第2話 逃走計画
決めた以上、準備が必要だった。
まずは情報だ。
ぼくは数か月かけて、学校の図書室の端末と、夜のネットカフェを転々とした。
同じ席を続けて使わない。
検索履歴はその都度消す。
あまり手の込んだ偽装をすると逆に怪しまれる。
ぼくについている程度の監視ならこの程度が丁度いい。
調べるのは、地元の「治外法権」。
警察でも、教団でも、
簡単には踏み込めない場所。
地図アプリを広げ、夜になると治安が悪化すると噂される地点にピンを打つ。
SNSでは、同じタグで写真が上がる時間帯を洗った。
——週に一度、不定期。
真夜中、国道沿いの高架下に、
族の一団が現れる。
“幻月夜叉連”。
地元を支配していた武闘派集団を、
一夜にして壊滅させた夜叉の群れ…
ヘッドは異名で呼ばれていた。
”鬼哭冥夜”……
”ナイトメア”と読むらしい。本当だろうか…?
写真の中、黒いロングコートの女が立っている。
無表情だが…どこかやさしさを感じるたたずまいだと直感した。
……そこに賭けるしかない。
所轄外の力、権力も信仰も通じない、
「理不尽」に抗える拳。
ぼくには、それが必要だった。
——なぜ警察に行かないのか、
そう言う人もいるかもしれない。
行けるなら、とっくに行っている。
けれど教団は証拠を残さない。
そして、血縁上の親はキラキラとした目で、
ぼくを“虚言癖”と”自傷癖”のある少年として差し出すだろう。
手の甲に刻まれた”これ”を見せたとしても——
所轄の警察幹部まで教団の術中に嵌っている時点で、答えは出ている。
守ってくれる場所は、彼らの外にしかない。
…外も同じだったら?
………どうにもならないことは考えない、
教団の仕事をしていくうえで学んだことだ。
準備は他にもある。
現金は少額ずつ、何日にも分けて抜き取る。
同じく少しずつ、集められる限り犯罪の証拠を、
屋敷のゴミ出しに紛れて外に持ち出し、
荷物とまとめてネットカフェ近くのコインロッカーへ。
身分を示すものは何も持たない。
ぼくがぼくである証拠は、この身体だけでいい。
屋敷の見取りもした。
監視カメラの盲点、深夜の見回りの時間、寮母の足音。
冬のこの時刻、廊下のヒーターが止まって、だれも出歩かない五分間がある。
動けるのは、そこだ。
決行は、空が白む少し前。
高架下に族が現れる曜日と、追手が薄くなる日を、
何週間もかけて重ね合わせた。
曇り。
弱い北風。
雨の心配はない。
その夜、ぼくはいつも通りに歯を磨き、
鏡の自分にうなずいた。
耳を澄ます。
ヒーターが止まる、かすかな音。
廊下に出る。
スリッパは置いていく。
角を一つ曲がるごとに、心臓が跳ねた。
曲がり角の先、寮母の影——
いや、違う、壁掛け時計の影だ。
背中に汗がにじむ。
窓の鍵をそっと外す。
冷気が、刃のように頬を撫でた。
息を殺して、屋根伝いに中庭の塀へ。
膝が笑う。
落ちたら見つかる。
それでも、指先に力を込め、縁をまたぐ。
——行け。
着地の衝撃が足首を刺した。
痛みを飲み込む。
走る。
吐く息が白い。
冬の空気は、こんなにも味がするのかと思った。
体の奥まで冷たく、なのに、生きている実感で熱い。
通りに出ると、街はまだ眠っていた。
信号の赤だけが、やけに鮮やかだ。
靴紐を確認する。
パーカーのフードを深くかぶる。
歩幅は一定に。走れば目立つ、
でも遅ければ追いつかれる。
コインロッカーで荷物を回収する。
携帯の電源は入れない。
笑いそうになる。
怖いのか、嬉しいのか、判別がつかない。
国道沿いを東へ。
やがて、高架の支柱が見えてきた。
鉄骨が幾重にも重なり、街灯の明かりが斑に落ちる。
遠くで、低いエンジン音が鳴った。
ドゥン、ドゥン、と鼓動みたいに。
——いる。
近づくと、十数台の単車が並んでいた。
派手な塗装。
ボロいけど、磨かれている。
冬の空気にガソリンの匂いが混じる。
何人かの女が、缶コーヒーを手にだべっていた。
黒い特攻服が、目に飛び込んでくる。
背中に大きく縫い付けられた刺繍——幻月夜叉連。
そして、その中央、高架の基礎に堂々と座り込むロングコートの女。
2m近い巨躯、漆黒のロングヘアー。
鉄扇を腰に差し、煙草を咥えたままこちらを見た。
———鬼哭冥夜。
目が合った。
胸が跳ねる。
足が勝手に前へ出る。
息が浅くなる。
ここまで来て、言葉が出てこない。
近くの女が、訝しげに眉をひそめた。
「……なんだ?…え、男の子?」
ぼくは喉を鳴らした。
声が出ない。
なのに、目だけは、逸らせなかった。
この人に会いに来た。
この人に賭けに来た。
それだけははっきりしていた。
黒いロングコートの女——
鬼哭冥夜が、ゆっくり立ち上がる。
煙草の火が、彼女の横顔を赤く縁取る。
そのときだ。
高架の向こうから、白いライトがいくつもこちらへ滑ってきた。
エンジン音は軽い。
単車じゃない。
バンだ。
横付け。
ドアが同時に開く。
黒い防寒着の影が降りてきて、
ぼくを中心に半円を作った。
胸元に小さな刺繍——赦光連隊。
八岐大樹の、追手。
「お迎えですよ、虹星くん」
甘ったるい声が笑った。
足がすくむ。
体が勝手に後ずさる。
でも、背中には、単車の並び。
逃げ道はない。
鬼哭冥夜の視線がぼくと追手の間を往復する。
煙草の先、赤い点がひとつ、夜気の中で明滅した。
彼女は、咥えていた煙草を親指で弾き、地面に落とした。
靴で火をねじ消す。
そのまま、無言で一歩、前へ出る。
高架下の空気が、張り詰めた。




