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第二話「断罪の広間で、縁は揺れる」


~~~~~~


薔薇の香りが充満する大広間で、リュシア・エルヴェインは静かに断罪されていた。


「――よって、リュシア・エルヴェインとの婚約を破棄する」


王太子カイルの声が、高い天井に反響する。

集まった貴族たちのざわめきが、さざ波のように広がった。


リュシアは睫毛を伏せたまま、わずかに口角を上げた。


驚くことも、悲しくもなかった。

何故ならこの日が来ることを、彼女はずっと予感していたからだ。


六年間の婚約生活。

その間、王太子カイルが自分を愛したことは一度もない。


形式的な茶会、義務的な舞踏。

会話は必要最低限。


それでも、リュシアは公爵令嬢としての責務を果たしてきた。

いつか、いつかは心を開いてくれるかもしれないと、淡い期待を抱きながら。


だが、現実は残酷だった。


「エルヴェイン公爵令嬢は、清純なるミレーヌ嬢に対し、度重なる嫌がらせを行った。

その罪は万死に値する」


万死に値する。

随分と大仰な物言いだと、リュシアは思った。


花壇に水を撒いていたら偶然通りかかったミレーヌ嬢の裾が濡れたこと。

社交界で挨拶をしたら声が冷たいと泣かれたこと。

廊下ですれ違っただけで睨まれたと訴えられたこと。


それらが積み上げられ、今この場で裁かれている。


愚かしい。

そう思うより先に、諦めが胸を満たした。



抗弁する気力も、既に残っていなかった。

六年間、ずっと孤独だった。


王太子は冷たく、侍女たちは次第に距離を置くようになり、社交界でも孤立していった。

ミレーヌ嬢の登場以降、その傾向は顕著になった。


誰も、リュシアの言葉を信じてくれなかった。


ならば、もういい。

この場所から、この息苦しい立場から、解放されるなら。


「リュシア・エルヴェイン。おまえには国外追放を――」


その瞬間だった。


リュシアの視界に、異質なものが映り込んだ。


赤い、糸。

いや、糸というには太く、しなやかな…紐のような何か。


リュシアは目を瞬いた。見間違いかと思った。

だが、何度瞬いても、それは消えなかった。


王太子カイルの指先から伸びる赤い紐が、まっすぐにミレーヌ嬢の指先へと繋がっている。

淡く発光するそれは、二人の間で穏やかに揺れていた。


これが、赤き縁。


リュシアは息を呑んだ。


神が定めた魂の結びつき。

一部の血筋のみが視認できるという、伝説の糸。


祖母から聞いたことがあった。

エルヴェイン家には、稀にその能力を持つ者が生まれると。


けれど、リュシアには見えたことがなかった。

だから、自分にはその才能がないのだと思っていた。


なぜ、今になって。


そして、残酷な事実が突きつけられる。

そう、王太子とリュシアの間には、糸も、何も結ばれていなかったのだ。


六年間の婚約、数え切れない茶会と舞踏会。

形式的とはいえ、共に過ごした時間。


そのすべてが、赤き縁には反映されていない。


最初から、なかったのだ。

運命の相手などでは、なかったのだ。


胸の奥が、妙に軽くなった。


ああ、そうか。

だから、こんなに苦しかったのか。


愛されていないと薄々気づきながら、それでも縋ろうとしていた自分。

その努力が、全て無意味だったと証明された。


「…聞いているのか、リュシア」


王太子の苛立った声が、思考を遮った。

リュシアは顔を上げ、穏やかに微笑んだ。


「ええ、殿下。すべて承りました」


その声は、自分でも驚くほど平坦だった。

悲しみも怒りもなく、ただ事実を受け入れる響き。


王太子は一瞬怯んだように見えたが、すぐに尊大な表情を取り戻した。


「……ならばよい。三日後の朝までに王都を出よ」


リュシアは優雅に一礼した。

公爵令嬢として叩き込まれた所作は、こんな時でも身体に染みついている。


顔を上げた時、視界の端で何かが動いた。


赤い紐が、もう一本。

それは王太子から伸びているのでも、ミレーヌ嬢から伸びているのでもなかった。


リュシア自身の、足首から。


思わず視線を落とす。

薄い絹の靴下越しに、赤い紐がくっきりと見えた。


指先ではなく、足首。

普通ではありえない位置に縁が結ばれている。


そしてその紐は、複雑に、執拗に、何重にも絡まり合いながら、大広間の片隅へと伸びていた。


私にも、縁が。


驚きと困惑が入り混じる。


誰に繋がっているのだろう。

心当たりはない。


六年間、王太子以外の男性と親しく接したことなど、なかった。


目立たないように、出口に向かうふりをしながらその紐を辿って歩く。


貴族たちが道を開ける。

好奇と侮蔑の視線を浴びながら、リュシアは赤い紐を追った。


そして、辿り着いた先。

そこに立っていたのは、第二王子セレスタイン・アルヴァロスだった。


銀灰色の髪に、凍てついた湖のような瞳。

王族の中でも異端とされる、無口で冷徹な第二王子。


社交の場にはほとんど顔を出さず、書庫に籠もっているという噂ばかりが聞こえてくる人物。


彼の足首に、私と繋がった赤い紐が巻きついていた。


いや、巻きついている、という表現は正確ではない。


がっちりと固定されている。


まるで逃げられないように、解けないように、幾重にも編み込まれ、結び直され、がんじがらめにされていた。


これは、何…?

困惑が、頭の中を支配する。


セレスタインは、リュシアの視線に気づいたのか、わずかに瞳を細めた。

その表情は、凍てついた湖面に亀裂が入るような、微かな動揺を含んでいた。


目が合う。

顔を合わせるのはこれが初めてではない。


これまでも、何度か視線が交わったことがあった。


社交界で、廊下で、庭園で。


その度にリュシアは、妙な胸騒ぎを覚えていた。


なぜか目が離せなくなる。

なぜか気になってしまう。


書庫に籠もっていると聞けば、どんな本を読んでいるのだろうと想像した。

異端だと蔑まれていると知れば、守りたいと思った。


それが何なのか、わからなかった。


ただ漠然と、あの方ともっと話してみたいと、そう、思っていた。


けれど、近づく機会はなかった。

自分は王太子の婚約者。

第二王子と親しくするなど、許されるはずがない。


だから、ただ遠くから眺めるだけだった。


そして今、その理由がわかった。


縁が、結ばれていたから。


いつから。

どうして。

なぜ、足首に。


疑問が渦巻く中、リュシアは広間を後にした。




追放までの三日間。

リュシアは自室に籠もり、荷造りを進めていた。


持っていけるものは限られている。

思い出の品々を一つずつ手に取っては、箱に戻す作業を繰り返した。


母が遺してくれたブローチ。

父が誕生日に贈ってくれた本。

侍女たちと選んだ髪飾り。


どれも、大切なものばかり。


だが、この屋敷での日々は、決して幸福なものではなかった。



両親は早くに亡くなり、後見人となった叔父は冷たかった。

公爵令嬢としての教育は厳しく、失敗は許されなかった。


王太子との婚約が決まった時、叔父は喜んだ。

家の名誉だと、何度も繰り返した。


だがリュシアは、何も感じなかった。


会ったこともない王太子。

恋愛感情など、抱きようがない。


それでも、公爵令嬢としての義務だと受け入れた。


婚約発表の舞踏会。


華やかな音楽の中、カイルはリュシアの手を取った。

形式的な笑顔で、形式的な言葉を交わす。


その時、ふと視線を感じた。


広間の隅に、銀灰色の髪の少年が立っていた。


第二王子、セレスタイン。


彼はこちらを見ていた。

凍てついた湖のような青い瞳で、じっと。


リュシアは思わず目を逸らした。

なぜか、その視線が重く感じられたから。


だが、不思議と不快ではなかった。


むしろ…


なぜだろう。

胸の奥が、ざわついた。


まるで遠い記憶の中で、この視線を知っているような気がした。

銀灰色の髪の少年。どこかで、会ったことがあるような——。


でも、それがいつのことなのか、思い出せなかった。


それから六年間、リュシアはセレスタインを何度も見かけた。


王宮の図書室で。


リュシアは読書が好きだった。

孤独な婚約生活の中で、本だけが慰めだった。


ある日、いつものように図書室の奥の席に座っていると、扉が開く音がした。


顔を上げると、セレスタインが入ってきた。


彼はリュシアの存在に気づいたのか、わずかに足を止めた。

だが、何も言わずに反対側の書架へと向かう。


それから一時間ほど、二人は同じ空間にいた。


会話はない。視線も交わさない。


だが、妙な心地よさがあった。

誰かと同じ空間にいることが、こんなにも穏やかに感じられるなんて。


カイルといる時には、決して感じたことのない感覚。


カイルの傍では、いつも背筋を正さなければならなかった。

言葉を選んで、表情を選んで、息の仕方まで選ぶような、あの息苦しさ。


だが、セレスタインと同じ部屋にいると——

まるで、一人でいるよりも静かな心地がした。



それから、リュシアは図書室に通う頻度が増えた。


もしかしたら、また会えるかもしれない。


そんな淡い期待を抱きながら。


そして、何度か。

セレスタインと図書室で居合わせた。


彼は相変わらず無口で、挨拶以外の言葉を交わすことはなかった。

しかし…




ある日、リュシアが高い書架の本を取ろうとして、脚立の上でバランスを崩した。


落ちる、と思ったその瞬間。


誰かに支えられた。

ふと目を開けると、セレスタインがいつの間にかリュシアを抱きかかえていた。


「……大丈夫か」


低く、静かな声。


リュシアは驚き、頷くことしかできなかった。


彼の手が、リュシアの腕を掴んでいる。


その温もりが、妙に心に残った。


温かい人だ、とリュシアは思った。

冷徹だと噂される指先が、こんなにも確かな温もりを持っているのだと、初めて知った。


「……気をつけろ」


それだけ言って、セレスタインは離れていった。


その言葉は短かった。

短かったけれど、リュシアには聞こえた。


声の奥に滲む、ほんの微かな心配が。


リュシアは、その場に立ち尽くした。


胸が、騒がしい。

頬が、熱い。


これは、何。


王太子と手を繋いでも、踊っても、感じたことのない感覚。


これが、誰かを意識するということなのだろうか。


それとも——


それから、リュシアはセレスタインを意識するようになった。


廊下ですれ違う時。

庭園で遠くに姿を見かける時。


自然と、視線が向いてしまう。


だが、近づくことはできなかった。


自分は王太子の婚約者。

第二王子に好意を抱くなど、許されない。


だから、ただ遠くから眺めるだけ。


それでも、彼の姿を見かけると、ほんの少しだけ、孤独が和らいだ。


王宮の中で、自分をひとりにしない存在。

言葉を交わすわけでも、隣に並ぶわけでもない。

ただいるだけで、それが、リュシアには十分だった。



そして、今…

追放が決まり、セレスタインとの縁が見えるようになった。


これは、偶然なのだろうか。


それとも……



リュシアは自分の足首を見下ろした。


複雑に絡まり合った赤い紐。

まだ、消えていない。


この縁は、いつから結ばれていたのだろう。


そして、なぜ足首に?



窓の外では、月が輝いている。

明日の朝には、この屋敷を出なければならない。


不思議と、涙は出なかった。


むしろ、胸の奥に芽生えたのは…


期待、だった。


追放され、すべてを失う。

だが、同時に、誰にも縛られない。


王太子の婚約者という立場も、公爵令嬢という責務も、すべて消える。


ならば…

セレスタインに、会いたい。


この縁の意味を、知りたい。


なぜ、足首に結ばれているのか。

なぜ、こんなにも複雑に絡まっているのか。


そして…

彼は、この縁を知っているのだろうか。





控えめな扉の音が、静寂を破った。


「……夜分に失礼する」


低く、静かな声。


リュシアが振り返ると、そこにはセレスタイン・アルヴァロスが立っていた。


「セレスタイン殿下……」


驚きで声が掠れた。


王族が、しかも第二王子が、追放予定の令嬢の部屋を夜中に訪れるなど、あってはならないことだ。


だがセレスタインは、そんな常識などどこ吹く風という顔で、部屋に足を踏み入れた。


月明かりが、彼の銀灰色の髪を照らしている。

凍てついた湖のような瞳が、リュシアを捉えた。


その瞳が、想像していたよりもずっと深い色をしていることに、リュシアは気づいた。

湖の底まで見通すような、吸い込まれそうな青さ。


「……見えるようになったのだな」


前置きもなく、彼は言った。


「……何のことでしょうか」


問い返したものの、リュシアにはわかっていた。


「赤き縁が、だ」


セレスタインの美しくも鋭い瞳が、青白く光った。


「私にも見えるのだ。幼い頃から、ずっと」


リュシアは息を呑んだ。


知っていたのだ。

この縁のことを。


「……いつから」


かろうじて、それだけを問うた。


セレスタインは窓辺に歩み寄り、月を見上げた。


「十年前。おまえが初めて王宮を訪れた日」


リュシアの記憶が、呼び起こされる。


十年前。

父が公爵に叙された日。


王宮の奥庭で迷子になり、一人の少年に助けられた。


銀灰色の髪の、無口な少年。


「……セレスタイン様、だったのですか」


「覚えていたのか」


セレスタインが、わずかに驚いたように振り返った。


「はい」


リュシアは頷いた。


「とても、親切にしていただいて。

でも、お名前を聞いただけで、お顔をよく覚えていなくて……」


あの時は幼くて、王族の顔など知らなかった。


けれど、助けてくれた少年のことは、ずっと心のどこかに残っていた。


優しかった、と。


少年は言葉が少なかった。

けれどその短い言葉の中に、ためらいがあった。

名乗るべきか迷うような、そんな間が。


今になって思えば、あの少年は恐れられることに、慣れていたのだろう。

それでも名乗ってくれた。自分のために。


「……あの日、縁が見えた」


セレスタインは静かに語り始めた。


「おまえの指先から、私の指先へ。

淡く、儚く、今にも消えそうな赤い糸が」


リュシアは胸が締め付けられるのを感じた。


十年前から。

幼い頃から、彼は知っていた。


「だが同時に見えたのだ」


セレスタインの声が、わずかに震えた。


「おまえの指先から、兄上の方へ伸びようとする、別の光が」


リュシアは目を見開いた。


「それはまだ糸にはなっていなかった。ただの可能性。

だが、いずれ結ばれるだろうと、わかった」


セレスタインは拳を握りしめた。


「兄上は、いつも私から何もかも奪っていく。

父上の愛情。臣下の忠誠。民の支持。

すべて、兄上のものになる」


その声には、深い苦悩が滲んでいた。


「だから、せめて――」


彼は、リュシアを見た。


「おまえだけは、奪われたくなかった」


リュシアは何も言えなかった。


十年間、幼い頃から、ずっと。

彼は、この想いを抱えてきたのだ。


七歳の少年が。

孤独に、ひとりで、それを胸に仕舞って。


「……なぜ、足首なのですか」


ようやく、それだけを問うた。


セレスタインは、自分の足首を見下ろした。


「指先に結び付けては、奪われるだろう」


「……奪われる?」


「神が定めた縁は本来、意図して触れることはできない。だが……」


彼は振り返った。

その表情は、凍てついた湖面に亀裂が入るような、微かな動揺を含んでいた。


「…できてしまったのだ」


リュシアは息を呑んだ。


「八歳の誕生日の夜、術を行使した」


セレスタインは静かに語った。


「禁書を読み漁り、見つけた秘術。それは縁を操作する方法」


神への冒涜…


その言葉が、リュシアの脳裏を過ぎった。


「指先に結ばれた縁を、足首に移した。そして、何重にも結び直した。

解けないように。切れないように。奪われないように…」


セレスタインの声が、低く響く。


「代償として、高熱が三日間続いた。それで魔力の一部も、失われた」


リュシアは震えた。


そこまでして、命を賭してまで…


「……どうして」


涙が、溢れそうになる。


「どうして、そこまでするのですか」


「わからない」


セレスタインは静かに首を振った。


「理由など、わからない。

ただ、おまえを他の誰かに渡したくなかった…それだけだ」


彼の瞳が、リュシアを捉えた。

凍てついた湖の奥に、燃えるような何かが揺れている。


「おまえが兄上と婚約した時」


セレスタインは一歩、近づいてきた。


「…狂いそうだった」


その声は、苦しげだった。


「毎晩、悪夢を見た。

おまえが兄上に微笑みかける夢、おまえが兄上と踊る夢、おまえが兄上を愛する夢」


彼の拳が、震えている。


「だが、縁は私と結ばれている。そう自分に言い聞かせた」


もう一歩、近づく。


「六年間、お前をずっと見ていた」


セレスタインの声が、リュシアの胸に突き刺さる。


「図書室で本を読むお前。庭園で花を眺めるお前。舞踏会で孤独に立つお前」


リュシアの目が、見開かれた。


見ていた?


ずっと?


「兄上は、おまえを大切にしなかった。

それがわかって――」


セレスタインは目を伏せた。


「安堵した。同時に、憤った」


彼の表情が、歪む。


「兄上がおまえを愛さないことに安堵し、

それでもおまえが苦しんでいることに怒りを覚えた」


矛盾した感情。


けれど、それは本物だった。


「だから、決めたのだ」


セレスタインは顔を上げた。


「兄上から、すべてを奪うと」


リュシアは息を呑んだ。


「兄上の不祥事を集めた。

ミレーヌ嬢との密会の証拠。

国庫からの横領。

外国との密約。

すべてを握り、然るべき時に露見するよう手配した」


その声は、恐ろしいほど冷静だった。


「そして、今回の断罪も――」


「……あなたが」


リュシアの声が、震えた。


「私を、断罪させたのですか」


セレスタインは、表情を変えずに頷いた。


「ミレーヌ嬢を焚き付け、兄上に吹き込んだ。

おまえが婚約者にふさわしくないと」


リュシアは後ずさった。


信じられない。


自分の断罪も、追放も、すべて彼の計画だったのか。


「だが、それだけではない」


セレスタインは続けた。


「明日には、兄上の悪事がすべて明るみに出る。

王位継承権の剥奪も、時間の問題だろう」


彼の瞳が、冷たく光った。


「そして、おまえの追放処分も取り消される。

冤罪だったと、証明される」


息を呑んだ。


すべて、計算されていた。


リュシアを追放し、同時に救う。


「すべては、おまえを手に入れるために」


セレスタインの声が、低く響いた。


リュシアは震えた。


恐ろしい、と思った。


これほどまでに自分に執着し、これほどまでの時間をかけて、静かに実行し続けた男が、目の前にいる。


けれど――


不思議な安堵も、胸の奥で芽生えていた。


六年間、誰にも大切にされなかった。


けれど、この人は。


遠くから、ずっと見守っていてくれた。


「……狂っている、と思うか」


セレスタインが、苦しげに問うた。


リュシアは、答えられなかった。


狂っている。


確かに、そうかもしれない。


だが、それは――


愛、なのではないか。


歪んでいて、重くて、暗いけれど。


それでも、純粋な想いなのではないか。


「……殿下」


リュシアは、震える声で問うた。


「私が、この縁を望まなかったら――どうなさるおつもりですか」


セレスタインは、ぴたりと動きを止めた。


月明かりが、彼の銀灰色の髪を淡く照らしている。


その瞳に浮かぶ感情を、リュシアは読み取れなかった。


長い、長い時間が流れた。


そして――


「……解く」


彼は言った。


「縁を、解く。おまえが望まないのであれば」


その声は、先ほどまでの静かな響きとは違っていた。


まるで、自分自身を引き裂くような、苦しげな響き。


「……私は、おまえを縛りたいわけではない」


セレスタインは、一歩後ずさった。


「ただ、失いたくなかっただけだ。

奪われたくなかっただけだ。

だが……」


彼は目を伏せた。


「おまえの意思を無視してまで、縛りつけたいわけではない」


その姿を見て、リュシアは気づいた。


この人は、本当に――


自分を、愛してくれているのだ。


歪んだ形でも。

重い形でも。


それは、紛れもない愛情なのだ。


そして、リュシア自身も――


「……運命というものを、私は信じていません」


リュシアは、静かに言った。


「神が定めた縁など、知ったことではありません。

赤い糸がどこに結ばれていようと、私の人生は私のものです」


セレスタインが、顔を上げた。


その瞳に、驚きの色が浮かんでいる。


「だから――」


リュシアは、一歩前に出た。


「縁を解いてください、殿下」


セレスタインの瞳が、大きく見開かれた。


「そして、私に選ばせてください」


リュシアは、真っ直ぐに彼を見つめた。


「運命ではなく、私の意思で。

縁ではなく、私の心で。

あなたを選ぶかどうかを――私に委ねてください」


セレスタインは、動けなくなったように立ち尽くした。


月が雲に隠れ、部屋が一瞬暗くなる。

そして再び光が差した時、彼は小さく頷いた。


「……わかった」


彼は跪いた。


王族が、追放予定の令嬢の前で。

そして、リュシアの足首にそっと手を伸ばした。


直接触れているわけではない。


だが、彼の指先が赤い紐をなぞると、複雑に絡まり合っていた縁が、するすると解けていった。


幾重にも編み込まれた結び目が、一つずつ開いていく。

まるで、鎖が外されていくように。


足首から縁が外れる瞬間、リュシアは奇妙な浮遊感を覚えた。


まるで、重い足枷が外れたような――

だが同時に、何かを失ったような。


セレスタインは立ち上がり、一歩後ずさった。


「……これで、自由だ」


彼の声は、ひどく空虚に響いた。


「おまえはもう、何にも縛られていない。

私との縁も、王太子との因縁も、すべて……」


リュシアは、自分の足首を見下ろした。


赤い紐は、消えていた。

何も巻きついていない、ただの足首がそこにあった。


それは自由。


その言葉が、胸の中で響く。


確かに、縛られてはいない。

運命にも、縁にも、誰にも。


だが――


リュシアは顔を上げた。


セレスタインは、窓辺に立っていた。


月を背にした彼の表情は、逆光で見えない。

だが、その肩が微かに震えているのが、わかった。


彼は、泣いているのだろうか。


いや、違う。きっとこの人は、泣かないだろう。

ただ、すべてを失った絶望を、必死に堪えているのだ。


六年間、遠くから見守り続けた。

神に背いてでも守ろうとした。


その全てを、自らの手で手放した。


それなのに、彼は今も立っている。

倒れることなく、ただ静かに、窓の外を見つめている。


この人は、いつもそうなのだ。

どれほど苦しくても、誰にも気づかれないように、一人で抱えて立ち続ける。


リュシアの胸の奥で、何かが揺れた。


「殿下」


リュシアは、声をかけた。


しかしセレスタインは振り返らない。


「……セレスタイン殿下」


「……何だ」


ようやく、掠れた声が返ってきた。


「一つ、教えてください」


リュシアは、ゆっくりと彼に近づいた。


「幼い頃、私を見た時、縁が見えたと…おっしゃいましたね」


「……ああ」


「その時、何を思われましたか?」



セレスタインは、長い間黙っていた。


そして、ようやく振り返った。


月明かりに照らされた彼の瞳には、涙は浮かんでいなかった。

だが、その奥に燃える光は、どんな涙よりも雄弁に、彼の想いを物語っていた。


「……綺麗だと、思った」


彼は、静かに言った。


「縁など関係なく。赤い糸など見えなくとも。おまえを見た瞬間、綺麗だと思った。そして……」


彼の声は震えていた。


「この人を、失いたくないと。誰にも渡したくないと。

神に背いてでも、自分のものにしたいと――そう、思った」


リュシアは、目を閉じた。


重い想い、深い執着。

十年以上もの間、静かに燃え続けてきた炎。


それを恐ろしいと思う心は、まだある。


だが――同時に、温かいとも思った。


十年間、誰からも愛されなかった自分を、この人はずっと想っていてくれた。

遠くから、静かに、見守っていてくれた。


孤独だと思っていた。

誰も見ていないと思っていた。


けれど、この人だけは——

ずっと、見てくれていた。


「セレスタイン殿下」


リュシアは目を開け、最後の一歩を踏み出した。


「私も、一つだけ……告白させてください」


セレスタインの瞳が、わずかに揺れた。


「王太子との婚約が決まった時、私は何も感じませんでした。

六年間の婚約期間中も、心が動いたことは一度もありません」


リュシアは、彼の目を真っ直ぐに見つめた。


「ですが――」


彼女の唇が、微かに震えた。


「社交の場で、あなたの姿を見かけるたび、自然と視線が向いていました。

書庫に籠もっているという噂を聞くたび、どんな本を読んでいるのか気になりました。

王族の中で異端だと蔑まれているあなたを、守りたいと思いました」


セレスタインの目が、大きく見開かれた。


「それが何なのか、私にはわかりませんでした。

その時、縁など見えなかったから。

ただ漠然と、あの方と話してみたいと――そう、思っていました」


リュシアは、そっと手を伸ばした。


「縁がなくとも、私の心は、ずっとあなたを見ていたようです」


彼女の指先が、セレスタインの頬に触れた。


その頬は、思っていたよりも冷たかった。

凍えるほどではない。ただ、誰かの温もりに慣れていない、そんな温度。


「だから、選びます。

運命ではなく、私の意思で」


セレスタインは、石像のように固まっていた。

信じられないとでも言うように、リュシアを見つめている。


「……本当に、いいのか」


かろうじて、それだけを問うた。


「私は、神に背いた男だ。

おまえを縛りつけようとした、狂った男だ。それでも――」


「ええ」


リュシアは、微笑んだ。


「それでも、あなたを選びます」


その瞬間…

リュシアの視界の端で、何かが動いた。


赤い光。


足首ではなく、今度は、指先から。


リュシアは目を見張った。


自分の指先から、淡い赤い糸が伸びている。

それはゆっくりと、だが確かに、セレスタインの指先へと向かっていた。


無理やり引き寄せられているのではない。

固定されているのでもない。


ただ自然に、穏やかに、二人の指先が結ばれようとしていた。

セレスタインも、それに気づいたようだった。


「……縁が」


彼の声は、震えていた。


「足首ではなく、指先に――」


赤い糸が、二人の指先を繋いだ。


淡く、儚く、けれど確かな光を放って。


それは、神が定めた運命の糸ではなかった。

セレスタインが無理やり結んだ縁でもなかった。


二人が、互いの意思で選び取った、新しい絆だった。


「……リュシア」


セレスタインが、初めて彼女の名を呼んだ。


その一言に、リュシアの胸が震えた。


名前を呼ばれるということが、こんなにも違うものなのかと。

カイルは一度も、こんな声で自分の名を呼ばなかった。


「私は、おまえを幸せにすると誓う。

二度と、縛りつけはしない。だが…」


彼は、リュシアの手を取った。


「二度と、離さない」


リュシアは、微笑んだ。


「ええ、殿下。私も――」


彼女は、彼の胸に額を預けた。


「…もう離しません」


セレスタインの腕が、静かにリュシアを包んだ。


強く、ではない。

壊れ物を抱えるように、おそるおそる。


まるで、抱きしめることを、知らないような。

誰かに触れることを、許されたことがないような。


そんな腕だった。


だからリュシアは、少しだけ身を寄せた。

逃げないよ、と伝えるように。


セレスタインの腕に、ほんのわずか、力がこもった。


窓の外で、夜が明け始めていた。


追放の朝が来る。


だが、リュシアはもう、恐れてはいなかった。


王太子の断罪も、公爵令嬢の地位も、すべてが過去になる。

だが、この手の温もりだけは、この指先に結ばれた赤い糸だけは、きっと永遠に続いていく。


運命ではなく、自分で選んだ絆として。


「……殿下」


「セレスタイン、と呼べ」


「……セレスタイン様」


「様もいらない」


「……セレスタイン」


その名を呼ぶと、彼の腕にわずかに力がこもった。


「……もう一度」


「セレスタイン」


「……もう一度」


リュシアは、小さく笑った。


「何度でも、呼びますよ」


朝日が、二人を照らし始める。

新しい一日が、始まろうとしていた。



~~~~~~


第三話へ続く

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