それぞれの事情
「実は、また...」
そー言いながら、ポメラニアンを連れたおかあさんは季節外れのマスクをとった。
「あ...、こりゃまた...」
目の下から頬にかけていくつかの歯形。そして皮膚は紫色に変色していた。
抱いているポメさんが噛んだ跡。
「やっぱり、犬歯を切った方がいいでしょうか」
「噛まなくなるわけじゃないですけど、犬歯が刺さるダメージは防げるでしょうね」
今まで何度も何度も噛まれてきたおかあさん。
その度に、犬歯を切ることが話題に上がった。
でも、それが実行されることはなかった...。
「噛まれた直後は、いつも歯を切ろうと思うんですけど...、でもしばらくするとかわいいから...」
話の雰囲気から、また今回も切ることはないのだろうね...。
DVとかに似てるかも...。
ふと、そー思った。
暴力を受けても、そのあとのやさしさにまた信じてしまう...。
なんどでも、なんどでも...。
年老いて、四肢の関節が変形し痛みを訴え続けるシーズー。
安楽死...。
麻酔を倍の濃度で注射器に吸う。
視野に入るのは、血管だけでいい。
針を刺し、逆流を確認して、一気に薬を押し込む。
何も考えない。
何も思い浮かばないようにして。
動物の顔も見ない。
見るのは、血管だけ。
漏れていないか、確認するだけ。
あまり好きな飼い主さんじゃなかったから、こんなこと、すぐに忘れられる。
そうだ、夜の診察が終わったら出かけよう...。
そして、忘れよう。
あ...。
夜、突然に昼間の光景が浮かんだ。
動物の姿。
飼い主さんの顔。
涙...。
何度も何度も、浮かんでくる。
そして、消えなくなった。
わたしが最後に選ばれて、わたしが手をくだしたんだから、やっぱりそう簡単に消えるものじゃない。
その記憶は、いつもと同じく決して融けることのない澱のように貯まっていくのだろう。
そして、何かある度に、透明な上澄みを濁らすように浮かび上がっては記憶を蘇らすのだ...。
ああ、オンボロジープでどこか連れてってほしいな。




