第十二章 戻ってくる
「……これも違う。これは――」
閑散とした執務室で、ルカは黙々と机上に積み上げられた報告書の山と向き合っていた。
手にしているのは、書庫から持ち込ませた春先の報告書。目の前には、それ以降、南の国境沿いで目撃された異形兵についてまとめられた書類が、所狭しと並んでいる。
隊列を成していたという異形の群れの記録。
北の砦で、自身の従者が打ち倒した異形の亡骸。
解剖を行った医務官たちの見解。
オルカ領地内に姿を現した異形たち。
そして、それらを否定するかのように提出された、オルカからの公式文書。
一枚一枚に目を通すたび、胸の奥に溜まっていく違和感は、決して晴れることがなかった。
やがて、彼の視線が、ある一枚の報告書で止まる。
「地下内に実験場らしき施設を発見。……見回りの兵士と思しき男を刺殺」
フーリェンが、初めて持ち帰ってきた情報だった。
防衛区画を突破した南の密偵。新たな隣国の動きを探るため、単身で偵察へと向かった彼は、その後、異形の力を取り込んで帰還した。
血走った眼。歪に歪んだ指先。
ただ事ではない何かが、隣国で進行している――そう確信した、あの日。
一度は退けた南の軍勢。警戒はしていた。だが、まさかここまで、あっさりと奪われるとは思ってもいなかった。
彼は強かった。誰よりも戦況を把握する能力に長け、誰よりも戦場を駆け回る存在だった。
自分の弱さを、よく知っていた。それでも出来ることを探し、出来る限りのことを成し遂げようと、愚直なまでに努力していた。
――だからこそ。
やるせなさに拳を握りしめた、その時。
「坊ちゃん」
背後からかけられた声に、ルカははっとして顔を上げた。そこに立っていたのは、エレインだった。
「なんだい、エレイン」
「少し、お休みになった方がいいわ。もうずっと、その調子でしょう」
そう言われて、はたと部屋を見渡す。机の上だけでなく、床にまで散らばる紙の束を前に、思わず苦笑が漏れた。
「何かしていないと、落ち着かないんだ。それに……みんな、頑張ってくれてる」
「そうね。でも――」
彼女が一歩、距離を詰めてくる。困ったような、どう声をかけるべきか迷っているような、そんな表情だった。
「今のあなたは最高指揮官でしょう? あなたが倒れてしまったら、元も子もないわ」
さぁ、いいから座りなさい。やや強めの声と一緒に肩を押され、そのまま逆らうこともできず、ルカは長椅子に腰を下ろした。
「分かった、分かったから。……私はもう子供じゃないよ」
「あらあら。私からしたら、みんな子供よ」
「……それも、そうだね」
その言葉にエレインは満足したようにうんうんと頷くと、大きな手のひらをそっと彼の頭に置いた。金糸の髪を梳くように撫でながら、彼女は静かに言葉を続ける。
「フーちゃんも、きっと頑張ってる。あの子は怖がりだけれど……諦めない、強い子よ」
「うん。……私も、そう思うよ」
しばらくのあいだ、されるがままになっていた。やがて彼女の手が止まったのを感じて、ルカは顔を上げた。
「ねぇ、エレイン。休憩がてら……君の話を聞かせてよ」
「あら、何が聞きたいの?」
「そうだね……聞きたいことは、たくさんあるけれど……」
一つ、深く息を吸う。
「君は、全部知っていたの?」
その問いに、エレインはすぐには答えなかった。しばらく考え込むように視線を伏せ、やがて短く言う。
「……そうよ」
遠い記憶を手探るように、彼女は窓の外へと視線を向けた。
「敬愛する主を見送って、行き場もなく兵士を続けていた私にできたお友達。それが、ヘラちゃんだった」
「そんな彼女がね、大きな罪を背負うと言い出したの。抱えきれないほどの……大きな罪を」
「あの日、あの場所を一掃して……あの子を目にして、私は何も言えなかった」
淡々とした語り口だったが、その奥には、長い時間が滲んでいた。
「私はそれまで、戦うことしか出来なかった。だから、足りない頭で考えて、考えて……それでも、何をすればいいのか分からなかった」
「そうして、ようやく思いついたのが――記録を預かることだったの」
「兵士を辞めて、王都で古本屋を開いた。傍からあなたたちを見守りながら、ヘラちゃんに報告を飛ばす。それが、私のしてきたこと」
少し話しすぎちゃったかしらね。そう言って小さく笑う、眼帯をした片耳のちぎれた犬獣人の女。その横顔を前に、ルカは言葉を失った。
やがてエレインは視線を戻し、「ルカ殿下」と、仮の主の名を呼んだ。
「主の傍で、主のために剣を振るう。それが私たち獣護の誇り。フーリェンも、そうよ」
だから――と、彼女は静かに続けた。
「戻ってくるわ。あの子は、戻ってくる」
それは願いではなかった。戦場を知る者だけが口にできる、確信だった。その言葉が、まだ見ぬ彼の行方を確かにこちらへと繋いでいる気がした。




