第一話「その瞳は、恐れを知らない」
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幼い頃の記憶は、誰にとっても曖昧なものだ。
けれど、ある瞬間だけは、鮮明に焼き付いて離れない。
そんな経験が、誰にでもあるのではないだろうか。
セレスタイン・アルヴァロスにとって、その瞬間は七歳の春に訪れた。
王宮の奥庭。
立ち入りを許されているのは王族と、ごく限られた貴族のみ。
人目を避けたいセレスタインにとって、そこは唯一の安息の場所だった。
銀灰色の髪、凍てついた湖を思わせる青い瞳。
生まれた時から、セレスタインは周囲から恐れられてきた。
亡き先々代王妃、呪われた魔女の血を引くと噂された女性の面影を、色濃く受け継いでいたからだ。
兄のカイルは金色の髪に緑の瞳、いかにも王族らしい華やかな容貌をしている。
それと対照的になるように、セレスタインの外見は不吉だと囁かれた。
だから、人のいない場所を選んで歩く。
誰とも目を合わせず、誰とも言葉を交わさずに。
その日も、いつものように一人で庭を歩いていた。
薔薇の迷路を抜けた先の、小さな泉のほとり。
そこに、見慣れぬ少女が座り込んでいた。
栗色の髪を三つ編みにした、小さな背中。
淡い水色のドレスの裾が、石畳に広がっている。
セレスタインは見知らぬ人間に警戒し、立ち止まった。
声をかけるべきか、それとも気づかれる前に立ち去るべきか。
迷っている間に、少女が顔を上げた。
琥珀色の瞳が、セレスタインを捉える。
「……あの」
少女は立ち上がり、スカートの裾を払った。
泣いていたのだろうか。目元が少し赤い。
「迷子に、なってしまって。出口が、わからないんです」
セレスタインは何も答えられなかった。
いつもなら、こんな時は無言で立ち去る。
だが、少女の瞳はセレスタインを捉えても怯えることなく、真っ直ぐこちらを見ていたのだ。
セレスタインの銀灰色の髪を見ても、氷のような青い瞳を見ても、怖がる様子がない。
ただ困ったように、けれど真っ直ぐに、彼を見つめている。
「あの、もしかして……このお城に住む王子様、ですか?」
小さな声で、少女が尋ねた。
セレスタインはこくりと頷いた。
「なら、よかった」
少女は安堵したように息を吐いた。
「お母様が、もし迷子になったら王族の方に助けを求めなさいって。
でも、どのひとが王族なのか、わからなくて……」
彼女は恥ずかしそうに俯いた。
「初めて王さまのお城にきたの、父がこ、公爵?になったので、ごあいさつにきました…!」
公爵?ならばエルヴェイン家だろうか。
先月、功績により爵位が上がったと聞いた。
「……出口は、あちらだ」
セレスタインは、ようやく声を発した。
自分でも驚くほど、掠れた声だった。
「ありがとうございます」
少女は丁寧にお辞儀をした。
そして歩き出そうとして、足を止めた。
「あの……」
振り返った少女の瞳に、ためらいの色が浮かんでいる。
「お名前を、教えていただけますか?お礼を言いたいのに、お名前がわからないと……」
セレスタインは答えるべきか迷った。
名を名乗れば、彼女も自分を恐れるようになるかもしれない。
だが、彼女は待っている。
琥珀色の瞳で、真っ直ぐに。
「……セレスタイン」
「セレスタイン様」
少女は微笑んだ。
「ありがとうございました。私、リュシア・エルヴェインと申します」
その瞬間、セレスタインの視界が色づいて変わった。
リュシアの指先から、淡い赤い光が伸びている。
それは空中を漂い、ゆっくりと、まっすぐに、セレスタインの指先へと向かってきた。
赤き縁。
それは神が定めた魂の結びつき。
セレスタインは三歳の時から、それが見えていた。
王宮で働く侍女たちの指先、衛兵たちの指先。
様々な場所で、様々な人の間に結ばれた赤い糸を、セレスタインは見てきた。
けれど、自分の指先から伸びる糸を見るのは初めてだった。
淡く、儚く、今にも消えてしまいそうな光。
けれどそれは確かに、セレスタインとリュシアを結ぼうとしていた。
「……セレスタイン様?」
リュシアが不思議そうに首を傾げる。
彼女にはまだ、この縁が見えていない。
美しい、と思った。
赤い糸など関係なく。
神が定めた縁など関係なく。
目の前の少女が、ただ純粋に、美しいと思った。
初めて会った相手にも臆さない真っ直ぐな瞳。
そして、自分を恐れない唯一の存在。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
これまで感じたことのない、得体の知れない感覚だった。
この温度は何だろう。
春の陽射しが石畳を温めるように、幼い胸の奥にじわじわと広がっていく。
この人を、失いたくない。
誰にも、渡したくない。
幼い胸に、灼熱のような感情が生まれた。
「あの、私、もう行かないと……」
リュシアがもう一度お辞儀をして、歩き出す。
セレスタインは見送ることしかできなかった。
もっと、話したかった。
琥珀色の瞳をもっと近くで見たかった。
彼女がまた自分の名を呼ぶ声を、もう一度だけでも聞きたかった。
だが、喉が動かない。
足も動かない。
ただ、遠ざかる水色のドレスの裾を、目で追い続けた。
そして、彼女の後ろ姿を見つめながら、気づいてしまった。
リュシアの指先から、別の方向にも、微かな光が伸び始めていることに。
それはまだ糸にはなっていない。
ただの予兆。将来、結ばれるかもしれない可能性。
その光が向かう先を、セレスタインは知っている。
そう、兄、カイルの元へと。
胸が、締め付けられた。
息が、苦しくなった。
さっきまでの温かさが、一瞬にして凍りついていく。
いや。いやだ。
この人を、兄上には渡せない。
七歳の少年が抱くには、あまりにも重く、暗い執着。
けれどセレスタインは、その日から変わってしまった。
夜、自室で一人、禁書の類を読み漁った。
赤き縁について書かれた、神官ですら決して口にしない秘術の数々。
そして、ついに見つけた。
結ばれている縁を操作する方法。
それは神への冒涜。
発覚すれば、王族であろうと死罪は免れない。
けれど、セレスタインに迷いはなかった。
リュシアが八歳の誕生日を迎えた夜。
セレスタインは自室で、古代語で書かれた呪文を唱えた。
指先に結ばれた淡い縁が、するすると移動していく。
足首へ、誰にも見えにくく、奪われにくい場所へ。
そして、何重にも結び直した。
解けないように、切れないように。
術が完成した時、セレスタインは床に倒れ込んだ。
高熱が三日三晩続いた。
侍医は原因不明だと首を傾げたが、セレスタインは黙っていた。
熱が引いた後も、身体は本調子に戻らなかった。
代償として、魔力の一部が削がれたのだ。
それでも、後悔はしなかった。
足首に巻きついた赤い縁を見つめながら、セレスタインは誓った。
いつか、必ず。
この人を、自分の隣に。
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第2話に続く…




