第160話 エピローグ⑨ 新学期、巡る季節
桜坂中学の坂道は、桜と新入生で渋滞していた。
制服がまだ身体に馴染んでいない一年が、
きょろきょろしながら校門をくぐる。
廊下の掲示板には部活勧誘の紙が乱舞し、
体育館からは「新入生歓迎!」の声が聞こえる。
新学期の空気は――平和そのもの。
……表向きは。
「ねえ、聞いた? 凪嵐十字軍……」
「やばいやつらでしょ。高校生の反社潰したって……」
「中学生で? 嘘でしょ」
噂は、風より早い。人の口から口へと勝手に強くなる。
——乾いた二ストの音が遠くで跳ねた。
新入生たちは一斉に振り返る。誰かが小声で言う。
「……来た」
「凪嵐、だ……」
その噂の中心にいる本人たちは、
裏口から駐輪スペースに入っていくところだった。
ガンマの乾いた二ストが、軽く煽られる。
続いてカタナの低い音。ゼファーの落ち着いた鼓動。
その後ろ――独特の腹に響く排気音が、遅れて校舎の壁に反射した。
「……この音」
夏菜が振り返って、吹き出しかける。
現れたのは鷹津沙夜。
乗っているのは旧車のホーク、通称バブ。
ハンドルがやけに堂々としている。
ガンマから降りた夏奈が、ホークを見て笑う。
「沙夜お前、バブって……
“鷹”にあやかってんの? プフッ」
「笑ってんな!!」
沙夜が顔を真っ赤にしてハンドルを叩く。
「煙まで単車乗ってんのに、
あーしだけ原付じゃカッコつかねえだろ!!」
「買ったの?」
「借りた! 昼奈姉から!
返すまでに擦ったら殺される!」
「怖っ」
「考えさせんな!」
——そして、最後に。
春の空気を裂く、二スト特有の乾いた鼓動。
純白のウルフが、軽くブリッピングして止まる。
ハンドルに手を置いているのは、神代煙。
そして、その後ろに――赤い瞳。
宵星七緒は、転校初日とは思えない顔でウルフの後ろに座っていた。
噂に尾ひれがついて、
すでに「リリアンを崩壊させた子」として異名まで付いていた。
——紅月瞳。
本人はそんなことは気にもしていない。
一琉の方をちらりと見ると、モジモジと前髪を指でいじっていた。
夏菜が横からニヤつく。
「お、様になってるじゃん。ウルフ、貸してやった甲斐あるな」
「……うるせぇ。借り物だ」
「恥ずかしがるなって」
一琉は軽く手を上げる。
「おはよう、七緒」
「お、おはようございます♡ 一琉さん……!」
声が裏返った。
煙がぼそっと言う。
「……朝から顔赤ぇぞ」
「う、うるさいですの!」
「うるせぇのはお前だろ」
そんなくだらない会話ができること自体が、もう“日常”だった。
そうして正門の方に歩いているとき、
校門の向こうから、原付の群れが“威勢”だけで入ってきた。
「……来たか」
煙が、視線だけで外を見る。
雷門中の“顔見せ”。
新入生の頃に他校へ遠征して威勢を見せる――あの風習。
だが、桜坂に来る数は明らかに減っていた。
一昨年は静に、去年は煙に潰され——
今年は、昔みたいな“学年丸ごと”感はない。
それでも、来た。
五人。全員、気合だけは本物の目をしている。
先頭の雷門一年が、拳を握って叫ぶ。
「桜坂ァ! な、凪嵐ン! 顔、貸せやぁ!」
沙夜が一歩前に出ようとした。
「まったく、毎年懲りねえ――」
その肩を、煙が軽く押さえた。
「今年ウチに来れる奴は、気合入ってる」
肩の力も抜けている。ただ、目だけが鋭い。
「オレが相手してやる」
四天王の他の三人は顔を見合わせる。
「へえ?」
鷹津が意外そうに笑う
夏奈が口笛を吹き、静は無言で頷く。
一琉も小さくうなずいた。
「行っておいで。立って帰れるくらいでね」
「分かってる」
四人は単車を止めて昇降口へ向かう。
校門前に残った煙と七緒の前で、雷門の先頭が舌打ちした。
「…“白狼”! 一人とか、なめてんのか」
「……なめてねぇ。 来な」
――最近、誰も煙を“狂犬”とは呼ばなくなった。
本人が何かしたというより、何か“しなくなった”からだ。
襲ってきた相手を、必要以上に壊さない。
勝ったあとに奪わない。
……そして、強い。
代わりに増えた呼び名は——“白狼”。
「…ッ!」
雷門一年が、気圧されながらも足を踏み出す。拳を振りかぶる。
煙は左手で相手の手首を“触る”だけで軌道をずらす。
次に、右の掌底を相手の胸骨の少し下へ“押す”。
相手の息が止まり、膝が折れそうになる。
「……っ!?」
「一人」
雷門の二人目が飛び込む。今度は蹴り。
煙は足の軌道を見て、身体を斜めにずらす。
蹴りが空を切った瞬間、煙の左足が相手の軸足の外側を軽く払う。
相手がよろける。
煙はその襟元を掴み、――そのまま横へ放る。
「二人。頭は打つなよ」
三人目、四人目。人数が増えても、煙の動きは変わらない。
受ける、ずらす、当てる、止める。壊さない。
立ったまま、戦意だけが折れていく。
去年の煙なら、全員病院送りだった。
勝てば生きる、負ければ終わる――
その名残で、力の“上限”を知らなかった。
いまは違う。相手の事情を汲んで、立って帰す。
雷門の五人は、気づけば全員“立って帰れる”形で後退していた。
最後に、先頭が唸る。
「……チッ。伝説ってのは、マジかよ」
煙は一歩も追わない。
「いつでも来い。やる気あるならな」
「……っす」
煙が言うと、後ろの一人が悔しそうに笑った。
“伝説と一戦交えた”。
それだけで、雷門では一生モノになる。
「…ッ、ヘラついてんじゃねえ!!」
先頭は悔しそうに仲間を檄すると――
「お、おぼえてろよ!!!」
それでも、どこか満更でもない顔で引いていった。
七緒が小さく鼻で笑った。
「襲ってきたら仕留めた方が効率的ですのに」
「そういうんじゃねえんだよ」
煙が顔だけ向ける。
「立って帰れる方が、次がある」
七緒は一瞬、言い返しかけて――やめた。
「……ふん、本当に変わりましたのね」
「うるせぇ」
その言葉に、七緒の口元がほんの少しだけ緩む。
——昇降口。
「沙夜さん!!」
中に入った途端、廊下の空気が変わった。
「凪嵐のみなさんも!! チィーーーッス!!」
モブヤンキー女たちが整列し、やけに綺麗な礼をする。
「はいはい。挨拶はちゃんとできて偉い偉い」
本人は腕を組みながら、面倒くさそうに軽く片手を上げた。
一琉が足を止めた。
「桜坂って……こんなに“不良の人たち”いたの……?」
「あーしらがいきなり暗夜會と戦争始めたから、さ」
鷹津が肩をすくめる。
「『ヤバいのが動いてる』ってやつらは、引っ込んでたのよ」
「へえ……」
「番格だの、校内の序列だの。
そういう“せせこましいの”は結構いるわ。
面倒だから、まとめる役は必要よ」
――業鷹、鷹津沙夜。
——桜坂中、番格。
夏菜が笑いながら言った。
「ははっ、沙夜。番格、似合ってるぜ」
梨々花も満足げに頷く。
「うんうん。この私が目をかけてきただけあるわね!!」
「そんな記憶ねえんだけど」
「気のせいよ!」
梨々花はスマホを構えたまま勝ち誇っていた。
情報屋は情報屋で、日常に戻っても元気だ。
——そして、跳ねっ返りの新入生は必ず現れる。
「待ちやがれッ!!」
入学式もまだなのに、昇降口で、やけに声がでかい女子が叫んだ。
「何が虎だゴラァ!!
暗夜會やったとかフカシこいてんじゃねえぞチビッ!!
タイマン張りやがれ!!」
——“虎閃”
近江夏菜が、あくび混じりに振り向く。
「ん、ご指名か? いーよ。来な」
その返事が軽すぎて、周囲がざわついた。
「マジすか——…」
舐めたガキをシメようと動いたモブヤンキーも、思わず止まる。
「どうした? やっぱりビビっちまったか」
挑発した側が一瞬だけ怯んだのを、夏菜は見逃さない。
夏菜は、片足を半歩引き、肩を落とす。制圏道の間合い。
「なッ!舐めんな!! ゥオラァッ!!
……は――?」
跳ねっ返りが突っ込む。
右の大振りフック。
夏菜は上体を揺らさず、左前腕に当たる寸前で、
“消す”ように外へ流した。
同時に右手を相手の手首へ添え、肘の向きをひっくり返す。
「うっ!?」
相手の肩が勝手に前へ出る。体勢が崩れる。
夏菜はそこへ、足を一本、相手の前足の外に置く。
軽くひっかけて、相手の足が逃げる場所を奪う。
「はい、終わり」
体が回転し、相手は尻餅――では済まない。
背中から地面に落ちた。
ドン、と鈍い音。
「元気いいじゃん、お前。気に入ったぜ」
夏菜は軽く言うと、背中を向ける。
虎のスカジャンがふわりと揺れた。
「アタシにプロレス使わせるくらいになったら、名前聞いてやるよ」
「ク、クソ。 伝説、マジかよ…!」
挑発した側は歯を噛み——なぜか目を輝かせた。
「……お、覚えてろ!!」
それを聞いた周りの新入生が、飲み込むように頷く。
――噂じゃない。今、見た。
一琉がくすっと笑う。
「夏菜、優しいね」
「甘やかしてねぇよ」
夏奈は照れ隠しに歩き出す。
——“音無し”守屋静は、いつものように一琉の半歩後ろに立っていた。
そこへ一年の女子が、もじもじと近づく。
「……へへ、天凪先輩……その……」
色目。分かりやすい色目。
一琉が困って笑うより早く、静の手が伸びた。
静は一年の顔面を“掴む”。
頬骨のあたりを、指で固定する。
ミシ、と空気が鳴った。
「い、イダダダダダ…!!」
一年の体が固まる。
「ちょ、静……!」
一琉が慌てて止めると、
静は“握力”をほんの少しだけ緩めた。
後輩は涙目で一琉を見る。
助けてくれる……?みたいな顔。
一琉は困って、でも笑ってしまう。
「意識飛ぶまでやらないなんて……成長したね……」
「えぇぇぇ!?」
一年が涙目で助けを求める。
一琉は優しく言う。
「でも可哀想だから、離してあげてね」
「……了解」
静が手を離す。後輩が崩れ落ち、床に座り込んだ。
なぜか頬を赤くしている。
「……天使……!」
「違うよ」
一琉が即ツッコミを入れたが、もう遅い。
噂はそうやって増える。
その背中を見て、梨々花がメモを取りながら呟いた。
「今日も平和ね……」
「どこがだよ」
当たり前に追いついた煙が、即ツッコミを入れる。
——凪嵐四天王が揃う。
“白狼” 神代煙。
“業鷹” 鷹津沙夜。
“虎閃” 近江夏菜。
“音無し” 守屋静。
——そして。
凪嵐十字軍ヘッド。
天凪一琉。
新入生たちが、遠巻きに見つめるその背中は、やけに普通だった。
背筋が良くて、表情が柔らかい。優等生の顔。
誰かが小声で言った。
「……あの人が、“嵐夜黎凪”…」
嵐を率いて夜を終わらせた、黎明をもたらす凪。
中学生のくせに、そんな異名が――不思議と似合ってしまうのが、いちばん怖い。
一琉は噂に気づかないまま、振り向いて笑った。
「行こう。授業、始まっちゃうよ」
凪嵐四天王が、当たり前みたいに歩き出す。
それを見送った新入生たちは、なぜか背筋を伸ばしてしまうのだった。
――この学校の“日常”は、たぶん普通じゃない。
第一部 中学生編 完




