第三章
1
「改めて仕事の依頼をしたい」
マシュウが切り出した。
午後の事務所は明るく、乾燥していた。テーブルの上には珍しく事務所側から出されたお茶が湯気を立てていた。ほどけていた空気が、マシュウの一言でぴんと張り詰めた。ロータス旅行社の二人は向かいのソファに並んで腰掛け、それぞれに頷いていた。ポピーは笑顔で。ロータスはしかめっ面だ。耳が赤く、さっきまでの羞恥がまだ残っていた。しかしマシュウの話はちゃんと聞いている。
「ジャックを見つけてくれたことは感謝している。その腕を見込んで頼みたい。俺はジャックを取り戻したいと思っている。盗賊団から足を洗わせ、共に祖国へ帰りたい」
「今まで以上に骨を折る仕事です」
「覚悟はある。用意も」
マシュウは先の仕事の成功報酬を入れた封筒をテーブルに置き、更に大きな封筒をその隣に置いた。
「確認させていただきます」
ポピーが金の入った封筒を取り上げ、中身を数える。
「こっちは」
ロータスが尋ねるとマシュウは黙って促した。
封筒は長旅の中でも守られてきたらしい。角がすり減った皺くちゃな書類だがしっかりとした厚みがある。ロータスはその一枚一枚をあらためる。
「権利書…」
「住所はどれ…パリですか。ほう。それにアパートが二棟」
「人生を賭けるという訳か」
「とっくに賭けている。必要ならばこの命も」
「そいつは取っておいてもらいましょう。命あっての物種ですよ旦那」
ポピーの言葉に少しだけマシュウの表情が和らぐ。
とは言えね、とポピーはお茶を啜りながら言った。
「実際がとこ難しい仕事ですわ」
「ステップがある」
ロータスが言葉を継いだ。
「まずターゲットに接触しなけりゃならない。次に本人の意志を確認する。あんた、この時点で相手が断ったらどうするんだ」
「自分の意志でここに残ると言うなら俺もその盗賊団に入る」
「あー……それじゃあその時考えることにして、最後が難関だな。足抜け。そのへんはどうなんだ、ポピー」
「もう少し調べる必要がありますなあ。盗賊団はクーイーの中でも触らぬ神に祟りなしって扱いですからねえ。規模は最大らしいんだが、ちょいと感触が違う」
「と言うと」
「東岸の人間ってのは今でも古語を使うでしょう。旧市街の人間は観光客相手だから今じゃ普通にフランス語も、ちょっとは英語だって話すが、クーイーの人間はほとんど喋れません。まず外部と接触しないから、古い言葉のままなんでさ。だがあそこの頭領はフランス語も英語も、それに王宮語も話すらしい」
「王宮語?」
マシュウが尋ねる。
「その名の通り、東岸の王宮の中でだけ使われていた言葉ですよ旦那」
「布屋の婆さんと話しただろ。あれは王宮語崩れだ。婆さん、若い頃は王宮にも反物を売りに行ってたからな」
訛りが強いと感じたのはそういう言葉だったからなのだ。
「しかし物売りが喋るくらいならば特別なことではないだろう」
「旦那、クーイーは下々の人間の中でも特別です。王宮の言葉を口にするどころか、そこに住まう人間の顔さえ直接見ちゃならない」
「あの倍もある土地に住む倍以上もの人間が?」
「この地上にも何億って人間が住んでて神の御尊顔を拝見したものはほとんどいませんやな。そういうもんです」
「言ったろ、王は神官、王妃は巫女なんだ」
眉を寄せて考え込むマシュウの肩をポピーが叩いた。
「存外素直なお方ですな、旦那、取り敢えず倫理道徳の問題をあんたは棚上げなさい」
ポピーの言葉に顔を上げる。
彼はニコニコ笑いながら言った。
「旦那は愛する人間のことさえ考えてりゃあいい。依頼人の信念がブレればこっちも上手く動けませんからね」
ロータスを見ると彼はボソリ、そういうことだよ、と言って立ち上がった。
「まずは盗賊団のことを調べる。それから接触だ。長丁場になるかもしれんが覚悟は…」
「決めている」
「だったな」
若社長は上着を羽織ると、掛け釘からパナマ帽を取り上げ事務所を後にする。マシュウはその背中を見つめた。
「うちの社長はやるとなりゃ仕事が早いんです」
ポピーが嬉しそうに言った。
華街の賑わいは秋風街で長く眠っていた身からすると血のざわめくような感じで、ロータスはその中から硝煙の匂いさえ嗅ぎ取る。幾つもの知った顔とすれ違いながら、しかし自分のことは知られないよう、ロータスは気配を消すことに専念した。
しかし。
「やあ! ロータスのロータス」
ロータスはうんざりして立ち止まった。人混みの中十メートルも離れているのに、長身のその男はひょろひょろと長い腕を振りながら真っ直ぐこちらを目指してくる。
「ごきげんようブルーブロッサムのシャルル、そしてさよなら」
「何だい機嫌が悪いの?」
シャルル・シャルパンティエはロータスの肩を抱き歩き始める。
「おい、俺の行く方向と逆だ」
「君が昼間からこっちに来るなんて珍しいじゃないか。お昼ご飯を一緒に食べようよ」
「昼なんかとっくに過ぎてるぞ」
「じゃあ昼寝前の一杯」
と言ってワインに付き合わされるのは奢りならば歓迎するところだが、この男の場合素知らぬ顔で自分に伝票を押しつけかねない。
「一人で行けよ」
長い腕から逃れ、ロータスは踵を返す。
その背にシャルパンティエが声をかけた。
「僕のまわした仕事はなかなかいいだろう?」
ロータスはちらりと振り向く。
「お陰様で」
「君らならできると思ったよ、ロータス旅行社」
仕事が終わったらまたゆっくり飲もうね、という脳天気な声を聞きながらロータスはまた人混みにまぎれた。そもそもシャルパンティエとはゆっくり飲んだことなどない。ロータスは金髪髭を追い出し、仕事の頭に切り換えた。
フランス語も英語も、王宮語さえ喋ることのできる盗賊団の首領。勿論、ある程度の頭でなければ盗賊団をまとめることは能わない。しかしこいつは変わり種だろう。手を出さないとは言え、警察が押さえていない筈がない。
一軒の酒場の前で足を止めた。店内は狭く薄暗いがカウンターの上のキャンドルに数人の影が浮かぶのが見えた。ワインと、疲れた老人の匂い。ロータスは店に足を踏み入れ、奥の席に向かう。浅黒い肌に白い髭をたくわえた老人がちらりとロータスを見上げた。
「いつもの。こちらの紳士にも」
カウンターの中に声をかけ、ロータスは老人の隣に腰掛けた。
老人は低く軋むような笑い声を漏らした。
「いつものなんて、お前、来たのは初めてじゃねえか」
「さあね、いつも飲んでるのが来るさ」
出されたワインは老人お気に入りのそれで、今日飲んでいた水で薄まったそれとは違う。彼は黙ってそれで喉を潤した。
「久しぶりだな白い鰐さん」
「お前こそ小僧。あんまり顔を見ねえから秋風街で干涸らびたのかと思ってたぜ」
「一歩手前だったさ」
ロータスが答えると老人は面白そうに笑った。髭の間から、唇から頬にかけて走る傷が覗いた。
「で、どうした」
「教えて欲しいことがあって」
「これ一杯でか?」
ロータスは黙ってカウンターの下で老人の手に畳んだフラン札を押しつける。
「まあ孫みたいに可愛がったお前相手だ、教えてやらんこともない」
「よく言うぜ…」
溜息と共に苦笑し、ロータスもワインで口を湿した。
「クーイーの盗賊団で、今一番大きいのはどこだ」
「そっちにゃあ手を出さん方が身のためだぞ」
「俺が欲しいのは情報だ」
「忠告はサービスだ、もらっとけ」
一番デカいのなあ、と老人は髭をしごく。
「おさらいだ、小僧はどれだけ覚えてる」
「俺だってそんなに知らないよ。今まで高飛び手伝ったところだから精々、ノコギリ葉と黒い絹と赤いサカナ…」
「おめえも相当ヤバいとこ敵にまわしたなあ。でも安心しろ、そいつらはもうねえ」
「ない…?」
「吸収されたんだよ、ボスを殺られてな。一つの団になった」
「待てよ、あいつら一家みたいなもんだ。それが簡単にまとまるなんて、一体どこの…」
「神が人の言葉を分けたもうたなら、人をまとめるのもまた神だろう」
老人の指は首から下げたクロスを触る。ロータスは嫌な予感を飲み下し、声に出した。
「…王宮語を話す男」
「王様も王妃様もお隠れになったが、その子ども達の行方は知れてねえな。息子が三人、娘は十二人いたはずだが」
思わず頭を抱えると、老人はまた低く笑う。ロータスの悩む様を見て楽しんでいるかのようだ。
「王子って決まった訳じゃあねえ。俺の見立てじゃ、王子も姫も殺されたか水晶の塔に連れて行かれたか。上の連中が綺麗なの囲ってるって話は聞くし、俺もちらっと見たことがある。多分、側近あたりじゃねえかな」
「…例えば護衛」
「力もあるし、教養もある。線としちゃ悪くない」
「そいつらの名前は」
「昔は白い槍と名乗っていた」
「今は?」
老人は寝物語で子どもを脅かすかのようにたっぷり間を開けて、ニヤニヤ笑いながら答えた。
「血濡れの槍」
ロータスは老人にもう一杯のワインを奢り、外へ出た。
秋風街からは遠景に見える水晶のビルも、華街からは聳え立つように見える。ロータスは目を細めるとパナマ帽を目深に被り、しばらく華街を歩いた。胸を露わにした女達が道の両端に立っている。いつもなら溺れたいと思うそこに目もくれず、彼は歩き続けた。
カフェや娼窟の裏口から入って情報を仕入れ、事務所に戻ったのは夜だった。階段の前で、前から歩いてきたポピーと出くわした。二人は狭い階段を押し合いへし合いしながら二階へ上った。マシュウはまだ事務所に待っていた。
三人は飯屋で正体の分からない肉を食べながら長いこと話し込んだ。
2
車窓を切り拓かれたジャングルの景色が流れ去る。列車はフナン河を北へ北へと遡る。ロータスは窓に額を押し当て景色に見入るふりをしながら、集めた情報を頭の中でおさらいしていた。
血濡れの槍。
今はなき王宮の残党が中心となり結成された盗賊団。クーイーの盗賊団を吸収して今やリーリャン・シティ、いやこの国一の犯罪組織となった。
しかし彼らはただのアウトロー集団ではない。古来からの伝統に基づく血の絆が盗賊達の繋がりを確固たるものとし、盤石にして強大な組織たらしめている。
首領は現地語だけではなく、フランス語、英語、それに王宮語も話す男。教養があり、人望も厚い。おそらく王宮の中でも王か王子の側近だった人物。名前は知られていない。ただ、ボスと呼ばれている。事情を知る人間の間では、ボスと言えばもう血濡れの槍の首領以外を示さないのだ。
その下で働くジャック・マゼラティはアル・ナスルと呼ばれている。そこそこの立場にあるというのがロータス達の推測だ。ボスがその名を呼ぶ人間は限られるという。また星の名前がつけられているのも決め手だった。
「アル・ナスル?」
作戦を練っていた事務所にてロータスとマシュウは口を揃えて尋ね返した。
「…あんたたち少年時代に天体観測をしたことは?」
「ない」
ロータスは言下に答え、マシュウは記憶を掘り返そうとしている。
そんな二人を見てポピーは少し優越感に浸りながら言った。
「なまじ学があるといけませんな。いや、失礼失礼」
「ああ、ドがつくほど失礼だ。とっとと説明しろよ」
「射手座にある星の名前ですよ。アル・ナスル。矢の先、という意味です」
「お前、いちいち星の名前まで覚えてるのかよ」
「わたしのツルピカハゲ頭の中には宇宙が入っているのです」
「ヤクが効いてるらしいな」
「つまりジャックは今アル・ナスルと名乗っているということか」
マシュウが脱線しそうなところを戻そうと尋ねる。
が、そこでポピーは少し額に皺を寄せ、うーむ、と唸った。
「そこなんですがね、一つ分かったのはボスは自分の気に入った部下には星の名前をつけてるらしいんですな。特徴を表すようなものをね。こいつは勲章の代わりです。ターゲットは幹部クラスだと考えていいでしょう」
アル・ナスル。矢の先。それは盗賊団の中での通称であり、役割も表している。
ロータスはまた別の場面を思い出した。
「オレが血濡れの槍に潜入する」
そう宣言しても大袈裟な反応はなかった。マシュウは目を見開いた。何としてでもジャックを取り戻したいのだ、危ないからよせとも言えない。自分が行く、と言うのも現実味のない相談で、結果ぐっと黙り込んでしまった。
ポピーはじっとこちらを見つめていた。自分がこう言うであろうことも予測していたと言わんばかりの冷静さだった。口元は柔和だが、目は笑っていなかった。
「外から手を出すのが難しいなら内側からだ」
「…できるのか、ロータス。あなたに」
マシュウが躊躇いがちに尋ねる。
「潜入はポピーの専売特許じゃないんでね」
「こういう作戦ならわたしより社長の方が向いてます」
自分から昔の泥に足を突っ込むと決意したロータスに、ポピーは頷いた。
「泥の上にこそ蓮は咲くもんですよ」
あのハゲめ、人前でよくもあんな恥ずかしい科白を吐きやがって。
ロータスは汚れたガラス窓に眉間の皺を映した。今乗っているのはリーリャン・シティと各都市を結ぶ列車の最前車両だ。マシュウがリーリャン・シティを目指して乗ったあのごった煮の車両とは違う。相応の金を払った、相応の金持ちがきちんと座席に座る車両だ。
血濡れの槍は今日、この列車を襲う。再びクーイーに潜入したポピーが命からがら持ち帰った情報だ。
血の絆で結ばれた盗賊団に潜入するのは難しい。入れて下さいと門戸を叩いても戸口で射殺されるのがオチだ。ならば一気にど真ん中まで飛び込まなければならない。
チャンスは一度。
ロータスは待ち続ける。
列車の揺れが大きくなった。先月の雨で浸水した部分だろう。スピードが落ちる。
そろそろ来るか。
それが響く前からロータスの耳はピリピリと震えた。そして鳴り響いた。銃声。乗客の肩が一様にびくりと震える。列車の音も相当五月蠅いのに、その音は人間の腹の奥に突き刺さるように響く。ロータスは窓に顔を押しつける。機関車の向こうに砂埃が上がっている。正面から何か近づいてくる。ロータスの耳には懐かしい、ジープの駆動音、タイヤがこのジャングルの泥を蹴散らす音。いや、それだけではない。砂煙の中から姿を現したものに、ロータスは思わず声を漏らす。
「馬かよ…」
先頭を切って走ってくるのは馬だった。騎乗者はライフルで機関車を狙う。機関士を狙うつもりだ。
再びの銃声が耳に届いた。列車ががたがたと揺れる。ロータスはすれ違いざまに走ってゆく裸馬を見た。
列車は急ブレーキをかけて止まった。後部車両からはもう喚き声と悲鳴が響き、人々が一斉に逃げだそうとしている。ロータスの車両の人間の中には貴重な品を隠そうと腐心する者もいたが、おおよそが呆然として椅子に座り込んでいるだけだった。
前方のドアが開き、覆面の男が姿を現す。長身、手にはライフル。覆面から覗く瞳は澄んだ青。
「降りろ」
男は短く命令した。
乗客は列車の外で一列に並ばされた。先陣を切った男、あれが矢の先、アル・ナスルだ。今は離れた場所から全体を監視している。隣にいる覆面を被っていない男がボスか? 乗客から金品を奪っているのは二人。一人が脅し、一人が奪う。こっちに銃を突きつけ睨みを利かせているのが三人。
後部車両でも似たような光景が繰り広げられていたが、中には逃げ出す者もいた。しかもそのいくらかは見逃される。彼らはどうせ貧乏人だ。それを見てロータスの隣にいた男がもじもじする。
「やめた方がいい」
ロータスは囁いた。
「オレ達が逃げたらきっと殺される」
「勝手に口を利くな!」
脅しをかけたのは最初の覆面の男ではない。ロータスは銃口が近づいてくるのをじっと見つめた。
「さあ、お前も持ち物を全部出すんだ」
「そんなもんねえよ」
問答無用で銃口が火を吹く。胸に衝撃。両側から悲鳴が聞こえた。
ロータスは膝から崩れ落ちながら視線を巡らせた。
銃を持った男がもう一人近づいてきた。アル・ナスルとボスは動かない。後部車両の方もこっちへの動きはなし、か。
顔から柔らかい地面に倒れる。
「黙れ! 黙らねえとおめえらも撃つぞ!」
粗暴な叫び声が悲鳴を止ませる。
「馬鹿が…!」
古語訛りの言葉の罵り。
動かなくなったロータスを男達は列から引きずり出し、引っ繰り返した。ロータスを撃った男が膨らんだ懐に手を伸ばす。
その手をロータスは掴んだ。
「ひっ…」
短い悲鳴は直後、絶叫に変わった。
ロータスが男の手を掴んだまま身体を捻ったからだ。
腕を捩る、だけでは済まさない。音を立てて骨が砕ける。
悲鳴を上げる乗客を黙らせていた男が、銃口をこちらに向ける。それがロータスには予測できるし見えている。
獣のように両手足をついていたロータスは、思い切り足を上に蹴り上げる。靴底が自分を撃とうとした男の顎を砕いた。
死んでないよな。心の中で冷静に呟く。殺したら駄目なんだ、今回は。
男の取り落とした銃を拾い、ロータスは向かってきた男三人を撃つ。腕。あるいは足。身体の真ん中は避けなければならない。撃ちながら走る。離れた所からこちらを見ていた二人目がけて。
大丈夫だ、後部車両を漁ってる奴らが追いつくまでには目の前に立てる。
だからあと一人。
アル・ナスル。
青い双眸がこちらを鋭く睨みつけた。ライフルが狙う。
射手座の矢の先を相手に撃ち合いは不利だ。
どちらが速く動けるか。
お前も志願兵で最前線でビシバシ鍛えられた上に盗賊稼業とくりゃ腕に覚えもあるだろうが…。ロータスは唇を歪める。生憎、こちとら年季が違うんでね。
幼い頃、言われた科白を思い出す。
お前には殺しの才能がある!
そうだよオレには殺しの才能がある。だから殺さずに事を進めるのは骨なんだよ。目撃者が残るだけでも背中がむずむずする。クソッ。
ロータスの動きが一瞬加速する。
相手には消えたように見えただろう。青い瞳が驚きで大きく見開かれるのをロータスは見た。
ロータスの手は今にも弾を発射するところだったライフルに触れ、その銃口を下げさせる。
「悪いな」
傾いだライフルを階段にアル・ナスルの肩へ駆け上り、後ろへ蹴りやる。
これで壁はなくなった。
ボスの目の前に、ロータスはふわりと降り立った。
フル稼働した肉体の細胞一つ一つが悲鳴を上げるのに耐え古い礼式のお辞儀をし、微笑みを浮かべる。
「御機嫌よう、神牛殿」
ロータスは王宮語で話しかけた。
世界が静止したかのような静けさ。
男の表情は変わらない。大して背格好がある訳ではないのに不思議と威圧感が漂っている。無表情のせいか。瞳の奥の暗さのせいか。パーツの一つ一つは人形のように整っている。しかしそれが合わさると人間としてはひどく不気味に見えるのだった。
「野郎…!」
背後から叫びが聞こえライフルを構える音。
遠くから喚きながら集まってくる沢山の足音。
目の前の男はまだ動かない。
ロータスは内心の焦りを押しとどめ、微笑みを浮かべ続ける。
「殺してやる!」
「待て」
アル・ナスルの叫びにようやくボスが手を上げた。
穏やかな声だった。決して張り上げた声ではなかったのに、それはその場にしんと響き、今度こそ周囲が静まりかえった。
面長の顔がロータスに近づく。
「何故、生きている。お前は撃たれたのだろう」
ボスは王宮語で尋ねた。
「私には幸運が見えます」
ロータスもまた王宮語で答え、懐から大きな懐中時計を取り出した。中央には弾丸が食い込んでいる。
「私には今日の出来事が見えていた。だから腕時計を外し、この懐中時計を胸に忍ばせたのです」
「予知をすることができるなら、この列車に乗らなければよかった」
「いいえ、私にはこの列車に乗る必要がありました」
泥だらけの上着を脱ぎ捨てる。腰に、細かな刺繍を施した飾り帯を着けているのがボスにも、他の人間にも見えたはずだ。布屋の婆さん秘蔵の品、王宮の者だけが着けることを許された金細工で留めた帯。
周囲がハッと息を飲む中、ロータスは跪く。
「私はあなたに会うため、この列車に乗ったのです」
「何故に」
「あなたの望みを知るからこそ、あなたのお役に立つために」
「俺の望み、とな」
「何喋ってんだ、なあ、ボス!」
背後でアル・ナスルが叫ぶ。
「早く殺せ!」
「黙れ、アル」
その一言は重かった。声、言葉そのものが重量を持っているかのようにロータスの耳にもずんと沈み込む。
果たして、直接それを向けられたアル・ナスルは石のように黙り込んだ。
「申してみよ」
再び王宮語でボスは話しかける。
ロータスは耳の奥に残る重圧を振り切り、優雅な発音に敬意を込めて言った。
「あなたの名はボス、神を載せた神牛。あなたはリーリャン・シティの守護者にして、我々を救う者。そして私は東岸の血を継ぐ者。あなたが東岸を救ってくれるものと信じ、参じました」
「その肌の色は」
「私は東岸の女と白人の間に産まれた子どもです」
そっと顔を上げ、象牙色の肌をとっくと見せる。
微笑みを。美しい微笑みを。身体を細胞の一つ一つまで操り、ロータスはその表情を作り上げる。
「名前は」
急にボスは王宮語を止め、周囲の人間にも分かる古語訛りの言葉で話す。
ロータスもそれに倣った。
「シュリーと申します」
「蓮を持った女神か、豊穣と幸運を司るという。見たところ、胸も尻もないようだが」
「母は私を女と思って産んだのです。うっかり性別は違ったようですが、御利益は授かったものかと」
「面白い」
ボスは高笑いをし、ロータスの手を掴んで引き上げた。
「引き上げるぞ、今日の収穫はこの女神だ」
手下達は驚きながらもボスの言葉に従う。腕を折られ顎を砕かれ手足を撃たれた部下達も不承不承それに従わざるを得なかった。
ボスは自分の馬にロータスを乗せた。すぐ後ろにつくアル・ナスルが恐ろしいほどの視線で睨んでくる。ボスには取り入ったものの、ターゲットの第一印象は最悪だ。
長丁場、か。
ようやくスタート地点に立ったばかりだが、既にロータスはくたくただった。こちらの名付けも名付けではあったが、ボスもどれだけ本気で「女神」と呼んだのか分からない。取り敢えず、今夜の尻の安全の保障は、ない。
祈る神のいないロータスは泣くことも溜息をつくこともできず、青い空を見上げた。
3
「ここが俺達のアジトだ」
初めて足を踏み入れるクーイーの最奥はロータスの予想を裏切って文化的な空間だった。
確かにバラックや廃材でつぎはぎしたような建物だ。しかし表に光が漏れないだけでここには発電機もあれば電灯もある。酒を飲みながらテレビを見てゲラゲラ笑っている一団。別の部屋では警察の無線を傍受していた仲間が今日の列車強盗の捜査状況を報告に来る。
「クーイーは初めてだろう」
「ええ」
ボスの手はロータスの腰の飾り帯を触れる。
「悪い場所ではない。いずれ分かる。さあ歓迎の杯といこう」
通されたのは絨毯を敷いた広い部屋。その奥の席、ロータスはボスの隣に座らされた。
「さてシュリー、団に入るには絆を深める必要がある」
大きな杯が二人の前に運ばれ、濁った酒がなみなみと満たされる。
「我々は一族とならなければならない。そのためには血の絆を結ぶ」
ぐい、と右手を掴まれ杯の上に引き寄せられた。
ボスの暗い目がロータスを見つめる。ロータスはその目を見つめ返し、微笑む。
無言のまま、ボスは腰に差していた短刀を抜いた。柄にルビーを嵌め込んだ豪奢な装飾。刃は三日月のような弧を描き、電灯の明かりに妖しく光る。
刃先が掌の中央から手首まで、真っ直ぐに皮膚を切り裂く。ロータスは微笑みを絶やさずそれを見つめた。血が酒の上に滴り落ちる。
「怖じぬか」
小さく、王宮語でボスが囁く。
「元より」
ロータスも王宮語で返す。
ボスは杯を取り上げるとそれを一口飲み、次の席へ回した。順繰りに回し飲みがされ、最後に回ってきたものをロータスが飲み干す。
「これでお前も血濡れの槍の一員だ、シュリー」
「有り難き幸せ」
礼をもって返し、杯を置く。
ボスは黙ってロータスの手に包帯を巻いた。
そこから宴会の始まりだった。ロータスはボスと、そして彼の側近と何度も酌み交わしたが、ちっとも酔うことはできなかった。皆、飲んで食って騒ぎはするものの、アル・ナスル以下、手下のほとんどがロータスに憎悪の視線を向けており、現状は針の筵の上で悪魔の腕に抱かれながら苦行の水を飲んでいるに等しい。
そのロータスをボスは飲みっぷりがいいと褒める。
「二人でゆっくりと飲もうか」
腰を抱かれ、立ち上がらせられる。するとロータスに向けられる憎悪の目の半分はニヤニヤ笑いに変わった。ロータスは視界の端にアル・ナスルを見た。彼は二人が部屋を出るまで、鋭い視線でロータスの背中を追い続けた。
通路のような部屋のような場所を抜け、着いたボスの部屋は思いの外小さなものだった。ランプの明かりに簡素なベッド。枕元の壁には破壊される前の王宮の写真が飾られている。
突然、部屋の空気が変わる。いや、背後に立つ男が。
ロータスはそれを感じ取ったが何をすることもできなかった。ベッドの上に押し倒され、喉元に短刀を突きつけられる。
「言え」
王宮語でボスは言った。
「お前の本当の目的は何だ」
「お話ししたとおりです」
「正直に答えろ」
冷たい刃が押しつけられる。
「予知など嘘だな。あの懐中時計は最初から弾がめり込んでいた。お前が死ななかったのは防弾チョッキのお蔭だ。お前がクーイーの暗がりで捨てた」
「…あなたこそ千里眼の持ち主か、神牛殿」
「茶化すな。次で喉を掻き切る」
ロータスは微笑みをやめ、不適な笑みを浮かべた。
「確かにオレは予知能力など持っていない。時計もあんたが見抜いた通りだ。あれで死ななかったのは運がよかった。しかし、だ。この鼻は利く。あの列車に乗れば盗賊に襲われるだろうと思っていた。オレはあんたに会いたかった」
「まだ言うか」
「本当さ。オレは嘘は言っていない。オレは白人に犯された東岸の女から生まれた。自殺した王宮の下女がオレの母親。これが証拠だ」
飾り帯に手を触れると、ボスもそれを見下ろした。
「…確かに女官の帯だ」
「オレは西岸に、水晶の都に住む奴らに復讐をしたい」
笑みを消し、ロータスは続ける。
「あんたは王宮の生き残りだろう。オレ達の神を奪った白人に復讐を続けてきた。白人が祖国へ帰るための列車を爆破し、襲い、金品を奪う。だけどあんたは東岸の人間を殺さない。あんたは西岸を襲うつもりじゃないのか。いつか、あの水晶の塔を壊してくれるんじゃないのか。オレは旧市街で細々と暮らしてきた。下町の誰も、クーイーの人間だってあんたらの話は滅多にしようとしないんだろう。でも皆が期待してる。ボスならやってくれるんじゃないかってね」
刃が静かに退く。ボスは立ち上がり、短刀を鞘に戻した。ロータスはベッドの上で息を吐いた。
「本当に殺されるかと思った」
「本当に殺すつもりだった。お前が嘘つきならばな」
「嘘じゃないと信じてくれた?」
「その瞳を見れば分かる」
「ありがとう」
ロータスはベッドに沈み込む。そして覚悟した。
しかし覚悟したようなことは起きなかった。ボスは服を脱がず、ランプを置いた小さな机に座った。
「ん…?」
「今夜はそこで寝ろ。俺のお手つきになったとなれば、奴らもそう手出しはするまいからな」
「あんたは?」
「俺は女の方が好きだ。お前が抱いてくれと言うなら吝かでもないが、あの体術をかけられないとも限らん。腕を縛ってやらせてもらうぞ」
「それはちょっと…」
そういうことを黙ってやるかと思えたが、とロータスはボスに対する評価を改める。
「お前が疲れていないならばもう少し話をしよう」
「話?」
「心置きなく王宮語を話せるのはいい。部下の前では通じる言葉を使わなければいかんからな」
「喜んで」
ロータスはベッドに腰掛け、夜通し話をした。
嘘の生い立ち、嘘の思い出話、偽りの共感。そのどれもを、まるで真実のように。
瞳を見れば分かるとボスは言った。確かにこれらを口に出すロータスはどれも嘘だなどと思っていない。ロータスには嘘も真実も等しく塵のようなものだった。だから彼の目は微笑みを湛えたままそれらを話すことができるのだった。
先の列車強盗では稼ぎが少なかったため、血濡れの槍はその月何度も仕事に出かけた。そのたび、ロータスはボスの隣に置かれた。
最初こそロータスはボスの愛人として見られたが、実際現場に出るとなると彼の仕事ぶりは優秀で、その視線も段々変化する。荒事でも手際がよいし、よく故障する車の修理も出来た。時には下っ端のやるガソリン泥棒もやった。
が、一番買われたのは危険を察知する能力だった。
クーイーには手出ししないとは言え、警察が盗賊団の仕事全てに目を瞑る訳がない。ロータスの鼻はいち早くそれを察知し、出くわさずに済むようなルートを選ぶ。お蔭で最近の首尾は上々、団には被害が出ないまま収穫を得ることが出来た。
ボス以外は例の時計のことも知らず、今でもロータスを予知能力者と信じる者も多くいて、シュリーと名を呼ぶ時もボスの愛人を呼ぶ下卑た表情から一変、ある種の敬意をもって呼ぶ者も現れた。
しかしアル・ナスルの態度だけは変わらない。
アル・ナスルはボスに忠誠は誓っているものの、仲間と群れようとしない所謂一匹狼だった。酒の席でも常に一人離れた場所で飲んでいる。それは当初、彼が見た目にも明らかな白人であるからかと思われたが、仲間の方は彼の射撃の腕を褒めて「テッポウウオ」とあだ名を付けるくらいだから敬遠しているという訳でもないらしい。
「どうして彼はいつも一人なんだ」
ある日、ロータスはボスに尋ねた。夕方の沐浴の時だった。
二人は川岸に石段に腰掛けていた。アル・ナスルは夕陽に照らされた河の深くまで潜り、一人河の中に佇んでいる。
「孤独だからだ」
ボスは一言答える。
「でも仲間なんだろう。あんたは彼に星の名前をつけた」
「あいつには名前がなかったからだ」
「名前が…?」
「あいつはジャングルで生まれた」
そう言えばマシュウと対面した時もそんなことを言っていた。
自分はジャングルで生まれた捨て子だ、と。
「あいつは白人だ。オレみたいな混血でもない」
「アルに肌の色は関係ない。彼は一度死に、全てを失った。そして俺の手によって助けられた。生まれ変わったんだ。あの雨の日、横倒しになった列車の中の死体の山の中で、あいつは生まれた。俺がアル・ナスルと名前をつけたから」
「捕虜移送列車の襲撃…」
「彼は生きた。俺と神に選ばれたから」
蓮の花、俺がお前を得たようにな、とボスは囁きキスがされた。
ロータスは驚いたが、動揺を隠して間近にあるボスに微笑みかけた。
刺さる視線があった。ロータスは皮膚でそれを感じ取った。アル・ナスルだ。ブルーアイズの鋭い眼光が肌を刺す。
夜、集まって食事をしているところへアル・ナスルはロータスに近づいてきた。
「貴様」
ロータスが顔を上げると、青い瞳の奥で憎悪の炎を燃やしながらアル・ナスルが見下ろした。
「オレは貴様を信用していない」
それに対してロータスが微笑みを返すと、顔に唾を吐きかけられた。周囲はざわめいたが、ロータスは黙ってそれを袖で拭った。アル・ナスルは最後までロータスを睨めつけ部屋を出て行く。戸口の闇の向こうに後ろ姿が消えると、周囲が口々にロータスに話しかけた。中には憤る者もいたが、ロータスはそれをいなした。笑みは存外、本心から漏れたものだった。
ようやく一歩近づいたな、ジャック・マゼラティ。
4
春祭りの季節が近づいていた。
ロータスが血濡れの槍に入ってから一月を超え、マシュウが初めて事務所を訪れた時を考えればもうカレンダーを三枚も捲った計算になる。
このところ血濡れの槍は息をひそめており、ボスも側近と共に無線機の前に張りつくことが多かった。ロータスはボスのお気に入りではあるが、まだまだ新参者だ。まだ作戦会議の席からは外されてしまう。その間、ロータスはアル・ナスルをじっくり観察することにした。
ボスの言葉は比喩が多かったが、つまりジャック・マゼラティは捕虜解放の行われた七年前、移送列車襲撃によって記憶を失い、血濡れの槍――当時は白い槍――に拾われたということになる。親兄弟も知人もいない土地で記憶さえ失ったとなれば孤独にもなるだろうし、自分の命を助け名前を与えたボスへの忠誠心も理解できる。そしてロータスへ向ける憎悪にも。
しかし記憶というものは消え去るものだろうか。アル・ナスルと名前を変えても、その身体にはジャック・マゼラティの記憶が染みついている。銃の扱い方一つ、それは軍隊生活で習い覚えたものだ。
取り敢えず彼が元々ジャック・マゼラティという人間だったこと、マシュウという自分を待つ人間がいることを伝えなければならないだろう。
「とは言え」
ロータスは独り言を呟き、煙草の煙を吐く。
「いつ話を聞いてもらえるかだよなあ」
ロータスとアル・ナスルの関係は現在最悪だ。アル・ナスルがロータスに向ける視線は、ボスを取られた嫉妬と言うより殺意に近い。悪い虫は駆除、だ。アル・ナスルには飾り帯の威力もない。彼には歴史がなく、恐れるものはない。信じるのはボスただ一人。おそらく今二人きりになるチャンスを得、話したところでロータスの話は信じてもらえない上に、腹に風穴を空けられるだろう。
顔に唾を吐きかけて以来、アル・ナスルはロータスに近づこうともしない。取り敢えずロータスは朝夕の沐浴には川岸に出て、遠くからジャックを眺めている。
「ジャック」
そっと呟く。
笑わない横顔。遠くからもアル・ナスルの鋭い視線はロータスに刺さる。
「お前の本当の名前はジャック・マゼラティなんだぜ」
飾り帯には脳天気笑顔を浮かべた十代のジャックの写真を隠していた。その時になったら証拠としてつきつけるために。ロータスはもうすっかりその笑顔を覚えている。自分を睨めつけるアル・ナスルの表情には、笑顔の面影なぞ一片もない。
ロータスは一人になれる場所を探していた。
ここでは一人一部屋など割り当てられている訳もなく、夜になれば皆適当な場所で適当に眠っている。おおよそが酒を飲んではそのまま、床に横になっていた。普段のロータスは愛想よくしているものの、一味との必要以上の接触は避けたかった。彼には触れられたくないものが色々とある。入ってしばらくはボスの寝室で寝起きすることが多かったが、このところは一人で過ごしていた。ボスは自分のいない時でもあの部屋を使っていいと言ったが、たまに先客がいて乳房も露わにベッドに横になっているのだ。
今夜も部屋の前を通っただけでベッドの軋む激しい音がした。そういえばもう随分女を抱いていない。飢えている、とまで切迫はしていなかったが、その音を黙って聞いているのは身体に悪そうだ。結局、バラック屋根の下をうろうろと彷徨った。
暗闇での行動にロータスは慣れていた。だから急に襲いかかる拳の気配にもすぐ対応した。
男。二人…三人か?
向こうも黙って襲いかかってくる。夜討ち、だろうか。ロータスに好感を抱いていないのは、アル・ナスルだけではない。
襲いかかる男達も闇に慣れているようだった。それもそうだ。生粋のクーイーだったら、生まれた時からこの闇夜に生きているのだから。地の利は向こうにある。ロータスはぬかるんだ足場に追いやられたのを感じた。バラックの壁が狭まり、迫ってくる。
追い詰められた。
男達の荒い息づかいが聞こえて来た。畜生、とロータスは毒づく。殺すのは簡単だ。オレにはできる。暗闇での殺しこそがオレの十八番なんだから。そうすれば逃げられるだろう。でも今まで粘ったのもフイになるぞ。仲間殺しをして盗賊団に残れるはずがない。
「暴れるんじゃねえぞ…」
低く、涎を垂らすような声が聞こえた。
「暴れたら今度こそ殺すからな」
「あの時の痛みを味わわせてやる」
尻だけが目当てなら…クソッ、ここは犬に噛まれたと思って一回…いや三人だから最低三回か。耐えるか? でも三回で終わる保障もない。
迷う間にロータスの身体は地面に組み伏せられた。後ろから巨体がのしかかる。
「ランプだ!」
不明瞭な声。
「こいつの顔が歪むのをたっぷり拝んでやる」
あいつらだ!
列車強盗の日、ロータスが腕を折り、顎を砕き、手か足を撃ち抜いたあの男達。こりゃ三回じゃ済まないかもしれないぞと奥歯を噛みしめたロータスの顔をランプが照らした。明かりの中に見える人影は四人。それに後ろから押さえつけている男。顎に包帯を巻いた男がロータスを覗き込んでいる。ジーザス、とロータスは信じてもいない神の名を呟く。
「ボスとは毎晩ヤッてんだろ。オレ達も慰めてもらわねえとな。特にご挨拶が必要じゃねえか、そうだろ新入り」
髪を掴まれ舐めるように言われた。
「全部剥げ」
腕を副え木で固定した男が言う。
「一発ごとに刻んでやる。もうこんな真似できねえように」
まずズボンが引きずり下ろされ、そしてシャツに手がかけられた。
地面に俯せにされたロータスは、その時初めて抵抗した。
「やめろ! クソッ、どけ!」
「暴れるなっつったろうが!」
「うるせえ貴様ら、オレの背中に触ってみろ、殺すぞ!」
「やれるもんならやってみるんだな」
振り下ろされた足がロータスの頭を地面に叩きつける。
「おら、とっとと破れよ」
ロータスは叫んだ。しかし口からは泥が這入り込み、声にならない。
最初から殺せばよかった。背中を見られるくらいなら、こいつら全員殺して、仕事を放り出してでも逃げれば…、オレは何を迷ったんだ、馬鹿かよ!
シャツを掴まれ、ナイフの取り出される音。舌を噛むか? 自殺なんざもっとごめんだが、死にたい気分だ。最悪だ、最悪だ!
「貴様ら、何してる」
冷たい声が興奮で熱せられた空気を裂いた。
「デネボラ、アルゴール」
その声はボスではない。しかし興奮を一気に冷ましてしまった。
「アル…」
若干媚びるような口調でロータスを押さえつけた男が言った。
「何をしているかきいたんだ」
「ちょっとした…分かるだろ?」
「貴様らこそ分かってるのか。そいつはボスのものだ」
「だけど…」
「ボスのものに手ぇ出していいかって聞いてんだよ、アルゴール。それに貴様らもな。いいか、ボスを穢すようなことな何であれオレは許さない。槍の仲間だろうが、オレは容赦なく貴様らを殺せる」
銃を突きつける音。
そして沈黙。
背中を押さえつける力が緩んだ。ロータスは首を捻って、その光景を見た。ランプの明かりに照らされた足が立ち去り、消えていく。
「命拾いしたな、売女」
その声は闇の中から吐き捨てられた。ロータスは起き上がると、ズボンは何とか引き上げたもののだらしなくバラックの壁に寄りかかった。下からランプに照らされたアル・ナスルの冷たい目が見下ろしている。
「助かったよ」
ロータスは安堵の息を吐き、思わず素の笑みを漏らした。
「ありがとう、本当に助かった」
その時、黙って立ち去るかと見えたアル・ナスルの表情に思いがけないものが浮かんだ。戸惑いだ。何故かアル・ナスルは狼狽えていた。そうか、とまだ上手く回らないながらもロータスは思う。この一匹狼はボスに褒められることはあっても、誰かから素直に感謝されたことなどないのだ。
「勘違いをするな」
語気を強め、アル・ナスルが言った。
「オレはボスの持ち物を守ったんだ、お前を助けたんじゃない。お前もボスのオンナなら自覚を持て。お前の身体はボスのものなんだからな」
「ありがとう」
ロータスがもう一度繰り返すと、アル・ナスルは顔を背け地面に向かって唾を吐いた。妙に力んだ背中が去っても、しばらくロータスの顔からは作り物でない笑みが消えなかった。
もうアル・ナスルはロータスを無視することができなくなっていた。挨拶も、微笑も。それまではねつけてきたものが届いてしまう。仕方なく居心地の悪そうな顔を背ける。それを見送るロータスの顔から微笑は消えない。
アル・ナスルとは微妙な距離が保たれたまま、春の祭りが近づいた。
この土着の祭りは王宮のある東岸だけではなく、西岸でも大きな賑わいを見せる。色粉や色水が街中に撒かれ、人はそれを浴びようと通りに犇めく。本来、色粉を撒くのは王宮の人間の仕事だったが、そこが廃墟と化した今では誰でもそれをばら撒くようになり、その日は両岸とも混沌とした空気に陥る。そこを狙っての強盗だった。
呼ばれたのはアル・ナスルとその部下二人、そしてロータス。
「混乱に乗じてリンチュウの銀行を襲う」
「リンチュウ?」
これまで華街での仕事もないではなかったが、水晶のビル建つリンチュウは盗賊団の間でも不可侵だった。それは単純に警察や軍のお膝元であるという理由でもある。
「銀行は休みの上に、警察も祭りの警備で大忙しだ。あれだけの人手があれば、警報が鳴ってもそう易々と辿り着けまい」
「だけど、こっちも逃げるのは大変なんじゃないか?」
ロータスが尋ねると、ボスはロータスの胸を指さした。
「だからお前をつける」
「必要ない」
アル・ナスルが言った。
「オレ達だけで充分だ」
「アル」
ボスはなだめるようにアル・ナスルに声をかける。
「祭りの日の仕事だ。少しでも幸運がつくよう、俺からの祝儀と思え」
アル・ナスルは不満そうだが、ボスからの心付けと言われてはこれ以上文句も言えない。それで話は切り上げられ、話は作戦に移った。
大まかな作戦は華街を襲うそれと同じだ。船で西岸に渡り、用意された車で銀行に向かう。襲って獲物を得た後は車を乗り捨て、船で東岸に戻る。ブランシュの橋はリーリャン・シティでも一番警備が厳しく、使うことはできない。が、河まで出れば何とか逃げようはあるという訳だ。銀行強盗そのものの成果を見込んでいるのではないだろう、とロータスは予測した。ボスはここずっとリンチュウの様子を無線で探っていた。これまで華街を襲った連中も、おそらく血濡れの槍に協力する者達なのだろう。ボスは警察や西岸の動きを観察し、大きな襲撃の機会を狙っている。リンチュウの銀行強盗は、恐らく仕上げ前の実験なのだ。
いよいよ時間がなくなってきたが、アル・ナスル、ジャックに近づく大きなチャンスでもある。いや、それとも西岸に渡ったのをいいことに、そのままこいつを拉致できないだろうか。無理矢理にでも抜けさせればこっちのものだ…、と思った所でぐいと首を絞められた。アル・ナスルが襟首を締め上げる。
「足手まといになれば捨てるからな、覚悟しておけよ」
ロータスは苦しいながらも笑みを浮かべた。
「任せておけよアル・ナスル。オレは豊穣と幸運をもたらすんだぜ」
言った途端にロータスは突き飛ばされる。
ボスに支えられて立ち上がりながらも、ロータスは笑みを消さなかった。
決行当日。春祭りの日。
朝の沐浴が終わるとリーリャン・シティには異様な興奮が満ち始めた。祭りの一番の賑わいは正午だ。それまでは人が犇めき、車が走れたものではない。
早朝、船で西岸に渡ったロータス達四人は人混みが落ち着くのを待って秋風街の端に待機していた。ロータスは古いバンの運転席に座り、懐かしの秋風街をじりじりする思いで眺めていた。
作戦を打ち明けられた日から、アル・ナスルはロータスを監視するようになった。用を足すとき眠る時、一時たりとも離れようとしない。これまでとは立場逆転だ。ロータスはポピーに連絡を取り襲撃の日に直接この男を確保する作戦を練りたかったのだが、叶わなかった。全く無理ではないがここで姿を消してアル・ナスルの不信を買うというのはリスクが高すぎる。
まあ希望は捨てるものじゃないだろう、とロータスは頬を持ち上げた。西岸、しかも秋風街を通るとなればそこはロータスの庭。
「行くぞ」
正午を過ぎ、アル・ナスルが声を掛けた。
この時刻になると、車が通れば人が道を空けるほどには落ち着き始める。事前の無線で警備の手薄な通りは教えられていた。ロータスは取り敢えずそれに沿って車を進める。一番の賑わいは華街で、リンチュウはいっそ落ち着いて見えた。通りにまき散らされた色粉と色水。それを跳ね上げて走ると、水たまりの水をかけられた観光客が、この日ばかりは文句を言わず楽しそうに笑う。
銀行前に車を停めるまで、街はまだ健全な賑やかさを保っていた。
「貴様はここで待機だ」
助手席から下りながらアル・ナスルが言った。
「勝手に逃げるな。逃げたら殺す」
「そんなことしないさ」
「殺すぞ」
嫌な念を押し、アル・ナスルと仲間の二人は銀行の前に立つ。そして早速機関銃を乱射した。祭りの嬌声が悲鳴に変わる。あちこちで逃げ惑う人の波。興奮したのか、誰かが撃つ銃声までした。ロータスは車外の騒ぎなど知らぬ顔で煙草を吸いながら待った。
荒っぽいやり方だ。金庫を壊すことなどできないから、警察の到着に諦めて逃げ帰ることになるだろう。カーチェイスになるかもしれない。腕時計で時間を計りながら、何とかアル・ナスルだけを乗せて逃げることはできないかと幸運を祈っていると、叫び声が聞こえた。
「出るぞ!」
銀行から出てきた三人の姿を見て、ロータスは煙草を口から落とした。流石に意表を突かれた。奴らは何かを引きずっている。人ほどの大きさもある鉄の箱。ボスはああなのに部下ときたら脳筋揃いだ。彼らは金庫を引きずって出てきたのだ。
ロータスは慌ててバンの後部座席を開ける。四人の力で何とか押し込もうとするが、金庫は引きずることこそできたものの、段差の上に持ち上げるのは難しい。
「アル・ナスル、時間だ!」
ロータスは叫んだ。
「馬鹿言え、まだ一分ある」
「行くんだ! サツが来る」
ロータスは運転席に戻る。急に一人が手を離したせいで、金庫は道路に転がった。足を潰されそうになった仲間が悪態をついたが、それもすぐ慌てふためく声に変わる。サイレンが聞こえて来たのだ。
「乗れ!」
アル・ナスルの号令に仲間も金庫を見捨ててバンに乗り込んだ。
「ボスが言ってたより早い」
「警察もたまには仕事をするってことさ」
ロータスが車を急発進させると、十字路の左右からパトカーが迫ってくるところだった。
「掴まれ!」
舌を噛むなよ、と言う前に自分が舌を噛みそうだったので、最低限の忠告だけをし、ロータスは華街に入る狭い通りにバンを押し込める。一台のパトカーが壁に激突したが、後続は華街に直接回り込もうとするだろう。
「メールド!」
その時、アル・ナスルの口をついてでたのはこの国の言葉のクソッタレではない、フランス語だった。これまで奴はクーイー同様に古語訛りしか話さなかったのに!
ロータスは思わずヤァ! ヤァ! と声を上げそうになるのを堪えた。やったぞ。こいつはアル・ナスルじゃない、ジャック・マゼラティだ。まだ全部を忘れた訳じゃない!
「行くぞ!」
バンは華街の目抜き通りに入る。バックミラーには追いかけてくるパトカーが何台も見えた。
「クソ、クソ、これでも食らえ!」
アル・ナスルは古語訛りに戻り、窓から顔を出す。手には愛用のライフル。その何発かは命中し、一台のパトカーがハンドルを誤る。回転しながらビルに激突する車。巻き込まれ後続車もあったが、追っ手はしつこい。
「おい、アル・ナスル!」
叫ぶとブルーアイズが初めて自分を見た。
「長引くとこっちが不利だ。このおんぼろじゃ向こうのエンジンには敵わない。もうすぐ秋風街に入る。オレが合図したら引っ込め」
「貴様の命令は聞かん!」
「死にたくないだろうが!」
エンジンが爆発しそうな程、ロータスはアクセルを踏んだ。アル・ナスルがライフルで応戦するもののパトカーとの距離はじりじりと縮まる。秋風街、そして懐かしのロータス事務所が視界に入った。
「今だ!」
ロータスが叫ぶとアル・ナスルがライフルを捨てて身体を助手席に押し込んだ。
急ブレーキを踏み、力の限りにハンドルを切る。タイヤが悲鳴を上げ、目の前にはビルの一階、ベニヤで出来た戸板が迫る。後部座席から悲鳴が上がった。戸板を突き破って車はビルの一階、客のいない飯屋に突っ込んだ。後ろから追ってきたパトカーが方向を変えることが出来ず、次々と通りの突き当たりに激突する。
ラッキーゴールも、ゴールはゴールだ。ロータスはバンから下り通りに駆け出ると、ビルの上階に向かって叫ぼうとした。
その時。
「来い」
アル・ナスルの手がロータスを掴んだ。
「え……?」
ポピーの名前を呼びかけたまま、ロータスはアル・ナスルに引きずられ走り出す。
ビルの二階の窓が開き、ポピーとマシュウが顔を出すのが見えた。恐らく、自分達の姿も見えているはずだ。
何か…何か合図を…。
ロータスは笑顔で親指を立ててみせた。やけくそだった。
窓辺ではマシュウが口をあんぐり開け、ポピーが呆れたように手を振った。
アル・ナスルはロータスの手を掴んだまま逃げ続けた。後ろからは仲間もついてきている。
「こっちでいいのか、シュリー」
「あ、ああ…」
川岸に辿り着くと、とにかく目の前にある船に飛び乗り、船頭を脅す。命が惜しい船頭はすぐに船を出した。船は河の流れに沿って海へ出る。
「結局一フランの儲けもなしだ」
仲間が嘆く。
「だが命がある」
アル・ナスルが言った。
「なかなかやるな、お前」
ニヤッと口元が笑い、白い歯がこぼれた。それはロータスに向けられた笑顔だった。
「ああ…」
ロータスは気が抜けて、船の底に転がった。
「お前もな、アル」
自然と笑いが込み上げた。情けなくもあり、心底おかしくもあった。いつの間にか笑っているのは二人になっていた。ロータスとアル・ナスルは笑いながら、お互いの拳をぶつけ合わせた。
5
酒の匂いと誰かのいびき。昨夜の宴会のまま雑魚寝をした部屋の隅でロータスは目を開いた。動くものの気配を感じ取ったからだ。そいつは立ち上がり、外へ出て行く。ロータスは息を殺ししばらく周囲を窺った。他に起き出す者はいなかった。
足音を頼りに後を追う。視界は上下左右もないほどに真っ暗だが、湿った路地を歩く音や、錆びたバラックの匂い、肌に触れる冷たい空気が色々なことをロータスに教えた。夜が明けるより随分早いこんな時間に、川辺へ何の用だ?
バラック屋根の下を抜けると、静かな川音が耳や肌を撫でる。川辺の石段にはまだ人の姿はなく、そこへ下りてゆくのは長身の後ろ姿だけだった。汚れた赤毛のアル・ナスル。
ロータスは気配を隠すのをやめ、石段に腰掛けた。懐から煙草を取りだす。
ライターの音が静かな川辺に響いた。
河の中からアル・ナスルが振り向く。
「…シュリー?」
「おはよう」
ロータスは軽く煙草を振る。赤い残像が空中をよぎる。
青白い夜明けが迫っていた。アル・ナスルはいつものように全身を水にくぐらせる。川面に立つ波が白い波紋を描く。
「来ないか?」
突然アル・ナスルが声をかけた。
ロータスはちょっと笑い、足下で煙草を揉み消す。
「遠慮する」
「お前はいつも河に入らないな」
「濡れるのが好きじゃないんだ」
そう答えるとアル・ナスルが石段を上がってきた。
「河の水は神の恵みだ」
「神様を信じてるのか?」
「ボスが言った。水はオレの罪を洗い流す」
「罪?」
「人の物を奪う罪。金も、物も、命も」
アル・ナスルはロータスの隣に腰掛けた。煙草を勧めると素直に受け取る。
ライターの火に表情がよく浮かび上がった。ロータスは間近でそれを見る。青い双眸にもう敵意はない。
「お前はどうして団に入った?」
煙草を一吸いしたアル・ナスルは大きく煙を吐き出し、尋ねた。
「ここに来る必要があったからだよ」
「何故本当のことを言わない」
「本当のことさ」
「シュリー、昨日オレはお前に命を預けた。お前はオレ達の命を助けた。今にも捕まりそうなところをオレ達は逃げ出した。いいか、オレはお前を信じたんだぞ。嘘はなしだ」
アル・ナスルの言葉は朴訥で偽りがない。
ううん、とロータスは言葉を濁す。
「手に入れたいものがあったから…」
「何だ? 金か?」
「手に入れるのがとても難しいものだ。ここにいなければ手に入らないもの」
ロータスはアル・ナスルの目を見る。
「オレはそれを手に入れて、家に帰る」
「団に入ったらここが家だ、オレ達は家族だ」
「そうだったな」
「シュリー」
アル・ナスルの右手が差し出された。
「命を預けられる相手ができた。ボス以外には初めてだ」
「…ありがとう」
ロータスがその手を掴むと、アル・ナスルはニヤリと笑った。
彼は急に立ち上がり、ロータスの手を引っ張る。昨日の逃走劇のように、強く、容赦なく。
「ちょっ、待っ、うわっ!」
叫びながらロータスの足は石段を離れ、川面に突っ込む。
派手な水音と水飛沫。
アル・ナスルの笑い声が響く。
「なっ…にすんだ、てめえ!」
「やっと怒ったな、シュリー」
水から顔を上げたロータスを、アル・ナスルは笑いながらまた河に突っ込もうとする。
「やめろ馬鹿!」
「蓮の花とか気取りやがって、全部嘘だと思ってた!」
アル・ナスルは楽しそうにロータスに水を引っかける。
「濡れるのが嫌だって? もうずぶ濡れだ。ほら、神の恵みだぞ!」
その時、東の端から光が射した。川面が黄金に染まる。
朝日が昇ったのだ。
ロータスの表情から血の赤みが失せる。象牙の肌は白磁の白さに変わった。ザバッと音を立てて立ち上がる。水と一緒に何かが肌の表面を伝って流れ落ちる。足は岸へ向かった。河から上がろうとした。
「シュリー…」
それ、が目に入ったのだろう。アル・ナスルの声はぼうっとしていた。
「どこに行くんだ。その背中…」
「見るな」
見たら殺さなければならない。
「…女神?」
手が追い縋る。ロータスはそれを振り払おうとした。いつもの力で。本来の力で。人を殺すことのできる力で。
殺意は一瞬で伝播する。振り払う手を掴むアル・ナスルの手も本気だった。攻防の一瞬、ロータスは己が負けるとは思っていなかった。しかし彼は自分でも意外なほど動揺していた。アル・ナスルの手に捕まりまた河まで引きずり戻される。身体は派手な水音と共に背中から水に落ちた。起き上がりまた逃げようとしたが、アル・ナスルの手はロータスのシャツをしっかりと掴んでいた。すっかりボロのボタンが弾け飛び、濡れたシャツが引きずり下ろされる。
ロータスは朝日に背を向けたまま、表情を凍てつかせ河の中に佇んだ。
「黒い女神…」
アル・ナスルが呆然と呟く。
見られた。とうとう見られた、背中の刺青を。真っ黒な肌のマリア。背中一面に彫られたその姿を。黒い肌、なだれるような黒い髪、輝く黒い瞳、厚い唇に浮かぶ美しい微笑み。衆生を抱きしめるかのように柔らかく広げられた腕。これだけは見られてはならなかった。ロータスは知っている。鏡越しにしか見たことのないこのマリアが一体どんな力を持つのか。このマリアはロータスを救わない。それどころか自分を目にした者さえも。黒いマリアは男を惑わすだけだ。
だから殺さなければならない。
これが仕事であることも忘れた。彼の人生で最も優先される事。刺青を見た者は殺さなければならない。惑った男が自分を殺そうとする前に。
腕を掴まれ河から引き上げられる。
「離せよ」
「キリストを信じてるから隠してたのか? ボスは神様まで押しつけやしないぜ」
「違う、見るな」
「どうして」
絶望的な顔をしたロータスの目の前でアル・ナスルは笑ってみせた。
「綺麗じゃないか、もうちょっとよく見せろよ」
明るい朝日の下で、ロータスは時が繋がるのを感じた。
目の前の男の笑みには、カメラに向かってVサインをしていた十五歳のジャック・マゼラティの面影があった。
「恥ずかしがることはない」
「…何ともないのか」
「何が?」
「いや…」
アル・ナスルが手を離したが、ロータスはもう逃げなかった。
「そうか」
ロータスは河の水で顔を洗い、深く息をついた。
「へえ」
「どうした、思わせぶりな溜息ついて」
「いや、お前みたいな男は初めてだよ。オレはお前のことを友達だと思う」
「おいおいどうした」
「友達だから、殺さないでいてやるよ」
「何だそれ、おい、シュリー」
「ところで色男」
ロータスは流されそうになっていたシャツを拾い、背中のマリアを隠す。
「お前の腕の刺青は?」
そう尋ねると、アル・ナスルの表情に不安の影が差す。
手が左腕のハートを撫でる。
「知らない……いや、覚えてないんだ。思い出せない」
「…記憶が……?」
「オレはジャングルの中で目が覚めた。列車事故に遭ったとボスは言ったが、列車に乗ったことも覚えていない。オレはオレの本当の名前も知らないんだ」
でもこれは、とブルーアイズが優しく細められる。
「きっとオレの大事なものだ。オレには記憶も、ボス以外の家族も、神もいない。でもこれはオレが一番大切にしていた宝なんだ。心臓のハート」
「そのMっていうのは…」
「これの意味が分かった時、オレは全部思い出す、全部取り戻すはずだ」
ロータスは黙ってそれを聞きながら、心の中でやさぐれ気味に思った。
やべえな。
記憶喪失のくせに、かなりの重症だ。
別れてからの全ての時間、その全てを、愛を取り戻すことに費やした男の依頼。名前も何もかも過去の全てを失ったのに、愛の存在を覚えているターゲットの男。その想いを成就させようとする自分はキューピッドだろうか、まさか、そんな。
煙草が欲しくなったが、もうびしょ濡れだ。ロータスはそれをくしゃりと握りしめて河に捨てた。
「アル! シュリー!」
声が川面に響いた。
二人は川岸に目を遣った。
ボスが立っている。その姿は朝日の中にも真っ黒に佇む影に見えた。




