北風の間
あの戦いから、早くも数日が過ぎていた。
戦火に焼かれ、砕け、血と煙に染まった大地は、なおもその爪痕が残る。それでも、砦のあちこちには白煙がのぼり、兵たちの手によって復旧が進められていた。焼け落ちた外壁には新たな木材が積まれ、破壊された弓台には仮設の見張り小屋が設けられている。地に倒れたままの砲台の傍では、若い兵士が必死に歯を食いしばり、修繕の作業に取り組んでいた。瓦礫を片付ける音、兵士たちの掛け声、治療班の短い叱咤と苦笑。それらすべてが、この砦が「まだ生きている」ことの証だった。
陽は高く、北の風が戦場の名残を拭うように吹き抜ける。砦の一角、先日まで中継地点として機能していた広間には、負傷した兵たちが集められた仮設の療養所が設けられていた。
その窓際。並べられたベッドの隙間に置かれた簡易の丸椅子には、一人の青年が腰掛けていた。すっと伸びた背。白色の狐耳がぴくりと動き、時より吹き付ける北風の音を拾っている。
治療班からは幾度となく「安静に」と釘を刺されていたが、彼の耳には半分ほどしか届いていなかった。簡素な衣服から覗く肩の傷は深く、幾重にも巻かれた包帯がそれを物語っている。
「なあ、本気で安静って言葉、知らねぇんじゃねえか?」
「肩、また血滲んでんぞ。ほら、あの包帯、ちょっと赤くなってる……」
「どうせ報告書なんか、王宮に帰ってからでもできるだろ。お前、まだ寝とけって」
「そうそう。ほら俺ら、ちゃんとベッドにしがみついてるからさ。フーも休めよ。……なに、遠慮してんのか?」
くだけた口調の中に滲むのは、心配と、安堵と、わずかな茶化し。フーリェンは少しだけ目を上げた。
「……うるさい」
ぼそりと一言落とされたその声に、兵たちは一瞬だけしんとした後、どっと笑いがこぼれた。
「ほら見ろ、怒られた!」
「……でも、そこに居るだけで、なんかほっとするんだよな。相変わらず仏頂面だけど」
「『うるさい』が聞けたなら、まだ大丈夫ってことだろ」
フーリェンは言葉を返さなかった。視線を書きかけの報告書に戻し、ほんのわずかに口元を緩める。
そんな仮設の療養所に、規則正しく響く足音が近づいてくる。まるで隊列を組む兵士のように一歩一歩が力強く、そして迷いがなかった。
「随分と賑やかだな。ここは静養の場のはずだが?」
低く、よく通る声が広間に落ちる。その一言に、室内の空気がすっと引き締まる。兵士たちが一斉に姿勢を正した。驚きと敬意の混ざった視線が、声の主――ベルトランの方へ向けられる。
「…おい、あれ……本当に隊長か?」
「嘘だろ…あの人、俺より深手だったって聞いたぞ」
「いや、あの時の血の量、尋常じゃなかったよな……?」
療養所内が、僅かにざわめく。あの激戦の中、前線で指揮を執り、誰よりも多くの傷を負っていたはずの男が、まるで一切の負傷がなかったかのように、背筋を伸ばし、軽やかに歩いている。彼の視線は鋭かった。軽口など一切ない。ベルトランはゆっくりとフーリェンの前に立ち止まると、その膝に置かれた報告書に目を落とした。
「フーリェン……お前は…。まだ傷が治りきっていないだろ。北の砦は勝ったんだ。まずはゆっくり休め。――陛下からの命だ」
フーリェンは彼を一瞥しただけで、返事をしなかった。ただ、口の端がわずかに引き結ばれる。周囲の兵士たちはというと、誰からともなく顔を見合わせ、やや引き気味に口を開く。
「…いや、それ言える立場じゃねえだろ、隊長……」
「しかも傷、どこにあった?ってくらい全部消えてんじゃねーか……」
「不死身とかじゃなくて、もう人間じゃないだろ……」
軽口を交わすというより、怪訝と困惑が入り混じったような視線が、ベルトランに集中する。ベルトランはそんな囁きを意にも介さず一蹴すると、再びフーリェンへと視線を戻した。
「……お前がここにいることで、こいつらが安心するのは分かった。それは否定しない。だが、お前自身の体を置き去りにするな。これは指導官としてではなく、ベルトランとして、お前に言っている」
フーリェンは何も言わなかった。小さく瞳を揺らし、上目がちにベルトランへと視線を向ける。そして、その小さな叱責を淡々と受け止めるように報告書を伏せると、肩の傷を少し庇うように姿勢を変えた。その姿にベルトランは何も言わずにうなずき、背を向けて扉の方へ歩いていった。その背を見送りながら、中堅兵たちは息をつく。
「……人間って、治る速度に個体差、あるよな」
誰かがぽつりとつぶやき、そこにまた笑いが広がる。とはいえそこにあるのは、確かな安心だった。




