情報
グレゴリウスは、薄暗い部屋の机に肘をつき、手元の資料へと鋭い視線を落としていた。蝋燭の炎がかすかに揺れ、その影が彼の顔に冷徹な輪郭を与える。
「北の砦……このタイミングで狐を移したか」
彼の指先が古びた地図の上を滑り、北方に位置する堅牢な砦の名をなぞった。そこはフェルディナの友好国・アスランとの交易の要所。女王ヘラが治める北の大地。
「……問題は、この情報の出処だ」
彼は低く呟くとこつこつと爪先で机上を叩く。この情報の出どころは明かされていない。しかしこの書き回しには見覚えがあるような気がする。情報の一片を意図的に漏らし、誘導しようとする手口。僅かに信じ難いその可能性に、グレゴリウスはため息を漏らしながら顎に手をやった。目的が分からない。なぜこちら側に情報を流しているのか。陽動か、あるいは――。だがそれが偽りであれ真であれ利用しないわけにはいかない。
彼は報告書をぐしゃりを握りしめた。
「この機を逃す手はない」
グレゴリウスは立ち上がると、書類の山を見下ろした。目撃談、戦場での挙動分析、密告。それら全てがひとつの結論に収束していた。
「北の砦に大規模な襲撃を仕掛ける。先行部隊には偵察と情報の再収集を命じる。警備の巡回、哨戒の死角、すべてを洗い出せ」
「狐を奪取できれば理想。だが殺しても構わん。死体からでも得られるものはあるだろうからな」
兵士たちへと命じる彼の声には、確かな決意と残酷な響きがあった。グレゴリウスは開いた窓の外に目を向ける。夜風が帳を撫で、彼の髪を揺らした。
「誰だろうが、利用できるものは利用する。あの男の思惑など、我々の目的の前では塵に等しい」
闇に沈む北の砦。その輪郭が、まるで血塗られた未来のように、グレゴリウスの脳裏に鮮やかに浮かび上がったのだった。
――――
傾き始めた夕陽が淡く差し込み、執務室を金色に染めている。大きな机には地図と報告書。穏やかな空気ながらも、室内には緊張が漂っていた。
「戻った」
重い扉が開かれ、部屋の中へと足を踏み入れたのはセオドアだった。その声にアルフォンスは顔を上げると、帰還した弟とその護衛へと視線を向けた。
「早かったな。第七地区はどうだった?」
「相変わらず荒れていた。お前は大丈夫か?」
「俺は問題ない。優秀な護衛と兵士たちがいるからな」
「そうか」
セオドアは机の上の地図に視線を落とし、北の砦を指先でなぞる。
「“狐の護衛が北へ送られた”――住民の間でそんな噂が囁かれていた。意図的に流されたように思う」
「やはり漏洩があったか……」
「だろうな。でなければ辻褄が合わん」
唸るように低く呟いたセオドアは、ゆっくりと長椅子に腰を下ろした。シュアンランが無言で背後に回る。しかし次の瞬間廊下から聞こえてきた二人分の足音に、彼はジンリェンと顔を見合わせた。ピクリと耳を揺らす白狐の仕草に小さく頷くと、扉へ視線を向ける。
現れたのは、尋問を終えたユリウスとランシーだった。
「セオドア兄上、ご無事で何よりです。アルフォンス兄上、例の獣人についてご報告を」
「ご苦労だったなユリウス。口は割ったか?」
「……いいえ。背後にいる人物についての情報は何らかの能力で封じられているようです」
「そうか。お前の話術で無理なら、また別の方法を考えんとな」
「そうですね。……引き続き、揺さぶってみようとは思っています」
「あぁ、頼む。……話が逸れたな。つまり、情報漏洩は確実で、それを元に敵は動いているということだな」
セオドアは腕を組み、沈黙の後に言葉を継いだ。
「……今思ったんだが、それを利用できないか?」
「……どういう意味だ?」
「北の砦を囮にする。敵がそこに関心を持つのなら、先手を打って準備を整え、迎え撃つ」
「囮……」
ジンリェンが眉をひそめる。
「フーリェンがそこにいる以上、必ず奪いに来るはずだ。襲撃場所が分かっていれば対策はできる」
「策としては大胆だが、確かに敵の出方を探るには有効だな……」
「ただしフーリェンの身は危険に晒される。砦もまた然りだ。体制は万全にせねばならん」
そしてそのままセオドアは力強く言い切る。
「だが北の砦は王国でも随一の堅牢さを誇る。あそこを守るのは、戦火を何度もくぐり抜けてきた歴戦の兵士たちだ。加えてフェルディナの女王が統治する台地……一筋縄では崩せん」
「囮にするには十分な強度と信頼がある、というわけだな」
アルフォンスの言葉に、セオドアは深く頷いた。護衛たちもまたその目に鋭い光を宿す。
北の大地を囮とした作戦。こちらの予想通りに敵が動くとは限らない。しかし確実に、敵はフーリェンを取りに来る。彼を欲しているのであれば、こちらもそのつもりで動く。彼を餌に、彼を武器に、敵をおびき出す。少しでも早く、戦の芽を摘むために。
薄暗い灯りの中で、扉が静かに閉まる。セオドアはシュアンランへと向き直ると、低く、囁くように命じた。
「シュアンラン、お前に北の砦への出向を命じる」
名を呼ばれた狼男は僅かに目を見開いたが、すぐに落ち着いた表情で頷いた。
「北の大地はお前の独壇場のはずだ。存分にその力を使え。俺が許可する」
「御意」
その言葉に応えるように、狼男の深紅の瞳が静かに熱を帯びたのだった。




