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灰燼の王冠  作者: 危機麒麟
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第08章「凍った目録」

---


 匂いがない。

 それが、この部屋に入って最初に気づいたことだった。


 帝都の安宿にあった灰と煤と古い油の匂いがない。聖域の回廊で鼻腔に染みついた石と香料の重たい匂いもない。十四日間の街道で衣服の襟元に積もった土と草と汗の匂いすら、霜都の乾いた空気に洗い流されて、ほとんど残っていない。


 何もない。何もないという事実が、鼻の奥を静かに刺した。


 アシュルは寝台の端に腰をかけ、膝の上に姉の写本を置いていた。三歩×四歩の個室。白い石の壁。碧い戸。文机が一つ。旅嚢は床の隅に置かれたまま、まだ紐を解いていない。壁に掛けるべきものも、床に敷くべきものもない。必要なものだけがある。必要でないものは存在しない。蒼氷派そうひょうはの家は、そういう造りをしているらしかった。


 石壁から、冷気が放射されていた。触れていないのに、腕の皮膚が先に冷たさを受け取っている。帝都の独房の湿った冷たさとは違う。水分の抜け切った、乾いた冷たさ。吐く息は白くなる。だが跡を残さない。空気が湿り気を嫌っている。


 窓は腰高の小さな一つ。外はまだ薄青い闇だった。湖面から上る蒸気霧の名残が、窓の下端に細く流れている。夜明けが近い。賓館の若い官吏は、課題の提示は朝一番に共用広間で行うと言っていた。それまでの時間を、眠って過ごすこともできたはずだった。


 だが、眠れなかったのか、眠らなかったのか、自分でもよく分からない。


 戸の向こうから、微かに匂いが届いた。苦くて、渋い。高山植物の根と葉を煎じた匂い——蒼氷派が常用している薬草茶だ。霜都に入る前、街道の休息所で一度だけ口にした。舌の根元に、先に味が帰ってきた。匂いの分子が鼻腔を通り過ぎた数瞬後、味覚が後から追いついてくる。その順序の狂い方まで、アシュルは覚えていた。


 耳を澄ました。


 何もない。聞こえるべきものが、聞こえない。帝都の安宿なら、壁の向こうで必ず鼠の走る音か、見張りの交代の声がした。聖域の回廊なら、遠くで灯明の油がはぜる音がした。ここは違う。自分の衣擦れ。自分の呼吸。自分の心臓の音。それだけが、内側から静寂の輪郭を縁取っていた。静寂が「最初から在る」種類の部屋だった。


 膝の上の写本に、左手を置いた。


 革の表紙。擦り切れた縁。ところどころに茶色い染み。姉が帝都に発つ前、厨の卓で銀の茶碗を倒した——あの染みはその時のものだった、はずだ。


 だが、指先が革の皺を辿ろうとして、掴みきれない。厚みは分かる。温度も、微かには分かる。それでも、革が革であるという手応えが、一枚向こうにある。


 右の手首を、左の手で握った。


 強く握る。掌の内側に、手首の骨の硬さがある。腱の張りも分かる。脈が皮膚のすぐ下で打っているのも分かる。そこまでは、まだ届く。


 問題は、末端だ。

 指の先——特に親指と人差し指の腹——その一枚だけが、他の身体から数寸遅れたところに浮かんでいる。


 聖域の封庫で使った禁忌。その代償を指先に受け取り始めてから、まだ数週間しか経っていない。封庫を出た夜、姉の写本を最初に開いた時には、紙の繊維を一本一本、指で数えられた。変化の速度は、予想より少しだけ速い。


 もう一度、写本の革を指でなぞった。今度は、違和感を数えないようにした。数えれば、進行の目盛りを自分に刻むことになる。それはいずれ「どれだけ失われたか」という数字にしかならない。


 ——姉の写本の匂いは、まだ鼻に届いていた。


 古い紙の匂い。革の匂い。そして、ほんの微かに、姉の指の匂い。客観的にはもうあるはずのない残滓ざんしだ。三年以上前に触れた物に、体温の匂いが残っているはずがない。だがアシュルの鼻の奥には、確かにそれがあった。記憶が嗅覚を騙しているのか、嗅覚が記憶を補強しているのか、順序は分からない。


 窓の外の薄青い闇が、ほんの僅かに退き始めた。


 アシュルは写本を閉じ、両手で上から押さえた。掌全体で表紙を押さえると、指先の鈍さが少しだけ気にならなくなる。触覚の仕事を、掌が代わりに引き受けてくれる——という錯覚。あるいは、錯覚ではない何か。


 戸の隙間から、また薬草茶の匂いが流れた。今度はそれに混ざって、遠くから足音が届いた。一対の革靴が石の廊下を規則正しく叩いていく。歩幅が等しい。速度が等しい。蒼氷派の官吏の歩き方だ。


 夜が終わる。


 アシュルは立ち上がって、文机の上に写本を置いた。旅嚢は解かずに、床の隅に残した。三十日間いることにはなっているが、この部屋を「自分の部屋」と呼ぶことを、身体がまだ許していなかった。


---


 賓館一層の共用広間は、長方形だった。横幅が広く、天井は意外に低い。高いのは片側の壁の上方に切られた天窓だけで、そこから高原の遅い朝の光——痩せた白色光——が斜めに差し込み、長卓の木目を浮かび上がらせていた。


 広間の空気は、廊下より二度ほどぬるかった。七人分の体温が、冷気をそれだけ押し上げている。暖かい、という語は使えない。ただ「外よりマシ」という相対値。その差を、アシュルは肩の皮膚の裏側で勘定した。


 アシュルは入り口に一番近い位置に立った。長卓の末端。観察者の位置であり、いつでも退出できる位置でもある。帝都の租税局で身につけた癖だ。人の集まる部屋では、扉の近くに立つ。視線の集まる中心からは、できるだけ離れる。


 六人と、一人の老司書が、広間の真ん中にいた。


 ルキウスは長卓の長辺の中央に立っていた。朝の光が金茶色の髪の稜線を拾う。両手は卓の縁に触れるか触れないかの位置に置かれ、体重を預けていない。最も視線の集まる位置を、選んだという意識すらなく、自然に選んで立っている。


 その向かいにシグルがいた。戦斧は持ち込まれていない。だが戦斧を持っていた時の姿勢のまま両肩が後ろに引かれ、冷気に肺が追いついていないのか、白い吐息が誰よりも濃く立っていた。


 シグルの隣にシリンがいた——いや、いたはずだったが、薄い灰色の長衣が空気に溶けて、アシュルの視界の中では断続的にしか捉えられなかった。暗い瞳が、一度だけアシュルの方角を横切って、すぐに卓の上へ戻った。人を見ていないふりをしながら全員を数える娘だった。


 オーシンは短辺の側に立ち、視線は壁際の床の、白い石の継ぎ目に落ちていた。苔か、霜の結晶か——大地に話しかける時と同じ、身体を僅かに前に傾ける姿勢だった。


 ライラは長卓から半歩離れて壁寄りに立ち、色を探すように広間全体を視線で舐めていた。この部屋の色は、壁の腰高を走る碧の帯と、天窓から落ちる白色光と、長卓の木の淡い褪色——その三つで全部だった。ライラの唇の朱が、ここで最も鮮やかな色に見えた。


 ユエンは長卓の短辺の手前に立っていた。座ってはいない。首席司書が冊子を積んでいる脇で、主催する側と候補者の二つの立場を、立つ位置一つで同時に示していた。声はまだ発しない。碧い瞳だけが、候補者六人の上を順に渡っていた。


 アシュルの前に、ルキウスの背中があった。肩越しに、首席司書の手元が見えた。


 首席司書は、白い衣に碧の帯の老人だった。顔を上げずに、卓上の七冊の冊子を正確な間隔で並べていた。冊子の表紙は白。題字は、近くで見れば碧い氷の粉を固めたものだった。朝の光を受けて微かに煌めいていた。紙に刻まれた題字が、そのまま光源の断片として機能していた。


 広間には、薪のはぜる音がなかった。


 帝都の広間なら、朝のこの時刻、暖炉の奥で必ず薪の音がした。湿った木が裂ける時の破裂音。炎が繊維を噛む連続した微音。その背景音が、ここには最初から存在しない。背景音を引き抜かれた空間は、衣擦れと足音と呼吸を、本来より半拍分だけ大きく聞かせた。聴覚が、音の不在に向かって過敏になっていた。


 老司書が顔を上げた。


 ほとんど同時に、広間の入口から給仕の官吏が湯を運んできた。湯気が濃く立つ。白い陶器の茶器。だが、火の気配がない。官吏の手は温かいはずなのに、その周囲の空気が揺らいでいない。くりやのどこかで、碧い氷結炉ひょうけつろが湯を沸かしたらしい。朝の湯には、煙の匂いも、ほのおあぶられた木の匂いもなかった。ただ、湯気だけが立っている。


 ——火のない湯。


 そのことに、アシュルは一瞬遅れて気づいた。帝都の広間では考えられない光景だった。ここでは、湯気が立っていること自体が、誰かの魔法の痕跡なのだ。装飾ではなく、物質としての蒼氷派。


 広間全体を、薄く紙の匂いが満たしていた。隣接する書架群から流れ込んでいるのだろう。そこに、薬草茶の苦味が薄く重なる。アシュルの鼻はもう一つ拾っていた——「人の匂い」が薄い。七人が集まっているのに、汗や毛織や革の匂いが、空気にほとんど積もらない。高原の乾いた冷気が、人の匂いを広間の外へ運び去っている。候補者六人は、ほとんど匂いを残さずにこの部屋に存在していた。


 首席司書が、長卓の端に手を置いた。

 アシュルは卓上の一冊の冊子に視線を固定して、顔を上げなかった。目立たない姿勢。帝都で三年間磨いた姿勢。


 そして、老司書の声が広間に落ちた。


「試煉の形式を伝える」


 老司書の声は薄かった。間を取らない。次の文節が前の文節の裾に重ねられていく。


「呼称は『凍結目録の復元』。蒼氷派の参照台帳には、継承の儀以前から『該当番号なし』の注記が散在している。不在の連なりから、かつて存在したはずの文書の外形を、各位の手で復元する」


 息継ぎは、ほとんど聞こえなかった。


「開放範囲は地上一層から三層。閲覧室、書架、目録室。上層——四層以上——への立ち入りは、蒼氷派代表の判断を経た許可に限る。地下層は対象外」


 冊子の一冊を、老司書の指が卓の上で〇・五寸ほど前に押し出した。全員分が既に同じ間隔で並んでいる所を、更に正確な位置へ。


「期間、三十日。書籍の破損、書架の無断移動、司書への私的な呼び止めは禁ずる。筆記具は供与する。各位の随員の入館は認めない」


 もう一度、短い間。


「最終日、各位は復元した目録を一冊の冊子として提出する。形式は任意。分量は問わない。——判定は、成果物を蒼氷派の参照台帳と照合した後に下される」


 それで終わりだった。


 短い話だった。説明の文節と文節の間隔が、帝都の官吏より明らかに短い。言葉を継ぐのに呼吸を大きく取らない——その話し方そのものが、蒼氷派の呼吸をしていた。


 アシュルは冊子の題字を見ながら聞いた。「凍結目録の復元」という語が、老司書の口から出るのを待った。出た。その瞬間、視界の端で、シグルの肩が微かに動いた。「目録」という語に反応したのか、「復元」という語に反応したのか、彼の顔は見えない位置にある。


 老司書が話し終えた。広間の空気が、半拍だけ、不自然に静止した。


 最初に口を開いたのは、ルキウスだった。


「一つ、確認したい」


 声は落ち着いていた。卓全体の空気を、ほんの僅かだけ、自分の側に引き寄せる声だった。


「上層へのアクセスは、どの条件で開く」


 その声に、アシュルは顔を上げそうになって、止めた。代わりに、ユエンの方を視界の端に捉えた。


 ユエンが、初めて声を出した。


「蒼氷派代表の判断によります」


 短かった。文節の末尾がきっちりと閉じられていて、続きの余白を許さない。


「地上四層から七層までは、各候補者の三十日の経過、及び復元作業の進捗を確認したうえで、必要と認められる範囲に限り、個別に許可いたします。地下層は本試煉の対象外でございます」


 ——温度のない丁寧語。


 その感触を、アシュルは胸の奥で確認した。一つの語の抑揚の中に、感情の振れ幅が零に近い。蒼氷派の代表は、言葉を道具としてだけ使う訓練を幼少期に終えている。


 次に発言したのは、シリンだった。


「わたくしからも、一つだけ」


 鈴を静かに振るような声だった。質問の形を取る前に、既に答えを知っている者の声だった。


「『該当番号なし』の注記——それが散在する参照台帳は、目録室に集められているのでございましょう? 封印された文書そのものではなく、その不在の記録の方を、わたくしたちは読んでよろしいのですわね」


「ございます。地上三層、西側の目録室に。参照台帳の閲覧は、開放範囲内の行為でございます」


 それだけだった。


 他の誰も、質問を続けなかった。ライラは天窓の碧い象嵌に視線を移したままだったし、オーシンは壁際の何かに集中していたし、シグルは大きく息を吸って肺の容量を広げようとしていた。アシュルは発言しなかった。発言する理由がなかった。聞くべきことは、ルキウスとシリンが既に聞いていた。


 首席司書が、一度だけ軽く顎を引いた。了承の、そして退場の合図だった。

 アシュルはその瞬間、卓の縁に左手を置いた。

 木が冷たかった。冷たさは分かった。だが木目の凹凸が、指の腹に上がってこなかった。冷たさだけが、先に届いて、木そのものがまだ届いていない。


 ほんの一瞬、アシュルは掌を強く卓に押し付けた。

 木目は、それでも遠かった。


 顔を上げずに、手を退いた。

 ルキウスの背中の向こうで、ユエンが初めて、長卓の短辺の椅子に腰を下ろす動きをした。主催する側から、候補者の側に、彼女の位置が静かに移った瞬間だった。


---


 賓館と氷の図書館本体を繋ぐ連絡橋は、短い屋根付きの回廊だった。

 両側に白い石の腰壁。上に石の屋根。高原の風はここまで届かない。歩行者の足音だけが、石の天井にぶつかって反響した。付き添いの若い司書は、白い衣に碧い帯の、首席司書の縮小版のような男だった。名前は名乗らなかった。案内する側が名乗らないことは、蒼氷派の礼儀なのかもしれなかった。


 アシュルは連絡橋の右の腰壁に、歩きながら指を滑らせた。


 白い石。冷たい石。——冷たさは、触れる前から空気で予兆されていた。指が触れた瞬間、冷気が皮膚の裏側を走って肘まで上がった。ここまでは、まだ鋭い。だが、石の粒子——蒼氷派の敷石の、あの微かにざらついた花崗岩の肌理——が、指紋の溝に届かなかった。


 一枚向こうにある。

 今朝の個室でも、広間の卓でも、同じことが起きていた。


 連絡橋の突き当たりで、司書が正門の前で一度だけ立ち止まり、入館の手続きのために門番に頭を下げた。門番は無言だった。朝の光がまだ弱い時間、霜都の図書館の門は形式的な一礼だけで開いた。


 そして、アシュルは氷の図書館の正門をくぐった。


 光の質が、変わった。


 外の高原の痩せた白い光が、屋内に入った途端、違う組成の光になった。自然光がまず天井近くの高窓から斜めに差し込んでいる。それに、壁面の腰高を走る碧い氷の象嵌が、淡い補助光として加わっている。白と碧の混色光。紙を読むために最適化された、眼に優しい色温度。


 前室は広かった。

 天井が高い。アシュルの背丈の十倍はあるだろうか。床には方位を示す碧い氷の標石が埋め込まれ、交差点ごとに東西南北を人に教える役を担っていた。装飾は——ない。紋章旗も、祭壇も、偶像もない。あるのは構造と光と冷気だけだった。


 その冷気が、肩に落ちた。


 外より二度ほど低い、と身体が告げた。乾いた冷気。動かない冷気。滞留した冷気。外の風の冷たさは吹き抜けていく冷たさだったが、ここの冷気は、この空間に住み着いて、石と紙を正確な温度で保管することを職務としている——そういう種類の冷気だった。襟元から入った冷気は、首筋を伝って背中の中央で止まり、その位置に居座った。外套を着ている部分は辛うじて守られていた。指先だけは、外套の外にある。外套の外は、この図書館の温度に同期していた。


 前室の高い天井から、微かな共鳴音が降りていた。

 音源は、壁面の碧い氷の象嵌だった。蒼氷派の術師が注入した魔力が、氷の結晶格子の中で極めてゆっくりと振動している——その振動が、人間の可聴域のぎりぎり下端に、低い通奏音として滞留していた。聞こうとして初めて気づく程度の音。耳の奥の骨を、微かに押す程度の音。炎のない部屋の静寂は、完全な無音ではなかった。魔法そのものが、低い一音を絶え間なく鳴らしていた。


 同時に、匂いが鼻に届いた。


 紙の匂い。——だが、帝都の書物の匂いとは、明らかに違った。

 帝都の古文書の匂いには、いつもにかわの匂いが混じっていた。製本に使った動物性の膠が年月を経て発酵する、あの薄く甘くえたような香り。そこに、鼠の尿の痕跡。湿気に濡れて乾いた紙の、あの少し黴びた匂い。


 ここには、膠の匂いが、ない。あるいは、ほとんど無い。

 凍結保存の結界——というものの仕組みを、アシュルはまだ詳しく知らない。だが鼻は知っていた。ここでは紙の劣化が止まっている。時間が文書の上を通り過ぎていない。そして、乾燥が湿気を殺している。鼠はこの温度で生きない。


 代わりに、別の匂いがあった。

 鉱物の冷たさ——と、言うしかなかった。塩気のない、鉄錆のない、ただ冷たい鉱石の匂い。壁の腰高を走る碧い氷の象嵌から、微かに立ち昇っているらしい。氷そのものに匂いはないはずだったが、アシュルの鼻はそこに、確かに何かを拾っていた。鉱物と、乾燥と、止められた時間の匂い。


 その匂いを、アシュルは読んだ。

 この図書館の規模を、匂いの薄さから逆算した。人がこれだけ多い空間——視界の端に、既に十人ほどの司書の姿が見えていた——なのに、人の体温の匂いが空気に積もらないということは、換気と結界の両方が徹底的に管理されている証拠だった。人を生かしているのではなく、紙を生かしている場所。人はその副産物としてここにいる。


 アシュルは三歩だけ進んで、立ち止まった。

 圧倒された、と言葉にすれば簡単だった。だが、その言葉にすると、帝都の言葉で帝都の感情を貼り付けることになる。アシュルは顔を伏せた。背筋だけを、ほんの僅か伸ばした。それが、この身体にできる唯一の応答だった。


 付き添いの司書が、主階段の方を指し示した。

 主階段は、建物の中央を貫く石造りの螺旋階段だった。幅は二人分。手すりの内側に、碧い氷の象嵌が細く走っている。地下からも上からも、階段は連続しているらしく、階段の降り口には下層へ続く石段の暗い入り口が見えていた。そちらは、焔武帝えんぶていの治世以降の記録——最も新しい文書——が配架される層だと、昨夜、賓館の若い官吏が簡単に触れていた。


 アシュルは上へ登る側を選んだ。上層が古く、下層が新しい。逆転した時間軸。階段を一段上るごとに、過去へ一段歩を進めることになる。


 螺旋階段を上り始めると、書架の裏側が階段の透かしの間から見えた。書架は天井近くまで届いていた。見上げると、上端が遠近法で狭まり、視覚的な圧迫感を生んだ。人の身長を超えて積まれた知識が、垂直方向に伸びている。梯子が等間隔に書架に立てかけられていて、取り出すべき一冊に手を伸ばすには、梯子を何段も登らなければならない造りだった。


 地上一層で、アシュルは階段を離れた。


 主閲覧室だった。

 広い。広間というより、広い野原に近い広さだった。天井近くの高い天窓から、自然光が斜めに落ちていて、書架の梯子の影を床に長く引いていた。影の長さが、時刻を告げていた。もう朝の半ばだった。


 長卓が整然と並び、椅子が等間隔で配されていた。卓の間隔は遠かった——隣の卓で読書をしている人物の呼吸が聞こえない程度に。十人ほどの蒼氷派の官吏と学者が、それぞれの卓に着いて、書物を広げていた。


 誰も、顔を上げなかった。

 アシュルが入ってきたことに、気づいてはいるはずだった。視界の端で判定して、「候補者の一人」と分類して、そして意識から外した。それが蒼氷派の反応だった。帝都の広間なら、必ず何人かの視線が貼り付いてきた。ここでは、その貼り付きがなかった。無視ではなく、効率だった。アシュルが業務に関与しない以上、この候補者に視線を使う理由が存在しない。


 紙をめくる音だけが、広間に満ちていた。

 微かで、揃っていた。蒼氷派の司書たちの紙の扱いは、均質だった。ページを送るたびに立つ音の高さと長さが、ほとんど同じ規格で揃っていた。その揃い方が、不意に肌に触れた。帝都の租税局の倉でさえ、こんなに揃った紙の音を聞いたことはなかった。


 梯子が石床に触れる低い木の音が、遠くで一度だけ鳴った。

 それ以外の音は——ほとんど無い。足音も反響しない。石床に敷物はないのに、空間の乾燥が音そのものを吸っているらしい。炎のある部屋の、あの「パチパチ」という背景音は、どこにもなかった。音の不在が、聴覚を奇妙に過敏にしていた。


 付き添いの司書は、卓の間を縫って、奥の主階段へ戻る通路を指さした。地上三層の目録室へ案内する、という事前の段取りだった。アシュルは書架の間を抜ける時、無意識に指を書架の端に伸ばしかけて、引いた。無許可で蒼氷派の書架に触れるのは、礼儀から外れる——と思った瞬間、もう一つの気づきが追いかけてきた。触れたとしても、どうせ、木目が届かない。


 動き続けろ、と自分に命じた。歩いている間は、身体のどこかが仕事をしている。


 付き添いの司書の背中を追って、アシュルは主閲覧室を横切った。


---


 地上三層の目録室は、主閲覧室の四分の一ほどの広さだった。

 正方形の部屋。天窓はない。光源は、四方の壁面を走る碧い氷の象嵌だけ——その象嵌が、淡い碧光を部屋全体に均等に配っていた。白い光ではない。碧一色の光。部屋に入った瞬間、視界の色彩感覚が、緩やかに下がっていくのが分かった。


 四方の壁面を、目録台帳の大型冊子群が覆っていた。

 冊子は巨大だった。縦一尺半、横一尺、厚さ三寸ほど。背表紙に、碧い氷の粉で凍結番号の範囲が刻まれている。「5-12-00 ——— 5-12-99」「3-04-00 ——— 3-04-99」。数字の帯が、壁一面の景色だった。


 部屋の中央に長卓が一つあり、長卓の上に、冊子を広げるための傾斜台が三つ並んでいた。部屋の隅にもう一つ、別の棚があって、そこには参照台帳——凍結番号の日常業務記録(貸出・閲覧・再配架の履歴)——が、小ぶりの冊子として収められていた。そこが、アシュルの探索の主戦場になるはずだった。


 付き添いの司書は、部屋の入り口で、凍結番号の読み方を教えてくれた。


「凍結番号は、三つの部分から成ります」


 若い司書の声は、首席司書の声より一段だけ高く、代わりに淀みはもっと少なかった。頭の中で既に十回は反芻された説明を、十一回目に取り出しているだけの声だった。


「最初が時代区分。次が主題分類。末尾が個体番号。三つの組合せは、時代と主題と個体を、誤差なく指し示します」


 碧い瞳が、一瞬だけアシュルの外套の灰色の上を滑った。止まりはしなかった。


「表記の揺らぎは、ございません。どの棚の、どの冊子でも、同じ規則で書かれております。——参照台帳の余白の書き込みは、公的な目録ではございません。読み飛ばしていただいて、差し支えありません」


「覚えました」と、アシュルは答えた。

 本当は三度繰り返し聞かなければ定着しそうになかったが、声に出して聞き返すのが何となくはばかられた。蒼氷派では、同じ質問を二度聞くことは、一度目を聞いていなかった証拠になる。


 司書は礼をして、部屋の奥の扉の向こうへ消えた。当番司書は奥の間にいる、必要があれば呼べ——という形式的な説明だけを残して。


 アシュルは部屋に一人になった。


 長卓に着いた。

 椅子は背もたれが低く、腰椎ようついを支えない造りだった。長時間の作業を前提にしていない、というより、長時間座っていたら身体が教えてくれる、という設計だった。


 両手を一度、きつく握った。

 指先の感覚を呼び戻す動作——だが、呼び戻せたかどうかは、握ったあとでなければ検証できない。検証する前から、結果は予想できた。


 アシュルは参照台帳の棚に歩み寄って、まず時代区分1の冊子群の前に立った。

 「1-xx-xx」——原炎げんえんの時代。時代区分の最初。この番号帯は、配架先が地上七層に集中している。アシュルにはそこへの立ち入り権がない。それは分かっていた。分かっていて、それでも、この時代区分から始めた。


 目録室の温度は、主閲覧室よりさらに一段、低かった。

 天窓のない部屋は、外気の日照を受けない。中層の頂上に位置する密閉された正方形。壁面の碧光だけが、人の体温の代わりに部屋を満たしていた。立っているだけで、外套の布越しに体温が少しずつ奪われていく。奪われていく、という言い方は大袈裟ではなかった。首の後ろの皮膚が、最初に放熱で冷えた。次に肩甲骨の間。その順番で、末端ではなく背中の中心から冷えが進んだ。


 姉の写本の古代文字の番号が、この時代区分に属する可能性が高かったからだ。


 参照台帳を一冊、棚から引き抜いた。

 厚い。想像より、ずっと厚い。抱え込むように両手で持ち、傾斜台の上に置いた。表紙を開く。蒼氷派の書記は、紙の扱いに独特の作法があるらしかった。両手の親指と人差し指で、ページの端を正確な角度で挟む。無理な力を入れない。ページの中央に触れない。書院で徹底的に訓練された動きだった。


 アシュルはそれを、昨夜賓館の若い官吏が一度だけ見せてくれた通りに、真似てみた。


 最初のページ。日付と、凍結番号と、貸出者の氏名と、返却日と、再配架の確認印。全てが同じ筆跡で——ではなく、違う筆跡で書かれていた。蒼氷派の司書の筆跡は訓練で均質化されていたが、それでも目を凝らせば、個々の書き手の癖が読み取れる。数世代分の、異なる手の痕跡が同じ冊子に重なっていた。


 ページを送る。

 二枚目。三枚目。四枚目。


 番号の流れを追う。「1-02-17」、「1-02-18」、「1-02-20」——十九が飛んでいる。棚から該当の冊子を探すと、もう一冊の参照台帳にその続きが記されていた。「1-02-19: 該当番号なし」。小さく、朱に近い碧の筆で、記されていた。


 不在の記録だった。

 凍結番号はあるが、番号が指す実体が、ここには無い。


 アシュルはその一行を、二度見た。

 「該当番号なし」という書き込みが、参照台帳の中に散在していた。それはつまり、誰かが封印前に貸し出した痕跡が、日常業務の記録の中にだけ残っていて、その後、公式の目録からは抹消されているということだった。司書たちは日常の業務をこなしながら、毎日、この不在に出くわしていた。そして、数世代をかけて、不在を数え続けていた。


 不在の目録を作っているのだ、とアシュルは理解した。

 封印された何かの外形を、存在しない番号の連なりから逆算しようとしている。蒼氷派の数世代分の労力が、この参照台帳の余白に堆積していた。


 ——一日目が終わった。

 顔を上げると、壁面の象嵌の碧光の強度が微かに変わっていた。時計のない部屋で、光の質だけが時刻を告げていた。頸椎けいついが小さく音を立て、背中の中央の筋肉が同じ姿勢で固まっていた。碧一色の光の中で数字ばかりを追い続けた目が、象嵌の光の縁に僅かな滲みを拾った。


 アシュルは冊子を閉じ、定められた位置に戻した。棚の並びを守ることだけで、一日目が評価される。


 二日目。


 アシュルはもう少し計画的に動いた。参照台帳の中から、「該当番号なし」の注記が集中している時代区分の範囲を洗い出すことにした。時代区分1——原炎の時代——の中でも、主題分類01から03の範囲(教義・儀礼・魔法の原典)に、不在の記録が濃く残っていた。


 その範囲を追う途中で、アシュルは一つの書き込みに目を留めた。


 参照台帳の余白に、小さな文字が残っていた。蒼氷派の定型書体ではなかった。もっと古い——もっと角張った、楔のような形の文字。アシュルの指先が、ページの上で止まった。


 古代文字だった。

 ウルクの荒野で、姉がアシュルに読み方を教えてくれた文字。姉は帝都に発つ前の三年間、厨の卓にこの文字を並べて、弟の頭に叩き込んだ。当時は意味も分からず、ただ形を覚えた。今では、形と音と、時々は意味まで、指が先に覚えている。


 その古代文字が、蒼氷派の参照台帳の余白に、書かれていた。


 アシュルは呼吸を止めた。顔は上げなかった。目録室に他に誰もいないことを確信していても、身体が「見せない」という習慣を手放さなかった。帝都で三年間磨いた筋肉が、勝手に反応していた。脈が耳の奥で一度だけ大きく鳴り、すぐに元の速度に戻った——戻した、と言うべきか。下層で学んだ呼吸の整え方だった。


 余白の古代文字を、視線だけでなぞった。


 ——「一の二十七の〇〇、記せ」。


 それが、古代文字の示す最も直接的な意味だった。

 「一の二十七の〇〇」——凍結番号の構造そのものだった。時代区分1、主題分類27、連番は空白。空白の連番は、複数の個体を指すか、あるいは「この範囲の全て」を指す記号だった。


 誰かが——この参照台帳に古代文字で書き込みを残した誰かが——凍結番号「1-27-xx」の範囲を、記録せよ、と告げていた。


 誰に?


 アシュルにではない。少なくとも、アシュルのために書かれた言葉ではない。だが、今、この文字を読む者として、目録室にいるのはアシュルだけだった。


 主題分類27——その数字が何を意味するかは、若い司書の説明にはなかった。だが、姉の手順書の頭に立つ番号が、同じ主題分類だった。


 アシュルは、「1-27-xx」の配架先を確認した。

 参照台帳の棚から、「時代区分1・主題分類27」の相互参照を引き出す。

 配架先——地上六層から七層。


 ——読める。だが、届かない。


 自分の呼吸の音が、この部屋の沈黙の中で異様に大きく聞こえた。


 この古代文字の書き込みが、最近のものなのか、数世代前のものなのか、それさえ分からない。蒼氷派の司書の誰かが古代文字を読めたのか、あるいは過去のどこかの外部の学者が目録室に出入りして書き残したのか——判断の材料がまだない。だが、一つだけ、確かなことがあった。


 この書き込みを残した人物は、凍結番号「1-27-xx」に属する何かを、「記せ」と命じている。

 命じられた時点で、その人物にとっては、その文書群は記録されるべきものだった。現在——蒼氷派の参照台帳では——その番号群は、ほぼ全てが「該当番号なし」だった。


 誰かが、失われる前の時点で、失われることを予期して、書き込みを残した。


 アシュルは姉の写本のことを考えた。

 姉の写本の「手順書」のページにも、古代文字で書かれた番号と材料と時刻のリストがあった。あれは、聖域の封庫で最後に見た時、何の体系に属しているのか、確信が持てなかった。


 ——同じ体系かもしれない。


 断定はできない。仮説だった。だが、仮説としては、あり得た。


 三日目。


 原炎の時代の参照台帳に残る古代文字の書き込みを、アシュルは二つ、午後の遅い時間に三つ目を見つけた。全て、凍結番号の上層配架先を指していた。地上六層、七層。足の届かない層。筆跡は少なくとも二種類——複数の手が、長期にわたって書き継いだのかもしれない。


 参照台帳を閉じた。

 三日目の終わりに、選択肢が自然に絞られた。読むことはできる。書くこともできる。だが、足を運ぶことが、できない。


 足の代わりになるものが、必要だった。


 その夜、アシュルは目録室を出た。


---


 三日目の夜から四日目の昼にかけて、アシュルは目録室の外を歩く時間を増やした。

 目録室での探索に詰まった時は、書架の間を歩く——というのが、蒼氷派の学者の流儀らしかった。廊下を歩く、別の主題分類の書架の間を抜ける、主閲覧室を横切る。それだけで頭の中の配線が整理される、と若い当番司書が一度だけ呟いたのを、アシュルは聞いていた。呟いたのがアシュルに向けてだったのか、独り言だったのかは分からない。


 歩くと、視界の端に他の候補者たちが瞬間的に現れた。

 五つの断片を、アシュルはこの一日半の間に拾った。


 石の廊下を歩く自分の足音は、不思議な仕方で反響した。

 正面から返ってくるのではなく、斜め上——石壁の高い位置——から少し遅れて戻ってきた。廊下の天井が高いため、音の経路が複雑になっていた。時折、他の候補者の足音らしきものが遠くから届くが、どの方角から来ているのか、反響が混ざって特定できなかった。帝都の石畳なら足音の出所は明快だった。ここでは、方角そのものが曖昧に溶けていた。音の出所を探すことに慣れた帝都の耳が、この建物の音響に順応するまで、あと何日かはかかりそうだった。


 シグルは地上二層の軍事記録の書架にいた。

 大きな背中が書架の端から遠目にも分かった。手に取っている冊子の凍結番号は、主題分類「05」——軍事記録の系統。片手で支える粗野な持ち方に、蒼氷派の司書が無言で近づきかけ、シグルの肩幅を目の前にして足を止め、戻っていった。


 オーシンは地上一層の、自然誌と土壌記録の書架の間にいた。

 膝をついて、最も低い書棚の冊子に、敬意のある触れ方をしていた。読む、というより、迎え入れる動き。土壌記録の凍結番号は、主題分類「30」から始まる。高原のこの地には無い、深根派しんこんはの故地の記憶を、紙の上から取り戻そうとしていた。


 ライラは、目録室から離れた地上三層の廊下にいた。

 本を読んでいなかった。書架の背表紙の上を、指で、ゆっくりとなぞっていた。背表紙を撫でているのではない。数えているのでもない。——探している。


 欠番を、探していた。凍結番号が一つ飛んでいる場所。削除の痕跡。抹消の記号。そこに指が止まる。彼女はその場所に唇を寄せるほど近づいて、何かを小さく呟いた。呟きの内容は、廊下のアシュルの位置からは届かなかった。朱謡派しゅようはが物語を蒐集する動きは、書物の本文ではなく、本文と本文の間の沈黙から始まるらしい。


 ルキウスは地上二層の勅令記録の書架にいた。

 直立した姿勢で冊子を広げ、ページの間を通る指の軌道が儀礼のように整っていた。アシュルが書架の列の向こう側を通る時、金茶色の瞳が書架の隙間越しにこちらを捉え、彼は微かに顎を引いた。アシュルも同じ角度で顎を引いた。言葉は交わさなかった。二人の間を一行分の沈黙が通過し、それだけで互いの探索が何の邪魔もしないことは合意された。


 シリンを、アシュルは書架の間で一度も見かけなかった。

 見かけなかったという事実が、それ自体で気配だった。見つからないようにしている者は、必ずどこかには、いる。


 書架の区画を歩くごとに、空気の匂いが変わった。

 軍事記録の区画の紙は、古い革の匂いに近かった。勅令記録は、金箔を使った装幀が微かに酸化した金属質の匂い。土壌記録は、植物質の紙——樹皮から作られた蒼氷派独自の和紙に近い紙——の乾いた匂い。朱謡派が触れた区画には、一瞬だけ、他の場所にはない甘い匂いが残っていた。ライラの髪に付いた香草の香りか、彼女の体温が残した何かか。


 文書の年代ごとに、空気の匂いの組成が微妙に違う。蒼氷派の司書たちは、おそらくこの違いを意識しない。だが鼻のい者なら、それだけで書架の区画を言い当てられる。アシュルは歩きながら、その違いを鼻の奥で分類していた。書類の年代を、匂いで分類できる——という事実は、上層の古代文字の配架先を探す時、一つの別の道筋を与えてくれるかもしれなかった。


 歩いている間、触覚の遠さは気にならなかった。

 身体を動かしている間、指先の鈍さは影を潜める。止まった時だけ、それが、戻ってきた。


---


 四日目の午後、アシュルは目録室に戻った。


 高原の陽は既に傾いていた。壁面の象嵌の碧光が、朝より深い色を帯びていた。当番司書は奥の間に引っ込んだまま、姿を見せなかった。この部屋は、アシュルと参照台帳の並びと、冷気だけが住人だった。


 日常業務台帳の、薄いページをめくろうとした時だった。


 親指と人差し指で、ページの端を、つまんだ——つもりだった。


 ページが、動かなかった。

 いや、動こうとしなかったのではない。アシュルの指が、「つまんだ」という信号を脳に送ってこなかった。


 視覚は見ていた。指の先が紙の端に触れていることは、目で確認できた。

 だが、触れているという確信が、どこにも無かった。


 一度目は、偶然と処理した。

 指がずれたのだろう。もう一度、位置を正してつまみ直す。


 二度目。

 同じことが起きた。紙の端はそこにある。指の腹はそこにある。二つの面が接しているはずの場所に、「接している」という感触が、無かった。


 三度目。

 アシュルは右手を止めて、左手で右手の指先を握った。


 左手の掌の感覚は、鋭かった。右手の指先の皮膚の温度、その冷たさ、その硬さ、その微かな湿り気——全部、左手に伝わってきた。

 ところが、右手の側からの応答が、乏しかった。左手に握られているという感覚が、右手の指先では薄い。右手の内側では、左手が「少し向こう」にいる。


 左手と右手の間に、名前のない距離があった。


 距離ではない距離、と言うしかなかった。空間の距離ではない。時間の距離でもない。感覚の何かが、途中で薄まって、届かずに立ち消えている。


 目録室の沈黙が、その距離の上に覆い被さった。

 当番司書は奥の間にいる。紙の音もない。自分の呼吸の音だけが、長卓の上の空気を僅かに揺らしていた。吸う、止まる、吐く——その一巡の間隔が、普段より長くなっていることに、アシュルは気づいた。身体が無意識に呼吸を伸ばしていた。触覚の問題を、呼吸の制御で相殺しようとしているらしかった。下層で覚えた癖だった。


 アシュルは深く息を吸った。

 高原の乾いた冷気が、肺の奥に届いた。鼻腔を通り、喉を過ぎ、胸骨の裏側の一番底まで——その経路の全てが、微細に把握できた。肺の感覚は、まだ鋭い。冷気の乾き方、冷たさ、密度——どれも、ちゃんと届く。


 触覚が鈍っているのは、指先の末端だけだった。封庫を出た夜に自分へ言い聞かせた「末端から中心に向かって薄れていく」——姉の言葉が、具体的な作業の破綻として、今、この目録室の長卓の上に現れていた。


 アシュルは目を閉じ、触覚の鈍化を内側から確認した。

 視覚を遮断すると、指先から脳までの信号が、確かに途中で細くなっているのが分かった。


 ——姉さんは、どうだったか。

 その問いが一瞬、目の裏を横切った。最後の夜、厨の卓で「手順書」を書き終えた時、姉の指先はどこまで届いていたのか。判別の材料は、写本の字の震えしかない。


 目を開けた。

 目録室の碧光が、指先を冷たく均等に照らしていた。指先の皮膚は、目で見る限りは、これまでと何も変わらなかった。爪の形も、指紋の線も、同じ位置にある。外から見て分かる変化は、何も無い。内側だけが、変わっている。


 アシュルは指先をもう一度、開いて、握って、開いた。

 それから、ゆっくりと息を吐いた。


 ——進行している。


 それだけを、認めた。

 認めた以上のことは、今、言わなかった。嘆くことも、怒ることも、絶望することも、帝都で三年間のうちに忘れかけた。目立たない者は、嘆かない。嘆けば気づかれる。気づかれれば終わる。下層で学んだ生存戦略が、こういう時にも律儀に働いた。


 ページの端に、親指と人差し指をもう一度、かけた。

 ゆっくり。慎重に。力を調節して——つまめた。

 三度目の正直だったのか、角度が合っただけなのか。


 アシュルはページを送った。

 一枚。また一枚。


---


 戸を押した瞬間、鼻が先に気づいた。


 朝には無かった匂いが、広間に満ちていた。乳製品の薄い煮物の匂い。黒いパンの、ほんの僅かな発酵の匂い。干し肉の脂が空気に浮き上がる、かすかな動物の匂い。——そして、七人分の呼吸が作り出す、人の匂い。朝の広間から抜け落ちていた生物の気配が、夜にだけ、この部屋に戻ってきていた。


 顔を上げた時、光の質が朝と違うことに気づいた。

 天窓から落ちていた痩せた白色光は、完全に失われていた。代わりに、壁面の腰高を走る碧い氷の象嵌が、昼よりもはっきりとした淡い碧光を放っていた。広間全体が、碧一色の光に包まれている。炎は、一切、無かった。蝋燭も、油灯も、暖炉も、松明も、どこにも無かった。


 長卓の上には、各人の前に白い陶器の椀が置かれていた。

 椀の中身は同じだった——乳製品の薄い煮物、輸入穀物の黒いパン、干し肉の薄切り、そして、薬草茶。蒼氷派の日常食。料理は湯気を立てていた。だが厨には火の気配が、相変わらず、無かった。碧い氷結炉で沸かされた湯だけが、煙を伴わずに、匂いを伴わずに、陶器の椀の上に昇っていた。


 この時、七人は——

 四日目の夜に初めて——全員が着席していた。


 席は固定ではない、と最初の夜にユエンが短く説明していた。だが、人は無意識に同じ位置に戻る。四日目の夜にして、位置の型が見え始めていた。


 ルキウスは長卓の長辺の一方の中央にいた。正面を向く位置。背筋が伸び、両肘を卓に置かず、食器の扱いが完璧だった。彼の前の椀の中身は、アシュルのものと同じだった。同じ椀を、彼は儀礼のように食べていた。


 シグルはルキウスの右隣にいた。肘を軽く卓に置き、体躯が椅子からはみ出している。彼の体温だけが、広間の他の場所より空気を僅かに揺らしていた。冷気の薄さに、彼の身体はまだ順応し切れていないようだった。呼吸が深い。飲み込み方が、戦場の兵のように短い。食事は栄養の摂取——それ以上の意味を、彼は食卓に求めていなかった。


 ライラはルキウスの左隣にいた。頬杖をつきそうになって、一度だけ手が動きかけ、止まった。広間の作法が許さないのか、彼女の自制が働いたのか、どちらかだった。彼女の視線は椀ではなく、天井近くの象嵌の碧光の方に流れていた。食事よりも、光を食べていた。白い世界に唯一の色——その碧を、視覚で味わっていた。


 長卓の反対側——ルキウスたちの向かいの長辺の中央——は、空席だった。

 誰も座らなかった。誰も言及しなかった。七人の物語には、最初から八つの椀が用意されていたらしい。八人目の席が、空いたまま、食事の間中、碧光の下にあった。


 その空席を挟んで、右にシリン、左にオーシンが座っていた。

 シリンは背もたれに浅く腰かけ、いつでも立てる姿勢だった。食べ方は最も静かだった。陶器の椀と木の匙の接触音を、ほとんど立てなかった。視線は自分の椀に落ちている——ように見えた。だが時々、顔を上げずに、空席の方角を見ていた。誰かが座っていない椅子に、別の誰かの不在を重ねている動きに見えた。

 オーシンは両手を食前に一度、卓の下で組んだ。目をつぶる時間は一拍か二拍。樹精魔法じゅせいまほうの習慣か、単に祈りか。終わると、匙を取って、椀に向かった。食べ物の温度を一度確認してから口に運ぶ動きは、大地から果物を受け取る時と同じだった。彼の視線は、食事の間中、壁際の一点に度々戻っていた。そこには——高地の苔が、石の継ぎ目から微かに顔を出していた。こんな場所に生きているのが信じ難い小さな緑。オーシンはそれを、他の誰も気づかない位置から、見つけていた。


 アシュルは長辺の端——ルキウスから最も遠い位置——にいた。

 長卓の末端。朝と同じ、観察者の位置。いつでも立ち去れる位置。背中を小さく丸め、両手を卓の上に置いて、身体を可能な限り縮めている自分の姿勢が、帝都で三年間身につけた形をそのまま再現していた。ここに住む貴族たちの前では、身体の輪郭を細くしておくのが、生き延びる作法だった。


 ユエンは長卓の短辺の角に椅子を引いて座っていた。

 主席の位置ではない。短辺の角——観察する側の位置。正座の姿勢を、椅子の上で正確に保っていた。彼女の椀の湯気が、広間の中で誰のものより細く立っていた。彼女の呼吸も、それに合わせて浅く、細かった。蒼氷派の食べ方は、気配を立てない食べ方だった。


 広間全体を、薬草茶の苦味が薄く覆っていた。

 それに、乳製品の煮物の穏やかな匂いが重なった。輸入穀物の黒いパンは、発酵の匂いがほんの僅か立っていた——高原では珍しい、濃い匂い。蒼氷派の乾いた空気の中では、この発酵の匂いだけが、人間の体温に似た温かみを持っていた。


 そして、アシュルの鼻は、もう一つの匂いを拾っていた。

 ユエンが座る短辺の方角から、微かに、紙と氷の混ざった匂いが流れてきていた。鉱物と、乾燥と、止められた時間。氷の図書館の匂いだった。彼女の服に染みついた、蒼氷派全体の匂い。それがユエン個人の匂いでもあった。朝から日暮れまで書架の間にいる者の、身体に残留する空気の成分だった。


 誰も乾杯しなかった。

 帝都の広間なら、必ず酒があり、乾杯があった。ここには酒が無い。儀礼が無い。食事は食事として、ただ存在していた。必要なものだけがあり、必要でないものは存在しない——蒼氷派の原則が、卓の上にも貫徹していた。


 七人の咀嚼そしゃく音が、広間を満たした。

 炎の音がない分、咀嚼の音がはっきりと立った。薄い煮物の汁をすする音、パンを噛む音、干し肉を奥歯で磨り潰す音。音の不在が、生理の音を前面に引き上げていた。聖域の食事の卓とは、まるで違う、むき出しの共同生活だった。


 最初に言葉を発したのは、ルキウスだった。


「今日の収穫はあったか」


 広間の沈黙の真ん中に、声が一つ、正確な角度で置かれた。中身を問うためではなく、卓の空気に最低限の社交の骨を一本通すために発された声だった。ルキウスは匙を置き、両手を椀の縁の外側に戻してから、顎を僅かに上げた。


「帝都の食卓でないことは承知している。進捗を披露する場でもない。——ただ、黙って食べるのは、私の流儀ではない」


「寒い」


 シグルは匙を椀に戻しもせず、その一語だけを置いた。前置きはなかった。ルキウスの問いに応じたのか、単に独立して呟いたのか、判別のつかない放り方だった。


「理屈はいい、ルキウス。暖炉のねえ飯は飯じゃねえ。それだけだ」


 白い吐息が、言葉の尻尾のように卓の上に残った。


「ライラはね、さっきから聞いてたの」


 少女の声が、シグルの短い放棄の上に、そっと別の布を被せた。ライラは椀の中身ではなく、天窓近くの碧光の方を見上げたまま、卓の誰にも向けずに語りはじめた。


「この部屋のまわりに、千年分の物語が凍っているんだって。棚の中にぎゅっと並んで、息をひそめて、順番を待っているの。——だけど、誰も聞きに行かないのね。ライラの故郷だったら、物語が一つでもあったら、火を焚いて、人を呼んで、歌にするのに」


 視線が、一度だけ、ルキウスの椀のあたりを掠めた。掠めただけだった。


「寒いのは、本当はね、暖炉のせいじゃないんじゃないかしら。——物語が、誰にも読まれないまま待っているの。それが、このお部屋を冷やしているの」


「連絡を一つ」


 ユエンの声が広間の碧光の中に落ちた。乾いていて、平らだった。ライラの言葉に応じた声ではなかった——はずだった。話題の接続はなく、事務的な連絡の回路だけが起動していた。


「明朝より三日間、地上三層の当番司書が交代いたします。現任は西棟の校訂作業に回りますゆえ、参照台帳の所在についての質問は、新任の当番にお願い申し上げます。新任の名は——」


 そこで、声が途切れた。


「……新任の名は、後ほど書面でお知らせいたします。口頭での伝達は、蒼氷派の習わしに合致いたしません。——失礼を」


 訂正が、遅かった。一語目の訂正から次の文節に移るまでの継ぎ目が、ユエンの声にしては〇・五秒ほど長かった。温度のない丁寧語が、温度のないまま、わずかに速度を失っていた。


 アシュルは匙を持ったまま、一度だけ顔を上げかけて止めた。理由は、自分でも分からない。

 卓上に置いた左手は動かさず、木の匙を持ち上げて、椀の中身を少し口に運んだ。


 陶器の椀の冷たさが、指先の手前で止まった。


 味覚は、まだ鋭かった。

 煮物の薄い塩味、薬草茶の苦味、黒いパンの酸味と麦の甘み。それぞれ、舌の上で正確に分離できた。


 ユエンの視線が、卓上を順に渡っていた。

 街道の馬上でアシュルが遠目に見た「走査」と、同じ動きだった。呼吸、姿勢、椀を持つ手の力み、食べる速度——読み取れる微細な情報が、彼女の碧い瞳の上を一人ずつ通過していく。人を見ているのではない。要素を数えている目だった。


 そして、アシュルのところで、他の誰よりも半拍だけ、長く止まった。


 アシュルの位置からは、ユエンの瞳の底を覗き込むことはできない。ただ、長さだけが、違った。


 その半拍を、アシュルは胸の奥の棚に置いた。

 何らかの評価を、街道の途中で、彼女はアシュルに下していたはずだった——その言葉の中身は、アシュルには分からない。今夜の半拍は、その評価の後ろに付け足された脚注に似ていた。脚注の中身も、読む手段がない。ただ、脚注が加えられたこと——それだけは、記録しておく必要があった。


 ルキウスが、アシュルの視線の動きに気づいたかもしれなかった。

 視界の端で、ルキウスの顎が一度、微かに動いた。了承の身体言語の縮小版だった。アシュルがユエンの走査を読み取っていることを、ルキウスは彼自身の側から読み取っていた。この二人は互いの観察の軌道を観察していた。三十日間の共同生活の初期段階で、こういう種類の通信が既に成立しつつあった。


 食事が終盤に差し掛かった頃、シリンが一度、顔を上げた。


 彼女の視線が、卓の端のアシュルの方に落ちた。

 涼やかな瞳の中で、ほんの一瞬、何かが唇まで昇ってきた——気がした。何かを言いかけた。息の形が、言葉の形を取りかけた。

 だが、言わなかった。

 彼女は視線を落とし、薬草茶の最後の一口を飲み干した。


 アシュルは視線を落としたままで、その一瞬を胸に留めた。

 ——いずれ、また、向こうから言葉が来る。

 そう思えた。根拠はない。根拠ではなく、月影派の娘の、言葉を呑み込むときの、その呑み込み方の質だった。言葉は消えたのではない。一度、呑み込まれて、別の時間まで保管された。


 食事は、三十分ほど続いた。ほとんど無言の三十分だった。


 誰かが先に椀を置いた。

 それを合図に、一人、また一人と、椀が置かれた。最後に椀を置いたのはシグルだった。彼の動作は他の誰よりも荒く、他の誰よりも満足そうだった。


 アシュルは立ち上がって、長卓の末端から広間を退出する最初の一人になった。

 背中に、七人分の視線の重さが一瞬だけ集まり、すぐに散った。

 広間を出る時、扉の近くで、給仕の官吏がもう一杯の湯を新しい椀に注いでいた。湯気だけが立っていた。

 火は、やはり、どこにも無かった。


---


 個室に戻ったのは、夜の深い時刻だった。


 廊下の足音が絶えた時間帯。賓館の全体が、石の沈黙の中に沈んでいた。どこか遠くで、一度、誰かが咳をする音が聞こえた。シグルかもしれなかった——高原の空気に肺がまだ追いついていない。


 アシュルは戸を閉めて、文机の前に座った。

 旅嚢は、床の隅にまだ解かれずに置かれたままだった。四日目の夜にして、アシュルはまだここを「自分の部屋」と呼ぶことを身体に許していなかった。三十日間の滞在でも、その許可は下りないかもしれない——と、一瞬だけ思って、思考を進めなかった。


 写本を、文机の上に開いた。


 姉が残した「手順書」のページを、慎重に探した。

 革の表紙の厚みは、指の一枚向こうにあった。紙の繊維は、一枚向こうにあった。それでもアシュルは、ページの正しい位置を、視覚と残された触感の切れ端で探り当てた。指が覚えているという感覚は、もう失いつつあった。代わりに、紙の縁の微かな凹みを、目で数えた。


 「手順書」のページ。

 古代文字で書かれた、番号と、材料と、時刻のリスト。


 ——番号。


 「一の二十七の一七」。「一の二十七の二三」。「一の二十七の三一」。


 今日の目録室で見つけた古代文字の書き込みを、アシュルは頭の中で並べ直した。

 「一の二十七の〇〇、記せ」。


 主題分類の数字が、一致していた。


 アシュルは背を一度だけ伸ばした。

 その後、すぐに、背が自然に丸まった。——発見を外に見せない癖は、誰もいない個室の中でも律儀に働いた。


 ——姉さんはここで、何かを見ていた。


 その言葉が、胸の奥で一度だけ形を取った瞬間、指が写本の紙に触れたまま動きを止めた。息が一つ、途中で止まった。吸うでもなく、吐くでもない。胸郭の中央に、言葉にならない重さが、半拍だけ留まった。


 それから、ゆっくり、身体が動いた。

 決意——という語は、書院の言葉だった。アシュルの身体には合わない。代わりに、姉さんがこの番号を読める者だったという一点だけが、肋骨の裏側に静かに据え付けられた。その痕跡は、おそらく、地上六層から七層の上層にある。アシュルの足が届かない層だ。


 誰かを経由するしかない。その誰かが、今夜、広間の食卓の端で、言いかけて言わなかった。

 アシュルの古代文字の能力を、交換条件の材料として差し出せる可能性がある。

 可能性。仮説。ただ、方向は、見えた。


 アシュルは写本を閉じた。

 閉じる動作は、ゆっくりだった。触覚が遠いと、閉じる勢いを間違える。革の表紙を、掌全体でそっと下ろした。指先の代わりに、掌が仕事をした。


 写本を枕元に置いた。

 目を閉じる前に、一度だけ、鼻で空気を確かめた。


 個室の匂いは、相変わらず無臭に近かった。薬草茶の匂いはもう廊下から届かない。薬草茶の残り香も、空気から退いていた。完全に無臭に戻った個室の中に、一つだけ、写本の古い紙の匂いが、枕元から微かに立っていた。アシュルが持ち込んだ、この部屋における唯一の匂いだった。


 その匂いの奥に、何かがある、はずだった。

 姉の指の匂い——三年前に写本の革に触れていた姉の、体温の残滓。今朝、個室の寝台に座っていた時、アシュルの鼻は確かにそれを拾っていた。


 だが、今夜は、拾えなかった。

 同じ写本の、同じページの、同じ位置に顔を近づけても、姉の指の匂いが、もう立ち上がってこなかった。古い紙の匂いだけが、代わりに広がっていた。


 匂いは、消えたのか。

 それとも、アシュルの方から消えたのか。


 判別の材料は、無かった。

 ただ——姉の匂いを、アシュルはもう、思い出せなかった。


 目を閉じた。

 枕元の写本の古い紙の匂いだけが、闇の中に、一本の細い線のように残っていた。


---


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