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エピローグ

エピローグ



 表向き病院の看板を掲げていない古い五階建てのビルは、しかし確かに病院で、最上階まで上るとフナン河の上流、ブランシュの橋の落ちた跡が見えた。その向こうでは今日も変わらず滝が雄壮な姿を見せている。

 マシュウは川岸のマーケットで買った新鮮な果物を手に病室へ向かった。

 橋の崩落事件以来、リーリャン・シティは大なり小なりの変化を見せた。まず市長、警察署長、ここ一帯を任されていた将軍の首が飛んだ。市長は議員に責められた末の辞任だったが、署長と将軍は自らこの地を去ることを望んだらしい。新しく市長に就いたのはまた白人だったが、西岸の開発に尽力した初期からの入植者ということで、そこまで抵抗なく迎えられている。

 橋も落ちてしまい東岸と西岸が急激に仲良くなった、ということはないが、今までよりは双方向的な交流が生まれるようになった。それに一役買っているのが秋風街や東岸の船乗り達である。河を渡るには船しか方法がなくなってしまったのだ。お蔭で商売繁盛、秋風街はその名のつけられてから初めての活気と賑わいに湧いている。爆破テロを免れたリンチュウと華街はいつもの顔をして生活しているが、しかし東岸で採れる果物や米野菜、魚介類がなければ今日の夕飯も食べることができない。船は山のような野菜や果物を積んで、流れの複雑な河を日に何度も往復する。

 東岸は以前から活気はあったが、特にその目には生気が戻ったようだとポピーは言った。その輝く瞳を誰に見たのかは、朝方キスマークだらけで帰ってきた姿に敢えて詳しく問うていない。しかし東岸の人間自身も、そして西岸もそれを感じているのだろう。最近の議題では、橋の復旧の他、半壊したまま放置されてきた王宮の補修の話も上がっているらしい。

 西岸は西岸で、戦中戦後の姿のまま見て見ぬふりをしてきたクーイーを少しずつ建て直している。バラックのつぎはぎの街をもう一度、きちんとした街の姿にしようと言うのだ。聞いた話では、以前は木と藁で出来た家々だったために全て焼失してしまったという。

「じゃあ今度こそ煉瓦の家に?」

「いいや、木と藁の家でしょうな」

「燃えやすいし壊れやすいと分かってるじゃないか」

「燃やさなきゃいいんですよ。壊れたところは修理すりゃいい。そういう考え方なんです」

 船着き場を中心に所々現れた藁で出来た屋根は、それまで真っ黒な蟻が犇めいていたようなクーイーを人の住む場所だと教えてくれる。今ではマシュウも、そこに人の営みがあることを想像することができる。

 ドアをノックすると、小さく返事が聞こえた。

「入るぞ」

 声をかけるとベッドの上に横たわった赤毛の男は、やあ、と力無い返事をした。包帯だらけだが大した傷はない。奇跡だと医者は言った。記憶の方はと言うと全てを思い出した訳ではない。過去の出来事は混濁し、特に爆発前後のことは全く覚えていなかった。しかし自分がジャック・マゼラティという人間であるということはもう自覚している。目の前にいるのがマシュウ・ベーゼンドルファーであることも。これは、教えられたからなのだが。

「今日は元気そうじゃないか、死に損ない」

 ジャックはあまり喋らない。昔はあれほどお喋りだったのに。

 マシュウはベッド脇の椅子に腰掛け、勝手に続けた。

「マンゴーだ、食べるか? よく熟れている」

 初対面のように、最初から関係を築くことになっても構わない、とマシュウは決意していた。この街についた時は見つかればいいと思っていた。一緒に故郷へ帰れると決めつけていた。しかし今は違う。生きて、そばにいてくれるだけでいい。ジャックがいれば、自分はそこから幸せを作り出すことができる。ただの日常生活、食事にも。マンゴーの一切れにも。

 皮を剥いたマンゴーを一切れ差し出すと、ジャックがぽかんと口を開けて自分を見ていた。

「マシュウ…」

「食べないのか?」

「マシュウ」

 包帯を巻かれた右手がマシュウの腕を掴む。急なことに取り落とされたマンゴーがシーツの上で染みを作った。

「ジャック?」

「マシュウ。マシュウ・ベーゼンドルファー」

「ああ…そうだ」

「こっちに着任した日、オレは誕生日だった。十六になった。お前を見つけて写真を撮った。カメラマンに撮ってもらおうとしたんだけど、写真はお前が撮ったんだ。お前がシャッターを切った」

 ひゅっと息を飲み、マシュウは相手の顔を見つめた。

 ジャックの口からは言葉がこぼれ続けた。

「最初の作戦の時、オレは手榴弾の使い方をドジった。火傷をして医療テントに運ばれた。オレは自分が死ぬかもしれないと思って泣いたんだけど、そこへあんたがやって来て言ったんだ」

「…よう、死に損ない」

「元気そうじゃないか、って…」

 ブルーアイズがきらきらと輝き出す。

「オレは途端に痛みなんか忘れた。そりゃそうだ、お前が目の前にいるんだもん、マシュウ。オレはずっとお前に会いたかったんだぜ、マシュウ!」

「ジャッ…ク…」

 両手が力強くマシュウの手を掴む。

「ずっと会いたかった。お前のことを忘れても、オレはお前に会いたかった」

「ジャック、オレは…」

 マシュウが俯くとジャックの顔が近づいてくる。親愛のこもった仕草で額がすり寄せられた。サングラスの奥の瞳を覗き込み、ジャックは笑いながらひそひそ声で言う。何だよマシュウ、泣いてるのか…?

 ジャックの両手に、マシュウはそっと自分の手を重ねた。

「愛しているよ」

 震える声が言った。彼は繰り返した。

「オレも愛してると、伝えたかった。ずっと。もうずっと七年間も」

「ごめんな待たせて」

 ただいま、マシュウ。

 頬を掠めるキスをし、ジャックが囁いた。

「お帰り、ジャック」

 泣き笑いになったマシュウがいよいよ俯くので、ジャックは腕を伸ばしてその身体を抱きしめた。胸の中でマシュウが泣くのが分かった。七年分の涙がパジャマを濡らす。

「ただいま、マシュウ。マシュウ…」

 ジャックは傷だらけの手でマシュウを強く抱擁した。


          *


「そんな訳でハッピーエンドらしいですな」

 壁につけた耳を離し、ポピーが言った。

「こいつらこのままおっぱじめないだろうな」

 ロータスがこれでもかというほど眉間の皺を深くして吐き捨てる。

「その時、あたしは逃げますんで」

「卑怯者、不人情者め」

「いやだって足を骨折したのも腕を撃たれたのも更に折ったのも全部社長ご自身のヘマですし」

「知ってるよ分かってるよ理解してるし自覚してるよ。ただな、怪我人に鞭打つな」

 雨乞い祭りの日。河に落ちた二人は、潮の変わり目で流れも穏やかだったため奇跡的に――医者は女神の戻られたご加護と表現した――助かったのだ。

 ロータスはベッドの上、骨折した両足を吊られ、片腕を固定されている。彼自身が言ったとおり、全ての幸運をジャックに与えてしまったかのように。唯一自由になるのがジャックに撃たれた右腕だというのが皮肉だった。

「あ、やばい。下らんことを言ってたら更に痛くなった」

「普通痛みが紛れるもんでしょうに。ひねくれてますなあ、あんたは」

「お前、もう少しいたわれよ。長年の相棒だぞ。社長だぞオレは」

「あたしに優しくされたいんですかい」

 ポピーは窓を開けると葉巻に火を点け、やれやれと肩を竦めた。

 じっとりとした目でロータスはそれを見る。

「いつの間に上等なものを吸うようになりやがって」

「BBCのヒゲからの差し入れですよ。社長にって」

「オレのじゃないか!」

「だからどうぞ」

 ポピーは自分の吸っていたそれをロータスの唇に押しつける。ロータスは仕方なくそれをふかした。

「早いとこ元気になってくださいよ社長。ここの入院費も嵩んで大変なんですから」

「報酬があるからしばらくは安泰だろ」

「何をのんきなことをおっしゃる! 滞納してた家賃に電気代にガス代、復活させた電話の代金、かかった経費とあんたの怪我の治療費と入院費でほとんど飛びましたがな」

「その経費にお前の娼窟通いを含めちゃいないだろうな」

「経費です」

「ポピー、いつか髪の毛のなくなったその頭の皮も剥いでやるからそう思え」

「聞いた端から忘れましたよ」

 ジーザス、と呟き枕に頭を落とすと、信じちゃいないんでしょうに、と新しい葉巻に火を点けてポピーが笑った。

 河を渡る風は、雨も上がり夏の匂いを含ませている。マシュウが依頼を持ち込んだのが去年のクリスマス・イヴ。実に長丁場だった。社の命運、街の存亡、市民の命までもを賭けた事件に発展してしまった。それでも彼らロータス旅行社の仕事は一つだけ。

 マシュウ・ベーゼンドルファーの元へジャック・マゼラティを連れ戻すこと。

 それは今、完了したのだ。

「…灰が落ちる」

 ロータスが呟き、ポピーはその唇から短くなった葉巻を取り上げた。

「ジャックはあなたのことをあまり覚えていないらしい」

「へえ」

「浜辺に打ち上げられたあなたはしっかり彼の手を握ってましたよ」

「ふうん」

「損な役回りですな」

「何が」

「気があったんでしょう」

「んな訳あるかよ」

「ロータス」

 ポピーの呼ぶ声。溺れそうな時、橋から落ちそうになった時も呼んでくれた。

 ロータスは首を捻って光り輝く見慣れたハゲ頭を見た。ポピーは窓から葉巻を投げ棄てると、そろそろ行きます、と言った。

「隣の気配があやしくなってきたんで」

「オレを置いていくな、おい、ポピー!」

「忘れてなきゃ夕飯を持って来ますよ」

 おっとその前に、とドアの前からムーンウォークでベッドまで戻った。

「ボーナスです」

 胸の上に小さな包みが置かれた。掌に収まるほどの小さな包み。

「遅くなったクリスマスプレゼントというか。ずっと欲しがってたろう?」

「…何?」

「開けてからのお楽しみ」

 ポピーは、それじゃロータス、また後で、と手を振ってドアの向こうに消えた。

 ロータスはしばらくドアを見つめていたが、ふっと息を吐いた。

 取り敢えず隣のあやしげな雰囲気とやらは極力気にかけないようにしつつ、右手だけで包みを開ける。包装紙でさえない、油紙に包まれたそれはころんとロータスの胸の上に転がった。

 スノーボールだ。

 小さな土台の上に水の詰まったガラス球。中央には小さなエッフェル塔の模型が立っていて、今胸に倒れ込んできた時の衝撃で浮かび上がった作り物の雪がふわふわと降り注いでいた。ロータスはそれを取り上げると目の前でくるくると回転させた。ガラス球の中のエッフェル塔に降る、白い雪。既に夏の暑さが近づいてきた部屋の中でも決して溶けない。

 ロータスは何度も何度も雪を降らせる。

「雪はいいとして」

 くしゃりと顔を歪める。

「…別にパリは好きじゃねえよ」

 誰もいない、雪降る小さな世界に呟きながら、しかしロータスはこっそりと堪えきれない笑みをこぼした。

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