派とは違う。写本の断片や先祖の記憶から組み上げた不確かな歴史ではなく——歌にすべき一つの物語として、輪郭を掴んでいる。


「……わかった」


 声が掠れた。


「全部話す。俺が知っていることを——お前に預ける」


 ライラは微笑んだ。だが今度の笑みは、掴めないものではなかった。涙が乾いていない頬の上で、十五歳の少女が、ただ笑っていた。


---


 七日目の朝。


 七つの旗が、回廊の柱に翻っていた。


 黄金の太陽。半月と天秤。荒れ狂う嵐雲。大樹と絡み合う根。砕けぬ氷結晶。燃え盛る紅い炎。——そして七本目の柱に、灰に沈む王冠と断ち切られた鎖。擦り切れた布地の、薄い灰色の旗。


 七火が揃った。


 回廊の長卓に七人が着いていた。冬の朝日が石柱の間から低く差し込み、卓上に旗の影を落としている。鉄と香辛料と紙と土の匂いが、冬の石の冷気の中で混じり合っている。


 卓の片側にルキウス、シリン、ユエン。向かい側にシグル、オーシン、ライラ。そして卓の末端に——アシュル。


 ルキウスが上座に近い席。白い衣の金糸が朝日を弾いている。その隣にシリン。藤色の袖を合わせ、完璧な微笑を湛えている。


 ルキウスの対面にシグル。腕を組み、石柱のように動かない。額の白い刀傷が朝日の中で浮いている。


 シグルの隣に、少し間を空けてオーシン。大きな手を膝の上に置き、背筋を伸ばそうとして、それでも肩が内に入っている。赤みがかった茶髪に雀斑の散った頬。石畳の上に座る少年の重心が、無意識に下がっている。


 卓の端にユエン。銀髪の細面。碧い瞳が冬の光を反射して異様に明るい。書冊を膝に載せたまま、他の六人を等しく走査するように視線を動かしている。表情はない。


 そしてアシュルの隣に、ライラ。紅い衣の裾が椅子から零れるように垂れている。唇の朱。笑みを浮かべている。だが今朝の笑みは——昨日と違う何かを含んでいた。


 アシュルは末席にいた。擦り切れた外套。背負い袋は居室に置いてきた。席は変わらない。六つの大貴族と、一つの灰。


 だが——昨日までとは、卓の上の空気が違っていた。灰色の旗が六つの大家の旗と並んでいる。初めてのことだ。何百年かぶりに、七つの旗が対等に風を受けている。


「七人が揃ったのは、盟約の試煉が始まって以来、初めてですわね」


 シリンが切り出した。声は柔らかく、だが場を支配する力がある。


「封庫の——」


 アシュルが口を開きかけた時、回廊の端から足音が響いた。


 石畳を踏む、規則正しい足音。複数人。


 回廊の入口に、白い祭服の人影が現れた。大祭司。聖域の長。痩せた老人の後ろに、祭服の若い従者が四人、等間隔で並んでいる。


 大祭司の目が、七人を順に見渡した。枯れ木のような手が、胸の前で合わされた。


「七火の候補者の方々」


 声は乾いていた。感情のない、儀式の声。


「封庫への立ち入りの件について——お申し出は承りました。しかし、七火の儀の第一の試煉はまだ終わっておりません」


 卓の空気が、凍りついた。


「盟約を正式に結ばぬ限り、聖域の禁域への立ち入りは認められません。これは七火の儀の定めに基づく決定です」


 シグルの腕が組み替えられた。ルキウスの指が、卓の上で微かに動いた。シリンの微笑が——一瞬だけ、固まった。


「正式な盟約とは——」


 ルキウスが問うた。


「血盟の儀でございます」


 大祭司が答えた。


「七火の血を混合した杯を共に飲み、盟約の文言を唱える。裏切った者には苦痛と魔力の減退が降りかかる。この儀を経てのみ、七火の名における行動が正式に認められます」


 血盟。用語は知っていた。鎖魂魔法を原型とする聖域の慣例魔法。七火の候補者が盟約を結ぶ際に用いる、魔法的拘束力を持つ契約。


「準備に三日。血盟の儀は、盟約の試煉最終日に執り行われます」


 大祭司は頭を下げ、回廊を去った。足音が石畳に反響し、やがて消えた。


 七人の間に、沈黙が落ちた。


「——罠だ」


 シグルが言った。腕を組んだまま、大祭司が去った方角を睨んでいる。


「タイミングが良すぎる。待ち伏せだ」


「待って」


 オーシンの声だった。小さな声。だが芯がある。年長者の沈黙の中に、少年の声がそっと差し込まれた。


「血盟を結べば——封庫に入れるんですよね」


 七人の視線がオーシンに集まった。少年は一瞬萎縮しかけたが、膝の上の大きな手を握りしめて、続けた。


「僕は——入りたいです。封庫に。大地が、あそこの下で何かを訴えている」


 ユエンの碧い瞳がオーシンの横顔を走査し、一瞬——停止した。それから視線を卓上に戻し、低く乾いた声で言った。


「血盟の儀の構造を理解した上で臨むべきでしょう。参加者七名、拘束期間は未開示、違約時の減衰率も不明——我々の条件は既にお伝えした通りです。儀に参加すること自体に異議はございません」


 ライラは黙っていた。唇の朱を指でなぞっている。昨日の涙が乾いた頬を、思い出した。


「ライラも行くわ」


 短く。旋律のある声。だが目はアシュルを見ていた。


「——物語の続きを聞かせてくれる約束、忘れないでね」


 シリンが場を引き取った。


「では——血盟の儀の準備に入りましょう。三日の間に、互いの条件を詰めましょう」


 ルキウスが頷いた。シグルが腕を組み直した。一言も発しない。だが白くなった指の節が、血盟という二文字の下で渦を巻く嵐を語っていた。


 七火は——ひとまず、同じ方向を向いた。


---


 夜。居室に戻り、文机の前に座った。


 蝋燭の炎が揺れている。壁に映るアシュルの影が、火の揺れに合わせて歪む。石壁の冷たさ。指先の冷え。蝋燭の蝋と芯の焦げた匂い。——そして、外套に染みついたかすかな香辛料の残り香。ライラの部屋で纏わりついた、丁字と桂皮。


 血盟。鎖魂魔法さこんまほうを原型とする儀。灰鎖派の魔法が、この制度の根にある。


 シグルが言った通り——罠だ。封庫の深夜の探索で感じた気配を思い出す。古い鎖魂の仕組みの上に、新しい何かが書き足されていた。焔武帝の駒である大祭司が、今日このタイミングで現れたこと自体が、その証だ。


 だが。


 アシュルは蝋燭の炎を見つめた。罠と知っていて、踏む。あの扉の向こうに、姉の手がかりがある。


 ——姉なら、どうしただろう。


 声を思い出そうとした。イシュタの声。低くて、穏やかで、古代文字を読み上げる時だけ少し早口になる——あの声。


 思い出せなかった。


 記憶の中にあるはずの声が、輪郭を失っている。禁忌魔法の代償。記憶の燃焼。些細なものから大切なものへ——姉の声は、もう些細なものではなかったはずなのに。


 指先が痺れた。


 声は思い出せなかった。だが——姉の手から漂っていた、古い羊皮紙と膠の匂いは、まだ残っている。写本を開くたびに立ちのぼっていた、あの乾いた匂い。


 イシュタの声が思い出せない。だがイシュタの言葉は覚えている。


 ——わたしたちは裏切り者じゃない。


 声の音色は消えた。だが意味は残っている。


 それだけあれば十分だ。


 アシュルは文机の上の蝋燭に手を翳した。指先に、冷たい影が落ちる。炎の熱は遠い。いつからか、炎の温度を感じにくくなっている。代償の第二段階——感覚の喪失が、もう始まっているのかもしれない。


 だが——進む。


 罠だとしても。代償が進んでも。声を失っても。


 七火を揃え、扉を開き、姉のところへ辿り着く。


 それが、今のアシュルに残された、唯一の道だ。


 蝋燭の炎が揺れた。壁の影が歪んだ。


 夜は深く、石壁は冷たかった。


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