野営戦 ―印2―
【登場人物】
ダズール…第三軍所属の猪獣人。フーリェンの同期。
ウィード…第二軍の副隊長の一人。兎獣人。フーリェンの同期。
フェルディナ陣営西側の境界線沿い――薄い霧が立ち込めるそこでは、第三軍中心の小隊が激しく交戦していた。
中心に立つのは、巨躯の猪獣人ダズール。彼もまたフェイクの印を任された兵士のひとりである。
「押し返せェェ!」
咆哮と共に、大地を揺るがすような衝撃。重厚な盾を構えての突進が敵陣の一角を揺さぶる。
しかし優勢に思われていた状況は、次の瞬間一片した。
「ダズールっ 後ろだ!」
その声と同時。鋭く伸びた鉤爪が彼の分厚い肩甲をかすめ、首元にかかる革紐を切り裂いた。銀のタグが宙を舞う。炎の明かりに煌めいたそれが、地に落ちる直前に敵兵の手に収まる。
一瞬の静寂。
静まり返った戦場の真ん中で、ダズールは右手の盾を地面に突き立てた。
「全員、後退! 森を抜けて南の丘陵地まで下がれ!」
印の損失。彼の声に兵士たちが退いていく。だがそれは同時に、彼らが守っていた防衛線の一角に、大きな穴を生むこととなる。
その一報は、すぐにアスラン陣営の中心へ届けられた。
「報告! 西南の境界線にて印を確保」
「印保持者は?」
「猪獣人の盾役。確認済みのフェイク、ダズールです」
「よくやった。これで一つだ」
間を置かず、報告は続く。
「敵陽動部隊がこちらの印を奪取したとのことです」
ヘルガーの眉間に皺が寄る。
「確認済みの指揮官か?」
「はい。タイガがやられました。敵の中心にいたのは、雪豹との報告です」
「敵の陽動隊は未だ健在。数で言えば一対一だが、陽動の継続と損耗差を考えれば――こちらが僅かに劣勢、か」
そう口にしても、彼の声に焦りはなかった。
「フェイクをもう一つ潰す。まだ終わっていない」
時を同じくして、フェルディナ軍本部の天幕には二人の影が並んでいた。
用意された簡易椅子に座しているのは犬獣人の女兵士アンナ。そして彼女の隣には、第二軍副隊長である兎獣人ウィードの姿があった。
「東より報。フーリェン率いる陽動部隊、敵印を一つ奪取」
伝令兵が告げると同時、アンナの指先が地図の端――北西の山間部へとゆっくり伸びる。
「……フーリェン隊長」
呟かれた声は、驚きというよりも感嘆に近い。隣で報告を聞いていたウィードはふっと笑った。
「さすがだな。あの子は元より派手な戦いを好まないが、やるときは確実に結果を持ち帰る子だ。まさに陽動の本懐を果たしたというわけだ」
少女の視線が地図を辿る。今なお戦地を駆け巡る白狐の姿を想像しながら、決意を新たに顔を上げたと同時に、天幕の入り口に再び人影が現れた。
「報告! ダズール隊戦死。南西の防衛線に穴が!」
天幕内の空気が一気に張り詰めた。ウィードは地図の南西部を確認しながら指を滑らせる。
「ここが空いたか。そのまま敵が進軍を続ければ確実に中央に届く……まずいな」
アンナの目がぱちりと動き、不安の影がその顔に差す。
「焦らなくていい」
そんな彼女のその細い背中へとウィードは手を添えた。
「印を一つ失った。しかしこちらも一つ奪った。それをやったのは、君の隊長だ」
「……はい」
「穴はランシーが埋めるはずだ。中央にはジンリェン隊がいる。心配ない」
いいか、と。ウィードは初陣を踏んだばかりの少女へと言い聞かせるように続けた。
「大将の役目は、隠れていることでも、黙って待っていることでもない。”最後まで立っている”ことだ」
その言葉にアンナはもう一度頷いた。先ほどよりも力強いその反応にウィードは満足気に微笑むと、天幕の外——遠くで聞こえる喧騒へと耳をすませた。
フーリェン率いる陽動部隊の進む前線も、ダズールの小隊が消えた南西の防衛線も、すべてはひと繋がりの戦場だ。
戦の終わりは、まだ見えない。
祈るように握られたアンナの手のひらの中で、『本物の印』がカチャリと音を立てて揺れた。
――――
風向きが変わった。湿った夜の空気に混じって漂ってきたのは、焦げた木の匂いと撤退を知らせる短く鋭い笛の音だった。
それはフェルディナ軍にとってただの音ではない。”誰かが戦線を離れた”という、明確な合図だった。
「ダズールの小隊が戦死」
先頭を駆けていたフーリェンが足を止める。彼の後に続いていた猫科の獣人たちも自然と動きを緩めた。
しばしの沈黙の後、フーリェンは低く呟いた。
「……大丈夫だ」
ぽつりと落とされたその言葉に、仲間たちが表情を引き締める。
「南西の防衛線はランシーの隊がカバーしているはず。あいつらなら、突破はさせない」
「僕たちは進む。アドルフの隊と合流して、敵の裏へ抜ける」
陽動部隊は再び動き出す。影のように森に溶け込み、戦いに飲まれることなく進み続ける。
彼の読み通り、南西の境界線ではダズール隊の消えた空白を埋めるようにして、ランシーの小隊とアスラン軍の小隊が対峙していた。
「おいおい、ここ通るなら通行料取るぜ」
彼の声はいつも通り豪快だが、その目の奥に油断の色はない。
「第三軍隊長、ランシーですね」
アスラン側の指揮官が低く名を呟く。
「ああ、そうだ。お前のことも知ってるぞ、ドゥリン。鉄壁の前衛部隊の長だよな」
「あなたがたほどではありません」
ドゥリンは微笑を浮かべて応じる。ランシーは片手で重厚な戦斧を肩に担ぎ上げると、にやりと笑った。
「さて、こっから先はそう簡単には通せねぇぞ」
言いながら僅かに重心を落とす。彼に呼応するように武器を握るのは、筋骨隆々の獣人たち。
「まだまだ暴れたりねぇな!」
「隊長の前だ! 気合い入れるぞ!」
ランシーは斧を一回転させ、空中で軽く受け止める。
「ダズール達の分まで荒らしてやるさ。来いよ、アスラン!」
咆哮と共に、夜の森に新たな戦いの熱が吹き込まれた。防衛の穴は簡単には突かせない。
それが、フェルディナ王国軍第三軍隊長ランシーの矜持だった。




