4 御所の夜
「兄上、そう心配なさいますな」
うん、とうなずく帝の顔を見て、女宮はため息をついた。
御所の渡り廊から庭を見おろしていると、冷めた夜の風が吹きぬけていく。女宮は帝の肩に衣をかけて、控えていた侍女たちを下がらせた。
まほろが狼にさらわれてから数日が経った。兵たちからは、これといった知らせがこない。それこそ、あやかしに化かされてでもいるかのように、彼女の足取りがまったくつかめなかった。
「まほろは無事だろうか」
「無事ですよ」
「……ずいぶんとはっきり申すのだな。なぜそう思う」
怪訝そうな顔をする帝に、女宮は笑ってみせる。
「殺すつもりなら、あの場でまほろの首をかみ千切っていたでしょう。連れさったのは、生かすつもりがあるからです」
「けれど狼は、まほろを怨んでいるのだろう」
「さて、どうでしょうね」
あのとき、一瞬目が合った狼を思いおこす。女宮はふっと笑みをつくった。
「彼女に手を貸す狼が、案外まだいたのかもしれませんよ」
「……悪い顔をしているよ」
「失礼。主上にお見苦しいものを見せました」
眉をひそめる兄に、女宮は完璧な美しい微笑を張りつけて首をかしげる。
「それより、赤羽のほうはいかがです? 落ち着きましたか?」
赤羽の世話はいま、まほろの叔母が引きうけていた。帝も以前より赤羽のもとに通っているようで、まほろが欠けたのは痛いもののどうにか獣の戦力を失うことは避けられているようだった。帝は息をついて夜空を見上げる。
「怪我はたいしたことがなかったが、まほろがいないと落ち着かぬようだ」
「では、早く見つけなければなりませぬね。さあ、兄上はそろそろおやすみくださいませ。あまりここにいては身体が冷えますよ」
帝は大人しくうなずいて立ちあがる。寝殿に消えていくその後ろ姿を見送り、女宮は盃に酒を注いでひと息に飲みほした。
――赤羽とは、わたしが契ればよかったな。
やさしい兄に、戦など向いていないのだ。
赤羽が御所に連れてこられたとき、自分が契るつもりで「狼守りの術を使ってはどうか」と帝に奏上した。けれど結果として、契ったのは兄だった。
帝や女宮の血筋はもともと神に仕える巫だった。神にも近い獣と契ることは帝のすべきことであるし、だれよりも穢れを遠ざけて生きてきたのは自分なのだから巫としてふさわしいはず、と兄に押しきられたのだ。
たしかに女宮は奔放に御所の外に出かけ、西海国の民との小競り合いを自身の手で収めてきた。つまりは血を浴びてきたのだから、巫としては相応しくなかっただろう。
けれど、兄にこの役目は似合わない。
兄はただ、穏やかに暮らしていてくれればよかったのだ。清い身をわざわざ穢す必要などないのだし、美しいものは美しいままでいればいい。獣と契って戦に出ることなどしなくとも――。
「宮さま」
はっとふり返ると、廊の先に不安そうな顔をした和泉がいた。大人びているとはいえ、和泉はまだ子どもだ。この夜更けに起きているのはめずしい。そもそも聡明な少女が、夜分に押しかけてくることも似合わない行いだった。
「どうした和泉。嫌な夢でも見たか?」
「そのようなことで宮さまを訪ねるほど子どもではございませぬ」
「ではどうした」
「……まほろさまは」
「うん?」
「ご無事でしょうか」
小さな声が、そうつづいた。女宮は苦笑を浮かべて、和泉を招きよせる。
「案ずるな」
少女の頭をなでてやりながら、まほろはたいしたものだなと思う。帝も和泉も、彼女が消えてから物憂い顔ばかりする。
まほろは不思議な瞳をしていた。その琥珀色の瞳は狼守りの一族特有のもので類を見ない色をしていたが、そんな表面的なことではなくて、彼女はその瞳で相手の心を見出そうとする。立場も容姿もひとも獣も関係なく、その者の内面を見ようとする瞳には妙な力があるのだ。
もしかしたら、彼女の凄惨な過去が関係しているのかもしれない。相手の心を見ようとしなければ自分の命が脅かされるというその経験が、彼女の瞳をつくっているのだろうか。哀れなことだ。
「さあ、和泉。部屋にもどりなさい。大丈夫、まほろはすぐに帰ってくるよ」
女宮は和泉の背を押した。和泉はなにか言いたそうな顔をしたが、思いなおしたように頭を下げると、幼い足音を残して去っていく。女宮は微笑んでそれを見送った。
嘘は言っていない。まほろはすぐにもどってくる。そう確信している。
――兄上のようにやさしいあの娘なら、逃げつづける道を選びはしないだろう。
悪いことをしているとは思うが、これが自分の役目だ。すべてはこの東庵国、そこに住まう民のため。汚れ役くらい買ってやる。
女宮も裾をさばいて、その場を辞した。




