第四章
1
ボスは石段を下りると、河の中を二人の目の前まで近づいてきた。
「おはよう、ボス」
アル・ナスルの表情は笑顔から引き締まったものに変わる。ロータスも軽い礼をした。
「早いな」
「いい朝だったから」
アル・ナスルが答えると、ボスが対岸を指さした。
「見ろ」
指の示す先には西岸の、水晶のビル群が輝いている。
「昨日、お前達は実にいい仕事をしてくれた」
「儲けはなかったぜ」
「金だけが儲けではない」
無線機の前に貼りついていたボス。果たしてどれだけの情報がもたらされたのだろう。
「俺達の仕事も仕上げにかかる時が来た」
「ボス?」
「水晶の都を破壊する。あそこに住む人間達がかつて俺達の王宮にそうしたように、今度は俺達があの塔を破壊する。全て、粉々に壊してやる」
ロータスもアル・ナスルも無言だったが、その意味合いは違っていた。
ジャックを取り戻すタイムリミットがいよいよ近づいてきた、しかもボスの計画が思いの外でかいことにロータスは頭を痛めた。
しかしアル・ナスルの沈黙はただの沈黙だった。ただ静かにボスの言葉を聞き、最後に一つ頷いた。
「今夜は幹部全員に招集をかける。今後、準備に忙しくなるぞ」
「分かった、ボス」
「頼りにしている」
川岸へ戻るボスの黒い影のような後ろ姿を、ロータスはじっと見つめた。
隣に立つアル・ナスルは、また河の水を掬い上げ、何度も頭にかけた。
「これでボスの望みが叶う」
アル・ナスルは呟いた。
「オレ達がやってきたことが全部報われる」
「やる気か?」
ロータスは低く尋ねた。
「お前、別に西岸に恨みはないだろ」
「西岸がボスから家も家族も神様も奪ったってんなら、西岸はオレの敵だ」
青い瞳に鋭い眼光が戻る。
「ボスはオレを生き返らせてくれた。何もかも失ったオレに名前をくれて、生きる意味を吹き込んでくれた。オレはボスのためなら何でもやる」
「その刺青は」
「ボスが世界を変えてくれれば、オレも全てを取り戻せるかもしれない」
「怖くはないのか。ボスは水晶の塔を欠片も残らないほど壊し尽くすつもりだぜ。こっちだって無傷で済む仕事とは思えない」
「怖いと思ったことは一度もない」
青い瞳は澄んで、その中には何もなかった。輝きも。
アル・ナスルは言った。
「オレには失って怖いものなんか、一つもないからな。お前こそもっと喜べよ。お前が西岸を恨んでるのは皆、知ってる」
アル・ナスルは全身に日の光を浴び、両手を広げる。
「全部ボスが叶えてくれる」
自分がなくした過去も、ロータスの願いも、その全てを叶える全能の名であるかのようにアル・ナスルはボスと口にした。
その後、アル・ナスルから又聞きした計画はかなり大規模なものであることが分かった。血濡れの槍を初めとするクーイーの盗賊団だけでなく、東岸中の虐げられた記憶のある人々が協力していた。襲撃という言葉では済まされない、これはテロルだ。集められた爆薬はリンチュウに輝くビル群だけでなく、それを取り巻く華街をも焼き尽くすだろう。戦争に近い規模の破壊。ロータスは秋風街に残してきた従業員と我が事務所を思う。どうもオレの手に負える規模じゃなくなってきたんだが…。そんな弱音を心の奥で吐きながら、しかし頭は何とかして仕事を果たそうと考え続けている。とにかく、ポピーと連絡をつけなければ。
皮肉なことに、ボスが最終計画を打ち明けたあの日から、ロータスは西岸に行く機会を得た。偵察である。混血のロータス、そして白人のアル・ナスルは身なりさえ整えれば、怪しまれることなくブランシュの橋を渡ることができるのだ。二人は何度も、堂々と橋を渡り西岸に出かけた。ロータスは何度かアル・ナスルをまき、秋風街へ足を向けることはできないかと企んだが、アル・ナスルはロータスの隣にぴったりとくっつき離れなかった。
「子どもじゃないんだから」
ロータスが言うと、だってよ、とアル・ナスルは顔を赤くする。
「何だか居心地が悪いんだよ。周りは白人ばっかりだし、服も違うし、じろじろ見られてる気分だ」
「誰も見てないって。偵察が目立ったら仕方ないだろ」
「分かってるけどよ。シュリー、置いていくなよ。冗談でも消えたら殺すからな」
そんなことを言うアル・ナスルにはやはりジャック・マゼラティの面影があり、ロータスはこの男と連れだって歩くことが、少し楽しかったのだ。二人は警察の動きや、爆弾を設置するための場所を観察しながらも、下らないお喋りをしながらリンチュウを歩いた。
西岸を歩くということは、勿論、ロータスにとって知った顔に出会うということだった。ロータスは場に馴染み、背景と一体化することができるが、それが効かない相手もいる。ポピーと、それから。
三度目の偵察で、とうとうそいつと正面から対峙した。長身にウェーブした金髪。それがモテるのだという無精髭。淡い水色の瞳からこぼす微笑は誰にも優しいが誠実さが全くない。ブルーブロッサム社のシャルル・シャルパンティエ。
ロータスはシャルパンティエなどまったく眼中にないかのように歩き続けた。しかしシャルパンティエはロータスの顔も、そしてジャックの顔も知っている。マシュウが最初に仕事を持ち込んだのはブルーブロッサム社だからだ。今日だけは空気を読んでくれシャルル。そしたらオレは上物のワインだって奢ってやってもいい! 心の中で祈りを叫んだロータスだが
「やあ!」
その声と、肩に置かれた手と近づいてきたへらへらした笑顔に、顔の裏側で絶望した。これで、オレが潜入した二ヶ月もパアか?
「若いお客さん、観光ですか?」
え、とアル・ナスルが戸惑いの声を漏らす。
「きょろきょろしてるけど、リーリャン・シティは初めてですか? それなら我が社の一日ツアープランはいかがでしょう。リンチュウだけじゃない、王宮と下町のマーケットも楽しめますよ」
「…結構です、オレ達はのんびり見て回りますから」
ロータスが笑みを向けると、シャルパンティエはあからさまに残念そうな顔をした。
「そうですか? 気が変わったらいつでもご用命を。僕はブルーブロッサムカンパニーのシャルル・シャルパンティエ。そうだ、名刺を渡しておきましょう」
ロータスの手に青みがかった上等な厚い紙片が押しつけられる。
「単身向けのプランも用意してますからね。それではお若いの、ボン・ボヤージュ」
シャルパンティエは手を離すと、投げキッスをしながら二人を見送る。ちらっと振り返ると、人混みに消えてしまうまで、いつまでもその長い腕を振っていた。
「何なんだ、あいつは、何、あれ何だよ!」
アル・ナスルが混乱しながらロータスの袖を掴む。
「客引きだよ。お前だって娼窟の前じゃあれよりしつこいポン引きを躱してるじゃないか」
「でもあいつ、何だか怖いぞ。怖いって言うか、気持ち悪い!」
「気持ち悪い!」
その一言があまりに的を射ていたので、ロータスは笑いが止まらなかった。
「なあ、アル。戻るまで時間がある。寄り道をしないか」
「寄り道」
「こっちの川岸に出てみよう」
竹琴の音があちこちから聞こえてきた。夕方の沐浴の時間だ。二人は人の流れにのって西の川岸に出た。西岸に暮らす人々、中には観光客ではない根付いた白人の姿もある。いつも沐浴を欠かさないアル・ナスルは河で手と顔を洗い、ホッとした様子だった。
「いつもみたいに浴びて来いよ」
ロータスは促す。
「いいのか」
「心配するな、ここで待ってる」
するとアル・ナスルはシャツと靴をロータスに預け、喜んで河に飛び込んだ。まるで子どものような姿に、思わず笑いがこぼれる。
「…随分、仲良くなったみたいですな」
背後から声がかけられた。ロータスは肩の力を抜いた。懐かしい声。ポピーだ。
しかし振り向かなかった。視線は河の中のアル・ナスルを追っている。
「今、ステップはどこです」
「まだ話してない」
「手を焼いているようで」
「それどころじゃない。か、な、り、面倒なことになったぞ」
「やはり記憶喪失でしたか」
「あいつの問題だけじゃないのさ。槍の奴ら、西岸に花火を上げる気だ」
「どのくらいの?」
「ド派手なやつ」
「そいつは綺麗でしょうなあ」
「笑いごとじゃないぞ。あいつは自分が死んでも作戦を遂行する気だし、花火が上がった日にゃオレ達の事務所も無事じゃないぜ」
「よろしい。何か対策を立てましょう。ところであんた、こっちに来るのは三度目ですが、これからも機会はありますか」
「お前…!」
ロータスは振り向きたくなるところを我慢して言った。
「気づいてたなら連絡寄越せよ」
「その連絡が難しいことはあんたもご承知のとおりでしょうに」
何です、寂しかったんですか、とひっそり笑うのが聞こえてロータスは不機嫌になった。
「冗談ですよ、社長」
背中をぽんぽんと叩かれた。
「あたしらも手を打ちます。向こうでも積極的に物を買って女を買ってください。どうせ経費だ」
「あたしら、って何だ。あのBBCのヒゲにも手伝わせてるのか」
「今日のはたまたまですよ。働いてくれてるのは依頼人です。あのマシュウって男はなかなか優秀だ。あんたらが仲良く歩いてるのを見て嫉妬してましたがね」
「濡れ衣は晴らしておいてくれ」
「心得ました」
アル・ナスルが河から上がってくるのが見えた。ポピーの気配は急に消える。
「ポピー」
ロータスは呟いた。
「それじゃまた、ロータス」
声だけが聞こえた。
「待たせたな、シュリー」
全身から水を滴らせたアル・ナスルが目の前に立った。
「どうした、変な顔して」
「いや」
ロータスは立ち上がり、預かっていたシャツを返しながら言った。
「向こう岸って、遠いよな」
「そうだな」
アル・ナスルも振り返り、東岸を見た。
壊れた王宮も、黒い野のように広がるクーイーも夕靄に包まれようとしていた。
2
事務所のドアが開いた。ぐったりとした様子でマシュウが戻った。
「どうです、元気そうでしょ」
ポピーはにこやかに尋ねる。
マシュウは黙って懐のピストルをテーブルの上に置いた。
「結局、使いませんでしたか」
「的に当てるのは得意じゃない」
「後ろから突きつけて脅して連れてくりゃよかったんです」
ソファに深く沈み込んだマシュウは溜息をついた。ポピーの言葉によればジャックがロータスに連れられて西岸に来るのは三度目だと言う。マシュウは今日初めて、その姿を見ることができた。川岸での再会以来、いや捕虜解放の五月二日以来ようやくじっくりとその姿を見た。
既に少年ではない。それは再会した時も思った。まるで別人になってしまったと。しかしロータスと並んで歩くジャックは、かつてマシュウが想像したような笑顔を浮かべていた。再会の日はこんな風に笑いあうのだろうという…。それが向けられていたのはロータスなのだが。
これを、とポピーはピストルを渡した。もしもその気なら、これを使ってあんたが直接連れ戻しなさい。
ピストルを手に外へ出た時はそのつもりだった。これでジャックを連れ戻せると思った。それなのに。
「ジャックは…笑ったんだ」
ぽつりと呟くと、スコッチの満たされたグラスが差し出された。
「撃てない。脅すことさえ、オレは…」
マシュウはグラスの中身を一気に干した。
「オレはあいつさえ取り戻せればいいと思ったのに。あんたの所の社長だって撃つつもりで出たんだぞ。すぐ目の前に背中があった。ジャックの手を掴んで、駅に向かって一目散に逃げれば、オレは、きっと…」
「幸せにゃあなれないと思ったんでしょう」
ポピーも自分のグラスを干しながら言った。
「あんたが取り戻したいのはジャック・マゼラティ。でも目の前にいたのは血濡れの槍のアル・ナスルだった」
「…………」
空のグラスが再び濃い琥珀色の液体に満たされる。マシュウはそれを一口舐めたが、溜息をついて俯いた。
「わたしらの仕事は人一人の…いやあんたの分も含めれば二人の人生を取り戻すことになった。ところがどっこい、話はそれだけじゃ終わらないんだ。わたしらの命運もここにはかかってきましてね」
「金の話なら…」
「そりゃ最初に契約した通りですよ、旦那」
テーブルの上にチェス盤が置かれた。以前、マシュウが持ち込んだものだ。
そこに白と黒の駒を並べ、ポピーは白のナイトを取り上げる。
「わたしは神を信じています。旦那は?」
マシュウは小さな声で、どうだろうな、と呟いた。
「旦那が仕事を持ち込んだ時には神に好かれていると思った。わたしにゃ簡単な仕事だったからです。しかし神様の考えなさることは下々に及びもつかない。わたしは時々、神様ってのは百マスも千マスも、一億マスもあるチェス盤でゲームなさってるんじゃないかと思う時がある。平等にね、白も勝たず黒も勝たず永遠に続くゲームを。しかし重要な局面ってのはある」
「何の話だ…?」
「うちの社長が飛び込んだのが引き金になったんじゃないかと思わなくもないんですよ」
ポピーは白のナイトを黒の駒が並ぶ側に置いた。
「旦那はずっと国境沿いの、北部にいたんでしな」
「ああ」
「昔はね、このリーリャン・シティも結構白人が馴染んで住んでたもんです。フランス人と言えば領主側で、肌の色も白い、どうしても平等とはいかなかったが、でも国の人間は、王宮の人間もそこまで毛嫌いしてなかった。むしろ、土地の痩せた西岸をちょっとずつ開発してくれるってんでね、人手や建材なんかを協力したくらいだ。それが戦争で変わった。いや、王宮を壊された時から変わったんです。東岸にとって白人は敵になったし、西岸に水晶のビルをおっ建てた奴らは奴らで、自分の手も足下も綺麗なんだと思ってる。ブランシュの橋は染み一つなく、毎日掃いて、こっちから王宮に観光に行ったって、向こうの人間をこっちに入れることはない」
「…歴史の勉強はもういい」
「おさらいはここまでです。協力してたにせよ、西と東に分かれたにせよ、まあ均衡は保てていたという話ですわ」
「と言うと?」
ポピーは腕をチェス盤に乗せると、乱暴に駒を動かした。黒の駒は白の駒に雪崩れうって襲いかかる。
「現在、このような話になっているらしい」
戦争を…、とマシュウが呟く。
ポピーはそれに頷いた。
「血濡れの槍は西岸を焼け野原にするつもりらしい。ジャック・マゼラティも勿論、関わっている。ついでにうちの社長も巻き込まれました」
「そんなもの…オレ達の手には負えない」
「そりゃそうです。こちとら味方は三人しかいないのに。救世主なんて柄でもありませんし、そもそもわたし達の目的は一つです、いいですかマシュウ、あなたは絶対これを履き違えないように。わたし達はジャック・マゼラティを取り返す。これが唯一成し遂げるべきことですよ」
「それは、分かっているが…」
「ま、西岸が火だるまになるのを知って黙っておくのも難しい話だが、しかしね、これを警察に喋った暁にはクーイーの奴ら皆殺しにされるのがオチだ。これは困る」
「ではどうすれば」
「一に情報、二に情報。情報を制する者が世界を制する」
ポピーは目の奥で笑い、ぐちゃぐちゃのチェス盤を指で叩いた。
「六十四マスの外側から見るんです。神になるという言い方は雷を食らいそうだから、その足下くらいには座らせてもらいましょう。そして」
指先が黒のナイトを摘み上げる。
「このチェス盤からターゲットを連れ出す」
うん、と頷き納得したようなマシュウだったが、ん、と眉を持ち上げた。
「…社長は?」
「おっと、じゃ、ついでに」
ポピーは白のナイトも摘み上げ、夕闇の中きらりと光る目でマシュウを見た。
「忙しくなりますよ。神様のゲーム運びは速い」
やるとなれば仕事が速いとはポピーがロータスを表した言葉だが、マシュウが見るにそれはポピー自身にも当て嵌まる言葉のようだった。その夜から早速ポピーの姿は消え、ほとんど姿を見なくなった。マシュウはいつの間にか事務所の留守番となっており、その間に部屋を掃除をして、ゴミの中から電話や無線機を見つけ出した。滞納していた金を払うと、すぐさまベルが鳴った。
『電話はいいですな、文明の利器。遠方の人間とも話せるとは』
「ポピーか?」
『今夜BBCのヒゲを迎えに寄越します。落ち合って作戦を練りましょう』
「今どこにいるんだ」
尋ねると受話器の向こうから女の色っぽい笑い声が聞こえたので、返事を聞く前に電話を切った。
夕方、シャルパンティエが事務所を訪れ――「こんばんは、ピアノ屋さんじゃないマシュウさん」――向かった先は海岸の小さな港だった。
リーリャン・シティ周辺の海は浅く、大型船が入ることができない。小さな港には観光客用のボートが数隻停泊している。漁船は専ら河口に集まる。ポピーは桟橋で待っていた。カンカン帽を被り、品のいいスーツに身を包んでいる。背後に停泊する白く塗った綺麗なヨットには青いペンキでブルーブロッサムカンパニーと書かれていた。
「ご無沙汰です、旦那」
ポピーはカンカン帽を脱ぐと、柔和な顔にひやりとする目でマシュウを見た。昼間の電話とは雰囲気が違う。
ヨットを操るのはシャルパンティエだった。彼は今夜の役回りが気に入ったらしく、わざわざ水兵服を着て舵を握った。下手くそな「オー・ソレ・ミオ」に乗せて、ヨットは夜の海へ出て行く。
月が明るく照らし、振り返って見える西岸の夜景は美しいものだった。
「いよいよきな臭くなってきた」
夜景を背にポピーが言った。
「ここ数日わたしはリンチュウ、華街、旧市街の娼窟にも行ってきた」
「娼窟だけか」
「怒らんでください、ここが一番情報の集まる所でね」
「本当に娼窟だけなのか!」
マシュウがサングラスの奥で目を剥いて驚くので、ポピーはまあまあと両手で抑える。
「勿論、娼窟だけじゃありませんや。でね、気づいたことがあるんだが、どこも整然としてるんですよ。リンチュウも華街も、警察が決まった時間にパトロールに来る。旧市街を見回る軍もです」
マシュウは首を傾げた。
「パトロールは定時に行われるものだろう」
「その常識が通用しないのがリーリャン・シティですわ。奴らときたらルーズで、定時に来たと思えば、一つ前の時間に来るはずだった見回りだったってこともよくある。それが、夜明けなら夜明け、正午なら正午とピシャリ」
「警察も軍も血濡れの槍の動きを察知しているということか」
「わたしらが辿り着けたくらいですから、それより耳も大きく腕も長い奴らのこと、ぼさっとしてる方がおかしい……と思ったんだが、気に食わん」
「気に食わない?」
「戦争前夜の匂いがする」
ポピーは珍しく眉間に皺を寄せた。
「賑やかでいて今にも張り詰めて弾け飛びそうな空気がね。女たちも何だかソワソワして、いつも以上にぼったくろうとする。男もそれに平気で金を払っている。何だ…最後の審判が来る前にやることやっちまおうって感じだ。それが東岸ってなら分かるんです。向こうの人間は血濡れの槍に協力しているはずだ。察しているかもしれない。でも同じ匂いがこちらでもするんですよ。リンチュウでさえ」
まだ見えていない裏がある、と締めてポピーはようやく酒に手をつけた。
「マシュウ、あんた電話を復活させたってことは無線機も見つけましたな」
「ああ」
「あんたに動いてほしい。旦那はわたしと違って、正真正銘綺麗な感じだ。リンチュウのもっと奥、水晶のビルの中にだって行けるでしょう。あすこには市長がいる、警察署長も。あんたなら会える」
「オレに直接会って話を聞き出せと? オレは事実上、一観光客にすぎない。多分虫けらの一匹と思われて門前払いされるのがオチだ」
「そこを潜り込んで盗聴器をしかける」
「何その楽しそうな話!」
下手な歌が止んで、急にシャルパンティエが話に割り込んだ。
「僕もやる!」
「ガキの遊びじゃねえんだぞ」
ポピーが嫌そうな顔をして睨むと、ふふん、とシャルパンティエは笑った。
「じいさんから見たらガキかもしれないけど、僕は君達以上に色んな場所に行けるよ。市庁舎だけじゃない、幹部行きつけの高級クラブも、高級娼館も、君達がポーチの石段だって踏めない所に僕は行って署長さんの肩を抱いて飲んで歌って遊べるんだ」
僕って凄いよねー、とセーラー帽の下、月光に照らされた顔がにっこり笑った。
マシュウは真面目な目でポピーを見る。
「…彼の言う通りだ」
「依頼人、あんた、あんな奴にも金を出すんですかい」
「お金なんか気にしなくていいよ。僕は楽しめればそれでいいんだから」
「金が絡まないってことは責任もねえってことだろう」
「ポピー、あなた方を私に紹介したのは彼です。俺はシャルパンティエ氏を信用しようと思う」
「やった!」
ポピーは苦々しげに息を吐き、旦那がそう言うなら、と諦めた。
「事実欲しかったところの情報ではある…。邪魔をしたらご自慢のイチモツを切り取るからそう思え」
「なにを、じいさんのご立派なモノには負けるさ」
シャルパンティエは笑いながら、出鱈目に舵を切る。
「よーそろー」
「馬鹿、ようそろは直進だろう。お前のそれは面舵一杯だ」
「右折!」
ヨットはぐらぐら揺れた。
静かな海の上にやまないシャルルの笑い声と、ポピーの怒声が響いた。
3
クリスタルのように輝くビルの間をマシュウは歩く。
ジャーナリストを偽って市庁舎や警察署に潜り込んで数日、昼間はこのようにリンチュウを歩きながら盗聴器の発信する声を拾う。
耳に突っ込んだイヤホンからは常にノイズが流れ込んだ。それは遠い雨音や、永遠に打ち寄せては引く波音のように絶え間ないが、時々そこに人間の声が飛び込む。するとマシュウは立ち止まり、その声に耳をすませる。
何も闇雲に歩き回っている訳ではなかった。注視しているのは市長、警察署長の動きだ。この二人が会うタイミングがあればいいのだが、今のところ接触はない。
日の昇っている間は、マシュウはリンチュウを彷徨い続ける。時にはちょうどいいカフェの隅に陣取って聞こえてくる声に耳をすませていたのだが、あまりじっとしていると追い出されてしまった。店員にではない、警察官にだ。
確かに、漠然とした警戒心が広がっている。
ポピーとは日に何度か連絡を取り合い、情報を整理した。彼が主に拾っているのは酒場や娼館の盗聴、シャルパンティエが仕掛けてくれたそれから得る情報だ。
「秘密結社とかスパイ工作って憧れてたんだ」
玩具を買ってもらった子どものような顔で言うシャルパンティエに、マシュウも信用がちょっと揺らぐ音をを感じたが、上手くやってくれたらしい。
いい加減な男だが仕事はきちんとやる、のではない。いい加減な男だからこそ自然と手助けをする女が集まり、彼の穴をサポートするのだ。本人は実にいい加減にスパイごっこを楽しんだようだった。
「結果オーライです。結果オーライ」
ポピーは二度呟いて自分を納得させていた。
「スパイ稼業には幸運の女神を味方につけなきゃいけない。悔しいことですが、アレには女神が向こうからやって来るんです。実に忌々しい、実に」
よっぽど嫌っているらしい言葉がおかしくて、知ったように語るスパイ稼業については尋ねず仕舞いだ。
ロータスとポピー。
蓮の花、優男の若社長。
ケシの花、おしゃべりな飲んだくれ。
まだ三十にもならない若造と、四十半ばの峠を越したらしい丸ハゲの男が何故一緒に旅行社を営んでいるのか。ただのツアーだけでなく、犯罪者の高飛びも手助けするという。人捜しが得意で、潜入が得意。それよりもっと得意なものがあるらしい上、スパイ稼業についてボヤく。
リーリャン・シティは元々白人の入植もあった土地だったし、戦争でここに残った者も大勢いる。中には裏稼業についた者も少なくない。しかしマシュウはロータス旅行社の二人に奇異なものを感じるのだった。異物、とでも言うか。
そうだ、彼らは時々戦争を口にするが、マシュウが同じ密林で戦った相手に対して感じる匂いがない。たとえ部隊は離れていても、初対面でも、ここの泥に足を突っ込んだ人間には直感的に一種のシンパシーを感じる。それが、二人にはなかった。
もっと暗く冷たい泥の匂い。
散漫になった意識に、急に明瞭な言葉が滑り込んだ。マシュウは人目につかない路地へ隠れる。聞こえてきたのは署長の声だった。今夜は視察。ワインにかける酒税の問題。参加者は蝶ネクタイ必須。彼らの使う隠語も分析済みだった。今夜、シャルパンティエが盗聴器をしかけたあの高級クラブで会合が行われる。市長もその場に訪れる。
まだ正午前だ、一晩中華街を探っていたポピーは事務所で寝ているだろう。マシュウはそれを電話で叩き起こすとリンチュウまで呼び出した。
「バレてましたなあ、もろバレだ」
けばけばしいネオンの光に照らされ、ポピーが顔をしかめた。
二人は高級クラブの側の通りに停めた車の中、盗聴器から聞こえてくる会話を聞いていた。車はいつものジープではない。場に馴染むようシャルパンティエからポルシェを借りた。ポピーはヘッドホンを首に掛け、マシュウもイヤホンを片耳外した。
会談では決定的な言葉がいくつも出た。血濡れの槍。ボス。仕入れたであろう爆薬の量も、決行するだろう日も予測がついている。
「一斉検挙があるのだろうか」
「そう考えた方がいいでしょう。明日は将軍も来るようだから、もう少し詳しい話が聞けますかね」
ヘッドホンから聞こえてくるのはもう笑い声と酔いにまかせた銅鑼声の歌ばかりだ。
「旦那も今日は一日貼りついて疲れたでしょう。事務所で休みますか」
マシュウは既にホテルを引き払い、事務所に寝泊まりしていた。しかし首を振る。
「いいや、もう少し粘ってみよう」
「これ以上は大した情報も出ませんや。それよりね、旦那には頼みたいことがあるんだ。最近、事務所の無線が警察以外の無線を拾うことがある。もしかしたら東岸の情報が入るかもしれない」
「…ポピー、オレがいなくなったら女の所に行く気じゃないだろうな」
「まさかこの一大事に。わきまえておりますよ」
「冗談だ。お心遣いありがとう」
マシュウが車を降りると、ごゆっくり、と声がかけられた。
華街を抜け、ひとけのない秋風街へ向かう。ネオンもぽつぽつ残るばかりの静かで暗い通りだった。ビルの一階は店じまいをして明かりもなかった。この店の残飯には猫も寄りつかない。
鍵を開け、事務所に入る。明かりはつけない。目を傷つけられてからは、いっそ光の多くない方がマシュウには過ごしやすい。それでも気配は分かるものだ。
テーブルの上で無線機が喋っていた。遠い、不明瞭なお喋り。マシュウはソファに横になり、それに耳を傾ける。むにゃむにゃと聞き取りづらい言葉は王宮語崩れとも違う、これが古語訛りだろうか。だとするとこれはクーイーから発信された電波なのか。
『こんばんは』
やたらといい声が聞こえてきて、閉じかけていた瞼がぱっちりと開いた。
ロータスの声?
『ボンソワール、ムッシュ・アル・ナスル。どうぞ』
『ふざけるな。どうぞ』
ジャックの声だった。
無線のノイズで少しがさついてはいるが、ジャックの声だ。
『使い方が分かってきたじゃないか。もう少し喋ってみるか。どうぞ』
『練習はもういい。どうぞ』
『馬鹿な。オレが初めてトランシーバーを使った時はもっとはしゃいだぜ。どうぞ』
『オレははしゃいでない!』
『どうぞ、を忘れてる。どうぞ』
『…どうぞ』
『あれから聞きたいことがあった。腕のタトゥー、Mの意味は思い出せたか? どうぞ』
『まだ思い出せない。…どうぞ』
『ジャングルで生まれたお前のことだからママンなんて彫りはしないだろう。名前じゃないかとオレは思う。頭文字がMの名前を思いつくだけ言ってみたら、っていう提案なんだが。どうぞ』
『じゃあ、多く言えた方が勝ちだ。負けた方は明日の酒を奢る。どうぞ』
『いいだろう、受けて立つ。先攻はお前だ。どうぞ』
『マリー』
『ミシェル』
『ミレーヌ』
『モーリス』
『ミレイユ』
『すらすら出るな…、マクシミリアン』
『マリエル』
『ええと、マルセル』
『んー。メラニー』
『マルタン』
『シュリー、お前のはさっきから男の名前ばっかりだ。どうぞ』
『お前もジャングルで生まれた割には白人の名前を結構知ってるじゃないか。どうぞ』
『…名前くらい何となく分かる。マルゲリット。どうぞ』
『マシュウ』
急に無線機は沈黙した。
マシュウは今や無線機に直接耳をくっつけんばかりにしてそれを聞いていた。
『どうした、アル・ナスル』
『…もう終わり』
くだらねえ、と小さな声が付け加える。
『このままだとオレの勝ちになるぞ。マリユス、ミカエル…』
『もういい。もう終わりだ。お前の勝ちでいい』
『大切な誰かの名前なんだろう。お前の宝の名…』
『なあ、シュリー。……どうぞ』
『何だよアル。どうぞ』
『オレはこの文字が意味するものを思い出したら全部取り返せるんだと信じてきた。でも、本当は、オレは全部なくしちまうんじゃないのか?』
再び沈黙。
砂のようなノイズに、微かに息の声が混じる。
『何もなくさないさ』
ロータスの声が静かに言った。
『お前は何もなくさない。全部取り返せるんだって信じてろよ。きっと本当になる』
『どうしてそんなことが言える』
『オレが蓮を持った幸運の運び手だからさ。どうぞ』
ふつりと声が途切れた。ノイズは河の濁流のような音となり、マシュウと向こうの世界を隔てた。
マシュウはへなへなと腰を落とした。
「ジャック…」
暗い事務所の、更に闇の中で呟く。
オレの名前を呼んでくれ、ジャック。
4
例えば台風を目の前にした時、ポピーは何もしなかった。スコッチのビンだけを抱いて、ソファに座っていた。
「この一大事に悠然とするな!」
事務所の窓を板で打ちつけながらロータスは怒っていた。
どうしようもあるめえ、というのがポピーの意見だった。これほどの規模の災難を目の前に、今更あたふたしたって始まらねえさ社長。守るべき財産もないし、このビルがボロなのは借りる時から分かってた。屋根が吹っ飛んだらどこかに引っ越しゃいい。
「命は惜しくないのか?」
「明日生きてたら乾杯しましょう」
翌朝、台風一過の空の下、ポピーはロータスとビルの屋上で乾杯をした。青空と眩しい太陽の日差し。事務所の窓ガラスは割れたが、二人とも生きていた。
ポピーにあるのは諦めではない。生きるか死ぬか、彼は自然とそれを感じ取ることができる。多くの死を直接目にし、断末魔をこの耳に聞いてきたからかもしれない。
だからゾッとした自分の直感に、更にゾッとしたのだった。
ポルシェの開いた窓から乾いた風が吹き込んだ。春の夜は、雨期を前にからからに乾いていた。乾ききった沈黙。助手席のマシュウは顔を上げようとしない。ポピーもそっぽを向けるものならそうしたかったが、いかんせんハンドルを握っている。今夜二人が盗聴によって得た情報は、ポピーの違和感を納得させるものであると同時に、これがいよいよ一介の旅行社従業員とその客の手に負えるものではないと知らしめた。
整然としたリンチュウと華街。定時のパトロールと規則正しい交代。全てが罠だったのだ。
『ここに来る前にも偵察らしい男を見たよ』
ヘッドホンの遥か向こうで数人の男達が機嫌良く笑っていた。
市長の声だ。
『こちらのパトロールの時間を調べているんだな。それでこの夕方はちょうど穴だぞと思っている。こちらの作戦も知らずにね。いやはや、終戦から十年か。奴らを一掃できるかと思うと、実に清々とする』
『武器を持ってこちらに乗り込んできた時点で盗賊どもはリーリャン・シティの、ひいてはこの国の敵だ。遠慮することはない。我々は待ち伏せて、のこのこやって来た奴らを撃てばいい』
『我々のメンツを保つ為にも首謀者は逮捕という扱いにしたいが』
『それは諦めることですな署長。その代わり、前線に立って討ち取ったらいかがかね』
『いやわしももう年寄りだ。武功は若者に譲ってやろう』
『今でも馬に乗っているような奴らにやられるもんですか。しかし賞金をかけるのはいいかもしれない。部下達もやる気になります』
男達は一斉に笑った。隣でマシュウがイヤホンを外した。顔は蒼白で今にも夕食を全部戻しそうな顔をしていた。
ポピーは会談がお開きになり、男達が娼婦を連れて部屋にしけ込んだ後もヘッドホンから聞こえる言葉に耳を澄ませていた。いつもならその後のお楽しみは夜っぴて仕事を続ける自分へのご褒美と出歯亀半分に聞いていたが、好色おやじの下卑た欲は頭をもたげもしなかった。
黒が白の駒を全て火にくべてやろうと考えたならば、白もまた黒の駒を全て蜂の巣にするつもりだったのだ。リンチュウで待ち受けるのは警察。後続を東岸から追い詰めるのは軍。挟み撃ちだ。しかもクーイーに逃げ込むものがあれば、容赦なく火を放つ。
血濡れの槍のテロの話を聞いた時マシュウは戦争かと言ったが、事態は今や完全に戦争そのものの様相を呈しつつあった。
「風に当たりましょう」
盗聴器の向こうが完全に沈黙するとポピーは言った。マシュウは返事をしなかった。借り物のポルシェは静かに走り出し、華街を後にする。夜の賑わいの余韻が、消えかけたネオンの光と遠ざかる。建物の背が急に低くなったかと思うと、道の舗装が終わった。巻き上がる砂埃。西岸の背、砂岩の山だ。車は九十九折りの道を上る。
ポピーはリーリャン・シティを一望できる、かつてマシュウがこの街を訪れた初日にその全景を見下ろしたあの滝のそばで車を停めた。
「そんな顔しなさんな」
車の中を酒でもないかと漁ったが、あのいい加減な男も運転を誤ることはしたくないのかそんなものは乗せていない。ダッシュボードには葉巻が入っていた。ポピーは躊躇なくそれを拝借し、火を点けた。
「どうすればいいんだ…こんな…」
「簡単ですよ。旦那はジャックを連れて逃げればいい」
「この街はどうなる?」
「あんたの依頼はいつから世界平和になったんですか。わたし達が正義の味方かスーパーマンか何かで、人命救助だー、この街を破滅から救えー、と? 前も言ったじゃないですかい。旦那は愛する人のことだけを考えてればいいんです。わたし達はそのために金をもらい、働いている」
「…ロータスも」
「同じ意見ですよ」
「あなた達はどうする。逃げるのか」
ジャック・マゼラティのことはふん縛って無理矢理にでも引っこ抜けばいい話だ。記憶を失って名前もアル・ナスルのままだって構うものか。命がなけりゃどうしようもない。ポピーは黙って葉巻の赤い火を見つめた。逃げる。どうやって。否、逃げられるだろう。逃げられないことはない。自分とロータスなら。この二人を船にでも乗せて海に送り出して、それから…。
それからどこへ?
風景が浮かばない。景色が。光景が。
何もない。真っ暗だ。
ゾッとした。腹の底が震えていた。しかしポピーはそれをおくびにも出さず、ゆったりと紫煙を吐いた。悠然と、恐れるものなどないように。
「どうしましょうね」
口元に企むような笑みを浮かべる。
「この際、社長を見捨てて私も逃げるというのもありだな。旦那からいただいた報酬があれば、ハワイだかマイアミだかで飲んだくれて暮らせそうだ。アメリカは中立国ですから、のんびり余生を送るにはちょうどいい」
「…冗談を?」
「本気ですよ。社長のことは、泣いて弔えば許してもらえます」
「彼は泣いて恨むのでは」
「あの人は社長、わたしは社員だが、お互いの人生は自分のものです。失敗は自分のヘマだと承知している。恨みゃしない。それに社長は泣きません」
「どうかな。不人情者と…」
「泣きませんね、絶対に。わたしはあいつが泣くのを見たことがない」
ポピーは葉巻をくゆらせた。紫煙はふわりと夜空に舞い、細くなびいた。
「では、あなたの知らない所で泣いているんでしょう」
「それもない」
マシュウの言葉を言下に否定する。
それは確信を持つと言うより、当たり前の指摘だった。
「ロータスは泣いていない。少なくともこの街にきてからは一度もそうだろう」
「何故、分かるんです?」
「泣いた匂いがしないからさ」
「匂いですか」
マシュウの視線を受け、ポピーは葉巻を指先に抓んでみせた。
「これをやっちゃいるが、鼻は利くんだ」
再び葉巻をくわえ、ハゲ頭をぴしゃりと叩いた。
「鼻血が出るほど殴られようが、女とイチャついて昇天する目にあおうが、何もあいつを泣かせることはできないのよ。内蔵量がカラなんだ」
「過去に泣き尽くしたと?」
「カラになった理由は存じ上げない。ただ、あいつはもう泣けない。泣きたいと奴自身が望んでも」
ポピーの手は短くなった葉巻を外へ放った。赤い残光が弧を描き、湿った土の上で消えた。
しばらく車内は静かになった。滝を流れ落ちる水の匂いと、背後に迫ったジャングルの匂いが混じりあい鼻をくすぐった。
ロータスは泣かない。そして心底笑わない。金になる仕事を目の前にしても、コメディショーを観ても、酒が入っても。笑いには軽蔑や厭世がつねに混じっている。笑わない目が現実を睨む。
「長生きしないでしょうね、ロータスという男」
不意にマシュウの口から出た出た言葉は、ポピーを驚かせた。それは本来縁起でもない言葉のはずだったが、しかしポピーは急に愉快な気持ちに捕らわれた。彼はそれを隠さなかった。歯を見せてげらげらと笑った。
「客のあんたに見破られちゃしょうがない!」
「本当に助けないのですか」
ふふ、と紫煙と笑み。
「一蓮托生、運命共同体」
ぞっとしますなあ、と低く呟き、ポピーは正気の目をのぞかせた。
好奇心が湧いたのだろうか、マシュウがもう一つ尋ねる。
「あなたは泣きますか?」
「金になるなら何百リットルでも」
王宮を背にする空が白み始めた。夜明けの足音が聞こえて来た。ポピーはエンジンをかけた。目はしょぼついていたが、街まではもつだろうと思った。車はリーリャン・シティに向かって走り出した。
5
日が暮れ、ロータスは迷路のようなクーイーを抜け旧市街に出た。今でも道はよく分からない。壁が動いているのかと思うほど、同じ場所に出るということがない。この夜もアル・ナスルと一緒だった。女を買いに行こうと言った。
「お前は男専門じゃないのか?」
素直なアル・ナスルの問いに苦笑しながら答える。
「この世には不思議なことがあるもんさ」
例えばアル・ナスル、嬉々として娼窟に足を向けるお前が本当に愛しているのは誰かということとかな。
旧市街に夜の明かりは多くない。暗闇に目立つ灯があればそれは娼窟である。ロータスはいい店を選んだ。彼の目当ては女そのものではなかったからだ。何も知らないアル・ナスルは喜ぶ。二人はいつものように観光客の体を装って門をくぐる。
「リーリャン・シティも随分平和になったね。兵隊の姿を見なくなった」
敵娼と二人になるとロータスは言った。すると下着姿の娘は鼻で笑う。
「お客様は外からいらしたからそう思われるのだわ。普通の服を着て歩いているのよ。軍服を着ていない男達がうろうろしているわ」
「それは街のみんなが知ってるの?」
「いいえ。でもわたくしたちには分かるんです」
ロータスも奇妙な空気を感じていた。それは旧市街の人間達も同じらしい。
軍人の数は増えている。それと悟られないように。
「あなた様も長く逗留するの?」
「そのつもりだけど…」
「早く街を出た方がいいわ。遠くへ行くのよ。西は駄目。北も駄目。東も駄目。南へ行きなさい」
「南には海しかない」
「海へお逃げなさい」
「不思議なことを言うな。それに君は言葉遣いも違う」
「わたくしの言葉は王宮で話されていた言葉よ」
王宮語崩れだろう、と思うが、それにしても年若い娘がそれを話すのは珍しい。
当たりを引いたな、とロータスは微笑んだ。
「素敵だな。お姫様か何かだったのかい?」
「ばかね、宮殿が壊されたのはこんな幼い頃よ。わたくしの母が王宮にいたの。末のお姫様にお仕えしていた下女だったのよ」
「十二人いたっていうお姫様?」
「そう。王子様もお姫様も連れて行かれたり殺されたりしてしまった。でもね、十二番目のお姫様は銀の虎と呼ばれた程美しい方だったの。刀を取り、最後まで戦ったのよ。わたくしの母は爆弾の炎の中からお姫様を連れ出して、河へ逃がして差し上げたのです」
「じゃあ、そのお姫様は今も生きてるんだ」
「銀の虎の牙は折れません」
ロータスはベッドに押し倒された。娘は虎のような仕草でのしかかる。
「あら、あなた様は」
「…何?」
「わたくしには先のことが見えます」
「オレの未来が見えたのかい」
「ええ。あなたは死ぬ」
それは世界で一番当たる予言だ。人間誰しもいつか死ぬ。最後は死ぬ。
しかしロータスは大袈裟に恐れるふりをした。
「どうして…?」
「わたくしには見えるからでございますよ。蓮の花が手折られるように、あなたは死ぬ」
口づけが降り、露わになった柔らかな胸が押しつけられた。
ロータスは娘の絹のような黒髪に指を通しながら胸の中で呟いた。死ぬ、か。ポピーめ、もう少しマシなメッセージはなかったのだろうか。だがつまり事はかなり切迫しているということだ。死ぬ…、このままでは死んでしまうのだろう。自分も、アル・ナスルも、復讐に燃えるボスも血濡れの槍も誰もかも皆。
娘の手は熱っぽくロータスを抱いた。金で買った関係とは言えそこから感じるものは心地良く、ロータス今しばらくそれに溺れることにした。
*
血濡れの槍の車が突っ込んでしばらく休んでいた一階の飯屋は、店は元通りになったものの今日も客が入らない。ポピー、マシュウ、呼んでもいないのにやってきたシャルパンティエは額を付き合わせてビールを飲んでいた。
「決行は五日後。もう時間がない」
マシュウが言った。
雨期を前にして、雨乞いの祭りが催される。本気で雨乞いをするというより、慣習化したそれだ。春祭りほど派手ではないが新しい苗を植える時期、海の潮が変わる時期ということもあり、東岸の人間は特にこの祭りを一つの節目として重要視していた。
「果たしてこれが命のカウントダウンになるのやら…」
「血濡れの槍が橋を渡れば全員撃ち殺されるか、いやそれだけでは済まないだろう。薬で恐怖心を麻痺させた兵士と戦ったことがある。もし一人でも決死の突撃をすれば、リンチュウにも被害が出る。この可能性は高いと考えた方がいいだろうな」
サングラスで表情を隠し、マシュウは敢えて冷たい声で喋った。
ポピーはそれに頷く。
「同感です。しかも東岸には軍がいる。西岸の有様を見ればこちらでも殺戮が始まるだろう。クーイーには火が放たれる。両岸とも地獄絵図だ」
「地獄なら戦争で散々見たじゃない」
「BBC、珍しくまともなことを言ったのは褒めてやるが、黙ってろ」
「はいはい」
「ポピー、これは血濡れの槍が動くからこそ起こる事態だ。テロを止めさせることが難しくても何とか足止めできないだろうか」
「足止めして、どうするんです。逃げろと言いますか? 聞いてもらえると?」
「もっと大きなことが起こればいいんだ。テロと虐殺に抗するほどの力…」
「ここ二人じゃあとても…」
三人、と反論しかけてシャルパンティエは口にチャックのジェスチャーをする。
「台風でも来ればと思ったが、まだ…時期には早い…」
ポピーは言葉を途切れさせる。
「ああそうか」
彼はぽんと手を叩いた。
「橋を落とせばよろしい」
シャルパンティエが目を輝かせた。マシュウはビールをぐびりと飲み、サングラスの奥からポピーを真正面に見据えた。
「簡単に言ってくれたが突拍子もないアイデアだ」
「いや、シンプル・イズ・ベスト。単純な作戦ほど上手くいくもんです」
「上手くいくと、既にそう思っているのか」
「へっ」
ポピーは不適に笑う。目の奥に鋭利な刃のような光が灯る。
「見えました」
「白昼夢が?」
「いや、私は真面目な話をしている、マシュウ。考えてごらんなさい、実際ブランシュの橋を落とせばどうなるか」
「…ジャックはリンチュウに辿り着かない」
「ええ」
「警察の銃口は空振りだ」
「そうです」
「しかし東岸には軍がいるんだぞ」
「下町の連中が協力してくれたらいいんだが…」
「あと五日しかない。その上、向こうの人口といったらどれほどですか。旧市街だって相当広いのにクーイーがある」
「はい、はいはい!」
何とか沈黙を保っていたシャルパンティエだが、もうキラキラした目でうずうずしながら手を挙げた。
「発言権を求めます」
ポピーはマシュウを見た。彼はもう反対に票を入れている。
マシュウはシャルパンティエのわくわくした表情に眉根を寄せたが、しばらくの睨み合いの後折れたように、どうぞ、と促した。
「下町の人間もクーイーも、王宮の人間の言うことなら聞くよ」
「だから死んだか攫われたんだろうが。王宮は廃墟だ。誰も住んじゃいない。お前は何年ここのガイドをやってる」
「うん、だからお城にはいないけどさ、生き残ってる人がいるじゃない」
「……は?」
「お姫様が生きてるじゃない。十二番目のお姫様」
何を言っているんだこいつは、という目で二人が見ると、シャルパンティエは後ろを振り返り、ねえ、と声をかけた。
視線の先には女将が座っていた。刀を膝の上に、凶悪な顔で煙草を吸っている。
「ティグレ・ド・アルジャン」
銀の虎。
そうシャルパンティエが呼ぶと真っ白な煙が彼女の口から吐き出された。牙を剥きだしにし、女将は三人を睨む。奥から飛び出してきたボーイが足下に跪き、手話で何かを話した。女将は刀を取り上げ、石の床に刀を突き刺す。
「お怒りで御座います」
ボーイが小さな声で言った。
「見りゃ分かる…」
ポピーは呟く。
「プランセス、僕と一緒に向こう岸に行こうよ。大丈夫、僕のエスコートは世界一だよ」
シャルパンティエの言葉をボーイは通訳するが、女将はそれを見ずにシャルパンティエを見据えたまま、ふっ、と煙を吐いた。
煙草が床に落ちる。女将は立ち上がると刀を引き抜き、ずかずかと三人に近づいた。ポピーもマシュウも背筋を伸ばし息を止め、成り行きを見守る。シャルパンティエだけがへらへらと笑っている。
す、と刀が持ち上がってシャルパンティエの喉元に当てられた。
「心配しないで」
シャルパンティエは誠実さの欠片もない、しかし優しい微笑みを浮かべた。
「プランセスのことは僕が守ってあげる」
刃は喉仏の浮き出た首を、無精髭だらけの顎を、それから微笑みをたたえた頬をなぞり、急に退いた。女将は刀の先に口づけ、くるりと踵を返した。そのまま、また周囲の椅子を蹴飛ばすようにして奥へ戻ってゆく。ボーイが後を追いかけた。それきり、出て来なかった。
「……え、今のは…」
「じゃあ僕が東岸担当ね」
「おいシャルル」
珍しく名を呼び、ポピーはシャルパンティエに食ってかかる。
「何でお前はそんなこと知っとるんだ」
するとこのフランス人はぽかんとして当然のように、言った。
「寝たから」
*
朝の沐浴を、ロータスは石段の上から見下ろしていた。
「まだいらっしゃったのね」
声がかけられる。振り向くと長い黒髪を結い上げた娘がTシャツに半ズボンという姿で佇んでいる。
いつかの娼婦だった。母親が王宮の下女をしていたという。ロータスに死ぬという予言をした娘。
「南へお逃げなさいと申し上げたのに」
「もうしばらくここにいるよ」
「いったい何を見てらっしゃるの?」
娘はロータスの隣に立ち夕陽に眩しく光る川面を見下ろした。手庇を作り、あの男ね、と呟く。
「死相が出ているわ、彼にも」
「あいつは死なない…、死なせないさ」
「どうかしら」
娘はTシャツを脱ぐと、胸も露わに石段を下りる。
「目覚めるためには一度死ぬのよ。死をくぐり抜けて人は目覚めるの。あたらしい朝をむかえるの」
「名言だな。刺繍にして店に飾るといい」
「あなたは彼を次の朝につれてゆきたいのね?」
「…………」
「そのために自分も死ぬ覚悟をしているの? あの男の死も自分が引き受けようと言うの?」
「占い師の言葉はよく分からない」
「あの人の手を離しては駄目よ。あの人を新しい朝につれてゆきたいのなら。あの人を目覚めさせたいのなら」
メッセージをロータスは胸に刻み込んだ。
成る程、オレに出来るのはそれだけか。何があっても、何が起きてもあいつの、ジャック・マゼラティの手を離さない。マシュウの元へ連れて行く。
「ありがとう、娘さん」
娘は振り向かず結い上げた髪をほどき、名前のないあなた様、とロータスを呼んだ。
「蓮の花は泥に汚れない。手折られても水面に浮いて流れてゆくわ」
しなやかな肢体が河に飛び込み、大きな水飛沫が上がった。ロータスは頬にかかったそれを拭い、目を眇めて濡れた指を見た。
「シュリー、今のは?」
河から上がったアル・ナスルが尋ねる。
「美人だった」
「知らない女だよ」
「嘘だ。この前の娼婦だろう」
「なあ、お前さ」
ロータスはアル・ナスルの手に掴まって立ち上がり、言った。
「オレと一緒にどこか遠くに行かないか。誰も知らない街で、そうだ海を渡ってアメリカに行ってもいい、そこで新しい人生を始めないか?」
「どうしたんだシュリー」
「答えてくれ」
するとアル・ナスルは濡れた手で、彼曰く清められた手でロータスの頭を撫でた。
「今度の計画が上手くいったら、考える」
不意に背中が疼いた。黒いマリアの微笑みがロータスの背中を焼いた。
ロータスは後ろからアル・ナスルを蹴飛ばした。
「おっと、何だよ!」
「何でもねえよ」
「もしかしてビビってんのか、シュリーちゃん?」
アル・ナスルはからかい、怒ったロータスと無理矢理肩を組んだ。ロータスはむっとして、赤くなった顔を上げようとしなかった。




