第十二章 守るための力
鉄の匂いが、喉の奥にまとわりついて離れなかった。
湿り気を帯びた地下の空気。石壁に囲まれた部屋の中で、アンナは無意識のうちに指先を強く握りしめていた。
壁際に座り込んだ彼女の視線の先――対角線上、部屋の隅に蹲る獣の姿から、どうしても目を逸らすことができない。
美しかった白髪はくすみ、所々が泥色に変色している。細身だった身体は歪に肥大化し、関節の位置すら判然としない。もはや人の形を保っているとは言い難かった。
それでも――
こちらへと向けられた琥珀の瞳だけは、まだ焦点を失っていなかった。
「……アン、ナ。リオン……」
名を呼ばれた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
掠れた声。それでも確かに意識はある。
言葉は通じる。
理性も、残っている。
「大丈夫です。きっと、すぐ――」
そう言いかけた、その時だった。
重い鉄扉が軋む音を立てて開き、地下牢に響き渡る。
続いて聞こえたのは、硬い靴音。
ひとり分ではない。複数の足音が、ためらいもなく室内へ踏み込んできた。
先頭に立っていたのはカイだった。
淡々とした表情。その顔からは、感情の揺れを読み取ることはできない。
「理性を保ったまま能力が活性化している。……昔とは大違いだな」
彼の背後から、数人の男たちが続いて室内へ入ってくる。重なり合う足音に、空気がさらに重くなる。そして、男たちの陰に隠れるようにして最後に入室したある男の姿に、アンナは思わず息をひそめた。
ひときわ背の高い男だった。顔は大きく歪み、片側が潰れたようにひしゃげている。その男は瞬きもせず、何かを値踏みするように部屋の隅で蹲るフーリェンを見つめていた。
(……誰?)
記憶に引っかかるものは、何ひとつない。だが、理由もなく視線を逸らしたくなる。そんな彼の姿に、アンナは直感的に危険だと感じた。
男たちから距離を取ろうと一歩後ろへと下がった彼女の足枷が音を立てる。その音に反応するように、フーリェンの身体が大きく揺れた。
彼がこちらに向かって一歩踏み出そうとしたように見えた。だが次の瞬間、踏ん張ろうとした膝が折れ、身体が大きく傾ぐ。抑えようとしているのか、抗おうとしているのか。アンナには判断がつかなかった。ただ、彼が自分の意思とは別の“何か”に引きずられていることだけは、はっきりと分かった。
「っ……!」
喉を詰めたような音が漏れ、床が軋む。そんな彼の隙を突くように、男たちが一斉に動いた。
背後から腕を掴まれ、身体が引き戻される。
「離して……!」
叫びながら、アンナは目を見開いた。
フーリェンが、床に押さえつけられている。何人もの男が、彼の腕や脚を押さえ込んでいた。
必死に藻掻き、抗おうとする獣の様子をカイはただ静かに見下ろすと、ただ一言、静かに告げた。
「大人しくしろ、コン」
フーリェンの動きがぴたりと止まる。身体が強張り、荒い呼吸だけが上下している。
拘束具が軋む音が、地下の静寂を引き裂いた。
一度は止まったフーリェンの背から、翼が構築される。骨格も筋も、まるで最初からそこに在ったかのように精巧で――それでも、本来は存在しないものだ。
「興味深いな……」
カイは一歩近づくと、顎に手を当ててその白い翼を見上げた。
「模倣の完成度は申し分ない。だが……」
彼の合図とともに刃が振り下ろされる。抵抗する間もなく翼が切り離された。しかしそれが床に落ちることはなかった。霧散するように崩れ、淡く光る粒子となって消えていく。
「やはり駄目か」
失望とも、満足とも取れる小さな吐息。その口元には笑みが浮かんでいた。
「仮初めの構造体だな。保存には向かない……残念だが想定内だ」
そう言って彼はすぐに興味の対象を切り替えた。その視線はフーリェンの背中へ。
「次だ」
「――ぁああっ……」
刃が鈍く音を立てて背骨に達したその瞬間。フーリェンの喉から、抑えきれない呻き声が漏れた。
あばらが軋み、背骨が繋がる。薬によって極限まで高められた能力で、失われたはずの部位が再構築される。
その瞬間を待っていたかのように、また刃が入る。
同じことが、繰り返される。
何度目かはもう分からなかった。
ただ一つ確かなのは、そのすべてを、アンナが目の前で見せつけられているという事実だった。
生きたまま身体を削がれ、苦痛に耐えきれず悲鳴を上げる、敬愛する人。耳を塞ぎたくなるその声が否応なく彼女の意識を引きずり込み、決して忘れられないある日の記憶へと沈ませた。
**
あれは、入隊試験の日だった。
所属軍を決めるために行われた能力テストで、自分は能力を制御できなかった。
地面が歪み、器具が軋み、周囲の視線が一斉に突き刺さる。
次の瞬間、試験官の冷たい声が合否を告げた。
ーー終わった。
そう思った。
人目を避けるように会場の隅へ行き、声を殺して泣いた。
自分の力が怖かった。
また誰かを傷つけてしまった。その事実が、何よりも。
そうやって一人しゃがみ込んで泣いていると、影が落ちた。
「その力、大変だろ」
顔を上げると、自分と対して年の変わらなさそうな、白い狐の青年が立っていた。
自分にかけられたと思われるその声は少しぶっきらぼうだったが、それでも不思議と責める響きはないことは感じられた。
「……それでも、兵士になりたいのか」
その問いかけに、堪えていた感情が一気に溢れた。
この力で家族を危険に晒してきたこと。
それでも育ててくれた人たちに報いたいこと。
誰かを傷つけるのではなく、守る側に立ちたいのだと。
泣きながら、必死に。
そんな自分の話を全てを聞き終えると、彼はしゃがみ込んだ。
目が合った。綺麗な、琥珀色の瞳だった。
「僕と、同じだ」
そう言って、彼はほんのわずかに笑った。
「いつかきっと、使えるようになる。…僕が、そうだったから」
それだけ言い残し、彼は立ち去った。
その後、不合格を告げられたはずの自分の元へ何故か王国軍入隊の書状が届いた。疑心暗鬼のまま王宮に向かった先で知ったのだ。
彼が第四軍の隊長であり、王国に数名しかいない直属護衛の一人だったということを。
**
現実に引き戻されたアンナの視界に、血に染まった床と、何度も再生を繰り返すフーリェンの身体が映り込む。
――嘘だ。
こんな形で、あなたの「努力」を使わせていいはずがない。
守ろうとする心を盾にされ、壊され続けるなんて。
そんなの、間違っている。
「やめて……!」
両の手に力がこもる。
「あなたは……っ、守るために、ここまで――!」
あの日、確かに自分は救われたのだ。
だから今度は――自分が返す番だ。
「やめてよーー!!」
喉が裂けるほどの声で、アンナは叫んだ。
その瞬間。空間が、ひしゃげて曲がった。




