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王宮の獣護   作者: 夜夢子
第2章

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北風の間2

穏やかな風が砦の石壁を撫でていた。陽はまだ高く、淡い金色が瓦礫の隙間を抜け、積み直された木材の上に落ちている。先日敵の飛礫が飛び交ったその一角は、今は仮設の柵で囲われ、戦火の余韻の中にも一時の静寂があった。その道を、一人と一匹がゆっくりと歩いていた。


「……あっちの屋根、昨日より高くなってる気がする」


前を行くオリバーが歩みを止める。指差す先には、梁を担ぐ若い兵士たちの姿があった。声を掛け合いながら足場を組み、新しい屋根板をかけている。その光景をじっと見つめる少年の背に、何も言わず、静かに寄り添う気配がある。振り返らずとも、そこにいると分かる。フーリェンはぴたりと数歩後方に控え、警戒の眼差しを周囲に巡らせていた。


彼の左肩には分厚い包帯が巻かれたままだ。深い傷の痕を隠しながらも、歩みも姿勢も崩さない。けれどそれは、治療班を悩ませる原因でもあった。


「ほんとは、休まなきゃいけないんでしょ?」


振り返ったオリバーが、遠慮がちに尋ねる。彼はこの護衛が、ただの散歩の任ではなく、第四王子ルカの“苦肉の命令”であることを知っていた。


フーリェンはその視線を受けてほんのわずかに反応した。答えることも反論することもせず、視線を逸らすように一歩だけ後ろへ下がる。その顔はどこか気まずそうだった。問いかけに、明確な否定はなかった。


「でも、こうやって歩けるだけで、ちょっと安心するよ」


その姿にくすりと笑うと、オリバーは前を向き、砦の風景に目をやった。倒れたままの砲台、積み上がる木材、若い兵士の笑い声と掛け声。すべてが少しずつ、“前へ進んでいる”証拠だった。


「この前、治療班の人に怒られちゃった。むやみに養療所をのぞくなって」

「……はい、見ていました」


フーリェンの脳裏に、養療所の前を行ったり来たりするオリバーの姿が過った。


「でも、俺も何か、できたらなって思ったんだ」


その呟きに、彼の耳がぴくりと動く。一歩、二歩と距離を詰めて、低い声で小さな王子へと言葉を繋いだ。


「立っていることも、歩いていることも……今は、それで十分だと思います」

「……それって、君も同じ?」


その問いかけに、フーリェンは答えなかった。ただ、ふと視線を空に向けた。北の風が吹き抜け、肩の包帯をかすかに揺らす。オリバーは少しだけ笑った。


「……そっか。じゃあ、一緒に散歩、続けよう」


少年はまた歩き出し、半歩後ろを白狐が続く。


砦の外壁沿いに、風にそよぐ白布が連なっていた。その下では、日焼けした兵士たちが新しい杭を打ち込み、崩れた柵を補強している。焼け跡の残る石壁には新しい石材が積み上げられ、今しがた乾いたばかりの漆喰の匂いが、風に乗って流れてくる。


「――おっ、フー!今日はオリバー様の護衛か?」


ふと声がかかる。視線を声の方へ向ければ、前線でともに戦った男たちが杭打ちの合間に笑いかけてきた。ひとりは手拭いで額の汗を拭い、もう一人はスコップの柄にもたれながら肩を揺らしている。


「護衛ってのはもっと緊張感あると思ってたけどよ。まさか散歩の後ろついてく仕事だとはなぁ」

「いや、あれだ。戦に出りゃ頼もしいけど、案外こういう任務のほうが苦手なんじゃねぇか?」


彼らの冗談めいた言葉に、フーリェンは無言のまま視線だけを向けた。ただ、それ以上は何も言わず、少しだけまぶしそうに目を細める。


「ほら、黙るってことは図星ってことだろ」

「てか、ちゃんと飯食ってんのか? いつまでも肩の傷治んねえぞ」

「それ俺も思った! 治療班のユーレンが、食事量が少ないって嘆いてたぞ」


その言葉に、前を歩いていたオリバーがくすくすと笑った。その笑いがまた、兵たちに波のように伝わっていき、砦の空気に柔らかなざわめきが満ちていく。


無数の血が流れ、幾重もの怒号が響き、幾人もの命が絶えた北の砦。だが今、ここにあるのは、静けさと笑い声だけだった。


――――

砦の最上階。そこから砦全体を見下ろすようにして立っていたのは、女王ヘラと第四王子ルカだった。


「……ずいぶんと、成長したな。あの子も」


風に揺れる長髪を抑えながら、ヘラが目を細める。


「ええ。ですが、本当に休んでいるかどうか……正直、怪しいところです」


ルカは小さく笑った。彼の性格はよく知っているつもりだ。命じるまで休もうとはしない。”休む”も、本当に休めているのかは微妙だ。だからこそ、「任務」として、オリバーの護衛を与えたのだ。


砦を駆け回る若い兵士たち、陽を浴びて汗を拭う作業兵たち。戦の記憶がまだ色濃く残る中で、それでもこの地は、確かに前へと進み始めていた。


「あの異形は、……本当にグレゴリウスの死体、なのでしょうか」


ルカがふと漏らしたその言葉に、ヘラは頷きつつも、冷ややかなまなざしを砦の遥か向こうへと向けた。


「……あの男が、ただの軍師や錬金術師であったならば、それで済んだのだろうが…」


ヘラの口調は穏やかだったが、そこには確かな未来への警戒がにじんでいた。


「次に姿を現すときは、おそらく、今回とは比べものにならぬ規模で動いてくるでしょう。……奴は、フーの顔を覚えていますから」


フーリェン。


あの戦いの中で彼が見せた、圧倒的な力と気配。フェルディナを支える武力であり、南が狙う力でもある。


それでも――


「……北は、堅牢ですね。母上」


気を取り直すように、ルカがそう口にした。その言葉に、ヘラはゆっくりと頷く。


「あぁ。私の自慢だ――」


その視線は目下の砦の修復を進める兵士たちに向く。笑い合いながらも、手を止めることなく修繕作業を進めていく男たち。寒さを気にせず裾を捲り、大粒の汗を流す彼らの姿に、ヘラは目を細める。


冷たい北の風が開け放たれた窓から入り込み、ふたりの衣を静かに揺らした。

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