野営戦(前)
東の空が朱に染まり始めた頃、訓練場には既に重たい空気が満ちていた。第四軍の兵たちが整列し、その前列には今回の野営戦に選抜された二十名が立っている。いずれも若く、だが目に迷いはない。フーリェンは彼らの前に立ち、静かに視線を一人ひとりへと滑らせた。隊服の裾が風に揺れるなか、彼はゆっくりと口を開く。
「……まず、選抜された者たち。自分が選ばれた理由は、戦えるからではない」
風が一瞬止まり、場が息をのむ。
「“守れる”と判断されたからだ。自分を、仲間を、状況を。何を優先し、何を捨てるべきか、判断できる者を僕は選んだ」
誰も動かない。ただ、まっすぐにフーリェンの声を受け止めていた。彼の言葉は鋼のように硬質で、しかし、根底には揺るぎない信頼が宿っていた。
フーリェンは選抜された兵たちの目を再びしっかりと見ると、今度は後列に控える残りの兵たちへと向き直る。
「……参加しない者たちに言う」
少しだけ間を置き、目を細めた。
「お前たちの目が、この場に並んだ者より鈍っていたと思っているなら、違う」
ざわ、と空気が揺れた。
「今の第四軍に求められているのは、ただの力ではない。鍛え、積み重ね、揺るがぬ強さだ。お前たちが、この軍の土台を支えている。誰が欠けても、この第四軍は成立しない」
兵たちの胸に、熱がじわじわと広がっていく。選ばれなかった悔しさが、静かに別のものへと変わっていくのを誰もが感じていた。
「だからこそ、決して怠るな。腕を磨き続けろ」
それは短く、けれど確かに彼らの内に火を灯す言葉だった。
同刻 ――第一軍
石造りの長廊下の奥、第一軍の兵舎前に並ぶ精鋭たち。その中央に、隊長であるジンリェンが腕を組んで立っていた。
「言うまでもねぇが、お前らは見極める側だ」
鋭い目つきで全体を見渡す。
「アスランの兵がどれだけ優れてようが、俺らが下がる理由にはならねぇ。背中を見せた瞬間、戦場じゃ死ぬ。それだけだ」
短い言葉に、部隊が一斉に気を引き締めた。
第二軍の拠点には、朝の光が斜めから差し込んでいた。シュアンランが前に立ち、兵士たちを見渡す。
「昨日の合同訓練、目は覚めたか?」
静かな口調だったが、氷のように冴えた響きを持っていた。
「アスランの連中は強い。だが、俺たちは昨日より強くなる。今日もな」
兵たちの間に、どこか鋭い緊張感と、そして誇りが生まれていく。
「氷は、冷たく静かに、すべてを凍らせる。……だが、焦ったやつから先に砕ける」
その言葉に、兵士たちは背筋を正した。静かに、だが確かに士気が高まっていく。
――第三軍
まだ陽が完全に昇り切らないなか、第三軍の兵たちは既に動き出していた。
「おーい、そこの二列目!朝飯残してんじゃねぇぞ!」
ランシー彼の明るい声に、兵たちが思わず笑みを漏らす。
「今日も熱く行くぞ!……でもな、熱いだけじゃだめだ。アスランは冷静だ。読みも鋭い。だからこそ、俺らは“ぶつかって砕けて覚える”」
「今日は、お前らの“失敗”を俺が見てやる。それが仕事だ。気にせず行け!」
その言葉に、兵たちは笑いながらも気合を込めて拳を握りしめた。
王宮の朝が静かに動き出す。それぞれの軍が、それぞれの色をもって、戦場ではない戦へと向かっていく。
そして――野営戦。三日目の演習が、いよいよ始まろうとしていた。
――――
物語は一夜前へと遡る。
静まり返った回廊を、革靴の音が等間隔で響いていた。高窓の外には月が出ており、白銀の光が床に映っている。フーリェンはルカの執務室の扉を軽く叩いた。
「入っていいよ」
穏やかな声に従って中へ入ると、ルカは机の上の報告書を読みながら顔を上げた。
「フー、お疲れ様。明日の準備はどう?」
「問題ありません。選抜兵は全員、装備と必要な物資を整えています。補給班も予定通り動きます」
「そうか」
ルカは小さく息をつき、机から離れるとぴんと背筋を伸ばす白狐の前まで歩み寄った。
「君がいるから、私は安心して彼らを送り出せる。……でも、無理はしないでね」
「……はい」
フーリェンは一拍おいて、少しだけ声の調子を変えた。
「明日の野営戦。……期待には、応えてみせます」
その言葉に、ルカの目が細められた。
「期待なんて、最初から超えてくるじゃないか。――信じているよ。君を、僕の兵士たちを」
その声に込められた静かな慈しみを、フーリェンは確かに感じていた。
シュアンランは無言で扉を開けた。
「来たか、シュアン」
セオドアは椅子に座ったまま、グラスを傾けていた。
「兵たちはどうだ?」
「仕上がっています。明日は、アスランと我が軍、どちらが鋭いか、はっきりさせてみせます」
「……ふん。いい心意気だな」
セオドアは微笑み、グラスを置くと立ち上がった。細身の身体に、夜光石を縫い込んだ上衣が美しく揺れる。二人の間に流れる空気は、どこか張り詰めながらも心地よかった。
「決して手を抜くな。勝ちを持ってこい、シュアンラン」
「御意」
「ランシー…、明日の野営戦は、いつも通り第三軍が前衛を務めるんだってね」
ユリウスが、やや不安そうな顔をしながら、ランシーに問いかける。ランシーは腰に手を当て、いつものように朗らかに笑う。
「うちの兵は、粗っぽいけど、当たって砕けることには慣れています。明日も派手にいきますよ」
「うんうん、君たちらしいね。……でも、あんまり砕けすぎないようにね?」
「本当に、戦に関してユリウス様は心配性すぎますよ」
軽口を交わしながらも、ランシーの目には戦士としての鋭さが宿っていた。
「…そうだね。…だからこそ、僕の護衛には君を選んだんだ」
「そうでしたね」
ランシーは笑いながら、胸に拳を当てて一礼した。
「では、行ってきます。ユリウス様!」
ジンリェンは、積み上げられた軍略書の山の中にいた。そこへ現れたのは、第一王子アルフォンス。無言で一冊、地図を抜き取り、ジンリェンの隣に立つ。
「準備は?」
「抜かりありません」
「お前たちの動きが、全体の流れを作る。明日は、全力でいけ」
「当然です」
ジンリェンは顔を上げると、まっすぐにアルフォンスの目を見た。
「フーも、現地で動きます。あいつの存在も、戦局を左右するでしょうね」
「分かってる。フーリェンは……良い兵士だ」
それだけ言って、アルフォンスは背を向ける。だが扉の前でふと立ち止まり、振り返った。
「ジン。お前が率いる軍は、俺の剣だ。その切っ先が明日、どこを貫くのか――楽しみにしている」
「……必ず、勝ちます」
言葉少なに告げるその声は、揺るぎなかった。
月は静かに、王都の上空を渡っていく。
戦ではなく演習――それでも、誰にとっても、決して“ただの訓練”ではない。それぞれの護衛が、それぞれの主と交わした言葉。それが、彼らを明日へと送り出す確かな灯となっていた。




