第十二章 遠い日の約束3
「……顔色が優れませんね。もうお休みになられては?」
「あぁ……そうだな」
手渡されたカップから立ち上る湯気を、ぼんやりと見つめる。水面に揺らぐ自分の顔は、思っていた以上に酷い有様で、思わず小さく苦笑が漏れた。
「ベル。お前はどう思った?」
自身も熱い茶を口運ぶ彼へと、投げやりに問いかける。
「これが……正しいことだと思うか?」
しばしの沈黙の後、ベルトランは困ったように眉をひそめ、それから静かに口を開いた。
「俺は、あなたの直属護衛です。……いついかなる時も、あなたの味方です。あなたの選択を、尊重します」
それだけ告げると、彼はそれ以上何も言わず、机上に散らばっていた書類を淡々と片付け始めた。
その様子を横目に、カップを持ち上げ、茶を一口含む。猫舌の自分に合わせ少しだけ冷ましてから渡されたそれは、じんわりと身体を温めてくれた。
はぁ、と息が漏れる。
書類をまとめ終えた彼と目が合う。大きく伸びをしようと、腕を前に伸ばした――その時だった。
不意に、ベルトランが背後を振り返った。
そこには何もない。あるのは、簡素で、重厚な造りの扉だけだ。
彼は一言も発することなく扉の前へと歩み寄ると、躊躇いなく、それを引き開けた。
ひょこりと現れたのは、白い耳だった。
ずっと、扉の前で迷っていたのだろうか。
不自然に持ち上げられたままの右腕が、行き場を失って宙を彷徨っている。落ち着きなく揺れる白い尾に、言い知れぬ不安が過った。
「……何をしていた」
問いかけると、子狐は口を開いては閉じ、何度も言葉を探す仕草を繰り返した。やがて何かを決意したように拳を握りしめ、一歩、部屋の中へ足を踏み入れた。
「……ころ、すのか」
ぼそりと落とされたその言葉に、柄にもなく胸がざわついた。
「僕の弟を……殺すのか……っ」
次の瞬間、抑えきれずに溢れた叫びに、ベルトランが咄嗟に扉を閉めた。重い音が響き、薄暗い室内に沈黙が落ちた。
「……お前、聞いていたのか」
問い直すと、白い耳がぴくりと震えた。
「なんで、あの子を殺すんだ」
こちらの言葉は、届いていないようだった。
「あの子は、何も悪くない」
「……そうだな」
「なら、なんで……っ」
言葉に詰まる幼い声を前に、ヘラは静かに告げた。
「この国と、お前の“弟”を天秤にかけた」
「……っ――」
涙を堪え、奥歯を噛み締めるその姿に、彼女はそのまま言葉を重ねる。
「赦せとは言わない。だが、これは決定事項だ。我々はお前の弟を処分する。恨んでくれて構わない。私は――その覚悟がある」
酷なことを言っている自覚はあった。それでも、譲ることはできなかった。
だが、“兄”もまた、譲らなかった。
「……何でもします。……なんでも」
「だから、どうか……弟を、生かしてください」
お願いします。そう言って、床に額を擦りつけた子狐の姿に、胸が痛んだ。
同時に、分からなかった。
なぜ、ここまでこの子供は、あれに固執するのか。
過酷な時間を共に過ごしたからか。
情が湧くのは分かる。
だが、それだけではない。
この子狐は、あれを“異形”だと理解しているはずだ。
それなのに、どうしてこうも、迷いなく“弟”と言い切れる。
顔を上げようとしないその背に、決意が一瞬揺らぎかけた。それでも、叶えてやることはできない。
だから――言った。
「お前の弟を生かすのに、どれほどの金と労力が必要か、お前は分かるのか?」
「それを、何も持たないお前が、どう賄うと言う」
子供に向ける言葉ではない。
分かっていた。
それでも、これしか言えなかった。
どうか、折れてくれ――。
心の中で、そう願った。
しかしそんなヘラの願いが彼へと届くことはなかった。震える声で告げられた言葉に、彼女は言葉を失った。
「この顔は……この身体は、価値がある」
そう言って、子狐は立ち上がった。胸元の布を握りしめ、真っ直ぐに自身を見据える。
「僕の、この身を捧げます」
「この国の軍は……男ばかりだ。使えるでしょう?」
「……それができないなら、館に売ってください」
「あの子が生きる糧に、僕がなります」
――何を、言っている。
自分の身体を差し出す?
七つの子供が、口にしていい言葉ではない。
それなのに、彼は知っていた。
自分の身体に“価値”があることを。
『心の傷の方は……癒えるのには時間がかかりましょう』
ルエルの言葉が、脳裏を過る。
……そうか。
その瞬間、すべてを察してしまった。
同時に、彼の異常な執着の正体も。
この子供は、壊れてしまった“自分”の代わりを、あの異形に見ているのだ、と。
――結局、折れたのは自分のほうだった。
「……分かった。お前の要求を、のもう」
扉の前に立っていたベルトランが、僅かに目を見開くのが分かった。それでも彼は何も言わず、ただ事の成り行きを見守っている。そんな彼へと心の中で短く感謝を告げ、ヘラは再び子狐へと向き直った。
「お前は、身を捧げると言ったな。二言はないな?」
「……はい」
胸元を掴む小さな手が、ぎゅっと震えている。
それでも彼は目を逸らさなかった。
その覚悟の幼さと、あまりの重さに、ヘラは一度、深く息をついた。
「その言葉を、貰い受ける」
そして、続けた。
「ただし条件を変える」
一歩、距離を詰めた。
「生涯、その身を“王国のために”捧げろ」
「剣を持ち、戦場に立て。武を上げ、地位を得ろ」
「この国に忠誠を誓うなら――」
青い瞳が、真っ直ぐに子狐を射抜く。
「お前の“弟”は、生かしてやろう。私が誓う」
なんて浅はかで、なんて一方的な誓いだろうか。
拒否する権利など、はなから与えてはいないというのに。
それでも――
それが、この時の私にできた、唯一の最善策だった。
**
回想の残滓を振り払うように、ヘラは小さく息を吐いた。
「……あの日の決断を、私は悔いてはいない」
それは誰に向けるでもなく、自分自身に言い聞かせるような声音だった。
「だが――救えなかったのも、また事実だ。あの子自身を、私は救ってやれなかった」
あれだけ手を煩わせた弟は、その後すくすくと育った。何ひとつ、心配など要らぬほどに。たくさんの愛情を注がれ、強くなった。兄の意向通り、事の経緯も出自も、彼の前には伏せられた。全てを知るのは、自分と、彼の言葉を聞いたベルトランのみ。弟は何も知らない。自分が兄の献身の上に生きてきたことなど、微塵も。
何度も、諭そうとしたことはあった。引き返せなくなる前に。しかしその度彼は首を横に振った。関係が崩れてしまうことを、恐れていた。
アルフォンスの直属護衛に任命したのも、少しでも彼の心が弟から離れれば――という思いからだった。離れて過ごす時間が増えれば、不健全な依存も、過剰な執着も、少しは和らぐのではないかと考えた。
返ってそれが、あの子を引き返せないところまで追い詰めてしまうなど、思ってもいなかった。
「あの子の心は、ずっとあの日に取り残されたままだ。“兄”を演じ続けることでしか、立っていられなかった」
自嘲とも、悔恨ともつかない微かな笑みが、唇に浮かぶ。
「止めてやる機会など、いくらでもあった。それでも――好きにさせたのは、私だ」
それ以上、彼女は何も語らなかった。
部屋には静けさだけが残った。
ベルトランは何も言わなかった。慰めも肯定も、否定の言葉も口にしなかった。ただそこに立ち、彼女の言葉が終わるのを待っていた。
暖炉の火が、ぱちりと小さく音を立てる。
ヘラは再び窓の外へと視線を向けた。
夜の気配を孕んだ空の色が、ゆっくりと王都を覆い始めていた。




