帰還
あの戦から、さらに数日の時が流れた。北の砦を吹き抜ける風は、ようやく冷たさを和らげ、どこか柔らかな香りを含むようになった。
フーリェンの肩の傷は、軽い運動や動作には支障がない程度まで癒えていた。治療班の判断も下り、王宮への帰還が正式に決まると、砦のあちこちから彼の帰還を惜しむ声が広がった。
そんな中、荷を積んだ馬車の脇では、見送りのために集まった兵士たちが仏頂面の白狐を囲んでいた。
「……んで、次はいつ抜け出して来るんだ?」
「は? いや抜け出してた訳じゃ……」
「ははははっ、冗談だ。どうせまた何かあれば会えるさ」
「……その時は、また顔を見せに行くよ」
言葉少なにそう返すフーリェンに、兵士たちはそれぞれ別れを告げた。肩を叩き、頭を撫で回し、その大きくなった背に視線を向ける。誰も大仰な言葉は使わない。ただ、火傷のように残る戦の記憶と、それを共に越えた仲間への静かな敬意を胸に、息子も同然の彼を見つめる。
「今度はさ、みんなで酒でも飲もうな」
「それじゃまたな、フー。くれぐれも、無理はするなよ。……ほんとにな」
彼らの言葉に、フーリェンはこくりと頷いた。尾の先が名残惜しそうに揺れ、「またね」と小さく別れの言葉を告げる。
少し離れた場所では、二人の王子がそんな彼らの様子を見つめていた。
「……兄上」
「ん?」
「僕は、ここに残るよ。母上のそばで、砦の復興を手伝いたい」
そう言い切ったオリバーに、ルカは少し驚いたように視線を落とした。だが、その顔にはすぐに柔らかな微笑が浮かぶ。
「そうか。お前がいれば、母上も心強いだろうね」
「うん。僕、まだ何もできないけど、それでもここで強くなるよ」
幼さの中に宿る、確かな決意。ルカはその言葉に、誇らしげに頷いた。
「お前はもう守られるだけの王子じゃない。自分の足で立とうとする限り、誰よりも強いよ」
「ありがとう、兄上」
兵士たちに別れを告げたフーリェンが駆け寄ってくる。それに合わせるかのように、出発の準備を終えた馬車から御者が顔を覗かせた。
「フー、王都に帰っても解決しなければならない問題は山積みだ……でも、」
ルカはまっすぐに、銅色の瞳を白狐の従者へと向けた。
「私たちの帰りを待つ者も大勢いる」
北の砦を背に、ゆっくりと馬車が動き出す。視界の隅で、兵士たちの姿が遠ざかっていく。
眩しい日差しを背に受けながら、王子と狐の護衛は再び、王宮へと出立したのであった。
――――
そうして馬車に揺られること半日。夜の帳が降り、王都の灯りが静かに消え始める頃。
積まれた書類の山を脇目に、真新しい報告書を手に取ることもせず、ルカはただ静かに立っていた。
「……おかえり、フーリェン」
「はい」
遅れて入室した白狐の護衛へと労いの言葉を掛けながら、彼はゆっくりと椅子の背に身を預けた。
「兄上たちへの報告はシュアンが通してくれてるよ。君の働きと……生還に、改めて礼を言うよ。長旅だったんだ。君も疲れたろう。今日はゆっくり休むんだよ」
「身に余るお言葉です、ルカ様」
おやすみなさい。そう小さく告げると、フーリェンは静かに部屋を後にした。
静寂が戻る。ルカは立ち上がると、窓の外へと視線を落とした。中庭に広がる花々が暗がりに揺れているのが見える。
「……ああ。帰ってきたな」
呟きは誰にも届かない。だがそれは確かに、彼の胸からこぼれた安堵の言葉だった。
しかしすぐにその表情は引き締まる。
机の上の一枚の地図に、視線を落とす。王宮の見取り図――そして、王都全域の潜伏ルートを示す数本の赤線。
「フーを狙った矢は、一先ず断たれた。だけど……」
ルカは静かに、別の報告書を開いた。そこに記されたのは、王宮の回廊をすり抜けた痕跡、未確認の密偵の潜伏情報。
「内にはまだ息を潜めている者たちがいる」
事が明るみになるにはまだ早い。だが近い未来、王国はまた動き出さねばならなくなるだろう。
嵐の予兆は、静けさの中にこそ潜む。
だけど――
「一先ずは、私も体を休めよう」
そう呟くと、ルカは大きく背伸びをし、執務室の灯りを消しのだった。
再び王宮が動き出すのは、まだ少し先の話。
第二章 北の砦編 完
(過去談)
王宮の獣護-日常- ep.9子狐
(後日談)
王宮の獣護-日常- ep.7帰省




