兄妹
あれから雄生は、病室のベッドの上から動けない体になった。半身不随を患った彼は、点滴を通さなければ栄養を摂取できない有り様だ。今の彼はすっかり痩せ細り、頭髪のボリュームも以前より一段と低くなっている。
「なぁ、雪吹。その……ごめんな。オレ、先に死ぬかも知れないわ」
そう呟いた彼は、あらぬ方向に目を遣っていた。眼球が正面を向いている時、人間は無意識のうちに外眼筋を使っている。そして限界まで疲労を蓄積させた時、人間は一時的に斜視の状態になるという。そして今の雄生は、常に疲労を味わっている身の上だ。つまり、彼の目が正面を向くことはもうないのだ。テロメアを食い潰してきた代償は、計り知れないものであった。今の彼には、ものはほとんど見えていない。彼は老眼鏡をかけ、雪吹のホログラムを見つめる。レンズを通して見えてくるのは、彼女の頬を伝う一筋の涙だ。
「お兄ちゃん……行かないで。お兄ちゃんが死んじゃったら、雪吹……独りになっちゃう……だから……お願い……」
ラディカル・ゲームにおいて、雄生は唯一の生存者だ。彼が帰らぬ者となれば、雪吹は孤独なAIとして余生を生きることとなる。つまるところ、ラディカライザが停止しない限り、彼女は電脳存在としてこの世に固定され続けるのだ。
「電脳存在になっても、涙は流れるんだな」
そう呟いた雄生もまた、目から涙を流していた。
あれから一週間が経ち、彼の頭髪は抜け落ちた。
更に一週間が経ち、彼は人工呼吸器とカテーテルに繋がれた。
その次の一週間後、ついに彼は声を発せなくなった。
――そしてあの最終決戦から数えて一ヶ月後になり――雄生はとうとう息を引き取った。
現世に取り残された雪吹は、徐々に不安定な存在と化していった。兄という心の支えを失った今、彼女の自我は美美のそれと入れ替わることが増えてきたのだ。このままでは、彼女が完全に自我を失うのも時間の問題だ。そこで雪吹は、決断する。彼女はラディカライザの最上階に現れ、スクリプトに干渉する。彼女の周囲に、緑色の文字列がいくつも浮かび上がった。彼女の改ざんしたスクリプトが実行され、周囲はノイズに包まれていく。
こうして、ラディカライザは完全に停止した。
もう不当にラディカルが増やされることもない。雪吹はその場から消滅し、二度とこの世には戻らなかった。
*
雪吹が目を覚ますと、そこは快晴の青空と花園の広がる空間だった。彼女が歩みを進めた先にいたのは、かつての髪色と体型を取り戻した雄生だった。
「なんだよ、もう来たのかよ」
それが彼の第一声だった。その刹那、雪吹の胸に渦巻いていたものが浄化された。最愛の兄に抱き着き、彼女は泣く。
「ひぐっ……ぐすん。雪吹、お兄ちゃんに触れられる! お兄ちゃんを、肌で感じ取れる! お兄ちゃんって、こんなに温かかったんだ!」
「何年ぶりだろうな。こうして、雪吹を抱き締めるのは……」
「お兄ちゃん! これからは、ずっと一緒だからね! もう二度と、離れ離れになんてならないからね!」
小鳥がさえずり、そよ風が木々を揺らすその空間は、心地良い音に満ち溢れていた。最愛の妹の背中をさすりつつ、雄生は呟く。
「彼方。翔也。綾川さん。オレ、勝ったよ。あの夜露龍造に、勝ったんだ。終わったんだよ……長い戦いが」
思い返せば、それは険しい道のりだった。あの逆境に打ち勝ったのは、彼一人の力ではない。あの皆が道を繋いだ――雄生はそう認識している。無論、雪吹も同じ考えだ。
「そうだね。皆のおかげで、雪吹はお兄ちゃんと触れ合える。雪吹はもう、美美にならなくてもいいんだね」
そう語った彼女は涙を拭い、屈託のない笑みを浮かべた。そんな彼女を更に抱き寄せ、雄生は言う。
「雪吹……アンタはオレの、自慢の妹だ。今までも、これからも……」




