ユウガオの朝
翌朝クチナワは目が覚めて、見るともなしに天井を見上げていた。しばらくして手を動かそうとして片手がうまく動かせないことに気付いた。少し重い手を上げると赤い布が巻き付いている。隣のユウガオの手も同じ布で二人一緒に繋がれていた。ユウガオは眠っていた。赤い布を解かずに、自由の利く方の手でクチナワはユウガオの髪を撫でた。昨夜の傷が消えていることにホッとする。
「ア…」
ユウガオの目が開いてゆっくりとクチナワに焦点が合う。クチナワは髪を撫でたまま言った。
「おはよ。ユウガオ」
「オ…ハヨ…」
「よく眠れたか?」
自分も一服盛られたことには触れずにクチナワはユウガオの体調を確認する。
「ウン…」
クチナワは縛られた手の赤い布を解こうとしたが、うまく解けなかった。クチナワは諦めてそのまま唇を重ねた。
「クチナワ…好キ?」
「ん?」
クチナワはユウガオの少し不安そうにも見える顔を見返した。クチナワはじっとその瞳を覗き込む。
「好キ?」
「何の気もなかったら、しないだろ…」
クチナワは観念したように言った。今は役割が必要なのだ。少なくともクチナワが必要としている間はそれで消えることはない。クチナワはユウガオの耳元で囁いた。役割だと誤魔化そうとしている自分の本心に気付いてしまったからだった。
「好きだ」
クチナワは下半身をユウガオに巻き付けた。今は自分の意思で動かしている。少し締め付けるとユウガオはどこか嬉しそうに微笑んだ。
「うん…少シ…思い出した…」
結ばれた赤い布の下でユウガオの指とクチナワの指が絡み合う。二度と離れないように。
「もっと…思い出させてやるよ」
クチナワは囁いて再び唇を重ねて今度は本当に離さなかった。
***
私は昨日の夜なかなか寝付けなかったせいで少しまだ眠かった。クロさんは相変わらず涼し気な顔で新聞を読んでいる。私があくびを噛み殺していると、クチナワさんとユウガオさんが降りてきた。クチナワさんとユウガオさんの手は赤い布で縛られていた。
「おはよう。クロガネ、これ解けないんだけど」
クチナワさんは赤い布の巻き付いた片手を上げる。クロさんはちらりと見るとパチンと指を鳴らした。布はするりと解けて中空を舞いクロさんの手に吸い込まれて消えた。
「えっ…血…だったのかよ…」
クチナワさんが少し嫌そうな顔をする。
「絶対に解けないという意思を持って縛りましたから…私が存在している間は私にしか解けないんですよ。実際に…そう…解けませんでしたし…縁が現れたではありませんか」
「え…?」
私にもクチナワさんの小指にチカチカ現れたり消えたりしている赤い糸が見えた。その糸はユウガオさんの小指に絡みついていた。
「ただ…生じたばかりですから…大切に育ててあげて下さい。消えないように…」
クロさんは微笑む。
「クロガネっ…!お前…!」
クチナワさんはなぜかとても慌てた様子で言った。
「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。ヒサメさんだって浮遊する魂を捕獲して飼っていたことがありますし…そんなに不安なら式神にしますか?それよりはさっさと絆を深めて指輪を手に入れた方がユウガオさんは役割としても喜ぶのではないかと思いますが。クチナワさんの代わりに取りに行ってあげますよ。出禁…確か…そのまま解けてませんよね?」
クロさんは余裕の笑みを浮かべた。これではどちらがランクAなのか分からないと私は思った。クチナワさんは不本意そうな顔つきのまま、喫茶店の一番奥の席に座るとすでに朝食の準備を終えて配るだけだったシロガネさんに向かって言った。
「あー珍しく腹減ったわ…人っぽいことすると…少し感覚が戻るのかな…」
「それは良かったですね。昨日の夜はあらゆるすき間から異形が侵入しようとして終始うるさかったから、師匠たち以外はみんな寝不足ですよ。入れないけど恨めしそうにささやくんですよ…入れろ入れろって…」
私はあくびをしながらモーニングプレートをクチナワさんの前に置いた。ユウガオさんはまたうどんだ。それでもほんの少しうどん以外に具が増えた。天かすのようなものが入っている。
「おーうまそ!」
クチナワさんはそう言ったにも関わらず、まずはユウガオさんのうどんの方を手に取って食べさせ始めた。私は余計なことは言わずにクロさんと自分の席にトレーを持って座った。シラタマとアオハの分の朝食も乗っている。
「いただきます!」
そう言って手を合わせたところに、アマナツさんとナナクサさんが降りてきた。
「おはようございます…いやー昨日は騒がしかったですね…ベランダからずっと、女性の声が聞こえてきて…」
ナナクサさんの言葉にアマナツさんは、なぜか恨みがましい視線でナナクサさんの方を見た。
「ナナクサさんのとこは女性だったんですか?こっちなんて…多分…おじいさんですよ…しわがれた声で苦しそうに咳き込みながら中に入れてくれって泣くんです…あんな悪天候の中、そんなこと言われたらめちゃくちゃ老人虐待してる気分になるじゃないですか…」
「ハハッ…それは嫌だね。でもこっちも、ずっと出ておいで出ておいでって…カーテン閉めてるのにシルエットが浮かび上がってずっと手招きしてたから…どっちもどっちだよ」
「まーなにはともあれ、無事に朝を迎えられて良かったよ」
シロガネさんが二人にモーニングプレートを差し出す。それぞれが受け取って席に移動する。二人はそこでようやく奥の席でユウガオさんに気付いて、ピタリと口を閉じた。二人は慌てて店の反対側の席に移動しようとしたが、そこにはすでに予約するかのようにシグレ先生のパソコンが置いてあった。
「悪いな、気にすんな。飯食わせてるだけだから」
クチナワさんはユウガオさんの口にうどんを運んだところだった。
私とクロさん、シラタマとアオハの座る横に滑り込んだ二人は目を見て会話したい意思を伝えてきた。心の中なのにヒソヒソ声が聞こえた。
(なんでクチナワさんがいるんですか!?)
(わー朝から寿命縮んだ!あ、この言い方は変か。魂が削れたかと思った…)
慌ててアマナツさんが訂正する。私も心の中で言った。
(ユウガオさんをハイアオさんのところから連れてきたから、走って戻らないように、ここに泊まったんですよ。この喫茶店は上の階に監禁部屋があるんです。ハイアオさんにちょっかい出されて私も夜中外に飛び出しそうになったことがあって、その部屋に入りました…あれ、自分の意思までちょっとおかしくなるし、身体が勝手に帰らなきゃって思って…すごく気持ち悪かったです…)
(そうですね。そんなこともありましたね…)
クロさんは余裕の笑顔でアオハのこぼしたパンの欠片を拾った。
(…マソホさん、クチナワさんのこと…怖くないんですか?)
アマナツさんに言われて私は首をひねった。
(うーん…昨日、いきなり鎌で切られそうになりましたけど、受けられたので、大丈夫みたいです。シグレ先生にも散々されてますから、反射神経鍛えると思ってやっていくしかないですね…)
私は向かいの席からアオハが狙って伸ばした舌を咄嗟にガードした。
「アオハ、ミニトマト盗もうとしないの!」
「あーマソホ、反応良くなったから取れなくなっちゃった!」
「そんなことしなくても、あげるから…」
私はミニトマトをつまんで、アオハの口に放り込む。アオハはニコニコした。やがて、フブキさんとミナミさんも降りてきた。けれども、昨日帰宅してすぐに監禁部屋に籠もったクチナワさんのことを知っているのは数人だったので、知らなかったフブキさんたちはやはり急に緊張した顔付きになった。皆が緊張したり驚いたりしているのは、クチナワさんが喫茶店にいることはもちろんだった。けれどもそれ以上に皆を驚かせているのは、クチナワさんがユウガオさんにうどんを食べさせている、その光景を見てしまったせいなのだった。クチナワさんもハイアオさんと共にいるせいか会った途端に鎌を振り回す死神のイメージが払拭されていないので、そんな危険な死神が誰かに食べさせるところなど、誰も想像したこともなかったし、する訳がないと思っていたからだった。結果として周囲は少々誤解をした。
(あの、ユウガオって人…そんなにすごい人なのかな?だって、クチナワさんがあんなにお世話するなんて…!)
ミナミさんはそんなことをフブキさんに伝えていた。ちょっと違うと私は思ったけれど、もしかするとミナミさんの言うことにも一理あるかもしれないと、途中から思い直した。ユウガオさんはもしかすると、本当にすごい女性なのかもしれない。今は弱っているから気付けないだけで。なぜならハイアオさんのところで長期間閉じ込められていても消えなかった魂だから。私はひっそりとそう思った。




