第八話 旅支度
翌日の昼過ぎのこと。グラシウスは時代的に値の張りそうな本を持ってきた。
「これね、おれの一番好きな本。トクベツに読んでもいいよ」
昨日も思ったけど距離の詰め方が独特な子だ。
差し出された本を見て気がついた。見たことのない記号が並んでいる。
もしかして、これがこの世界の文字なのか? 当たり前のように言葉が通じていたので、文字についてはすっかり失念していた。まいったな…………タイトルから内容を推察することすらできない。
「ありがたいけど、俺……文字が読めないんです」
この国の識字率はわからないがおそらく高くはない。文字を伝えるには媒体が必要で、媒体を用意するには紙やインクなんかが必要になる。村の中をざっと見て回っても、学校のような施設はなかった。
その考えは正しかったようで、少年は俺の返答にあまり驚かず「じゃあさ、おれが教えたげる!」と自信満々に宣う。
そうか、読めないなら学べば良いのか。一から勉強するという発想自体抜け落ちていた。
「おれのお母さんガクシャさんでさ、文字とか色んなことおしえてくれんだ」
文字さえ読むことができれば、働き場所には困らなそうだ。もし覚えることができたら、他の子供達相手に文字の講習会でも開いてみようかな。
と、言うことで。その日の休憩時間はすべてグラシウスとの読書に費やすことにした。彼の教え方はプミナとは正反対で、とにかくなんでも褒めてくれる。どちらが良いというわけではないが、勉強会は穏やかな雰囲気のまま進んだ。
「カイトくん覚えんのはやい!」
「グラシウスくんの教え方が上手いんですよ」
というのは半分本当で半分嘘だ。実際にグラシウスの教え方は上手い。理路整然とした説明の仕方から頭がいい子なのだろうとわかった。しかし、元識字者でなければ幼児期を終えた段階でこの学習速度は叶わなかっただろう。
会話の中でわかっていた事だが、この世界の文法は日本語とほぼ同じだ。文字は日本語よりもハングルに近くパズルのような仕組みをしている。これなら数週間で覚えられそうだ。
日も沈んできた頃。グラシウスはそういえば、と前置きをしてから言った。
「おれのことグラスって呼んで良いよ」
「グラス?」
「うん。父ちゃんとカイトくんだけだから」
グラシウス……もとい、グラスは指で土をいじりながらはにかむ。前世では末っ子だったが、弟がいたらこんな感じだったのかな。
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それから大体二週間程度経ち、仕事にも勉強にも追われる充実した毎日を過ごしていた。しかし勉強は意外と難航しており、特に慣用句には日本語にないものもあって、一つひとつ覚えるのに苦労している。
しかし、努力の甲斐もあってか本の内容くらいはなんとなくでわかるようになってきた。いつかペクティアから聞いた英雄ヘロウズの冒険譚だ。その分厚い紙束全てに彼の功績がびっしりと書き連ねられているようだ。まだ三分の一も読めていない。
異常回復の謎も残ったままで、細胞が新しく生まれているのか復元されているのかもわからない。ちょっと不気味だ。でもまあ、怪我をしたそばから治るのは便利ではあるので、転生特典として受け取っておこう。
てな感じで、それ以上の事件や事故はなく、転生初日と比べれば考えられないほど平穏な毎日だ。そんな時間を享受しておきながら贅沢にも退屈を感じ始めていたときだった。
いまだに慣れない昼食後。普段であればすぐに席を立つがその日は司祭に引き留められた。窓からの日光だけ照らされた部屋の中、テーブルを中心に全員が着席している。
それぞれの手元には入れ直したばかりのお茶——フルーツみたいな香りがしてほんのり甘い——と、趣味で焼いたクッキーが並べられている。料理が楽しくなってきたのでプミナから作り方を教わったのだ。
「むぐ、これ……美味しいです」
リリスはいつもの品はどこかへやってクッキーを頬いっぱいに詰め込んだ。彼女は存外甘党で、焼き菓子の類は特に好きらしい。それを見てサケルトゥスも一口。
「紅茶とも合いますね」
何かが満たされた感覚がする。また作ろうかな……。それなりに焼きすぎたので、余った分は村の子供達にでも流そうと思っていたが、リリスの反応を見るに残らなそうだ。
「や、焼き菓子のうでばっかり……あがってる……」
「ははは。お褒めに預かり光栄です」
プミナ先輩から頂いた言葉を笑い飛ばす。明らかに何かが含まれていたが気にしないことにした。彼女の厳しい言葉にも随分と慣れてきてしまって、そろそろ飴の一つくらいはくれても良いんじゃないかと思っている。
「仕事にも慣れてきたみたいですね」
「はい、おかげさまで……」
段々と彼らとの会話も増えてきて、本当に前世よりも充実している。もしかしたらあの世界が自分に合っていなかっただけで、働くポテンシャル自体はあったんじゃないかと思ったりしている。
——おっと、だめだ。この思考は危ない。
すぐ調子に乗るのは幼少からの悪い癖だった。この悪癖のせいで何人の友人を無くし、何人から呆れられたか……忘れたわけではない。常に自制を怠ってはならない。しかし、その記憶もすでに遠い昔のものに思えた。
思考の悪循環が始まりそうで、慌てて司祭に本題を促す。
「第三季の二日、中央都へ行きます」
——というと、七月の第一週辺りか。
暦が違うと知ったのはつい最近のことだった。文字もそうだが、こっちはこっちでややこしい。確か……ええっと、第一季から第四季まであったのは覚えている。
「どうして中央都へ?」
リリスがティーカップを置き口を開いた。
「半祭日がありますから。聖女のいる教会は参加が必須なんです」
ハンンサイジツ……ハーフアニバーサリー的なものだったか。年末の五日間は祭日とされていると業務中の雑談でプミナから聞いた覚えがある。ゆえに、半年に一回は各地どこかの都が主催し祭りを行うのだとか。
「おいしー食べ物も、ある……よ」
プミナは上目遣いながら、どこか保護者のような目線で言った。
「どうしてそう小さい子扱いするんですか……」
「だ、だって……小ちゃいんだもん」
とは言うが、俺はすでに彼女の実年齢を知っている。十二歳だ。本人が言っていたのだ。確かに外見からの印象を考えれば実年齢の方が高いが、大して驚くほどではない。期待していただけに裏切られたような気持ちだった。
「とにかく……お祭りを、楽しみにしてれば、いいの…………」
「えっ」
思っても見ない言葉に驚いた。てっきり司祭達だけで行くものかと思っていたのだ。
「それって俺も行くんですか?」
「ええ。ついてきてもらいますが……」
リリスは嫌でしたか、と首を傾げた。
嫌というか……うーん……うん。嫌だ。自慢じゃないが、俺は生粋の引きこもりで、人嫌いで、空気の読めない人間だった。外は怖い。教会のすぐそばくらいなら庭だと思って歩けるが、行ったこともない遠くの街——それも栄えているらしい——となると別だ。
「カイト、ひとりで待てる……の?」
「ひとりは得意ですよ」
前世では家に一人でいる時間の方が長かったからな。
俺の答えを聞くと、プミナは哀れみの視線を向けた。その表情は自尊心が傷つくのでやめていただきたい……。別に可哀想な過去があったわけじゃない。自分で選んだ孤独なんだ。
「ですが……カイトさん、あなたを一人置いておけません」
「それはなぜ……?」
リリスは言いづらそうに表情を歪めて答えた。
「……申し上げにくいのですが、カイトさんは一人だと心配なので」
再び、自尊心にヒビの入る音がする。そりゃあ、たった二週間の労働で信頼を勝ち取ったなんて思っていないが……。身元不明の人間を一人置いていくなんてことはできないのだろう。
「疑ってる……わけじゃ、ない」
プミナがぼそっと呟いた。しかし、その慰めこそ追い討ちだ。情けない気持ちになりつつ、祭りへ同行することになった。
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半祭日まであと一週間ほど。だからといって生活は変わらず、いつもと同じようにグラスの授業を受けていた。
「えー! カイトくん中央都に行くの?」
「はい。二日間くらい」
「そっかあ、じゃあその間は遊べないんだ」
グラスは本を胸に抱え、しょんぼりと俯いた。その表情に自分まで寂しくなってくる。
「それまでにたくさん遊んでおきましょう」
「うん……!」
今度は表情を明るくして大きく頷いた。どこまでも素直で眩しい。
そういえば近頃ずっと勉強を教えてもらっているが、彼は他の子供達と遊ばなくてもいいのだろうか。貴重な時間を奪ってしまっているようで、若干心苦しい……。
その分がんばって勉強しよう、と思った。
「……そーだ! カイトくん、これあげるよ」
そう言って、黒い石のついたネックレスを渡された。
「お母さんに言ってさ、作ってもらったの」
「おお……ありがとう、大切にしますね」
グラスは満足そうに笑った。
「都はキケンだからな!」
不思議なことに、彼のその一言で一抹の不安が生まれた。今の今まで気にしていなかったが、ここは魔力が低く危険が少ない土地。ゲームで言うところのさいしょの村なのだ。
ということは、他の土地ではこの村で見たような悪魔が蔓延っている可能性がある。
死神の足音を聞きながら、俺は一週間後の俺自身へ健闘を祈った。




