2 再会
思考が霞んでいる。まほろが自分の横腹に触れると、べっとりと濡れている感覚があった。身体が重くて起きあがることはできなかったが、目だけを動かして狼をとらえる。
美しい銀の毛並み、琥珀色の瞳。
「琥春……、でしょう?」
狼は静かにこちらを見返した。その瞳がなつかしい。どの狼よりも澄んだ瞳だ。そこに、いまは影がさしていた。まほろは息絶えた小さな狼たちを見つめる。
琥春は無言でまほろに背を向けた。まほろの口からは待ってと止める声が出ない。代わりに、うめきがこぼれた。なにか言わないといけない気がするのに、もどかしく心が急く。そうしている間に琥春は立ちさってしまった。
日は暮れ、山が橙に染まっていく。夜の山は冷えるものだが、この身体のふるえは寒さのせいだけではないだろう。毒が巡っているのを感じた。
どうにか息を整えようと閉じたまぶたに、なにかが触れる。
そっと見上げた空から、桜の花が降りそそいでいた。
――いや、ちがう。雪だ。白い雪がちらついていた。
今度はこの雪に、血を吸いとられていくのだろうか。
いつもいつも白くて美しいものを血で汚してしまう。桜も雪もただ美しいものであるはずなのに、血を含んだとたんに妖しげななにかに変わってしまうことが恐ろしかった。
すこしの間、眠っていたのだと思う。
目を醒ますと、そばに見知らぬ男がいた。まほろの腹になにかを塗っている。白銀の髪と琥珀の瞳を持つ、静けさに包まれた青年だった。
「血止め草をすりつぶしたものだ」
摘んできたばかりなのか、薬草の青臭い匂いが鼻につく。彼は自身の衣を裂いてまほろの腹を縛った。息苦しさにうめくと、男の手はまほろのまぶたを閉じさせる。
「眠っていろ」
まほろの意識はふたたび、重く落ちていく。
何度か寝て醒めてを繰り返し、短い夢を見た。起きている間の記憶はおぼろげだったが、ずっと自分以外のぬくもりが近くにあったことだけは覚えている。
ようやく意識を保てるようになったのは三日後の明け方近くだった。目を開けると、やわらかく、あたたかいものに包まれていた。自分は大きな狼にもたれかかり、その尾にくるまれているらしい。
まだ薄暗い山を見渡し、まほろは近くの土に赤黒い色を見つけた。殺された狼たちの血だ。骸はなくなっていて、血だけが彼らが存在したあかしとして残っている。
まほろは目を閉じて、銀の毛並みに鼻を近づけた。
――春の、匂い。むかしとなにも変わらない。
毛並みの肩の部分が赤く汚れているのは、御所の騒動で怪我を負ったためだろう。あのとき聞こえた弦音は、女宮のものだった。
まほろは自分の腹にも触れて、心を沈めてから息を吸う。弱々しい小さな声しか出なかったが、旋律に術をのせた。まほろの唄は水のようにあたりに染みわたっていく。音は傷口にも触れ、じんわりと熱をもって肌になじんでいく。
いくらか経たないうちに、琥春も目醒めた。彼はまほろの唄が終わるまでじっと待ってから、ひとの姿に変じる。寝ている間に何度か見た男の姿だった。
「こは――」
名を呼ぼうとした。けれど、途中で「怪我は?」と相手に遮られた。
毒は身体から抜けていた。流れた血は多かったが、傷自体は深くなかったようだ。小さくうなずくと、彼は「そうか」と応え口をつぐんだ。
「――琥春」
今度は言えた。なつかしい、彼の名前。
琥春は迷うような素振りを見せて、うなずいた。その頬を包み、瞳を見つめる。姿が変じていても瞳は変わらない。彼が琥春であることを教えてくれる。
「俺が怖くはないのか」
「……助けてくれたんでしょう?」
御所で琥春を見たときは本当に殺されるのだと思ったし、心底恐ろしいと思った。しかしこの数日、琥春はずっとそばにいてくれた。そのあたたかさが、まほろの身体をいまも満たしている。そんな彼が自分を殺そうとするはずがない。
琥春はまほろの傷にそっと触れた。
「すまなかった。深い傷をつける気はなかったんだ」
「どうして」
聞きたいことはそれこそたくさんあった。けれどうまく言葉にできない。
狼守りの邸でまほろと過ごしている間。一族が滅んだあの夜。別れてからの数年。琥春がなにを思っていたのか、わからない。すくなくとも、ともに邸にいたころは琥春のことならなんでもわかっているつもりでいたのに、彼は幼いまほろの首にかみつき、まほろはそれで死にかけた。嫌われて怨まれていたのだと思った。それなのにいまの琥春は、まほろを救おうとしてくれている。
琥春の考えていることが、なにもわからない。
彼は迷うように黙してから言った。
「むかしもいまも、俺は主が無事に生きることしか願っていない」
まほろは琥春の瞳を覗きこむ。じっと、見つめた。
「……瞳で気持ちを探ってもらわずとも、いまは言葉で伝えられる」
琥春がそのとき、はじめて笑った。
――そんな顔で笑うのか。
まほろとともに過ごしていたころの琥春はまだひとに変じることができなかった。青年の姿を見るのはこれがはじめてだ。けれど、その微笑みは琥春らしいと思った。彼はすぐに涼しい表情にもどってしまったけれど。
「狼守りの一族と狼との確執は、御所の連中も知っているだろう。狼にさらわれた主は死んだと思われるはずだ。……どうせ、あいつらに呪者としての力を貸せと脅されて、逃げだしたかったのだろう? このまま姿を隠すといい」
「どうして知っているの」
「主はむかしからそうだった。狼を道具とは思っていなかったし、戦も嫌っていたからな。いまはまだ主が生きているかもしれないと御所の連中も探っているだろうが、気取られずに逃げれば、そのうち諦めるさ」
「……そのために、わたしを襲う芝居を?」
「それもあるが、もうひとつ――」
と、草むらから狼が駆けこんできた。小さな狼だが、白銀の毛並みは間違いなく一族の狼だ。まほろは身構えたが、琥春は足もとにまで来た狼の喉をなでた。
「俺の眷属だ。ひとを――すくなくとも主を敵と思わぬよう、聞かせてある」
狼が高い声で鳴くと、琥春は「わかった」と応じた。眷属の狼はまたすぐさま駆けさっていく。
「狼たちには、俺が主を殺したと伝えてある。一応は信じてもらえたようだ。……まあ、弥琥は俺を疑っているだろうけれど」
「弥琥……」
その名はまほろも知っていた。瞳の鋭い狼で、父が契った狼だった。
あのとき――、一族が滅んだ日。
自室から出たまほろが燃えさかる邸の中で出会った狼は、弥琥だった。人間の骸を無造作に棄てた狼の姿を思い出すと腹から熱がせり上がり、まほろは口を押さえる。琥春はそんなまほろを気にかけるように視線を投げてきたが、その瞳に影を落とした。
「この策を狼相手にするのは二度目だ。そう長く騙せるとは思えない」
「二度目……って」
ああ、そうか。
「あのときも、琥春そうやってわたしを逃がしてくれたの?」
「……肩の傷、残っているんだな。殺したあかしとして、主の血が必要だった。すまない」
「すこし前に、崖から落ちたのを助けてくれたのも、琥春?」
問うと、小さなうなずきが返ってきた。
「時おり、主の様子を見に行っていた」
「そう……、そうだったんだ」
うなずいたまほろの頬に涙が落ちた。
――ずっと、怨まれて憎まれて蔑まれていたのだと思っていた。
ともにいる時間が心地よいと思っていたのは、自分だけだったのかと。心を通わせていると思っていたのは幻だったのかと、そう思っていた。でも、ちがったのだ。琥春もきっと、自分と同じように思ってくれていた。
「主、悪い。傷が痛むか?」
「ううん、ちがう、けど、でも……」
琥春の指先がためらいがちにまほろの涙を拭う。袖口から、肌から、かすかにただよう琥春の香りに、いっそう涙があふれた。なつかしい、あたたかい香りだ。




