第十二章 希望
「よし。これなら大丈夫」
今にもずり落ちてしまいそうだったシャツの片端をぎゅっと結び直し、アンナは深く頷いた。その前で、リオンがくるりと一回転してみせる。両手を胸の前で握りしめる彼女と、そして少し離れた場所で心配そうにこちらを見つめる獣へと、彼は順に視線を向けた。
「必ず、戻ります」
そう言って、リオンは一度大きく息を吸い込み、呼吸を整えた。血の滲んだ床から再び視線を上げようとしたその時、彼の頭上に大きな影が落ちた。
「……りおん」
聞き取りづらい、掠れた声音。その声に呼ばれて、リオンは顔を上げた。
琥珀色の大きな瞳と、目が合う。
続く言葉を待つ少年兵の姿に、フーリェンは鼻先を寄せた。栗色の髪を掻き分け、やがて小さなその頬にそっとすり寄る。幼子の手が自身の顔に触れるのを感じながら、彼は小さく言葉を続けた。
「……おうきゅうに、もどれたら……にいさ――じんりぇんに……“くびかざり”を、もってきて、と……つたえてほしい」
「……首飾り?」
「あぁ……たの、む。ぼくの……だいじなもの、なんだ」
リオンは唇を噛みながらしっかりと頷いた。
「ジンリェン隊長にですね。……分かりました。必ずお伝えします」
込み上げてくるものをぐっと堪え、彼は一度ぎゅっとフーリェンの首元へと抱きついた。
「……よし」
体をそっと離し、穴の開いた天井へと視線を向ける。そのまま彼は勢いをつけると、ひと蹴りで穴の中へと身を滑り込ませた。兎獣人の先祖の血が遺憾なく発揮されたことに内心で安堵しながら、リオンはひょこりと顔を出した。
「行ってきます」
それだけを最後に告げると、彼は僅かに聞こえる風の音を頼りに、暗闇の中へと進んでいったのだった。
――――
幼子の気配が完全に暗闇の中へと消えたのを確かめてから、フーリェンはゆっくりと身体を冷たい床へ横たえた。
無理やり発動し続けている能力の反動なのか。それとも精神的なものなのか。力が入らない。思考も、うまく回らなかった。
死体から滲み出た濁った赤が、泥色の毛先へと染み込んでいく。鉄の匂いも冷え切った体液の不快感も、もう気にならない。ただ、呼吸を続けるだけで精いっぱいだった。
視界の端に、腱の断たれた脚が映る。
――どうせなら、そこも治してくれよ。
――そしたら少しは、ましだったのに。
そんな、どうでもいい考えが浮かぶ。
そのときだった。
ふわりと、腹のあたりに暖かな体温を感じた。ちらりと視線を向けた先では、アンナが静かに寄り添っていた。
「……はなれて、いろ」
うまく声が出せなくて嫌気がさす。
「いつ、のうりょくが……せいぎょ、できなくなるか……わからない」
「いいえ、離れません」
それでもきっぱりとしたその返答に、なぜか言い返すことはできなかった。鱗に覆われた尾がばたっと床を叩いた。
「隊長。……少し、お話ししませんか」
ふいに投げられたその声に、フーリェンは顔を動かさず、視線だけをアンナへと向けた。
「隊長のこと、私、ちゃんと聞いたことがないなって思って」
そう言ってアンナは少し困ったように天井を見上げた。
「何から聞こうかしら……」
しばし考え込む素振りを見せてから、彼女はふっとこちらを見た。
「あ。隊長から見たお兄さん――ジンリェン隊長って、どんな人なんですか?」
「……じん?」
「はい。私、あまりお話ししたことがなくて。でも……とても仲が良いんだろうなって」
少し照れたように笑ってから、彼女は続けた。
「羨ましいです。私にもきょうだいはいるんですけど……あまり、仲が良いとは言えなくて」
「……おまえ……いちばん、うえ、だったよな」
「えぇ、これでも。……って、私の話はまた今度にしてください。今は隊長のお話を聞きたいんです」
“また今度”
その言葉に、フーリェンは目を伏せた。
白狐の背中が脳裏に浮かぶ。
「……じんは……やさしい」
途切れ途切れに言葉を探す。
「いつも……そばに、いてくれた。つらいときも……くるしいときも……たのしいときも、うれしいときも。ずっと」
「自慢のお兄さんなんですね」
「あぁ。……じまんの、あにだ」
「……ぼくも……にいさん、みたいに……なりたくて……」
アンナは何も言わず、ただ頷いた。
「ジンリェン隊長も、きっと同じですよ。隊長のこと、自慢の弟だって思っておられます」
「……そう、かな」
「そうですよ。”フェルディナの白狐兄弟”、ですもの」
もう一度小さく笑ってから、彼女は少し間を置いた。
「……じゃあ、話題を変えてもいいですか」
「……?」
「シュアンラン隊長のこと、です」
「……しゅ、あんのこと?」
「はい。……これは私の勝手な憶測ですけど、お二人って……そういう、関係ですよね」
「……そんなに、わかりやすいか」
「やっぱり……!いいえ、ただの女の勘ですよ。……そっかぁ……そうなんですね」
ふふふっと小さく笑う彼女の姿に、居心地悪そうにフーリェンは視線を逸らした。
「お二人の仲のことは……?」
「……じんは……しってる」
「ほかは……るかさ――でんかがたと……らんしー……」
そこまで言ってから、少し考えるように言葉を探す。
「……それから、ゆきと……なーじゅ、さん」
「……もしか、したら……こさんへいの、ひとは……しってる、かも」
「意外と多いですね」
「……ゆえにも、このまえ……しられた。……しゅあんの、たいどが……ろこつで……」
「あらあら……」
「確かに、シュアンラン隊長って……情熱的な方ですものね。ちょっと、想像できちゃいます」
「……そう、だね。わかりやすい、から」
「王宮に戻ったら、ユキさんも誘って恋バナしましょう。暖かい飲み物と、お菓子を用意して……」
指を折りながら楽し気に呟く彼女の様子に、フーリェンは小さく眉を寄せた。
「……それ、ぼく……いるひつよう、あるのか?」
「必要です」
即答だった。
「何言ってるんですか。隊長のお話を聞くんですよ」
「……いいよ、そんなの……」
かすれた声で、フーリェンは言う。
「……ないよ。おもしろいはなし、なんて」
「そんなことありません。少なくとも、シュナとリンリィのお話よりは面白いことが聞けそうです」
「……おまえたち、そんなはなし……してたのか」
「ご存じなかったんですか? シュナ、故郷に許嫁がいるんですよ」
「……はつみみ」
「ぜひ聞いてみてください。顔真っ赤にして慌てるので面白いですよ」
「……おまえ」
思わず顔を上げたフーリェンの声には、ほんの少し呆れが滲んでいた。
「……あんがい、ようしゃない、な」
それからもしばらくの間、彼女と取り留めもない話を続けた。
実は気の合う陽気な獅子のこと。殿下たちのこと。北の砦にいる、“父親たち”のこと。ずっと昔に、兄と共に王宮に連れてこられたこと。能力の制御ができず、部屋に籠っていた数年間。初めての外の怖さ。いつも兄の後ろを付いて回った日々。そんな自分に毎日会いに来てくれた狼の少年。主人からもらった名前。育ててくれた人たちに恩返しがしたくて、掴み取った今の地位。
本当にいろいろと、話した気がする。
ぽつりぽつりと会話を重ねていくうちに、次第に瞼が重くなっていく。
「おやすみなさい、フーリェン」
名前を呼んでほしいと頼んだからだろうか。
意識を手放す前に聞こえたその声に、ひどく安心した。




