寒くて長い冬の日
腹腔内出血のシェパードを診察した休診日の次の日の夜、飼い主さんから手術希望の電話があった。
出来るだけ早いほうがいいと判断し、無理矢理予定を入れる。
そして手術当日。
朝起きると、12月の初めだというのにこの辺りでは珍しく雪だった。
「こんな天気じゃ、今日はヒマかな?」
午後にはネコのSpay(避妊手術)、シェパードの試験切開は夜。
「長い1日になりそう...」
そう思った。
診察時間が始まってしばらくしたら雪は止み、日が差してきた。
それに合わせるように患者さんがやってきて、慌ただしく午前の診察を終える。
そしてすぐにネコのSpay。
そんなだから、夕方までは夜の手術のことをあまり気にかけずにすんだ。
夜の診察が始まる。
日が沈んだあと、じっとしてると足がどんどん冷たくなってくる。
冷え込んできてるのが分かる。
フードを取りにくる患者さんが時折あるだけで、わたしはヒマ。
そうなると、午前中とは打って変わって、いやがうえにもシェパードの手術のことが頭に浮かぶ。
脾臓の血管肉腫であれば...、
破裂したのが脾臓であれば、脾摘で少しは時間稼ぎが出来るかもしれない。
シーリングシステムを使えば、あっという間に終わるだろうねぇ。
もしも、お腹開けたとたんに大出血、なんてことになったら輸血が必要になるかな?
大型犬相手に、小ぶりのラブラドールのはぐちゃんじゃ荷が重いぞ。
でも、必要ならやらなきゃいけない。
けど、破裂するくらいの脾臓の腫瘍なら、エコーでちゃんと分かるはずだけどなぁ。
昨日は元気も食欲も出てきたって言ってた。
出血が落ち着くと、再出血までけろっとしてたりするものね。
手術でよけいに寿命を縮めちゃったら嫌だな。
考えれば考えるほど緊張してきちゃう。
ヒマだとよけいに考えちゃうよね。
なんだか胃が痛くなってきたよ...。
気を紛らわそうと、本を読んでみるけど集中できない。
こーいう感じって、ちょっとヤな予感。
そんなこんなでやっと診察終了間近となり、シェパードがやってきた。
麻酔が効くまで飼い主さんに付いててもらう。
まず、鎮静処置。
そして、飼い主さんの保定で留置。
あれ?留置針を刺した手応えが変。
血液の逆流が止まった。ミスした?
一気に緊張感マックス!
少し戻して、再び針を進める。
だめ?
もう一度戻して...。
なんとか入った。でも、ちょっと不安。
大丈夫かな?
導入。
漏れはなさそう。
留置針、大丈夫みたい。
ここで飼い主さんはさよなら。
挿管後すぐに手術室に運んで、麻酔とモニターをつなぐ。
点滴の落ち方がおかしい?
少ししたら腕が腫れてきた。
やっぱりしっかりと入ってなかったんだ。
導入の時に漏れなくて良かったぁ。
でも、万が一の時のために血管は確保しておかなきゃいけないから、反対側の腕に入れ直そう。
ところが...。
1回目、失敗。
2回目、失敗。
え~、どーして? 目の前に血管があるのに入んない。
3回目、失敗。
廃棄の留置針ばかりが増えていく。
4回目、トドメの失敗。
さすがの長い腕も腫れてしまって刺すところがない。
もー、最悪。
さい先が悪いったらありゃしないよ。
仕方がない、後ろ足で。
こっちは一発で決まった。
でも、後肢の留置針は固定が難しい。麻酔後、動き出したらすぐにダメになるだろうな。
心拍、呼吸、血圧、良好。
変なところで時間食っちゃったから、とっとと手術開始。
すると舞ちゃんが特大のペットシーツを床に敷いてる。
また、そんなに出血するのぉ...。
胃が痛む。
お臍の前後で皮膚切開。
オスなので、ペニスが邪魔。
白線を確認してアリス鉗子で腹壁を持ち上げる。
「サクション用意して」
メスで白線に穴をあける。
血がにじみ出す。
そして、メッツェンで切開を広げたとたん、噴き出す血液。
サクションの先を入れて吸引。
だめだ、すぐに大網が絡まって吸えなくなっちゃう。
もっと切開を広げて手で空間を作らなきゃ。
その間にも、どんどん血液が溢れてくる。
さすが大型犬。迫力が違う。
吸水性のドレープが、みるみる赤く染まっていく。
舞ちゃんがタオルを出してくれる。
タオルでドレープを伝う血液の流れを塞き止めるけど、それも時間の問題か。
切開を広げたいけど、溢れる血液でどこを切ったらいいか分からない。
指先の感覚だけでメッツェンを走らせる。
溢れ出た血液がタオルを通り越し、わたしの膝に流れ始めた。
術衣を通して感じる暖かい感触でそれが分かる。
手が入るだけの長さに切開を広げ、左手をお腹の中に押し込み吸引に邪魔になるものを除けサクションの先を当てる。
透明なチューブが赤色に変わっていく。勢い良く吸われていく血液。
それでもまだ溢れる量の方が多い。
ふと、渡辺淳一の小説で読んだ、子宮破裂の手術中、腹腔内の出血を膿盆でかき出すっていうシーンを思い出した。
かき出したほうが早いのか?
しばらくすると、少し血液の量が減って来たような感じがした。
もう、落ち着くかな?
左手を緩める。
すると、別の方向から一気に血液が湧き出す。
まだ、出る?!
「サクション、一杯なのでいったん止めます」
確か1リットルで一杯だったかな?
溢れた分も合わせると、いったいどれだけになるの。
いつまでたってもなくならない血液。
もしかして、リアルタイムで出血してる?!
そんなぁ!
でも、血圧はお腹を開けたあとも一定で落ち着いてる。
絶対にいつかはなくなるはず。
少なくなったかと思い手を動かすと、また別のところから溢れ出る。
止めどもなく噴き出す血液と格闘する長い時間。
舞ちゃんが這いつくばって慌ただしく動いている。
きっと床は悲惨な状況なんだろうね。
それでも終わりは近付く。
溢れ出す量が少なくなってきた。
これで先に進めるかな。
とは言うものの、まだまだお腹の中はたくさんの血液でどうなっているか分からない状態。
とりあえず脾臓を確認しよう。
血液の淵に手を入れる。
暖かさがグローブを通して伝わってきた。
生きてる証。
手探りで脾臓を見つける。
そっと引きずり出す。
現れた脾臓の表面には、いくつもの丸い塊があった。
「やっぱり脾臓に腫瘍があったんだ」
破裂箇所を探す。
どれも数ミリの小さな塊ばかり。
ない。破裂したようなところはどこにもない。
脾臓じゃないんだ。だとしたら...。
メスを持ち、剣上突起まで一気に切開を広げる。
左手で胸骨を持ち上げ、右手で胃をどける。
「あった。ここだよ...」
胃の裏側辺りの肝臓に付着する大きな血餅。
血餅の周囲の肝臓はぼろぼろの状態。そしてさらにその周りには細かな隆起が無数に存在し、肝臓全体に広がっていた。
肝臓の横隔膜側を見てみる。
今にも破裂しそうな大きな塊。
落胆...。
「脾臓と肝臓と、写真撮って」
塊の写真を何枚か撮ってもらう。
その間、どうにかして出血箇所だけでもとれないかと考えてみるけど、無理...。
結果的に、肝臓を全部取ることになっちゃうよ。
もっと端が破れてれば...。
脾臓なら、まだ良かったのに...。
もう、手の施しようがない。
そうだ、閉じる前に組織を取らなきゃ。
安全に取れそうなところを探すけど、腫瘍があり過ぎてどこも組織は脆そう。
無理してでも取った方が良い?
臨床医として取るべき?
皮膚を切開したところからの出血が止まりにくくなってきているような気がする。
無理することで、この子にメリットはある?
でも、記録として、取らなきゃいけないよね。
「閉じるね。ホチキス出しといて」
とゆーわけで、臨床医失格か?
最後に破裂した箇所に大網を当ててみる。癒着してくれないかな?
無理だよね。
そして、大きく口を開けた腹壁を一糸一糸閉じていく。
場合によっては、腹腔内の血液が縫った隙間を通って漏れてくるかもしれない。
いつもより細かく縫おう。
40センチ以上に大きく開いたお腹。
針を刺し糸を寄せる。
何度も何度も単調な繰り返し。
腕が痛くなってくる。
完全に閉じ終えたところで、もう一度連続で縫合する。
次に皮下織をよせる。
さらに真皮縫合。
いつもの倍縫った。
最後に皮膚をホチキス。ちょうど35本を全て使いきって打ち止め。
念のため、その上にガーゼを縫い付けて圧迫。
終了。
達成感はない。
ただ疲労感だけ。
今まで手術台にしかなかった視野を周囲に移してみると、そこは大変な状況だった。
座って手術していたので術衣の膝の部分には血液が溜まり、そこから漏れた血液は術衣からはみ出したジーンズを染め、さらに先日おろしたばかりのコンバースを赤色に変えていた。
そして、床には血液に染まったペットシーツがいくつも重なり、わたしの座っていた椅子の周囲には無数の赤い足跡が付いていた。
幸いにも、シェパードの覚醒は良かった。
飼い主さんに電話で報告する。
その後、さんざん散らかした手術室の後片付け。
手術が上手くいっていれば、後片付けも苦にならないんだけどね。
一息ついたところで時計を見ると、12時を過ぎていた。
長い一日がやっと終わる。
その夜、夢を見た。
夢の中で、はぐちゃんはとても大きかった。
「これならいっぱい血液が採れるね」
わたしは嬉々として採血の準備をしていた。
朝、早めに起きて入院室を覗く。
お座りしたシェパードと目が合った。
きみは、あと何日生きられるだろうか。
1日でも長く、今までみたいにごはんが食べられるといいね。