初めの主様との約束【下】
「ようやっと見つけましたわ、はぐれ犬神」
狐が来た。
逃げないと。
逃げないと、この人が消されてしまう。
この狐は怖い狐。
”はな”にひどいことした奴と同じような衣を着ている。あの人と一緒にいた時に、あの人が”おんみょうりょうのほうし”と言った格好。
「狐だ。狐が来た。逃げないと、早く」
”はな”は主様を揺さぶる。
主様はわかっていないのか、ぼんやりと狐を見ている。
「失礼な、犬神や。蟲毒の術を途中で逃げたせいで、躾がなっとらんのかいな」
狐の言葉なんかどうでもいい。
”はな”は主様を揺さぶって、逃げようと言う。
「逃げないと。しっかり、して。主様」
逃げないと、主様は消されてしまう。
主様は警戒をしていない。
主様は自分が死んだということも、気付いていないから。
「大丈夫だ」
揺さぶって『逃げよう』と言っていた”はな”の頭を撫でる。
”はな”にもわかる。
主様はもう、あの人じゃない。
主様は生きていない。幽霊だ。
生きていないから、その手に温もりはない。
生きていないから、食べなくてもいい。
生きていないから、魚を採る必要もない。
この狐は生きてないものが京にいることを許さない。
あの人が言っていた。
『京は陰陽寮の法師が守ってるから安全だ。京を出て食べ物を探さないといけない俺らは自分で何とかしないといけないけど、京には鳥も魚もいないからな』
京の鳥は小さいし、京の魚はあの人を探している途中で初めて見かけた。
”はな”が鳥を獲る森には蛇やら烏がいて、人間が入るのを許さなかった。
あの人が魚を獲る川には人間には見えない者たちがいて、人間を川に引きずり込もうとしていたり、悪さをしようと待ち構えていた。
そんな奴らを京に入れないのが”おんみょうりょうのほうし”。
狐が生きてないものを消しているのを見たことがある。
狐が消しても、消しても、生きてないものが京からなくなることはない。
けど、狐は生きてないものを消す。
生きてない主様も消す。
「お偉い人が俺らになんの用だ?」
消しに来た狐になんていうことを言うの?!
「あんさん、死んで時間が経ってはるやろ? 祀られてもおれへんのやから、このまま留まっていたら悪霊になってしまうか、消えてしまうで」
狐に言われて、主様が悪さをする奴らになるのだと知る。
消えるくらいなら、悪さをする奴らになってしまったほうがいい。
主様は辺りを見回す。
「”はな”がいないんだ。俺は”はな”を探さないといけない。あの子は寂しがり屋だから、一人にできないんだ」
狐は持っていた扇で”はな”を示す。
「その子ならそこに」
主様もつられて”はな”を見る。
そして、首を振る。
「これじゃない。”はな”は犬だ。いくら”はな”が頭がいいと言っても、人間じゃない。ほんと、可愛い子なんだ。顔が濡れるのが嫌いで川に入りたがらなくてさー」
主様には”はな”はわからない。
”はな”が何度言っても、狐が言っても、主様は”はな”を”はな”だとわからない。
主様にとって、”はな”は・・・?
「せやから、あんさんらは京の中を彷徨っておますんやな」
「何、言ってんだ?」
「あんさんの探している犬は犬神になっとります。野犬より、貧乏人が飼うとる犬のほうが安全に手に入りよるさかい、あんさんの犬は攫われたんや。その時に殺されたあんさんはその犬を探して京の中を彷徨っとっとるんでおます」
「”はな”は可愛いいんだ。まん丸な目をしていて、いつも俺の後についてきて・・・。気付いたら、ちょこんと座って俺のこと見ているだ。俺の言うこともわかるみたいで、あいつが獲ってきた鳥も、俺が獲ってきた魚も全部食べたりしない。俺の分をちゃんと残していて・・・。ひもじくて”はな”を抱き締めて眠った時も俺の鼻を舐めてくれて、ほんと、”はな”は可愛いい」
夢見心地で”はな”のことを語るこの人はやっぱりあの人で。
同じ空腹でも、あの人に抱えられていた時は、辛くなかったと思い出す。
今は空腹にもならないし、主様に抱えられていても、”はな”がわからないのが辛い。
「あんさん、その犬を偉い、可愛がられてはったんやな」
「”はな”は可愛いいんだ、こいつみたいに」
そう言って、主様は”はな”の頭を撫でる。
「こないにも飼い主に可愛がられてたら、術者を恨んで憑くこともないわな」
「当たり前です。”はな”はあの人に会いたかったんです。一緒にいたいんです。あいつらと一緒になんかいたくない」
噛みつくように”はな”が言うと、”はな”の頭を撫で続ける主様を見ながら、狐が言う。
「可哀想にな。飼い主はあんさんやわかっとりゃしとはりません。殺されたせいやろうけど、地縛霊にもならんと京中を彷徨っとったから、魂がすり減っとります。それほど可愛かったんやろなあ」
「魂がすり減る?」
「そや。彷徨えば彷徨うほど記憶を失い、存在を失い、悪しきものになって、人間に戻れなくなりますんや」
「主様、人間に戻れるの?」
「今なら、人間に生まれ変わはることができます。せやけど、このままやったら人間どころか、生まれ変わりすらできなくなりますよって」
”はな”の頭を撫でる主様を見上げる。
あの人とよく似た表情で主様は”はな”を見ていた。
「ねえ。”はな”と会いたい?」
「会いたいなあ。”はな”、どこにいるんだろう? いくら探しても見つからないけど、どうしているんだろう?」
「主様が生まれ変わったら、”はな”は会いに行きます。会いに行くから、主様は”はな”を待っててくれますか?」
「”はな”だけか? お前はどうするんだ?」
「”はな”は・・・」
”はな”が”はな”だと言っていても、わかってくれない主様。
それでも、主様は”はな”だとわかっていなくても、”はな”のことも考えてくれている。
”はな”は言葉が見つからなかった。
「お前も会いに来たらいいだろう? ”はな”と一緒に来たらいい。俺はお前も”はな”も同じ家族と思ってる。俺はお前と”はな”の三人で暮らしたい」
”はな”のことがわからないのに、やっぱり主様はあの人だ。
温かい手も、”はな”を呼んでくれる口もなくなったけど、主様はあの人で。
あの人と一緒にいた時には出なかった滴が目から溢れる。
「犬神の寿命は長いよって、犬が来られへん時でも一人で来ます。それでもよろしおすか?」
狐は”はな”とあの人の”はな”が別々であるように言う。
「当たり前だ。”はな”もこいつもどっちも可愛いい。一人で来るのは駄目だと言ったら、可哀想だろう。何度も会いに来たらいい。俺が生まれ変わってる間、一人にするだろうけど、それ以外は一緒だ。人間は神のようには生きられないから、そうするしかないだろう?」
”はな”のことをわかってくれない、主様なのに。
主様にとって、”はな”は犬神。
それでも、あの人の”はな”と同じように主様は見てくれている。
『”はな”。生まれ変わっても、一緒だ。俺のほうが長く生きるから、”はな”を探してやるからな』
思いつかない限り、続きはありません。
相談に乗ってくださった方に感謝。