表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰燼の王冠  作者: 危機麒麟
12/14

第09章「六百十一の空白」

---


 霧が、肩に乗った。

 夜明け前の湖岸区に出て最初に気づいたのは、それだった。


 幽谷城の霧とは質が違う。渓谷の霧が「谷の息」なら、この霧は「湖の呼気」。頬と額の皮膚の上に、針より細い冷たさを一点ずつ載せてくる。塩気も鉄錆もなく、石そのものの冷たさが匂いの手前で止まっていた。


 シリンは薄い灰色の外套の襟を立て、石畳の上をゆっくりと歩いた。


 湖岸区の石欄干は、氷の図書館の裏手に沿って緩やかに湾曲していた。白い花崗岩。一段ごとに嵌め込まれた碧い氷の象嵌は、今は霧に溶けて、中空に留まる光の点にしか見えなかった。


 それが、シリンにとっては好都合だった。


 ——目印のない空間。

 ——視線の届かない距離。

 ——声が石の向こうまで連れていかれない空気。


 月影派の娘が密談を選ぶなら、この三つの条件が揃った朝を選ぶ。霧は月影派の味方だった。昔から、そうだった。幽谷城の書院で最初に教わったのは、家紋の意味でも継承の儀の作法でもなく、「霧が会話を吸う」という一行だった。


 十五歩先が見えなかった。


 湖面の方角は白一色に溶けていた。水面と空の境目が曖昧だった。石畳を踏む音さえ、三歩進んだところで霧に吸い取られ、背後の音の尾が足の裏にしか残らない。声も足音も、この霧の中では、発した本人の半径一丈までしか所有できない。


 ——早すぎる、と、内側の声が一度だけ呟いた。

 継承の儀で受け取って以来、シリンの意識に時折差し挟まれる声。誰の声でもない。強いて言うなら、歴代の月影派当主の「溜息の残滓」とでも呼ぶべきもの。ふだんはもっと明白な警告の形をとるのに、今朝は、早すぎる、と、ただそれだけだった。


 早すぎる——何が?

 シリンは問いを胸の奥に仕舞った。今朝の仕事には、先祖の立ち入る余地を与えない。そう決めていた。


 約束の場所は、欄干の第七の段だった。

 前夜、薄い紙片に「第七の段、霧の濃い時刻」とだけ書いて、図書館の司書の一人に託した。蒼氷派の記録官は用件のない紙片を扱う訓練を受けている。「記録に残すな」と一言添えれば、彼らはそれを記録に残さない。残さないこと自体が一つの記録になる——という月影派の理屈は、ここでは通じない。ありがたい文化だった。


 第七の段に着いた時、相手はすでに欄干に立っていた。


 白い外套の輪郭が、霧の中に先に浮かんだ。銀髪の細面は見えない。見えたのは、輪郭と、体躯の細さと、欄干に置かれた片手の位置だけ。指先は石に触れず、記録板の端にかかっている。手袋はしていなかった。この冷気の中で手袋をしない者がいるとすれば、指先の感覚を手放しても支障のない者か、最初から所有していない者か、どちらかだった。


 ——後者、とシリンは判定した。

 判定は習慣だった。判定そのものが会話より先に走る。


「お早うございます、ユエン殿」


 シリンは鈴を一度振るような声で、三歩手前から呼びかけた。唇から出た音の前半が欄干まで届き、残りの半分が霧の粒子の間に拡散していく。白い息さえ、唇の先で生まれる間際に霧へ混ざり、痕跡を残さない。盗聴を警戒する者にとって、この分解率は理想に近い。


「……お早うございます、シリン殿」


 返ってきた声は、乾いていて、低く、霧の重さを押し戻さなかった。霧と同じ温度を既に持っている声——そういう声だった。一語の末尾がきっちりと閉じられていて、挨拶のあとに続くはずの「お寒うございますね」のような社交の一行が、最初から選択肢の中に入っていない。


 碧い瞳が、霧越しにシリンの位置を測った。


 その測り方を、シリンは知っていた。人を見ているのではなく、要素を数えている目。身長、歩幅、呼吸の深さ、外套の襟の立て具合——五つほどを同時に走査し、数値を記録し、その数値から「シリンが今朝何をしに来たか」を逆算する目だった。賓館の食卓で何度か見てきた動きだった。


 ただ、今朝は、その走査に一瞬だけよどみがあった。


 計算が追いつかないのか、前提が合わないのか、判別はつかなかった。ただ、走査の速度が、霧の深さのせいではなく、微かに遅れていた。


 ——霜都に来てから、この方の「遅れ」を、シリンは三度数えた。

 三度目が、今。


「約束の品を、お持ちいただけましたのね」


 シリンは指を外套の袖口に隠したまま、視線だけで記録板を撫でた。石の上の記録板の下に、もう一つ、厚みのある冊子が重ねられていた。白い表紙。題字はない。代わりに、碧い氷の粉で小さく番号が一つ——「復元草」とだけ、読めた。


 三十二頁の冊子。厚みから、ほぼ確信した。


「我々は約束したものを持ってきます」


 ユエンの声が、短く区切られた。「持ってきます」は現在形。持ってきた、とは言わなかった。到着の事実を完了させずに、引き渡しつつある状態に言葉を留めるのは、蒼氷派の帳簿的な律儀さか——それとも、引き渡しを完了させたくない意志が現在形に漏れているのか。


 ——後者、とシリンはもう一度判定した。


「そちらは」


「こちらにも」


 シリンは外套の内側から、別の紙束を取り出した。

 黒い革紐で簡素に綴じられた、薄い冊子だった。表紙には何も書いていない。中身は——月影派の裏史から切り出した、粛清の夜に関する断片的な記録。日付と、場所と、ごく一部の人名。幽谷城の書院で許される範囲で写し取れたものから、さらに公開用に選別した版だった。


 裏史の全体ではない。全体ではないが、嘘は一つも混ぜていない。選別は虚偽の最も洗練された形である——それは幽谷城で教わった初歩だった。


「三十七頁ございます」


 ユエンの視線が短く冊子の小口を撫でた。


「六百十一点のうち、外形の判明しているものがすべて」


 ユエンが冊子の総量を一息で告げた。六百十一——数字が、霧の中に一瞬だけ輪郭を持った。シリンはその輪郭を、鎖骨の内側の窪みのあたりに置いた。呼吸の一拍目だけ、その位置で重さを持った。


「六百十一、でございますのね」


 確認の繰り返し。月影派の習慣。相手に訂正の機会を与え、同時に数字を自分の記憶の中で定着させる。


「六百十一。異論の余地はございません」


 異論の余地はない、という言い方は、ユエンにしては柔らかい。普段なら「確定値」、あるいは「査定済み」。異論の余地——論じる余地そのものを否定する、受動の形をとった断定。受動態で断定すると、責任の所在が言葉から消える。そういう癖を、幼少期に覚えたのだろう。


「読んだ順に返していただければ結構です」


 冊子が、欄干の石の上を、音もなく滑った。

 シリンの手袋の指先が、冊子の表紙に触れた。紙の冷たさが先に届き、厚みがその後についてきた。冷たさは紙そのものの温度ではない。欄干の花崗岩から、紙が吸い上げた温度だった。三十二頁。片手で持てる重さ。片手で懐に隠せる大きさ。


 シリンもまた、黒い革紐の冊子を石の上に置いた。

 ユエンの指が、記録板の下からその冊子を拾い上げた。取り方が正確だった。紙の中央に触れず、両端を親指と人差し指の腹で挟む——蒼氷派の書記の正しい紙の扱い方。月影派の娘の手から受け取る紙にも、その作法を崩さない。


 受け取った冊子を、記録板の上に一度置き、表紙を開きかけて——止めた。


 止めた瞬間、碧い瞳が、初めて、シリンの顔の位置で、「停止」した。

 その停止を、シリンは見逃さなかった。見逃さないように訓練されている。


 停止は、〇・五秒ほどだった。


 〇・五秒の間に、ユエンの視線は、冊子の最初の頁に並んだ日付のどこかに固定されていたはずだった。シリンの位置からは、頁の内容まで見えない。見えたのは、視線が落ちた場所の角度と、その角度がどの日付のあたりに対応するかの推定だけ。


 ——シリンが最初に書いた日付は、三百七年前の冬の夜のもの。

 ——月影派の書院では、その夜の話を口に出すことが、禁じられている。


「興味深い——」


 ユエンの声が、一語で止まった。

 一語で止まった、ということは、次に来るはずだった「いえ、有益な情報です」が、今朝は間に合わなかったということだった。


 半拍の遅れ。

 ユエンは、無言のまま冊子を閉じた。


「……有益な情報でございます」


 訂正は来た。来たけれど、間に合わなかった訂正は、訂正の機能を半分失っている。半分失った訂正は、話者の制御が半分崩れたことの証文だった。シリンはその証文を、胸の棚の上の方に置いた——六百十一という数字の隣に。


「互いに、読み込みに時間が要ります」


 ユエンはそう言って、記録板を小脇に抱え直した。

「我々は三日を見込みます。シリン殿は」


「わたくしも、三日ほど」


「では三日後に、再び」


 再び——という語の末尾に、シリンは普段ならない注意を向けた。再び会う場所が、ここなのか、ユエンの私室なのか、それとも別の、より露出した場所なのか。普通なら「再び同じ場所で」と言う。ユエンは、場所を指定しなかった。指定しなかったことが、指定だった。


 ——私室に呼ぶ、ということ。


 月影派の感触は、シリンにそう読ませた。三日後、ユエンはシリンを自らの領分に迎えるつもりだ。迎える側であることで、主導権を改めて明示するつもりだ。シリンはそれを拒まない。拒む理由がない。


「承知いたしました」


 シリンは欄干から半歩退いた。

 ユエンも半歩退いた。挨拶は交わさなかった。月影派の朝霧の中では、去り際の挨拶は盗聴の合図になる。挨拶を交わさないことが、最も礼儀に適った挨拶だった。


 白い外套の輪郭が、霧の奥に一歩、二歩、と距離を増していった。

 三歩目で、輪郭は霧に溶けて、見えなくなった。


 シリンは欄干に片手を置いた。

 石の冷たさが、手袋越しに、手首の骨まで、一拍より短い間合いで上がってきた。冷たさは届いた。冷たさの下にあるはずの石の粒子の肌理は、手袋の厚みにされて、届かなかった。——届かなくてよかった。指紋の溝に石の肌理が上がってくると、シリンは今朝の自分がこの欄干に「触れた」事実を、身体の側から記憶してしまう。月影派の娘は、記憶を身体に刻まない訓練を受けている。記憶は紙と声にだけ刻み、身体には残さない。


 冊子を外套の内側にしまった。

 胸の前の、心臓の位置より少し下に、三十二頁の重さが静かに据え付けられた。外套の内布越しに、紙の四隅の角が、肋骨の側面をごく浅く押してきた。その押し返しで、シリンは冊子の位置を身体の座標の中に確定させた。


 ——六百十一。

 その数字を、もう一度、唇の内側で繰り返した。


 霧の中で、自分の唇が動いたことに、シリン以外の誰も気づかなかった。


---


 目録室に戻ったのは、朝の講評の後だった。


 地上三層・西側の目録室。シリンがこの七日間で「自分の棚」と呼びはじめている部屋——ただし、その呼び方が甘いことは知っていた。月影派の娘は何ひとつ「自分の」と呼ぶべきではない。所有の言葉は隙を作る。


 碧一色の光が、朝とは違う角度で四方の壁面を満たしていた。


 目録室には天窓がない。光源は壁面の碧い氷の象嵌のみ。その象嵌は時刻によって微かに色相を変える——朝は少し白みがかった碧、昼は最も均質な碧、夕刻は深い藍に寄った碧。この部屋では、時計の代わりに壁が時刻を告げる。シリンは朝の講評から戻ったばかりの今、壁の碧がまだ白みを帯びていることで、自分がこの部屋に何時ごろ戻ったかを正確に測ることができた。入室の瞬間、首の後ろと肩甲骨の間の二箇所から、最初の放熱が始まった。外套の布を通しても、この部屋の冷気は体温に先回りする。


 部屋の中央の長卓に、シリンは外套を着たまま着いた。

 椅子は背もたれが低い。長時間の作業を前提にしていない。蒼氷派の椅子は、「読む者の背骨が疲れたら、それは休息の合図である」という文化を、木の角度で伝えていた。


 三十二頁の冊子を、傾斜台の上に置いた。


 表紙を開く前に、シリンは一度だけ、扉の方を振り返った。

 当番司書は奥の間にいる。扉の向こうから紙をめくる微かな音が届いた。一枚、また一枚。音の間隔が、呼吸と同じ規則性で揃っていた。蒼氷派の書記の紙のめくり方は、音の高さと長さまで揃えて訓練されている——第08章の主閲覧室で聞いた音と、同じ規格だった。若い当番は一日の最初の業務として目録台帳の点検をしているらしかった。十分遠い。十分静か。


 表紙を開いた。


 指先が、三十二頁分の紙の重さを、一度、測り直した。紙そのものが持つ匂いはほとんどない——蒼氷派の凍結保存の結界の中で、紙は年月の匂いすら手放している。代わりに、鉱物の薄い冷たさが、紙の面から立ち上がって、シリンの鼻の奥に一瞬だけ溜まった。帝都の古文書が持つ膠の匂いも、黴の匂いもない。匂いの不在もまた、この冊子の一つの情報だった。


 最初の頁は、凡例だった。蒼氷派の書記の均質な筆跡で、冊子の構成が記されていた。「本冊は、氷の図書館・封書庫に保管される封印文書の、外形リストの復元稿である」「外形とは、題名、推定著者、推定成立年、主題分類、所在層の五項目を指す」「推定根拠は各項目ごとに凍結番号の参照履歴から逆算されており、誤差範囲は巻末の注記に記す」——規則正しく、余計な修辞のない、事務的な前書き。


 二頁目から、本文が始まった。


 一頁につき、およそ十九点。頁を繰っていくと、題名と推定著者が整然と並んでいた。全てがシリンの未知の文書だった。当然だった。これは焔武帝の勅令で目録ごと消された六百十一点なのだから、シリンの幽谷城の書院の蔵書目録にも、当然ながら一点も登録されていない。


 ——だが、シリンは、登録されていないはずの題名をいくつか、知っていた。


 「原炎七分割における監査者の成立に関する覚書」——これは、幽谷城の月影派の裏史に一度だけ登場する題名だった。裏史では「失われた文献」として脚注に載っていた。脚注の文献が、ここでは本文の項目として載っている。


 「灰鎖派の番人の権限に関する原則条文」——これも、裏史の脚注。

 「継承の儀の総則」——これも、脚注。


 脚注が、本文になっている。


 シリンは一頁目の角を、手袋越しに指で押さえた。手袋の厚みの向こうで、紙の端が微かにたわんだ。撓みの感触は、手袋一枚隔てた遠さで返ってきた——遠いのに、確かだった。幽谷城の書院で、裏史の脚注を読む時の紙の撓みが、今、別の図書館の、別の冊子の、同じ角度の撓みとして、シリンの指に届いていた。


 月影派の裏史が「失われた」と記したものと、蒼氷派の参照台帳が「該当番号なし」と記したものが、同じ六百十一点の中に並んでいる。


 一致しているなら、それは二家が同じ方向を向いて同じ火口の縁に立っているということだった。違う角度で同じ深淵を覗き込んでいる。蒼氷派は上から参照台帳の目で、月影派は裏から家の影の目で。覗き込んだ深淵の名前は、同じだった。


 ——焔武帝の勅令。


 シリンは頁を繰りながら、主題分類の分布を頭の中で集計した。月影派の娘は、頁を繰りながら数字を集計することを、幼少期の訓練の初期課程で叩き込まれる。数字を拾うのに筆を使わない。筆を使うと、集計の事実そのものが紙の上に残ってしまう。残してはならない集計があるからだった。


 一頁、二頁、三頁、四頁——数字が肋骨の裏側で積み上がっていく。一頁繰るごとに、数の束が一段、また一段と重ねられていく感触。物理の重さではないのに、呼吸の深さがその重さを勘定している。五頁目を繰る頃には、集計の方向を、シリンはもう確信していた。分布が、偏っていた。


 六百十一のうち、ざっとの見積もりで——歴史・年代記が四十点あたり、魔法の原典が二十点あたり、継承の儀の総則が二十五点あたりに偏って集中している。「あたり」という言い方は幽谷城では許されない曖昧さだったが、頁を繰っている最中の概算としては許される。


 偏りの中心——歴史、魔法、継承の儀。

 三つに共通するもの——原炎。


 原炎の文献そのものは数は少ない。だが「原炎について間接的に言及し得る」三つの主題が、六百十一の中で選択的に封じられていた。直接の標的を隠すために、周辺を同時に消す。シリンの家の書院では、それを「傘で雨を隠す」と呼ぶ。雨を直接隠すことはできない。だが傘の中に雨ごと入ってしまえば、「傘の中に何があるか」は外からわからなくなる。焔武帝の勅令は、傘だった。傘の中に、何を隠したかったのか。


 シリンは筆を持たないまま、頁を繰り続けた。


 冊子の中盤——十五頁目あたりで、頁の余白に小さな注記を見つけた。蒼氷派の書記の筆跡。「推定不能」とだけ書かれていた。


 十五頁目の右下、題名欄が空白のまま、著者欄も空白、推定成立年の欄に「推定不能」の注記だけが添えられた行。凍結番号だけが記されている——「一の二十七の四一」。


 ——主題分類二十七。

 シリンは手袋の内側で、指先を一度だけ握った。


 アシュルの動線が、この番号の周辺を周回している。この七日間、目録室の扉の影から観察してきた彼の視線の着地点と、今、目の前の冊子の偏りとが、同じ一点を指していた。


 ——重なっている。

 ——重なっているから、彼と組む価値が確かにある。


 シリンは一度だけ、自分の唇が動いたことに気づいた。誰にも聞こえない声量で、「ええ」と呟いていた。肯定の一音。自分に対する肯定だった。幽谷城の書院では、自分に対する肯定は許されない。それを今朝、破った。


 破ったことを、記憶の中に固定した。


 頁を繰り続けた。十六頁、十七頁、十八頁。

 十九頁目で、シリンは一度頁を戻した。


 戻したのは、推定成立年の欄の不自然さに気づいたからだった。


 六百十一のうち、帝国中期——おおよそ焔武帝の治世の百年から二百年前——に成立したとされる文書が、ほぼ皆無だった。原炎期の文書が最も多く、次いで帝国初期、そして焔武帝の治世の直前。中期がすっぽりと抜けている。


 中期が抜けている、ということは、中期の百年間、原炎に関する文書が一点も書かれなかった——のではない。書かれなかったのではなく、中期の文書は焔武帝の勅令以前に、別の経路で既に失われていた、ということだった。


 ——月影派の「見ないことを選んだ」時代と、重なる。


 シリンの肩が、その一行を頭の中で完成させた瞬間、微かに強張った。強張ったのは、左の肩甲骨の、内側の縁の一点。強張ったのを、シリン以外の誰も見ていないはずだった。奥の間の当番司書は紙をめくる音を止めていない。扉の向こうの世界は、シリンの肩の強張りに気づかない。


 ——近づくな。


 声が、内側で、一度だけ鳴った。

 ふだんより低い位置から鳴った気がした。胸の奥、心臓の後ろ側あたりから。肋骨の裏側の一段下——胸の棚で言えば、最下段のさらに下の、ふだん何も置かない空間。警告の形ははっきりしていた。近づくな。それ以上の言葉はなかった。


 シリンは息を一度ゆっくり吐いた。

 目録室の冷気が、吐いた息を白く結ばずに、そのまま空気に溶かした。湿度が低すぎて、白息すら作れない。自分の呼吸が、生まれた瞬間に証拠を消される——それが、この部屋の空気の働き方だった。


 息を吐きながら、シリンは声に応えなかった。

 応えない——それがシリンの今朝からの決定だった。朝、湖岸区で「早すぎる」と言った声にも応えなかった。今、「近づくな」と言った声にも応えない。応えないで、仕事だけを続ける。


 頁を繰った。二十頁、二十一頁、二十二頁。


 二十二頁目の上段に、シリンは初めて「不自然な順序」を見つけた。


 冊子は凍結番号の順に配列されているはずだった。最初の頁から順に、時代区分一、主題分類が昇順、個体番号が昇順。ところが二十二頁目の上段で、個体番号が一度だけ、後ろに戻っていた。

「一の二十七の三五」の次が、「一の二十七の三四」になっている。


 蒼氷派の書記は、番号の順序を間違えない。絶対に間違えない。家の文化が間違いを許さない造りになっている。では、なぜ三五の次に三四が来ているのか。


 理由は一つだった。

 元々、三四と三五の間に、別の個体——三四の五、とでも呼ぶべき何か——が存在していて、その個体が目録ごと消された時、番号の並びが詰められた。そして詰めた際に、詰めた痕跡を隠すために、三五と三四を意図的に入れ替えた。入れ替えは蒼氷派の所業ではない。蒼氷派はこの冊子を「復元稿」として作っている立場であり、入れ替える動機がない。


 入れ替えたのは、もっと前の時代の誰かだった。


 ——シリンは、その「入れ替え」を、幽谷城の書院で一度だけ見たことがあった。


 月影派の裏史の「粛清の夜」の章に、日付の並びが一度だけ後ろに戻る箇所がある。前後の筆跡も書式も同じ。だが、日付だけが、一夜ぶん、戻っている。書院で教わったのは、「戻った一夜を、我々は数えない」という短い一行だった。数えないことを選んだ一夜がある、という意味だった。


 その「数えないことを選んだ」癖が、六百十一点の冊子の二十二頁目の上段にも、同じ形で刻まれていた。


 ——月影派が、関わっている。


 その認識が、シリンの肋骨の裏側に据え付けられた。据え付けられたのは、胸の棚の中でも一番下の段——先ほど先祖の声が鳴ったのと、ほぼ同じ位置だった。据え付けられた認識は、冷たかった。肋骨の裏側に冷たさが居座るのは、目録室の冷気のせいではない——胸の内側の温度差のせいだった。内側に冷たい場所と、まだ温かい場所がある。差が、ある。差があることを感じ取る度に、シリンは自分の内側に「まだ温かい場所」が残っていることを確認していた。


 確認は、不意打ちだった。不意打ちは、不快ではなかった。


 ——不快でない、と感じた自分を、今朝のうちに二度、記した。


 頁を閉じなかった。まだ閉じる時刻ではない。シリンはもう一度、冊子の最初の頁まで戻って、主題分類の偏りを数え直した。二度目の集計は一度目より正確だった。


 歴史・年代記、魔法の原典、継承の儀の総則——合わせて八十二点。六百十一点の、およそ一割三分。


 一割三分に、偏りの本体が凝縮している。残りの八割七分は、周辺の雨だった。雨の中に、傘の本体が隠れている。


 シリンは顔を上げて、壁面の碧光の色相が、朝から昼の均質な碧に移りかけているのを確認した。白みの取れた、一切の澱みのない碧——四方の壁が同じ深さの呼吸をしている時刻。四時間ほど、頁を繰っていたことになる。同じ姿勢で座り続けた背骨の中心に、低い痺れが一本、通っていた。


 頁を閉じた。


 閉じる動作は、ゆっくりだった。月影派の娘は、物を閉じる音を立てない。音を立てないことは、仕事の質の一部だった。


---


 書架の間に入ったのは、その日の午後遅くだった。


 目録室を出て、主閲覧室の北側の入り口から、地上二層への主階段を登った。二層の西翼、時代区分三——帝国初期——の配架区画。書架の列が、天井の高さいっぱいまで立ち上がっていた。人の背丈の三倍。梯子が等間隔に立てかけられていて、背表紙の上端に届くには、梯子を六段は登らなければならない造りだった。見上げると、上端が遠近法の中で細く絞られていき、垂直に積み上げられた紙の層の重さが、首の後ろに微かな圧として降りてきた。


 シリンはその列を、梯子を使わずに、ただ歩いた。

 背表紙の下半分に指を滑らせる——帝都なら月影派の情報収集の癖と看破されかねない動作だったが、霜都の蒼氷派の司書たちは書架の間を歩く候補者の指先には興味を示さない。候補者は書物に触れるために招かれており、触れ方の作法を監視する必要がない、というのが司書たちの共通認識らしかった。この合理性は、月影派にとっては例外的にありがたかった。手袋越しに、背表紙の革の凹凸が、一冊ごとに違う律動で指の腹に返ってきた。凍結保存の結界の内側で、革はひと世代前の質感を保ったままだった。触覚の上を通り過ぎていくのは、帝国初期の、凍った時間だった。


 シリンが探していたのは、公式記録の中の「粛清の夜」の頁だった。


 具体的には——帝国初期の年代記、「帝国編年大成」の第三十七巻。三百七年前の冬の一巻。月影派の裏史が「数えない一夜」と呼ぶ夜の前後の公式の記述が、この巻に収められているはずだった。


 書架の端で、凍結番号の札を目で追った。

「三の〇一の三六」「三の〇一の三七」「三の〇一の三八」——三十七が、なかった。


 三十六の隣に、三十八があった。


 ——記録の不在。

 シリンは一度立ち止まり、三十六と三十八の間の隙間に、手袋を外した指先を直接挿し入れた。書架の間の冷気が一息で指の腹に入ってきた。針先で肌を撫でられるような、乾いた鋭さ。


 指先が、書架の内部の木に触れた瞬間、別のものを拾った。

 木の表面に、ごく微かな、研磨の痕跡があった。他の場所の木目が指の腹に細かい山脈のような肌理を返すのに対し、その一点だけ、肌理が均されて、指の腹が滑る速度が、僅かに速くなった。何かの形を消すために、木の表面を削った痕。札を取り外した跡か、札を削り落とした跡か。


 月影派の書院では、「木に残った痕跡は記憶より長く生きる」という一文を暗唱させられる。紙は焼けば消える。記憶は死ねば消える。だが木の表面の研磨の痕は、家が二代三代替わっても残る。焔武帝の勅令は紙を封じ、人を封じたが、木は封じ切れなかった。——この一箇所だけ。


 シリンは指を引いた。

 引いた感覚を、胸の奥に固定した。指先に残った微かな木の匂いは、鼻の奥に一瞬だけ留まって、すぐ消えた。手袋を戻した瞬間、指先の感覚の半分が布の厚みの向こうに押し戻され、残りの半分は、指の内側でまだ生きていた。


 ——三十七は、あった。

 そして、消された。

 消されたのは、三百七年前の冬の夜の、公式の記録だった。


 消した主体は、焔武帝の勅令ではなかった可能性がある。焔武帝の勅令は、現代の封印だ。三十七の消失が三百七年前の直後に行われていたなら、それは現代の焔武帝の勅令よりも遥かに古い時期——粛清の夜のすぐ後——に、誰かが既に消していた。


 ——月影派の「見ないことを選んだ」先祖が、三百七年前の冬の夜、ここに手を伸ばしていた。


 シリンは次の書架の列に進んだ。


 時代区分三、主題分類〇二——帝国初期の外交記録。三百七年前の周辺の日付を追った。日付のある記録は残っていた。だが、日付の行間に、人名が抜けていた。月影派の裏史には、その夜に関わった七人の人名が脚注に記されている。公式記録には、その七人のうち三人の名前が、中途半端に残っていた。残りの四人は、人名の代わりに「当該者」という代名詞が当てられていた。


 代名詞は、蒼氷派の書記の文化では禁忌に近い。蒼氷派は人名を数値のように扱う。名前がわからない場合は欄を空白にする。空白にしないで代名詞を使うのは、「わからない」のではなく「書かないことを選んだ」ことの証だった。


 四人の名前が「当該者」に置き換えられている。

 その四人のうち、二人は、月影派の裏史に載っている名前だった。


 月影派の先祖が、自分たちの名前を、公式記録から「当該者」に置き換えた。あるいは、置き換えるように頼んだ。あるいは、置き換えなければならないほどの権力を、当時の月影派が帝国の記録官に対して持っていた。


 三番目の可能性が、最も蒼白かった。


 ——近づくな。


 声が、もう一度、内側で鳴った。

 今度は胸の奥ではなく、こめかみの裏側あたりから鳴った。耳の内側の骨の、ほんの数分の一寸向こう。ふだんより近い位置だった。近い位置から鳴る声は、強い。警告の強度が増している。


 近づくな——何に?

 問いが、今朝とは違う切迫で、内側を走った。


 シリンは書架の列の端に立ち、片手を書架の縁に置いた。手袋越しに、木の冷たさが届いた。冷たさは届くが、今朝の欄干の時とは違って、シリンの身体は冷たさの「下」に何があるかを知りたがっていた。木の肌理、研磨の痕、書架の奥の空白——全部、指先で直接確かめたがっていた。


 確かめたい、という衝動を、シリンは久しく身体のどこかに仕舞っていた。幽谷城で「査定」に書き換えられたはずの衝動だった。書き換えが完全ではなかったらしい。今朝からの仕事の中で、書き換えの下にあった本来の形が、少しずつ浮かび上がってきていた。


 ——知りたい。


 その三文字が、先祖の「近づくな」と、シリンの内側で、ぶつかった。


 ぶつかったのを、シリンは外には見せなかった。書架の列の端に立ったまま、顔の表情は微笑の設計をそのまま保っていた。月影派の娘は、内側でぶつかるものをぶつけたまま、外側の設計を崩さない訓練を受けている。右の睫毛だけが、ごく微かに、一度、震えた。震えは、付け根の皮膚の下で生まれ、睫毛の先端に届く前に止まった——外側からは見えない震え。その震えは、シリン以外の誰にも見えなかった。


 ——誰にも見えない震えが、存在する。


 その事実が、シリンの内側に、もう一つ、数えられた。


---


 書架の列の、反対側の端で、人の気配がした。


 シリンは気配を察知するのに音を使わない。影の厚みの変化と、書架の間を走る空気の流れの、ごく小さな乱れで察知する。書架と書架の間を走る空気は、この層の中では極めて規則的な対流を持っていて、人が一人、列の向こう側に立つだけで、対流の速度が頬の皮膚にわかる程度に変わる。今、書架の列の向こう側で、誰かが立ち止まっていた。立ち止まって、冊子を一冊、棚から引き抜いていた。抜く時の紙の繊維の摩擦音が、書架の隙間を伝って、シリンの耳に、小さな乾いた一音として届いた。


 姿は見えなかった。見えないのに、シリンは誰かを知っていた。

 金茶色の影の濃度——ルキウスの気配だった。


 三百七年前の夜の周辺の記録は、月影派にとっての関心事であると同時に、太陽派にとっても別の意味で関心事であるはずだった。灰鎖派粛清の夜——太陽派アウレリア家の当時の当主が、灰鎖派の番人に対して「最終判断」を下した夜。ルキウスの先祖が、何を見て、何を見なかったかの、記録。


 シリンは書架の列の端を、ゆっくりと半歩だけ動いた。

 ルキウスの姿が、書架の隙間越しに、視界の端に入った。


 直立した姿勢だった。両手で厚い冊子を広げ、視線は頁の上ではなく、頁のすぐ上——頁の向こう側——の空中に一度だけ滑った。何かを照合している視線だった。紙の上の記述と、紙の上にない何かを、同じ平面で比べていた。その何か——月影派の娘のシリンには、観察だけで推定するしかない——は、おそらく、先祖の記憶だった。


 太陽派の継承の儀は、月影派とは違う仕組みで先祖の記憶を受け渡すと聞いていた。詳細は知らない。知らないが、ルキウスが冊子を見ていない目で空中の何かを見ている今この瞬間、彼の側に、彼自身のものではない記憶が浮かんでいる——そう見えた。


 ルキウスの指が、冊子の一箇所で止まった。

 止まった箇所は、三百七年前の冬の、灰鎖派の番人の名前があるはずの行だった。名前の位置に、何が書かれているかは、シリンの位置からは読めない。ただ、その行でルキウスの指が止まり、金茶色の眉根が寄った。


 眉根が寄るのは、ルキウスにしては珍しい。

 眉根の寄せは、作った表情ではなかった。

 太陽派の嫡子が、書架の間で、素の反応を見せた。

 見せた相手は、冊子だった。正確には——冊子の中の、先祖の記憶と食い違う一行だった。


 シリンは息を止めた。

 息を止めるのは、月影派の娘が盗み見をする時の、最後の自制の合図。息を吐けば、気配が書架の列の向こうまで届く。届けばルキウスが視線を上げる。上げれば、彼はシリンが彼の素の反応を目撃した事実を、知ってしまう。知られてはならない。止めた息が、胸の奥で小さな圧になって溜まった。圧は呼吸の代わりに、時間の停止の合図として肋骨の裏側に貼り付いた。


 ルキウスの指が、冊子のその行を、もう一度、ゆっくりとなぞった。

 二度目のなぞりだった。月影派の書院では、二度目のなぞりは「再査定」と呼ばれる。一度見た記述を、改めて、別の基準で検証し直す動作。彼は今、太陽派の公式史という基準から、太陽派の先祖の記憶という別の基準へ、評価の足場を移していた。


 足場を移すと、同じ一行が、違う意味になる。


 彼の側で何が起きているかは、シリンには完全にはわからない。わからないが、輪郭は推定できた。太陽派の嫡子が、先祖の記憶の中の灰鎖派との関係が、公式史の記述よりずっと親密だった可能性に、今、気づいた。今朝ではない。今日の午後、この書架の間で。シリンがたまたま反対側にいた、その同じ瞬間に。


 ——光と影の鏡像。


 その一行が、シリンの内側で、自動的に浮かんだ。

 ルキウスの光は、公式史の明るい側を照らしている。シリンの影は、裏史の暗い側を撫でている。二人が今、同じ「三百七年前の冬の夜」という一点を、別々の方向から照らしつつ、結果として同じ一行に手を伸ばしていた。


 息を止めたまま、シリンは半歩、後ろに退いた。

 書架の列の影に、自分の輪郭を埋没させた。埋没は月影派の得意技だった。


 ルキウスは、冊子を閉じなかった。閉じずに、書架に背を向けて、通路の反対側の窓辺まで歩いた。窓辺に立って、高原の午後の白い光を顔の左側に受けながら、冊子のその行をもう一度、静かに見た。窓からの白い光が金茶色の髪に触れて、髪の表面で一度屈折した。その屈折の角度が、シリンの目には、ふだんのルキウスの横顔より、ほんの僅かだけ固く見えた。横顔の線が、通路の奥から見て、いつもより三分の一ほど鋭かった。


 シリンは、ルキウスを、自分の胸の棚の中段に置いた。


 ——この方も、変わりはじめている。


 霜都に来てからの七日間で、太陽派の嫡子の輪郭が、違う濃度を帯びつつあった。昨日までは判定できなかった。今、判定できた。


 判定を、記録した。


 書架の列の影から、さらに半歩退いた。通路の奥の方角に、別の気配があった。今度は、影が薄い。影の薄い気配は、朱謡派の少女のものだった。


---


 ライラは、書架の列ではなく、列と列の間の通路の床にいた。


 膝をついていた。両膝。蒼氷派の書架の間で両膝をつくのは、行儀のよい姿勢ではない。蒼氷派の司書たちは、朱謡派の少女のその姿を遠目に見て、注意したかったに違いない。だが誰も注意していなかった。誰も注意しない、ということは、ユエンがライラの挙動について「試煉中は注意を保留する」と司書たちに事前に伝えているということだった。その伝達の判断も、数えた。床の冷気が、ライラの薄い朱色の裾から、膝、腿、腰へと順に登っているはずだった。ライラの背中は一度も震えなかった。冷気が登っていることに、たぶん、気づいていない。気づかないのは、今、他のことに全神経が吸い取られているから。


 ライラは、通路の床の、石の継ぎ目を指でなぞっていた。


 石の継ぎ目そのものを撫でているのではない。継ぎ目の上に一度だけ落ちた、何かの欠片——シリンの位置からは、埃とも紙片とも判別がつかない何か——を、指先で、押して、動かしていた。動かしていた、というより、並べ替えていた。並べ替えながら、唇を小さく動かしていた。


 声は、シリンの位置には届かなかった。


 だが唇の形から、シリンは断片を読んだ。「けしさ——」と、「のはなしは——」と、それから「どうしてここから——」と、三つほど。月影派の娘は唇読みを習得している。習得したが、朱謡派の少女の唇は、語尾を伸ばす癖があって、途中で意味が砕けた。


 シリンが拾えた限りで繋げれば——「灰鎖派のはなしは、どうしてここから」。

 続きがあるはずだった。続きは、唇の動きの速度についていけず、シリンの目の側で脱落した。


 ライラは、石の継ぎ目から顔を上げて、頭上の書架の札を一つ見た。

「3-04-——」という札だった。

 時代区分3、主題分類04——帝国初期の、灰鎖派に関する外交記録の配架区画。


 その区画の書架の上を、ライラの視線が、ゆっくりと、右から左へ走った。走り終えたところで、視線が一度だけ、ある一点で止まった。止まった位置には、シリンの位置からも見える欠番があった。札の番号が、二つだけ、飛んでいた。


 朱謡派の少女は、膝をついたまま、その欠番を見上げて、しばらく動かなかった。

 それから、ごく小さく、うなずいた。


 頷きは、誰に向けた頷きでもなかった。

 自分の内側で起きた理解を、自分の身体で確認する頷きだった。シリンはそれを、よく知っていた。月影派の娘も、同じ種類の頷きを、幽谷城の書院で幾度か身につけさせられた。


 ——この子は、気づいた。


 欠番の分布が、灰鎖派の記述に系統的に重なっている。シリンが冊子の偏りから逆算した「傘の本体」と、ライラが書架の欠番から拾い上げた「物語の空白」が、同じ一点を、別の方向から指していた。


 ライラは立ち上がった。膝の埃を払わなかった。蒼氷派の書架の間に、埃はない。払うべき埃がないことを、ライラは身体で学んでいた。学んだ少女は、一歩ずつ、書架の列の奥に向かって歩きだした。歩く先には、次の欠番の書架があるはずだった。彼女は欠番を、物語の隙間として、一つずつ拾い集めていた。


 シリンは自分の立っている位置から、ライラの背中を見送った。


 ——朱謡派の知性は、物語の形でしか外に出てこない。今までは「要注視」の棚に置いていた少女を、今日からは、もう少し上の棚に置く。


 書架の列の影から、シリンはもう一度、息を吐いた。

 吐いた息は、目録室の時と同じく、白く結ばなかった。


---


 ユエンの私室の扉は、地上五層の西翼の、奥まった廊下の突き当たりにあった。


 三日後の夕刻。約束の時刻は日没の一刻前。シリンは連絡橋を渡らず、氷の図書館の内部階段を使って、五層まで直接登った。登る途中で、蒼氷派の若い司書と三度すれ違った。三度とも、司書は名前を名乗らず、ごく短く一礼だけをして通り過ぎた。案内する側が名乗らないのは、蒼氷派の礼儀。その礼儀の下に、今日は別の意味も重ねられているらしかった——案内される側の用件を記録に残さないための、口の封印。


 五層の空気は一段乾いていた。鼻の奥の粘膜が、最初の一息で軽く突かれた。


 ユエンの私室の扉は、白い石の扉だった。

 碧い氷の象嵌が、扉の中央に一つだけ嵌めこまれていた。象嵌には名前も紋章もない。名前と紋章を排除した扉。持ち主の不在そのものが扉の意匠だった。


 シリンは扉の前で一度だけ、外套の前を整えた。

 薄い灰色の外套。袖口の半月の刺繍が、胸元の光で微かに光った。月影派の娘は相手の領分に入る時、自分の家紋を必ず身につける。家紋は護符ではない。家紋は自己宣言だった——「わたくしは誰に属するか、今、確認しました」と、自分に告げる宣言。


 扉を、三度、静かに叩いた。

 叩いた時の音は、指の第二関節の骨が石に当たる乾いた三連打。石の扉は音をほとんど吸わず、三連打は三つとも同じ高さで返ってきた。


「どうぞ」


 内側から、乾いた低い声が、短く応えた。

 扉の向こうの声は、石の扉を通過する時、普通は少し鈍る。ユエンの声は鈍らなかった。石の扉の厚みを、声の波が、損失なく通り抜けてきた。発声の精度が、扉の質量を超えていた。——扉の向こうで、ユエンは、石の厚みを一枚の紙のように扱うだけの呼吸の訓練を日々続けていた。その事実が、一語の「どうぞ」の中から、シリンの耳の奥に届いた。


 シリンは扉を押した。


 私室は、小さかった。

 想像していたよりは小さい。白い石壁の正方形の部屋。寸法は、三歩×四歩。第一印象は、候補者の個室と同じ造り——ただし、家具が違った。入室の瞬間、部屋の中の音響が狭まった。石壁が音の反射を短く断ち切り、シリンの外套の裾が石畳を撫でる音が、一歩で消えた。


 壁の一面に、書架があった。

 書架は床から天井まで。冊子は一冊の隙もなく、背表紙を揃えて並んでいた。背表紙の並びには分類の乱れが全くない——シリンの目は、その事実を最初の〇・二秒で判定した。私物の書架で分類の乱れが全くないというのは、かなり稀だった。普通、私物の書架には「よく読む冊子が手前に寄る」という生活の痕跡が残る。この書架には、それがない。全ての冊子が同じ頻度で読まれているか、あるいは、読まれた痕跡が毎回、書架に戻す時に整えられているか。後者、とシリンは判定した。


 反対側の壁に、文机があった。

 文机の上は、ほぼ空だった。記録板が一枚、文机の中央に置かれている。板の角は卓の角と正確に揃っていた。角の揃え方——シリンはもう一度、〇・二秒の判定を入れた。揃え方が、過剰だった。過剰な揃え方は、何かを揃えることで何かを揃え残していることの補償になる場合がある。


 文机の反対側、窓の下に、寝台があった。

 寝台は狭い。一人分の幅よりさらに狭い。寝具は白一色。畳まれ方に生活の皺がない。


 窓は、腰高の一つだった。

 窓の外は、白一色だった。

 夕刻の霧が、窓枠の向こう一面に滞留していた。霜都の白い屋根は、霧の向こうに、あるはずなのに、見えなかった。高原湖も、見えなかった。「窓の外に何があるか」を知っている者にとっては、窓の外は「何もない」と等しかった。


「お座りください」


 ユエンは文机の反対側の椅子に腰かけていた。シリンに向けたもう一つの椅子を、短く顎で示した。彼女の指先は、文机の上の記録板の端に、正確な角度で置かれていた。指先の先端が、記録板の縁からはみ出さない距離で止まっていた。


 シリンは腰かけた。

 椅子は、賓館の個室の椅子と同じ造り——背もたれが低く、腰椎を支えない——だった。ただし、坐面の木の質が少し柔らかかった。外套越しに、坐面の木目が腿の裏に、ごく浅い凹凸として返ってきた。長い歳月、同じ位置に同じ重さが載り続けた場所の、僅かに擦れた窪み。坐面の木を少しだけ柔らかくしているのは、ユエン本人ではなく、先代の蒼氷派当主の配慮かもしれなかった。当主の配慮は、孫の代まで木の質感に残ることがある。月影派の書院の椅子にも、同じ種類の、先代の手癖の残滓があった。


「三十二頁、読み終えました」


 シリンは単刀直入に切り出した。月影派の娘は本来、単刀直入を避ける。だが今日の相手は、単刀直入の言葉の方を「有益な情報」と分類する側の人だった。分類の形式を相手に合わせるのは、月影派の古い作法だった。


「我々も、三十七頁、読み終えました」


 ユエンの返答は、数値の応酬だった。三十二と三十七。枚数の差が一瞬、二人の間に可視化されて、すぐに消えた。消えた後に残ったのは、「読み終えた事実」だけだった。


「一つ、申し上げても?」


「お聞きしましょう」


 シリンは一度だけ、指の位置を直した。膝の上で組んだ手の、右手の指を、左手の指の甲の上から、僅かに下へ移した。移した動作を、ユエンの碧い瞳が、走査の順路の中に拾った。拾ったことを、シリンは承知していた。


「六百十一点の冊子——主題分類の偏りが、傘の形をしておりますわ」


「傘」


 ユエンの声が、一語で止まった。

 一語で止まったのは、蒼氷派の語彙辞典に「傘」という言葉の、今、シリンが使った意味での用法が登録されていなかったからだった。


「月影派の書院では、こう呼びますの。——直接隠したいものを隠すために、周辺のものごと、まとめて上から覆うこと」


「……比喩ですね」


「はい。ですが、六百十一点の分布は、比喩ではございません。歴史・年代記、魔法の原典、継承の儀の総則——その三つの主題が、全体の一割三分を占めておりますわ。その一割三分に、封じられた中心があって、残りの八割七分は、中心を隠すために一緒に封じられた『傘の布』です」


 ユエンの碧い瞳が、シリンの顔の上で、初めて、完全に止まった。

 今朝の湖岸区での〇・五秒の停止よりも、もう少し長い停止だった。一秒近かった。その一秒の間、部屋の中の空気の流れが、ユエンの呼吸の回りで、半拍、遅れた。石壁の狭い音響の中では、呼吸の半拍の遅れは、遠くから見ても隠せない。


「……有益な仮説です」


 訂正が来た。今回は、訂正までの継ぎ目が、湖岸区の時より短かった。短いのに、シリンは、「有益な」という評価語が、訂正の前に一度「興味深い」という表現を経由しかけて、途中で刈り取られたことに気づいた。訂正の速度は上がっている。けれど、刈り取られた前段の長さは、むしろ延びていた。遅延の形が、単純な継ぎ目の長さから、内容の選別の長さへと移行していた。


 シリンはその移行を、今朝の六百十一の隣に並べて記憶した。


「傘の中には、灰鎖派に関する文書が集中しているとお見受けしますわ」


 シリンは続けた。ユエンの停止が、次の言葉の時間を作っていた。


「そして、傘の本体にあるはずの文書のいくつかには、古代文字で書かれた記述が含まれているご様子。——わたくしは今朝の分析で、六百十一点のうち推定成立年が原炎期に遡るものを、おおよそ百三十点ほどと見積もっております。百三十点のうち、古代文字が優勢な書記言語だった時代のものは、およそ七割——九十点前後」


「九十二点でございます」


 ユエンが、シリンの推定を、数字で上書きした。


「九十二点の古代文字の記述は、現在の蒼氷派の書記官の中で、完全に読解できる者は」


「ございません」


 回答は早かった。早すぎた。

「蒼氷派の書記官には、古代文字の初歩は伝えられております。ですが、原炎期の書記法は——変則が多く——我々の初歩では、対処できません」


 初歩、という語が、二度続いた。

 一度目と二度目で、語の重さが違っていた。一度目は事実の陳述、二度目は言い訳の輪郭。言い訳の輪郭を自分で作ったことに、ユエンは気づいていただろうか。気づいていたから二度目を続けた——その可能性の方が高い、とシリンは判定した。


「わたくしからは、一つ、ご提案がございますの」


 シリンは膝の上の手を、もう一度だけ動かした。

 今度は、右手を左手の上に重ねた。提案をする時の、月影派の娘の合図。相手は月影派ではないから合図の意味は伝わらない。意味が伝わらない合図を使うのは、半分は自分自身のためだった。「わたくしは今、提案をしている」と自分に言い聞かせるための儀式。儀式がないと、提案の言葉が、ただの情報共有と区別がつかなくなってしまう。


「アシュル殿に、地上四層以上へのアクセスを」


 シリンは言い切った。

 言い切った直後、ユエンの指先が、文机の上の記録板の角で、初めて、動いた。


 ごく小さい動きだった。指の腹が、記録板の角から、一寸ほど内側へ滑った。一寸の滑り——それだけだった。指の腹は記録板の木肌に留まったまま、別の場所へ逃げた。逃げた先は、記録板の中央ではなかった。文机の抽斗の取っ手の方角だった。取っ手そのものには触れなかった。取っ手の手前で、指先は、止まった。


 抽斗の中には、何かがあった。

 ユエンの指先が、一瞬だけ、その「何か」の方向へ引かれてから、引き戻された。引き戻される直前、指の関節の筋が、絹糸より細い張りを持った——部屋の空気が、その張りを、シリンの頬に微かな震えとして伝えた。引き戻された理由は、月影派の娘にも推定しがたい。ただ、引かれたという事実そのものは、シリンの観察から消えなかった。


 シリンはその事実を、観察から消さないまま、胸の棚の一番奥——ふだんは使わない、記録されても忘れやすい位置——に置いた。深追いしない場所。深追いすべきではないと、月影派の娘の勘が、今、働いた。ユエンの抽斗の中身はユエン自身のものであり、シリンが観察の言葉で触れるべきではない。


 ——誰にでも、触れられたくない位置がある。

 その一行を、シリンは内側で、誰に向けてでもなく呟いた。


「理由を」


 ユエンが、短く求めた。

 短さが、湖岸区の時よりもう少し短かった。情報の処理の速度が、今、彼女の側で最大化されていた。最大化された処理は、外から見ると「乾きが増す」形で現れる。抑揚の幅が狭くなり、語の選別が速くなり、句読点の位置が正確になる。


「アシュル殿は、古代文字を読めますわ」


 シリンは答えた。


「どの程度に」


「姉上様——イシュタ様と申し上げたかしら——の傍で、幼い頃から日常の景色として見てきた程度に。ですが、アシュル殿の指が古代文字の字形を辿る時の迷いのなさは、幽谷城の書院の古代文字講座二年分を修めた者と同程度か、あるいは若干上回る、とわたくしは踏んでおります」


「根拠」


 ユエンの問いは、一語だった。一語で問う癖が、湖岸区のあとで、濃度を増している。一語の問いは、相手に最大量の答えを要求する問い方。相手が要求量を満たせないと判断したら、一語の問いは即座に会話を打ち切る機能を持つ。


「根拠は、アシュル殿の目の動きでございます」


 シリンは手短に答えた。答えながら、椅子の縁に置いた右手の指が、坐面の木の角をごく軽く押していることに気づいた。押す力は、先祖の声が「近づくな」と鳴っている時に、シリンの指が必ず選ぶ力だった。今夜は、鳴っていない——鳴っていないのに、指が勝手にその力を選んでいた。月影派の観察は、根拠を数値化しない。数値化しない根拠を、蒼氷派の合理性の前で通すには、簡潔にしか提示できない。


「七日間、目録室の前を通るたびに、アシュル殿の視線が参照台帳のどの列で止まるかを、断続的に観察しております。止まる列の主題分類は、二十七。そのうち、古代文字が主要な書記言語と推定される原炎期前期の文書は——」


「十七点でございます」


「十七点。——アシュル殿がこの十七点に到達できれば、傘の本体の、さらにその内側の、最も薄い布の下の層が、わたくしどもには読めない文字で露出いたしますわ。読めない文字を、読める者を経由して、読ませていただく。それが、わたくしの提案の骨格でございます」


 ユエンは、しばらく返答をしなかった。

 しばらく、というのは、シリンが内側で十二まで数える間だった。月影派の娘は、沈黙の長さを数字で計る訓練を受けている。十二拍の沈黙は、蒼氷派の通常の思考時間の、ほぼ上限だった。上限に達してなお、ユエンは返答をしなかった。


 十三拍目で、ユエンは、口を開いた。


「条件が」


「ございます」


 シリンは先回りして答えた。答えるのが、早すぎた。早すぎた答えは、月影派の娘にしては珍しい隙だった。隙を見せることは今日の交渉の形式の一部だった——相手の側に「主導権を取った」という微かな満足感を置くための、意図的な隙。


「発見した情報の記録権は、シュアン家が保持する」


 ユエンが、条件を置いた。


「発見された情報の原本、写本、写本の写本、発見の経緯、読解の過程——全ての文字情報は、蒼氷派の参照台帳に記入され、氷の図書館の層別保管体系に組み込まれる。他家の候補者は、読解の結果を自家の記録として保持することはできない。——持ち帰るのは、記憶のみでございます」


「記憶のみ」


 シリンは繰り返した。

 繰り返すことで、条件の重さを、自分の側で再査定した。


 記憶のみ、という条件は、灰鎖派の末子にとって、どのくらい重いのだろうか。月影派の娘の側から見れば、記憶のみは、かなり軽い条件だった。月影派は元々、記録を身体に刻まない訓練を受けている。記憶のみで持ち帰ることは、月影派にとってはむしろ自然な形だった。だが灰鎖派の末子にとっては——アシュルにとっては——記憶がどのような状態にあるか、シリンは正確には知らない。


 知らないが、一つだけ、知っていた。

 彼の指先は、この七日間の共用広間の食卓で陶器の椀を持つ時、ほんの僅かに遠かった。椀の縁を掴む位置が、通常の位置より一寸弱、内側に寄っていた。紙の端を掴もうとして、一瞬、指が届かなかった癖を、シリンは食卓の末端の位置から観察していた。観察して、月影派の古い書物に載っている「感覚の末端から始まる薄れ」の記述と、頭の中で照合した。照合は確定には至らなかった。だが仮説としては、既にシリンの胸の棚の上の方にあった。


 仮説が正しいなら、アシュルにとって「記憶のみ」という条件は、軽くはない。

 触覚が遠ざかりつつある者にとって、記憶は、まだ、最も信頼できる持ち帰り手段だった。——だが、いつまで、信頼できるか。


 シリンはその問いを、内側で畳んだ。

 畳んで、顔には出さなかった。月影派の娘は、他家の候補者の身体の代償について、その代償を知っている顔をしない。知っている顔をすれば、それだけで、相手に対する優位の種類が変質する。


「承知いたしましたわ。——条件は公正と存じます」


 シリンはそう答えた。


「承諾の窓口は、わたくしが務めてよろしゅうございますか」


「アシュル殿本人の同意を、シリン殿を経由して得る、ということでしょうか」


「仲介でございます」


「仲介、ですか」


 ユエンが、仲介、という語を、もう一度繰り返した。

 繰り返しの二度目で、語に付与される意味の厚みが、〇・一ほど増していた。蒼氷派の耳には、仲介は月影派の職能の一つとして登録されている。登録されている言葉を繰り返す時、ユエンの耳は、その言葉の登録内容を内側で照合している——シリンは、そう推定した。


「承知いたしました。——仲介を、お任せいたします」


 成立だった。


 シリンは膝の上の手を、組み替えた。組み替えの動作は、今度は合図ではなかった。ただ、仕事が一つ終わった事実を、身体で祝う動作。月影派の娘は仕事が終わると、手を組み替える。書院で身につけた習慣のひとつ。


 ユエンが、記録板を一度、手に取った。

 記録板の表面に、碧い氷の筆で、数文字を素早く書き記した。書き記した文字の内容は、シリンの位置からは逆さに見えた。逆さの文字を読む技能は月影派の娘の必修科目だったが、今日は、読まない。読まない選択をすること自体が、礼儀だった。


 記録板を元の位置に戻した時、ユエンの指は、もう一度だけ、文机の抽斗の取っ手の方角に近づいた。今回は、触れなかった。触れる寸前で、指の動きは自分で自分を止めていた。止めたことに、ユエンはおそらく気づいていた。気づいていても、止めた動作の意味を、シリンに向けて説明する必要は感じていない様子だった。


 説明されない動作は、観察されない動作ではない。

 シリンは観察したことを、観察したまま、何も言わずに引き取った。


「では——本日の訪問は、これにて」


 シリンは席を立った。

 立ち際に、窓の外をもう一度見た。白い霧は、先ほどと同じ白さで、窓枠の向こうに居座っていた。夕刻の一刻前という時刻は、この高原では、霧が最も濃く滞留する時刻のひとつだった。


 ——この方は、毎日、この白い窓を見ていらっしゃるのね。


 その一行が、不意に、シリンの内側に浮かんだ。


 何もない窓を毎日見て、抽斗の中に触れたい「何か」を、毎日、隣に置いたまま見ない。


 その差を、シリンは内側で、小さく抱きとめた。

 抱きとめたことは、顔には出さなかった。


「お気をつけて、お戻りくださいませ」


 ユエンが、最後の挨拶を、短く口にされた。

 短さの中に、今日は、シリンが聞き取れる範囲で、半拍の何かが、乗っていた。何か——それ以上には、シリンの聴覚は解析できなかった。


「失礼いたしますわ」


 シリンは扉を、来た時と同じ静かさで、閉めた。

 閉める瞬間、私室の内側の空気が、碧い氷結灯の淡い光の下で揺れた。揺れは、シリンが起こした風ではなかった。ユエンの呼吸のタイミングでもなかった。私室の中の「何か」の、小さな調整だった。空気の揺れは、扉の隙間を通って、シリンの頬の右側に短い一息として触れ、すぐ消えた。


 調整は、観察した。観察したまま、扉の外側に出た。廊下の空気は、私室の空気よりも一段冷たく、乾いていた。五層の廊下の乾きは、一歩踏み出した瞬間から、外套の裾の下へ入り込んできた。


---


 個室に戻ったのは、夜の深い時刻だった。


 賓館の西翼の、シリンに割り当てられた三歩×四歩の個室。白い石の壁。碧い戸。文机が一つ、寝台が一つ、小さな鏡が一枚。鏡は備え付けのものではない。シリンが街道を旅してきた旅嚢の底から取り出して、文机の隅に立てかけた、幽谷城の書院の鏡だった。銀の縁取り。月影派の半月の紋章が、縁の裏側に彫られている。旅嚢から取り出した時に指の腹で撫でた、銀の縁の肌理の細かい凹凸を、シリンは今でも指先で思い出せた。霜都の石壁と碧光の中で、銀の縁だけが幽谷城の温度を保っていた——もう温度と呼んではいけないほど、古い温度だったけれど。


 戸を閉めた。閉める音は、先ほどのユエンの私室の扉とほとんど同じ乾きを持っていた。石の部屋はどこも、音を短く断ち切る。


 廊下の足音が絶えた時刻だった。賓館の全体が、石の沈黙の中に沈んでいた。どこか遠くの個室から、一度だけ、誰かが寝返りを打つ布の音が届いた。その音を聞き取った自分の聴覚の過敏さを、シリンは内側で確認した。今夜は、普段より、音への過敏さが上がっていた。過敏さは、不安の別名だった。


 文机の前に腰かけた。

 坐面の木が、腿の裏に冷たさを返してきた。日中の長い歩行で温まった筋肉が、一息に熱を手放して、坐面の木に吸われていった。


 鏡の前に自分の顔が来た。

 碧い氷結灯ひょうけつとう——掌に収まる小型の読書用光源——を、シリンは持ち込んでいた。蒼氷派の司書が予め灯した状態で、貸与用に差し出したものだった。蒼氷派の術師が触れることで微量の魔力が注がれ、その魔力が尽きるまで碧光を放ち続ける。月影派の娘の手の中でも、碧光は、術師が最後に触れた時の記憶のまま、静かに発光を続けていた。氷結灯は掌の中で、鉱物の冷たさと、碧の重みを同時に持っていた。炎の光を禁じた家が作る光は、熱を伴わない。明るさだけが、純粋に、光の仕事をしている。碧光が、鏡の中のシリンの顔を、淡く浮かび上がらせた。


 黒髪。横顔の白磁の線。暗い瞳。

 そのすべてが、幽谷城の書院の鏡に映っていた頃と、同じ形をしていた。同じ形なのに、今夜は、どこか、違って見えた。幽谷城の鏡には、白い蝋燭の温かい黄金色の光が落ちていた。今夜の鏡には、熱のない碧が落ちている。光の色の差が、顔の下半分の輪郭を、ふだんとは違う方向から照らしていた。


 違いの位置を、シリンは探した。


 ——右の睫毛。

 右の睫毛が、静止している時でも、微かに、他の部分と違う密度を帯びていた。午後の書架の列の影で、一度だけ震えたあの震えが、夜になっても、完全には引いていない。物理的な震えは引いたが、震えの痕跡が、睫毛の付け根の皮膚の下に、ごく微かな張りとして残っていた。


 張りは、シリン以外の誰にも見えない。

 見えないが、シリン自身には、はっきりと見えた。


「わたくしは、」


 声に出そうとして、途中で止まった。

 個室の中に自分の声を放つのは、月影派の娘が夜に一人で行う儀式のひとつだった。声に出すことで、昼間の設計された笑みの下に溜まった未処理の言葉を、外に出す。出された言葉は、紙に残さず、空気に溶けて消える——はずだった。


 今夜、出そうとした言葉は、途中で止まった。


「わたくしは——」


 もう一度、試した。二度目も、主語の次が出てこなかった。主語の後に続くべき述語が、内側で複数に分かれていて、どれを選んでいいかの判定が付かなかった。


 判定が付かないこと自体が、珍しかった。

 月影派の娘は、独白でも判定を怠らない。怠らないように訓練されている。今夜、訓練が、一瞬、効いていなかった。


 ——近づくな。


 声が、内側で、もう一度鳴った。

 今夜の「近づくな」は、ふだんより大きい声量で、耳の内側の骨のすぐ後ろあたりから鳴った。声というより、震動に近かった。歴代の月影派当主の溜息が、今夜、合算されて、シリン一人の耳の内側で鳴り響いていた。震動は、顎の骨の付け根まで届いて、そこで一度だけ、ごく小さな振れとして現れた。鏡の中の自分の顎が、ほんの微かに、ずれた——ように見えた。見えたのは、シリンの目の中でだけ起きた現象だった。


 ——「見ないことを選んだ」先祖方。

 シリンは声の主に、初めて、言葉を返した。

 返した言葉は、声には出さなかった。胸の奥で形を取っただけ。


 あなた方は、三百七年前の冬の夜、何を見ることを選ばれなかったの。

 あなた方が見ることを選ばれなかった「何か」は、本当に、見ないことの方が正しかったの。


 問いは、答えを求めていなかった。

 答えが返ってこないことは、最初から知っていた。答えを返す能力があるなら、歴代の当主の溜息は「近づくな」という一行で固まってはいなかっただろう。固まっているのは、答える能力が既に失われているからだった。失われた能力の残骸が、警告の形をとって、シリンの耳の内側に居座っている。


 ——見ることを選ばなかった「何か」は、今、六百十一点の冊子の中に、外形だけを残して、目録として復元されようとしていた。


 その事実を、シリンは外側でも、胸の棚の上の方でも、今、初めて、完全に繋げた。

 繋げた瞬間、肋骨の裏側の「温度差」が、朝よりも拡がった。温かい場所と冷たい場所の差が、はっきりした。差は、シリンの身体の内側に、一本の細い線を引いた。線は胸の中央を縦に走り、みぞおちのあたりで、静かに止まった。目の奥に、ごく微かな熱が生まれた。熱は涙に到る手前で、睫毛の付け根の張りに吸収された。吸収されて、消えた——ことになっていた。


 線の一方に、月影派の教義があった。

 もう一方に、シリンの本来の好奇心があった。


 線は、今夜初めて引かれたのではない。

 書院の教育の最初の日に、既に引かれていた。月影派の教義は、その線を「引かれたこと自体を忘れる」ことで、一人の娘の内側を統合していた。統合の結果、線は消えたのではない。見えない位置に、沈んだ。


 今夜、線は、沈んだ位置から、浮かび上がってきた。

 浮かび上がらせたのは、六百十一点の冊子と、三百七年前の書架の研磨の痕と、ルキウスの眉根と、ライラの頷きと——もう一つ、別のもの。


 別のものの名前を、シリンは、声に出しかけて、止めた。


 止めたあと、鏡の中の自分の顔を、もう一度だけ見た。


「——アシュル殿」


 結局、名前は、ごく小さく、声に出た。

 唇の内側で生まれた音は、唇の外に出る前に、二度、引き戻そうとする筋肉の動きを潜り抜けてから、空気に触れた。触れた瞬間、音は氷結灯の碧光の中に溶けて、鏡の面の向こう側まで届いた——ように、シリンの目には見えた。出てしまったあと、シリンはその一音を回収しようとした。回収は、できなかった。空気に溶けた音は、溶けたまま戻ってこない。戻ってこない音を、シリンは初めて、戻ってこないままにしておくことを選んだ。


 アシュルの名前を、月影派の娘が、独白の中で、設計されていない形で呼んだ。

 呼んだ瞬間、胸の棚の、一番上の段が、一つ、新しくなった。


 ——この方に、賭けるのね。


 その一行は、設計された言葉ではなかった。

 設計された言葉なら「この方の能力を、経由先として活用する」と言うだろう。今夜の言葉は、活用ではなく、賭けだった。月影派の娘は、賭けないように訓練されている。賭けは、情報の武器化と両立しない。情報は勝率の計算のためにあり、賭けは勝率の計算が不能な領域にだけ発生する。


 今夜、シリンは、勝率の計算が不能な領域に、一歩、足を踏み入れた。


 足を踏み入れたことを、胸の棚の上の段に記した。

 記したあとで、シリンは一度だけ、鏡の中の自分に微笑みかけた。微笑みは、設計されたものだった。設計が残っていることを確認するための、儀式的な微笑み。設計は、まだ、残っていた。


 ——制御は、最後まで残る。

 書院の最後の日に教わった一行が、久しぶりに、胸の中で鳴った。最後まで残るのは、呼吸の拍。四拍で吸い、六拍で吐く——シリンがこの比を守り続ける限り、月影派の娘の仮面は、最外層だけは、破れない。


 ——四、六。


 胸郭の動きを、内側で一度だけ、測り直した。六百十一点の冊子を読み、三百七年前の書架の隙間に手を挿し入れ、ユエンの抽斗の気配を観察し、アシュルの名前を独白の中で呼んだ——そのすべてを経た今夜のシリンの呼吸は、まだ、書院で仕込まれた通りの四と六を刻んでいた。


 仮面の下の自分を知りたい——その欲望は、知りたいという原初の使命に、似ていた。


 氷結灯を枕元に移し、寝台に横になった。寝具の白い布が首と鎖骨の間を薄く受け止めた。


 碧光が、天井の一点に届いた。天井の石の目地が、ほんの僅か、碧に染まって見えた。幽谷城の書院の天井は白い漆喰だった。漆喰の上を走る蜘蛛の糸を、夜ごと数える癖が、幼少期のシリンにはあった。今夜、蜘蛛の糸はない。代わりに、石の目地の一本が、碧光の中で、蜘蛛の糸の代わりを務めていた。


 一。二。三——で、数えるのを止めた。


 止めたあとの意識の中に、最後に残ったのは、六百十一という数字でも、「記憶のみ」という条件でもなかった。


 ——明日の朝、アシュルに、話をしに行くわ。


 その決定を、シリンは胸の棚の一番上の段に据え付けた。両手で重い物を載せる時と同じ筋肉の緊張が、肩と肘に起こった。据え付けた瞬間、胸の棚の一番上の段が、先祖の声の震動よりも一行分だけ高い位置に立ち上がった。「近づくな」の声は、一瞬だけ小さくなり、戻ってきた。戻り方が、今夜は、以前より少しだけ遅かった。


 遅くなったことを、シリンは、誰にも告げないまま、記した。


 目を閉じた。瞼の裏側に、碧の残光が、ほんの僅か、残っていた。炎の家で育った者なら、瞼の裏側の残光は赤に寄る——と、書院の古い書物に書かれていた。今夜、シリンの瞼の裏側にあるのは、碧だった。


 残光が消えた後の闇の中で、先祖の「近づくな」は、まだ、鳴っていた。

 その声の横に、シリンは、もう一つの小さな声を、並べて置いていた。


 ——知りたい。


---


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ