第五章
1
リンチュウの明かりが落ち、華街のざわめきもおさまるとリーリャン・シティにも夜の闇が訪れる。ポピーは郊外に停めていたトラックを発進させた。パトロールを横目にリンチュウを通り過ぎる。目指すはブランシュの橋だ。基本的に夜間の通行を禁止しているが、完全にという訳ではない。抜け道はあるものである。
ゲートに立っているのは老いた警官だった。たっぷりとたくわえた白いヒゲで口から頬の傷を隠した男。白い鰐とあだ名される古株の警官だ。ポピーは落ち着いてトラックを停める。窓から顔を出すと、老警官が近づいてきた。その手に色を付けた通行料を渡す。
「野暮用で」
「野暮用じゃあ通せねえよ。もちっとマシな言い訳を考えろ」
白い鰐は顔をしかめる。ヒゲの中で傷が歪む。
「分かってますよ。明日の祭りで使う花を届けに行くんでさ。上流まで取りに行ったらすっかり遅くなっちまった。今持っていかないと朝には咲いちまうんでね」
荷台にまわると、確かに幌の下は蓮の蕾と葉で一杯だ。
ポピーは戻ってきた警官に葉巻を勧めた。二人はしばし一服した。
「お前んとこの蓮の花はどうした」
老警官はトラックにもたれかかり、尋ねる。
「枯れちゃいません。日の昇る岸に咲いてます」
「また面倒なことに首ぃ突っ込んだんだろ」
「些かに」
「生きてたら、また俺のとこに顔出すように言ってくれ」
「伝えましょう。白い鰐が心配してたってね」
「心配なんざしちゃねえ」
太い足でタイヤを蹴り、老警官はゲートを開けた。
「俺のいる間に戻れ」
「アイ・サー」
橋の半ばに至り、トラックはスピードを落とす。
花が揺れ、荷台から素早く人影が下りた。マシュウだ。背負ったリュックの中には血濡れの槍からくすねたダイナマイトが詰まっている。先日ポピーが盗み出した。全く、人を盗み出すより簡単だった。
橋桁に設置する分は中央だけだ。夜間で、ゲートから距離があるとはいえ見通しのよい場所での作業になる。本来ならばポピーが担当した方がいい役回りだったが、夜のゲートを通過するにはマシュウよりもポピーが顔が利く。ポピーは彼を信じて任せることにした。
「あんたと、あんたの愛する人の命もかかった爆弾です」
そう言って手渡すと、マシュウは神妙に頷いた。
マシュウを下ろしたトラックは再び元のスピードで走り始める。静かな夜だった。滝の音は変わらず耳を打つが、しかし河の流れが静かなのをポピーは感じた。この音、この水の匂い。今頃、秋風街名うての船頭達がこっそりと船を上流に走らせ、この橋に近づいているはずだ。それに西岸の砂岩の山を切り開いた岩登りの名手達も。彼らが橋脚、アーチ材にダイナマイトを仕掛ける。
橋を全て落とすには綿密な計算が必要だ。急ぎながらもそれをやってくれたのはマシュウだった。配置図を見せられたポピーはそれで頷いた。計算はよく分からないが、彼の勘は橋の落ちる姿を見た。
西岸のゲートに通行証と袖の下を渡し、旧市街に入る。一軒のホテルの中庭に明かりが焚かれていた。ポピーはトラックを停める。
「待ってたよ、って言うか待ちくたびれたよ」
門の前にシャルパンティエが立っていた。民族衣装に身を包んだその姿は東岸の人間というより、リーリャン・シティに観光に来ておだてられるままに衣装を買わされたフランス人観光客といった体だ。しかし似合っていた。
「首尾はどうだ」
「みんなすっごくテンション高い。僕は口も態度も軽いけど、あの人達は違うね。彼女が帰ってきた途端に一致団結だよ。正直恐いくらい」
中庭には大きな御輿が置かれていた。明日の雨乞い祭りで旧市街を練り歩く御輿だ。トラックで運ばれた蓮は葉だけを残し、蕾は全てこの御輿に飾られる。
長居は無用だ。ポピーはトラックに戻る。
「お姫様によろしく言っといてくれ」
「もうお姫様じゃないよ」
後ろからついてきたシャルパンティエが言った。
その声が彼にしては力無いので振り返ると、シャルパンティエは眉をハの字に下げて笑った。
「女王様なんだ」
「ああ…そうか」
「フラれちゃった」
シャルパンティエは懐から葉巻を取りだし火を点けようとしてやめた。
「もう会わせてもくれないんだ」
「…女なんか星の数だろう」
「でも月は一つしかないよ」
「ロミオがしょげるな」
うっかり励ますと、へへへ、と照れたように笑う。
名残惜しそうに手を振るシャルパンティエをバックミラーの中に眺め、ポピーは元来た道を引き返す。旧市街は確かに静かだった。穏やかささえ感じられた。夜空を背に半壊した丘の上の王宮が見える。十年以上無人のまま放置された。王の住まい。もしもあれが完璧な姿で、そして灯がともれば、それは美しかったろう。先祖代々この地に住む者にとって王宮とは神の降り立つ建物だった。その絆が断たれて十年、失われたはずのものが帰ってきた。王の血を引く巫女、十二番目の姫君、この国のために戦った銀の虎。
東岸の人間の胸には灯が戻ってきたのだ。
「甘い。甘いな…」
ポピーは独りごちた。誰も死ななければ、と思ったのだった。それは不可能だと経験も本能も語っている。彼はいつだって犠牲があることを前提に作戦を進めてきたのだ。それがロータスであれ。
再びゲートを通り、ブランシュの橋を渡る。スピードを緩めた橋半ばで、荷台が揺れた。それから、拳骨でノックする音。マシュウは無事乗り込んだようだ。
明日にはこれも落ちる。西岸と東岸を結ぶ唯一の橋。ある意味、河以上に二つの岸を隔ててきた橋。滝を背景に輝く白い虹。
老警官に礼を言い、トラックはゲートを抜けた。事務所に戻ったポピーは、社長の机の上に乗せていた起爆リモコンを取り上げた。これで逃げ出す最後のチャンスは失った。ダイスはもう幸運の女神の手に握り込まれている。
「最後の夜かもしれないんだな」
ソファの上に寝転がったマシュウが言った。
「まさか」
ポピーは闇の中、見えているのか見えていないのか分からないマシュウに向かって柔和に微笑みかけた。
「そんなことありませんよ」
そんなことにさせはしないさ、あたしらはロータス旅行社なんだ。
その矜恃はポピーの微笑みを本物にした。
2
冷たい水の中を泳いでいる。水は真っ黒で冷たい上に、ひどく重かった。
大粒の雨が水面を打つ。少年は息苦しさに喘ぐ。
これを泳いで、オレは逃げなければならない。河を渡って南へ、南へ向かって。
しかし一掻きごとに水は手足にまとわりつく。波間から生まれる無数の手が少年に絡みつき、彼を沈めようとする。底のない河へ、暗い暗い水の中へ永遠に…。
死ねない。オレは死ねない。オレは南へ逃げなければならないのだ。
何のために?
「自分のためだ、ニムファ」
声がする。手を掴まれ、引き上げられる。
波間から顔を出した少年は大きく息をした。水を吐き、空気を貪る。
「分からない」
暗い水面に問いを投げると、手は力強く少年を導いた。
「自分のために、自分の命を生きるのだ」
「そんなことは命令されていない」
「命令をするのはお前だ。お前の命がお前に命令するのだ」
「そんなものは聞こえない」
「聞こえている!」
少年は必死に藻掻いている。その声をもっとよく聞こうと、腕で掻き、足を蹴る。
暗い水の中を少年の身体がじわじわと進む。
聞こえているさ、と声は言う。
「この手を離すな。必ず辿り着ける。俺とお前なら、ニムファ」
オレの名前はニムファ。
河を渡る。黒い水の中を泳ぐ。
「お前は…誰だ」
大きな波が少年に襲いかかった。細い身体はまた水中に飲み込まれる。
少年は叫ぶ。真っ暗な水の中で、声を限りに叫ぶ。大きな気泡がごぼごぼと立ち上る。
泳げ、泳げ、泳げ。
進め、進め、進め。
南へ、南へ向かって。
泳ぎ続けろ、この手を離すな…!
「シュリー」
肩を揺さぶられ、ロータスはパッと瞼を開いた。
息苦しい。熱い息。
「大丈夫か、おいシュリー」
アル・ナスルの声だ。これが現実なんだ。ロータスは心臓を落ち着かせる。息苦しいのは、拳を握った手が口元を塞いでいるからだ。
「ああ…」
しわがれた声でロータスは答えた。
「大丈夫だ……」
「うなされてたぞ」
「うん、悪い夢…嫌な夢を見ていた」
「緊張しているのか」
アル・ナスルの腕が抱え起こす。
「酒。昨夜の残りだ。飲め」
飲みたくはなかったが、勧められるままに一口含んだ。アルコールが一瞬記憶を霞ませる。痛みに膜を張る。
「…ありがとう」
茶碗を返す。
「もうちょっと飲んでもいいんだぜ」
ロータスは首を振る。
「気持ちが悪いんだ」
「昨夜は大して飲んでないのにな」
その時、思いがけず強い力がロータスの背に触れた。アル・ナスルの手が背中をごしごし撫でているのだった。
普通なら触れられただけで反射的に身体が強張るのだが、ロータスはおとなしくアル・ナスルの手を受け入れた。身体がすっかりひえて冷たくなっていた。骨の芯まで冷たい。アル・ナスルの手からは力強さと体温が伝わってきた。熱いほどの手だった。
「ありがとう、アル・ナスル」
ロータスはアル・ナスルの腕に手を置き、安心させるように笑った。
「大丈夫だ。大したことはない」
「本当か。今日は大事な日だ。お前がそんなだとオレも困るんだぜ?」
「本当に大丈夫。ただの…夢だ」
昔の夢。十年も前の、少年だった頃の夢。ただの記憶だ。
ロータスは伸びをし、わざと身体を掻いた。
「顔を洗いたい。河に行こう。それとも、まだ早いか?」
「いいや、オレもお前を起こして行くところだった」
立ち上がると少し足が震えていた。アル・ナスルが心配半分からかい半分でおぶってやろうかと言うのを丁重にに断り――つまりその尻に蹴りを入れ――二人は河へ向かった。
「お前と打ち解けた時も早い朝だった」
ロータスはまだ暗い石段を下りながら思い出す。アル・ナスルは早速服を脱ぎ捨てながら答えた。
「いつもお前がついて来るから、監視されてるみたいで嫌だったんだ。特にあの朝は、前の日西岸でカーチェイスをした興奮が残ってて、一人でじっくり味わいたかった。でもお前は来た。不思議な気持ちだったよ。オレはお前が来たらもっと嬉しくなったんだ。…ボスはよくオレに言った。仲間は大切だ。信じ合うことは大事だって。オレはボスさえ信じていればそれでよかった。だけどあの朝、オレにもとうとう仲間ができたんだ」
来ないか、とアル・ナスルは河の中から手を差し伸べた。
ロータスはシャツを脱ぎ、背中を早朝の空気に晒した。ひやりと涼しく、気持ちのいい風が背中を撫でた。河の流れは穏やかだ。顔を洗い、汗まみれの身体を洗うと生き返るような心地になる。
「シュリー」
アル・ナスルが呼ぶ。腕が伸びて力強くロータスの身体を抱きしめた。ロータスは慌てはしなかった。
「何だよ」
「オレは先頭を務めることになった。昨夜決まった」
「怖いのか?」
アル・ナスルは首を横に振り、シュリー、と祈るように呼んだ。
「お前の幸運をオレにくれ。今日の作戦は何がなんでも成功させてみせる。成功させなきゃならないんだ」
絞り出すような声。黒いマリアの彫られた背中に伝わる掌の熱。ロータスも腕を回し、自分を抱きしめる男の背中を軽く叩いた。
「オレの幸運は全部お前にやるさ。とことんまで付き合ってやる」
「シュリー」
腕をほどきアル・ナスルは言った。
「仲間と呼べるのはお前だけだと思っていた。でも、オレはお前をこう呼んでもいいんだろう。友、と」
心臓と目の奥が同時に熱くなった。ロータスは歯を食いしばった。
アル・ナスルは静かに強く言った。
「オレはお前を信じる」
ロータスは黙って頷いた。本当は両手で水をかけてやりたいような気分だった。照れから。喜びから。絶望から。死ぬかもしれない運命を目の前にして、最後に与えられた希望があまりにも嬉しく、たまらない気持ちだった。涸れたと思っていた涙が滲むほどに。
夜明けが近づき、海から河口にかけて深いグラデーションの紫に染まる。二人は仄明かりの中で正面から見つめ合い、拳をぶつけ合わせた。
*
夜が明けると雨乞いの祭りが始まる。
旧市街の通りには遠くから運ばれてきた貴重な花が撒かれ、その上を御輿がしずしずと移動する。最前列の女装した童子が花や紙を撒き、続いて女神の像を据えた御輿。その後を更に長い行列が続く。行列の人間それぞれが神官や巫女、神に仕える神獣を表す衣装を着ていた。
御輿は夜が明けると宮殿に上った。そこで雨雲の来る時期や方向を占い、得たお告げや恵みを下町に分け与えるのである。観光色も強い春祭りとは性格の違う祭りだが、今年は更に厳粛な雰囲気が漂っていた。御輿を担ぐ者、通りの両脇に控える下町の民達も真剣そのもので、古い礼儀にのっとり女神の姿を迎えた。
最後尾を歩くのはシャルル・シャルパンティエだ。頭には羽を二、三枚差している。一応、鳥の扮装だった。彼は首を伸ばして前方を眺めたが、長身の彼にも御輿の女神は見えなかった。本当に長い行列だ。周囲が内に期待を秘める中、シャルパンティエだけがテンションを下げている。下がりっぱなしだった。何事も存分に楽しむのはシャルパンティエの自称長所、周囲からはいい加減と呼ばれるが、彼なりの美徳だった。しかし、今はつまらなそうにだらだらと歩くだけ。
「ちぇ」
舌打ちをすると、目の前を歩く男が物凄い勢いで振り向き、怒りを露わにして睨みつける。
シャルパンティエは慌てて謝った。
「ごめん、ごめんってば」
その時、先頭から行列に逆行して向かってくる人影があった。小柄な人影。
飯屋でボーイをしていた、銀の虎の下男。
「白いお方」
男は膝をつき、かしこまって言った。
「来よ、とおおせです」
「え…僕が?」
シャルパンティエが自分を指さすと、はい、と男は答える。
「御神輿まで」
「お急ぎを」
同じように最後尾を歩いていた者達は目を剥いた。更にシャルパンティエが止まった御輿の前まで来ると、行列の神官、巫女役も、通りの両脇に侍る者達も、皆がいっせいに目を剥いた。シャルパンティエは御輿の前に跪く。
やおら、女神の腕が動いた。隣に控えた男が何か言おうとしたが、それを制する。
「面を上げよ。近う寄れ」
女神の姿をした銀の虎は言った。低く、耳の底を撫でるような声だ。
十年前、王宮を破壊する爆発に巻き込まれ彼女は聴力を失ったはずだ。しかし今、彼女は一音一音、しっかりと発音した。シャルパンティエはそれを初めて耳にした。顔を上げると、金銀に飾られた指先が御輿の上にくるよう誘う。周囲はギョッとしたが、シャルパンティエは言われるままその足下まで寄った。
女神の手は跪いたシャルパンティエの頭から鳥の羽を抜き取った。
「なにゆえ、このような格好をしているのだ?」
シャルパンティエが肩を竦めると、鋭い爪が無精髭の生えた顎を掴む。
「わたしをエスコートするのだろう? おまえはそう言った」
虎のように獰猛な、しかし美しい笑みがその顔に広がる。
「約束は果たしてもらわなければ、白い肌のシュヴァリエ」
シャルパンティエはその手を取り、軽く接吻して答えた。
「おおせのままに、プランセス」
*
徐々に日が傾く。ロータスは腕の時計を見た。もうすぐリンチュウのパトロールが手薄になる時間帯、出発の時刻だ。
ロータスは白いシャツに飾り帯、そして腰にリボルバーを差して用意された車に向かった。事務所に置いてきたはずのリボルバーを届けたのは、例の娼婦だった。祭りの人混みの中でそっと懐に差し入れられた。彼女はもう何も言わなかった。ロータスも何も求めなかった。聞くべき言葉は全て得た。やるべきことは分かっている。
車の前にはアル・ナスルが待っていた。
「行こう」
アル・ナスルが拳を突き出す。
「ああ」
ロータスはそれに自分の拳をぶつけた。
ぶつかり合ったその瞬間を永遠のように感じた。その一瞬の夢想から目覚め、ロータスは遥かに見えるブランシュの橋を強い眼差しで見つめた。
3
旧市街の大通りのど真ん中には御輿が据えられていた。御輿の上に座る女神姿の女は橋に背を向け、微動だにしない。彼女に付き従う行列も同様に。血濡れの槍の車は道に敷き詰められた花を踏みしだきつつも、御輿を避けてブランシュの橋へ向かう。
ロータスも女神を横目に通り過ぎた。御輿の脇にシャルパンティエに似た姿が控えていたように見えた。一瞬のことで判断はつかなかった。彼の視線は橋に、その先の水晶の都にある。
車は続々と集まって隊列をなす。トラックの荷台にぎゅうぎゅう詰めに乗った男達。車から溢れ出し、歩いて橋を目指す男達。その先頭を行くのがロータスとアル・ナスルの乗った車だった。アル・ナスルは手にしたトランシーバーからボスの命令が聞こえるのを待っていた。
橋のたもとが近づく。本来ならば渡してあるはずの木製のゲートは橋番が交代した時のまま開け放されており、警官の姿もない。
「幸先がいいな…」
アル・ナスルは呟いたが、その時トランシーバーが大声を上げた。
『罠だ!』
叫ぶ声が聞こえた。西岸に潜り込んでいた偵察だ。
『来るな、来ないでくれボス! 奴ら待ち構えてやがる、鉄砲を持って、オレ達を血祭りに上げる気だ、こいつら…こいつらは……!』
声はそこで途切れた。
アル・ナスルは鋭い瞳で前方の橋を見つめ、トランシーバーに口を当てる。
「ボス」
『こうなることは分かっていた』
ボスの落ち着ききった声が聞こえた。石のように重く、耳に残る声。
『だが我々は止まることはできない。行け、アル・ナスル』
命令が車内に響く。
『先陣を切れ。奴らを薙ぎ払い、道を作れ』
「分かった、ボス」
「アル!」
ロータスは声を上げたが、アル・ナスルの青い瞳もボスの声と同じように惑い一つなくじっと前を見つめ動かなかった。
「言っただろう。オレには恐れるものは何もない」
その目はロータスを見なかった。彼は溜息を飲み込み、静かにアクセルを踏んだ。アル・ナスルはトランシーバーに向かって言う。
『行くぞ、ボス。見ていてくれ』
長い橋をロータスの運転する車はゆっくり渡る。
橋の上に来ると、昨日まで赤い夕陽に照らされていた夕景が今日はやけに濁っているのが分かった。静かな河の流れ。灰色の水面。空に雲が蔓延っているのだ。重たく暗い灰色に染まった雲。
「お前はオレのこと、信じてくれるんだよな」
ロータスは呟いた。
「ああ」
アル・ナスルも返事をする。ロータスは頷いた。
「オレもお前のことを信じている。だから最後に聞いてほしいことがある」
「何だ?」
「お前のこと。お前の宝のこと。お前が取り戻したいと望んだものの全て」
ちらりと助手席を見ると、青い瞳が横目に自分を見ているのが分かった。
ロータスは一つ息を吸い、淀まぬ声で言った。
「お前の本当の名前はジャック・マゼラティだ」
「……は?」
「フランス南西部の国境に近い街で生まれ、パリで育った。400アパートの442号室。お前は隣の部屋に住む十歳年上の男を兄のように慕っていた。戦争が始まって彼がこの国まで飛ばされた時、年齢を偽り志願兵になってまで同じ土地にやってきた」
「何の話…をして…」
「終戦からの三年間は北部捕虜収容所にいた。七年前の五月二日、捕虜解放の日、お前の慕っていた男は列車に乗った。お前は次の便だった。お前は彼に腕のタトゥーを見せた。そいつに愛を告白したんだ」
「…黙れ…」
「五月三日、雨の中走る列車はボスの率いる白い槍に襲撃され、乗っていた捕虜の多くが死んだ。お前は全ての記憶を失い、雨の中で目覚めた」
「黙れシュリー!」
「お前の宝の名を教えてやる」
ロータスはブレーキを踏んだ。車は橋の真ん中にさしかかっていた。エンジンを切り、ロータスは外へ出る。
「戻れ! シュリー、車を動かせ。オレ達は橋の向こうへ行くんだ」
追いかけるように彼も車を降りる。
汚れた長い赤毛。白い肌はすっかり日焼けをしている。齢を重ね、伸びた身長と鍛えられた肉体。しかし変わらないものが一つ。
ロータスは飾り帯を解き、そこに隠し持っていた写真を放った。
「見ろよ」
男は手の中の写真を見る。青い瞳で。写真の中の少年は満面の笑みを浮かべ、カメラのこちら側にVサインを向けている。
美しいブルーアイズ。
「お前の愛する男がこの写真を撮った。名前はマシュウ・ベーゼンドルファー」
ロータスは腕の、男がタトゥーを入れたのと同じ箇所をつつく。
「Mだ。マシュウ。お前の宝、お前の心臓の名前さ」
「貴様ぁっ!」
男は手にした銃をロータスに向けた。
「貴様は何者だ!言え!」
「オレはお前を連れ戻すよう依頼された。そのマシュウからな」
「オレ…を…、オレを騙したのか!」
銃声。
後続の車は離れたところで停まり、遠巻きに二人を見守っていた。ロータスは倒れなかった。シャツの腕にじわじわと血が滲む。
「オレはお前を仲間だと…友だと思った。それを貴様は! 貴様は…っ!」
「…ほら。見ろ、ジャック」
「オレはアル・ナスルだ…」
ロータスは西岸側に目を向けた。
一台のジープが橋の中央に停まった。
「あれがオレの依頼人。マシュウ・ベーゼンドルファーだ」
ジープから降りてきた男はサングラスを取り去り、こちらを見る。
ジャック、と小さな声が呼ぶ。
「違う、オレは…!」
「オレの言ったことを思い出せ。大丈夫だ、何もかも上手くいく。お前は何も失ったりはしない。恐れるものは何もないと言ったじゃないか。怖がるなよ」
車の中ではトランシーバーががなりを上げる。
『突撃だ! 突撃しろ!』
背後で停止していた筈の一団がざわりと蠢く。
ロータスはマシュウを見た。呆然とするなよ? もう目の前にいるんだ。ここにはオレ達だけ、いや、お前達だけだ。今度こそその手を掴め、そして離すな。
少なくとも運びやすくはしてやるさ。
ロータスは腰に差したリボルバーに手を伸ばした。反射的に男はロータスを撃とうとした。今度こそ身体の中心を。心臓を狙って。それは彼が何千回と繰り返してきた動作だった。心より先に動く肉体を、彼自身も止めることができなかった。
「シュリー!」
ロータスが銃を抜くより早く。
男がロータスを撃つより早く。
閃光が走った。
4
上空を黒雲に覆われた旧市街は音もなく異様な熱気に満ちていた。御輿を先頭とした祭りの行列。それとは逆方向へ向かう爆弾を積んだ車と人間の群れ。黙々と行進していたはずのそれらは完全に静止していた。
誰も、囁き声さえ発さなかった。しかし皮膚のすぐ下まで煮え立つ思いが湧き上がっていた。
ボスと呼ばれる男は、大量のダイナマイトを積んだトラックに乗っていた。数台を置いて目の前には女神の載った御輿が据えられていた。
トランシーバーから聞こえてくる声に耳を澄ます。アル・ナスルの声を彼は待っていた。アル・ナスルの最後の雄叫び、車に積まれた爆弾が炎を上げ西岸で待ち構える警官達を飲み込むその音を、断末魔が聞こえてくるのを待っていた。
それこそが鬨の声になる。その轟音をこそ合図に血濡れの槍は全身をもち全霊を賭けてあの水晶の塔に突きたてられる。彼自身もまた刃となって橋を渡り、この身でもってあの輝くビルを砕いてやる。その時を待っていた。彼もまた死は恐れていない。
だがトランシーバーから聞こえてくるのは奇妙な言葉だった。
シュリーの声だ。
『お前の本当の名前はジャック・マゼラティだ』
アル・ナスルが叫び、否定する。二人の声が遠ざかる。そして聞こえなくなった。ボスは窓から身体を乗り出した。橋の様子は見えない。何をやっている。あいつらは何を喋っているんだ。何をしているんだ! その時背後からどよめきが広がった。ボスは止められるのも聞かずに背後に身体をよじる。
「繰り返す! 武器を捨てて投降しろ。さもなくば撃つ」
「軍です!」
後部から走ってきた男が言った。トランシーバーも叫んでいた。
『軍がこっちに銃を向けてやがる!』
「挟み撃ちだったんだ、ボス!」
待ち伏せられるのは予測できたことだった。しかし血濡れの槍には、この作戦に参加する者には決意があった。必ずやり遂げる。あの水晶の都を破壊し尽くして、この国を天に召された王の元へお返しする。この地は我々のものだったはずだ。しかし一を取り返しても西岸の人間は十を殖やす。神の加護を受けた黎亮という街の名さえ取り上げられてしまった。残されたのは廃墟、旧市街という捨てられた名。
違うのだ。ボスは歯を剥き出す。我らは黎亮の民。神の加護を受け、王に治められし人々。十年前、王を失ったあの日から自分たちは血の絆を繋いできた。自分たちが何者であるか忘れぬよう。一を奪って十を殖やすというならば、全てを奪う。この世に肉体のない王への最後の忠誠。我々にはこの道しか残されていない。
「突撃だ!」
ボスは叫んだ。
通りの人間がいっせいに色めき立つ。
「突撃しろ!」
腰に宝剣を、右手にライフルを構え車から飛び降りる。
全て、全てだ。全てを殺し、全てを壊す。この肉体、この命さえ。最後の一片まで王に返す。
血濡れの槍は刃を抜いた。数多の銃口がこちらに狙いを定めた。橋へ向けて行列が蠢いた。皮膚の下で沸き立っていたものが爆発しようとした。その刹那。
「静まれ!」
大音声が響いた。
王宮の上、黒く渦巻く天から降ってきたかのように、全身を震わせる声。
黄金の鐘の音のような、神獣の吠え猛るような声。
通りに犇めきあった全ての人間が、その声の主を見た。
その姿が見えぬ者、旧市街の人間も、クーイーの民までもがその声を聞き、地にひれ伏した。御輿の上にすっくと立ち上がった女神の姿。足下には白い肌に金色の髪をした男が、リーリャン・シティから神を追い払ったはずの白人が膝をつき頭を垂れて控えている。
閃光が走り、凶悪な笑みを浮かべた女神の顔を照らし出す。
次の瞬間、轟音が天と地の両方から轟いた。
*
橋のたもとで、ポピーは警官の扮装をし事の成り行きを見守っていた。
先頭を走る車は一台。あれにジャック・マゼラティとロータスが乗っている。
「来ました」
囁くとジープに乗り込んでいたマシュウがアクセルを一杯に踏む。
背後から警察署長の叫ぶ声がした。
「おい待て! 勝手な真似をするな! 誰の命令で動いている!」
ポピーは振り返り、無表情に署長の肩を撃つ。勲章が弾け飛び、男はもんどり打って倒れる。周りの警官は唖然とした。
悲鳴が響く。
「撃った…撃っただと! 何をしやがる、クソ、早く撃て、撃ち殺せ…!」
ポピーは落ち着き払って署長の頭の上に立つと銃口をその額に定めた。
警官達は慌てて銃をポピーに向ける。
「しばらくおとなしくしててもらおうか。何、大した時間はかからんさ」
そして周囲を見回してニヤリと笑った。
「署長殿を殺されたくなきゃ、おたくらも黙って見てるんだな。安心しろ無益な殺生はしない」
がたがた震える手で銃を掴んだ署長の顎を蹴り上げ、手と足に一発ずつお見舞いする。
また悲鳴が上がった。
「ただ痛いだけだろう? 我慢しろ、男の子なんだから」
「…やり過ぎだぜ」
白髭の老警官が銃を下ろしながら呆れたように言う。
「俺達は仕事をやり遂げる。邪魔せんでくれ」
「お前ら血濡れの槍につくつもりか。西岸を潰せると本気で思ってるのか」
「そんな大それた仕事じゃあねえや。ほら、あそこで感動の再会が始まる。ほんのちょっとの時間だ。映画の観客みたいにな、空気を読んでほしいね」
しかし一発の銃声が響き、ポピーはぎょっとした。慌てて橋を振り向く。マシュウは橋の中央まで辿り着き、目の前にはジャックとロータスが立っている。それはいい。ただどうしてあの若造は銃を構えてやがるんだ。ダイナマイトを積んでるんだろう車の前で。もう一発撃つつもりなのか? マシュウ、あんたも分かってるんだろうな。その付近に昨夜仕掛けたダイナマイトがあることを忘れてねえだろうな。ああ、三人とも舞い上がってやがるのか? 社長、社長、ロータス! あんたは自分の仕事を忘れたんじゃあるまいな!
その時、背後の無線から恐ろしい叫び声が聞こえてくる。
『突撃だ! 突撃しろ!』
警官達が、橋の向こう側がいっせいにざわめく。皮膚の下に留めていた殺意が噴き出そうとしている。そして遠目にも、ポピーはその姿をはっきりと見た。ジャックの手が動いた。ロータスを撃とうとしている。
ダイナマイトが? 橋が爆破される?
違う、ロータスが殺されようとしている。
躊躇はなかった。ポピーは起爆のボタンを押した。真昼よりも眩しい閃光。天と地の両方から轟き渡る破壊の音。空気が押し出され、一瞬にして広がる熱と衝撃。そして炎。足下がぐらぐらと揺れ、背後では警官達が将棋倒しになる。耳はまだ聞こえない。しかし目は生きている。ポピーは踏ん張り、橋の上を見た。
もうもうと立ち上る煙が急に収まる。彼は爆発以上の衝撃に身体中が跳ねるのを感じた。
雨だ。
堰を切ったかのように大粒の雨がブランシュの橋に、リーリャン・シティに叩きつけていた。
煙の中から姿を現す人影。マシュウだ。橋桁が落ちたのは橋脚もろとも爆発した中央だけか。しかし支えを失えばじきこっちも崩れる。
ポピーはマシュウに向かって走る。マシュウは何か叫んでいるようだった。おそらくジャックの名だ。ぼんやりした振動が耳を叩く。この男には煙の向こうが見えているのか? ジャック・マゼラティは?
炎が足下を舐め、みしみしと軋み始める。ポピーはマシュウの腕を掴んでたもとに向かって引きずり戻そうとする。マシュウはまだ叫んでいる。雨がかき消した煙の向こうを凝視している。砕かれ、落ちた橋の向こう。
ジャックがいた。落ちた橋の縁に倒れている。否、腹ばいになって。ぶら下がった手が何かを掴んでいた。人の手を。今にも河に落ちそうな若い男。
衝撃がポピーの身体を貫いた。五感は蘇り、叫びがその口をついた。
「ニムファ!」
5
ニムファ、とポピーの呼ぶ声が聞こえる。
真っ暗だ。何も見えない。
聞こえるのは遠くから呼ぶ声だけ。
オレは誰だ。
ニムファと呼ばれた。ジャングルの中で何度も呼ばれたように。
身体中が引き裂かれるように痛い。
痛いが、平気だ。俺は痛覚の情報など無視して動くことができる。いつもそうしてきた。オレにはやるべきことがある。命令は絶対だ。作戦の遂行こそが最優先事項だ。そのためには痛みも捨てろ、心も捨てろ、縋る手を捨て進み続けろ。
それなのにオレは手を握っている。強く握ったその手を離そうとしない。
誰の手だ。
全身を襲う痛み。
オレを呼ぶ声。
決して離そうとしない手。
一体、何が起きているんだ?
*
閃光と共に雷鳴と爆音が同時に鳴り響き、旧市街の通りに立つ人間達は頭を抱え膝をついた。橋の方角から煙と炎が上がる。しかしそれを見ても血濡れの槍は歓声を上げなかったし、軍は動こうとしなかった。皆がたった一人の女を畏れていた。御輿の上にすっくと佇む女神の姿。急に降り出した大粒の雨の中でも、彼女は動かず、膝をついた民達を睥睨していた。
その場にいる全ての人間が女神に服従するかのように膝をついたまま、微動だにしない。何故なら指一本でも動かせば、彼女の怒りが雷となって頭上に落とされるような畏れを肌身に感じていたからだ。しかし軍を率いる男は、そのままでいる訳にはいかなかった。
白い肌をした将軍は市長や警察署長との密約を思い出し、腰から銃を抜いた。女だ。それらしい格好をして御輿に乗っているだけ。たかが地元の女一人じゃないか。橋が爆破されたということは自分達はそこへ向かわなければならない。いや、その前に血濡れの槍の連中を鏖に。クソッタレ、祭りの行列で一般人も紛れている。全員殺すか。槍の連中が逃げ出せばクーイーにも火を放つ手はずになっていた。ここは旧市街だ…しかしもう構うものか。
彼は立ち上がり、女に向かって銃を向けようとした。が、大粒の雨で視界が霞む。耳の奥に残った女の声が繰り返す。静まれ! それが響くたびに彼は頭が揺れ、身体が言うことをきかなくなる。鍛えられた軍人であるはずの、将軍たる自分が…。
将軍はとうとう膝をつく。ぬかるんだ泥が跳ね、泥水が白い軍服に染みこんだ。
「聞け」
無闇な大声を張り上げているのではなかった。それなのに彼女の声は全ての人間に届いた。
「銃を捨て、刀を収めよ」
女は目の前に見えるもの全て、自分の背後に控える者全てに向かってしっかりと、淀みのない声で宣言した。
「わたしは帰ってきた」
嘆息がざわめきのように広がった。人々の手から銃が、刀がぬかるみの上に落ちた。血濡れの槍だけではなかった。軍に従属する浅黒い肌の男達も、自ら武器を捨て、彼女に向かって跪いた。それを見た白人の軍人達が呆然と武器を取り落とした。
「何故だ!」
突然響いたのは悲痛な叫びだった。
血濡れの槍を率いる男、ボスが立ち上がり抜き身の短剣で女王を指した。
「何故、邪魔をするのですか!」
「…おまえは……」
ボスは駆け出した。誰も、止める間もなかった。鍛われた痩躯は跪いた人々を踏みつけに一気に御輿まで駆け上がる。刃は女王を狙っていた。しかし女王は動かない。足下に控えていたシャルパンティエが立ち上がり剣を抜くが、それは襲いかかる男を退けることなく呆気なく弾き飛ばされた。絶望に歪んだ顔と刃が近づく。
音がした。刃が肉を貫く音だ。ボスは目を剥いて目の前の男を見た。
「約束したんだよ」
女王とボスの間に身体を割り込ませたシャルパンティエは短剣に貫かれた右手をちらりと見下ろして、苦しげに笑った。
「プランセスは僕が守るってね」
それだけ言うと、手を貫く短剣を掴んだままがっくりと膝をついた。
「大義であった、わがシュヴァリエ」
「後は頼んだよ、プランセス」
女王は目の前に佇む男を見た。ボスと呼ばれたその男は今は空手で雨に打たれ、痩せた鼠のようにひどく弱々しく見えた。
「おまえのことはおぼえている」
女王は男に向かって静かに話しかけた。
「おまえはいつも父上の馬をひいていた。わたしに乗馬を教えてくれたのも、おまえだったな」
「……銀姫様」
女王は男の口の形を読み、銀、姫、と繰り返す。
「そうだ。わたしを銀の虎と最初に呼んだのもおまえだった。わたしがあまりに馬をおびえさせるので、きっと銀の雷に乗った虎なのだといった」
「あの爆発で…お亡くなりになったものと……」
「苦労をかけたな。わたしは戻ってきたぞ、ボス・ルージュ。忠実なる紅い牛」
男は涙を溢れさせ女王の足下に跪いた。静まりかえった東岸に号泣する声が響く。固唾を呑み見守り続けた人々は、それまで仰ぎ見ていた女王に今再び頭を垂れる。女王は満足した獣のように、ゆったりと穏やかな笑みを浮かべた。シャルパンティエも微笑み、自分のの手から短刀を引き抜いた。血まみれの刃は御輿の上から道の泥濘に落ちる。それが、旧市街の人々の手から落ちる最後の武器だった。
*
誰だオレを呼ぶのは。
怒声。悲鳴。哀願。叫び。
オレの名は?
ニムファ。
ロータス。
蓮の花。
「シュリー!」
ロータスは瞼を開いた。それだけで火傷をした頬が引き攣れ、痛みが走る。
否、痛みは全身に襲いかかり全ての神経を支配していた。しかしロータスは手を離さない。手を、掴んでいる。
繋がれた二つの手に飾り帯が絡みついている。
「シュリー…!」
「……アル?」
慣れた名前が思わず口をついて出た。
赤毛の男が必死の形相で崩れた橋の縁に取り縋っている。
「もう片方の手を伸ばせ!」
ロータスはその時初めて自分の足下には何もなく、空中にぶら下がっているのだと認識した。その身体を支えているのはお互いの手だけ。その手も絡まった飾り帯がほどけ、少しずつ雨に滑り出していた。
お前は死ぬ。
ポピーが寄越した不吉なメッセージの通り、娼婦がした予言の通りだ。
オレは死ぬ。
しかし左手がしっかりと男の右手を掴んでいる。この手を離してはならない、新しい朝を迎えたいのなら。そうだ、オレは約束した。オレの幸運はお前にやる。とことんまでお前につきあってやる。ロータスは右手を持ち上げようとした。しかしさっき撃たれた腕は痛みを寄越すだけで、言うことをきかない。
「手を伸ばせ、シュリー!」
男が叫ぶ。
ロータスは自分を見下ろす青い瞳を見つめた。
「お前は…今でもオレを信じているか?」
「こんな時に何を…」
「いつかお前に言ったな。お前は何もなくさない。全てを取り返せるって」
「ああ…」
「オレを信じるか? 今では本当の名前も分からないオレを」
「それどころかオレの名前も…。お前の名前が何だって、お前はオレの…友だ」
雨の中、美しいブルーアイズはしっかりとロータスを見た。
「信じる…!」
「分かった」
ロータスは掴んだ手に力を込めた。
「オレは絶対にお前の手を離さない。必ずお前を新しい朝まで連れてゆく。目覚めた時、お前は全てを取り戻す。だからお前も、オレの手を離すな」
「離さない!」
「オレの名はロータス」
軋みを上げていた橋が大きく唸る。崩壊の予兆に空気が震える。
「蓮の花は泥に汚れない。必ず浮いて、海へ出る」
「ロータス…!」
男が名前を呼ぶと、ロータスの心臓と目の奥はまた熱くなった。
雨が涙のように流れ落ちた。
「行こう、ジャック・マゼラティ」
次の瞬間、橋が大きく崩れ落ちた。瓦礫が河に落ち轟音と大きな水飛沫を上げる。
西岸からはジャックをの名を呼ぶ叫び声が響いた。河は濁流と化し、二人の姿は立ち上る水煙の中に消えた。




