魂むし
男が一人、部屋の中央に敷かれた布団の上で、横臥していた。
開け放たれた窓からは庭の様子が見える。幽かな風が、燈台の火を揺らめかせた。
月のない夜の庭は暗く、まるで別世界へ繋がってでもいるかのようだ。
その暗い庭の奥から、ぽっ……ぽわっ……と、小さな黄緑色の光が、明滅しながら部屋の中へと入ってくる。
男は起き上がろうとするが、げほげほと咳込むと、布団の上に崩れるようにして四肢を投げ出した。
――私は、死ぬのだろう。年老いた身体でこの病に打ち勝つことは、どうにもできそうにない。
男がそんな思いとともに深い溜め息をついた時、突然頭のなかに声が響いた。
――ずいぶんとしょぼくれてるねえ。
――だれだ?
仰向けに寝転がったまま視線を動かしてみるが、人影は見えない。
――おれだよ、おれ。
ふわふわと螢が飛んでやってきた。そのまま男の顔の前を飛び回っている。
――ほう、おかしなこともあったものだ。螢と会話をしているとは。
男の頬が僅かに緩んだ。
――あんた、もうすぐ死ぬんだろう?
――たぶんな。
――おれの体を貸してやろうか。
――なんだと?
――実は、おれももうすぐ死ぬんだ。おれたち虫の寿命は短いからな。おれはもう子孫も残したし、やり残したことはない。だから最後に貸してやってもいいよ。だけど、一つだけ注意しなくちゃいけない。おれの体に入っちまえば、あんたはもう二度と、自分の体には戻れない。床についたまま、あと数日生き延びるか、おれの体に入って、ほんのひとときでも自由に飛び回るか。さあ、どうするね?
男は、自分の顔の上を飛び回る小さな光をしばし見つめると、言った。
――わかった。お前の体を借りよう。
答えると同時に、男の灰色の瞳から力が消えていく。その瞳がただ一点を見据えたまま動かなくなると、男の顔の上を飛んでいた螢がぽとりと落下した。
しかし、数刻の後にはぽわっ、ぽわっ……と、再び明滅を始める。そして、羽根を広げると、暗闇の中へ飛び出していった。
女が一人、夜空を見上げていた。
月ひとつない空である。
「まだおやすみになられませんか?」
背後からの声に振り返った女の顔は、美しく整ってはいたが、すでに盛りは過ぎ、老いの影が忍び寄っていた。内裏に住み、我が世の春を謳歌しているはずの女の顔は、どこか疲れているようにも見える。
「そうね、月がのぼったら休もうかしら」
「まあ、月が昇る頃には、夜が明けてしまいましょう……」
「お前はもう下がってもいいわ」
そう言うと、女はまた視線を暗闇に彷徨わせた。
まるで誰かを待ってでもいるかのように、座ったまま、ただ何もない漆黒を、その瞳に映す。
「いろいろあったわね……」
下がろうとしていた女御が、主の声に足を止めた。
「燃えるような恋もしました。あの時、引き戻されずにあの方とどこか遠くへ逃げることができたなら……。いいえ、言ってもせんのなきこと……あっ?」
「いかがされました?」
「いいえ、今、あの方の声が聞こえたような気がしたの」
そう言い終えた瞬間、女の目が瞬いた。
「螢」
何処から迷い込んだのだろうか。螢が一匹、女の視線の先をゆらゆらと飛んでいた。
ぽつ……ぽわっ……っと、優しげな光が、ほのかにきらめき、ゆれている。
光りながら浮遊するそれは、まるで吸い寄せられるかのように女の手にとまった。
女はそうっと、おのれの手にとまった小さな光を、手のひらの中に包み込む。
「きれい。まるで、草の上の露のようね……」
そっと語りかけると、螢は女の手の中でせわしなく瞬きを繰り返した。
女の面に微笑みのようなものが浮かぶ。
しかし、消えたまま光の灯らぬ手のひらを、女がそっと開いてみれば、小さな虫はもう動かなくなっていた。
元慶四年 五月二十八日 在原業平卒




