第二章
1
水晶の都と呼ぶに相応しいビル群。白人の作った街、リンチュウ。通りは清潔で石畳に舗装されている。走る自動車にも錆くった年期物に混じってピカピカの欧州車がちらほらと見えた。それにしたって、このおんぼろのジープは目立つ。
改めてロータス旅行社の客となったマシュウ・ベーゼンドルファーは助手席からサングラス越しに煌びやかな街を眺めた。今日が旧友ジャックの捜索一日目だ。指定された時間に事務所に向かうと、階下に社長のロータスが待っていた。もう一人の従業員、ハゲた壮年の男ポピーの姿は既にない。ロータスはマシュウをジープに乗せ、まず中心街目指して走り始めた。
「あんたもこの辺りには来たんだろう、あのBBCを訪ねて」
「しかし、こんなど真ん中には初めて来た」
「普通は皆、ここを目当てに来るもんだぜリーリャン・シティなら」
今日はロータスもサングラスをしている。清潔なシャツに背広。ジープには些か不釣り合いだが、この男本人には似合っている。
ジープは石畳ではなくアスファルトで舗装された大きな通りに入るとスピードを落とした。見れば周囲の車も同じようなスピードで走り、平和的に一方向を目指していた。が、水晶の都はどんどん背中に遠ざかっている。
「どこに行くつもりだ」
「もちろん、現場を見せるのさ。捜索現場をな」
道は大きくカーブしながら緩やかな坂を描く。
「あんたが見つけた写真をヒントにしてBBCのヒゲが当たりをつけたとおり、ターゲットがいるのは東岸、しかも大迷宮の貧民窟、クーイーだ。あんたが一歩踏み込んだが最後。Uターンして逃げ帰る前に財布も服も命さえ取られかねない。だからあんたは大金を積んでオレたちを雇い、オレはポピーを向かわせた」
「彼はもう、そのクーイーに?」
「入るところを見せますよ。それが証拠だ。入ったらあいつだってそうそう簡単には出ては来られない。証拠写真も持ち帰る予定だが、いざとなればカメラより命が大事だからな。定期連絡がない間、あんたが痺れを切らしても困るし、ここは一つ自分の目で見てもって信用してもらおう、とね」
「ただ、入るだけ?」
「ただ、ね」
ロータスは唇の端を持ち上げ、ふふんと鼻先で笑った。
「これはポピーにとっても久しぶりの晴れ舞台、ショーなんでね。とくとご覧じろ。さて、その前に」
真っ直ぐに伸びた道の先に車が列を成している。その先にはゲート、そして暑く眩しい十二月の青空が広がっている。
ロータスはゲートで制服に通行料を支払うとゆっくりとアクセルを踏んだ。
「さ、リーリャン・シティ一の名所、ブランシュの橋だ。ここを通るのは一度きりでございます。数少ないロータス旅行社観光ツアー、しっかりと目に焼きつけろよ」
復路があるのでは、という言葉を飲み込んでマシュウはビルが途切れ、広がる景色を見た。
左手には先日見下ろした滝。そして右手に広がる景色こそリーリャン・シティの全景だった。水晶のビルを中心に同心円状に広がるリンチュウ、華街、そして水際の秋風街。
片や目を転じれば石造りの王宮。その建築の繊細な美しさは遠目にも迫力をもって迫る。それは対岸の水晶のビルに引けを取らない、いや半分が崩れてさえいなければ水晶にも負けない美しさだったろう。丘の下には旧市街と呼ばれる下町。そして川岸に向けて広がる木と藁とバラックの屋根屋根。クーイー。巨大な川に隔てられ二つの岸に広がる風景はそれぞれがまるで異国のようだった。
東岸の川岸には今も人の姿が見える。ほとんど半裸の、焼けた肌の人々。
ジャックもあそこで水を浴びていたのか。
「両岸を繋ぐ手段は基本的にこの橋しかない。ここの船は海へ出て魚を獲るためのものだ。あの滝と海から流れ込む海流のせいでこの河は複雑な流れをしている。船で渡れないこともないが、ま、後で実感してもらうさ」
反対側のゲートが近づき、ジープが速度を緩める。マシュウは橋の下を覗き込んだ。橋はすぐに岸に着いているのではなく、クーイーを大きく跨ぐようにして直接旧市街の只中へ繋がっていた。振り返れば西岸でも秋風街は橋桁の下である。ジープは西岸でもらった通行証を渡し、ゲートをくぐった。
旧市街を走りながらロータスは尋ねる。
「言ったとおり、貴重品は持ってこなかったろうな」
「ああ」
「一フランも?」
「少しはポケットに入れてきたが」
「なくなることは覚悟しておけよ」
ホテルの前に車を停めると、ロータスは煙草を吸い始める。マシュウは車を降りると運転席側に回って動かない若社長を見下ろした。
「クーイーへは?」
「その前にオレのジープを預けないと」
「誰に?」
ロータスはサングラスを外してシャツに引っかけると手にしていた煙草を振った。通りの向こうから旗を振るフランス人と観光客の一団がやって来る。その顔にはマシュウも見覚えがあった。ひょろりと背の高い長身は人混みの中でも目立つ。モーツァルトの肖像画のようにふわふわしたブロンドをリボンで結っているが勿論かつらではない。浮薄そうな笑顔とわざとのばしている無精髭は女にモテるコツだと、先日訊きもしないのに喋っていた。
シャルル・シャルパンティエ。
ロータスの事務所では口にするなと言われた、どこかの国営放送のような名前の旅行社のヒゲ、だったか。
「シャルパンティエさん」
マシュウが声をかけると、車の中でロータスが嫌そうな顔をした。
「ああ、これはこれはピアノ屋さん、お久しぶりです」
シャルル・シャルパンティエは後ろに引率する観光客を放ってマシュウに駆け寄ると大袈裟に抱擁した。
「このおんぼろジープと一緒の所を見ると、蓮の花には辿り着いたようですね」
「お陰様で」
「おいブルーブロッサムのシャルル」
「なんだねロータスのロータス」
苦々しげに声をかけるロータスにシャルパンティエはにこやかな笑顔を近づけた。
「こいつを預かれ」
「乗って帰っていいの?」
シャルパンティエはおもちゃを手に入れた子どものように目を輝かせた。
「仕方なしだ。壊したらお前ご自慢のイチモツを切り落とすからな」
「そんなことしないよ。僕はいつもポルシェに乗ってるんだよ?」
「いつか殺す」
ロータスはジープから降りると怒ったように背を向けた。シャルパンティエは笑ってマシュウの肩を抱く。
「ロータスの『いつか』は永遠に来ないいつかで、『殺す』はジュ・テームと似たようなものです」
「…では永遠に愛されないのですね」
「そのとおり! 流石ですねムッシュー」
シャルパンティエは軽く背中を叩いてマシュウを送り出した。
「さあ早くついていった方がいいですよ。ロータスの背中を見失えば迷子になること請け合いだから」
「メルシィ」
「よいツアーを」
マシュウはロータスの背中を追って観光客に賑わう旧市街を歩き始めた。
賑やかな露天の建ち並ぶ大通りから路地を曲がり、ひとけのない薄暗い場所に入っていく。
次に入った通りには観光客はほとんどない。現地の人間が生活をするための店が建ち並ぶ通りだ。果物や魚だけではない、表通りで売られている土産物の卸もやっているらしい。大きな荷物を頭の上に担ぐ人の姿や、牛が荷車を引くのも見られた。
「分かりますか」
小さな声でロータスが尋ねる。
何を問われたのか分からず目をきょろきょろさせると、すぐ目の前ですよ、とロータスは笑った。
「山高帽の男。ポピーです」
その言葉を合図にしたかのように目の前を歩く男が帽子を脱ぐ。そこには特徴的なハゲ頭。
ふと男の手から帽子が消えた。手元をよく見ようと目をこらすと、次に全身を見た時には派手なアロハが地味で薄汚れたシャツに変わっている。
魔法のように男の姿は変わる。まるでその場、その街角に生きる人間そのものに。最後にはハゲ頭を目印にする以外、ポピーの姿を追うことが難しくなる。
が、とうとう煙のようにその姿が消えた。ふ、と音も立てずして。ロータスが立ち止まった。マシュウも足を止めた。二人の目の前には路地への曲がり角があった。ロータスは横目に路地を見た。
「この向こうがクーイーです」
「クーイー…」
「ミノタウロスも真っ青の迷宮ですよ」
長居は無用だ、とロータスが促した。
「多分、ポケットには小銭も残っていないはずですからね」
マシュウは慌てて懐を探る。確かにそこは空っぽになっていた。
二人は旧市街の表通りに出ると、そのまま海岸まで歩き続けた。
「帰りは船です。橋の通行料より安いが、まあ安全を金で買うか、ゲロを我慢して吝嗇に徹するかだな」
ロータスが言ったとおり、海に出た時は反対側から見るリーリャン・シティの風景もまたいいと思ったものだが、それが上流に遡るとひどく船は揺れた。岸に近づいたかと思うと流れに沿うため河の半ばまで戻るというジグザグ航法。マシュウはとうとう船縁から身体を乗り出し、吐いた。船頭とロータスはげらげら笑いながらビールを飲んでいた。
這々の体で事務所に辿り着き、マシュウはぐったりとソファに腰掛ける。ふと顔を上げると冷たいものが差し出された。ビン入りのミネラルウォーターだ。ロータスは同じ物を飲みながら自分のデスクに座った。
「以上です」
ロータスが言ったのはそれだけだった。マシュウはじっと、この年若い社長の顔を見た。
「あとは待つしかない」
手を広げ、ロータスは言う。
「ポピーは必ずターゲットを捜し出し、連絡を寄越すでしょう。それまで待つ」
「連絡の手段は?」
「それは企業秘密です」
「定期連絡もないのか」
「怪しまれちゃ元も子もないですからね。その時になるまでこちらへのコンタクトはなし。その代わりの今日のツアーだ」
マシュウは冷たい水を飲んだ。それは身体の隅々まで染み渡った。
空のビンを置き、立ち上がった。
「これから毎日お邪魔する」
「邪魔をするなら帰ってほしいな」
軽口を叩く童顔を睨みつけると、ロータスははいはい申し訳ないと実のない謝罪をする。
「どうせ暇だ。遠慮せず来てくれ」
「ではまた明日」
「シーヤッ」
扉を閉めた後で、マシュウはロータスの英語に振り返った。扉に嵌め込まれたな波ガラスに描かれた蓮の花。ロータス旅行社の文字はフランス語。
まあどうでもいい。マシュウは狭い階段を下り、事務所を後にした。胃の中は空っぽだったが、一階の飯屋から漂ってくる匂いをかぐと再び食欲が失せた。その夜は何も食べずホテルのベッドに横たわった。しかし眠ることはできなかった。
2
クーイーは静かな街だ。ポピーはそう思う。植物の王国に似ている。確かにこの半島には滴るような緑の密林があるが、あの噎せ返る緑と泥の匂いとはまた違っていた。一年中雨ばかり降っていた深い森の奥の静けさ、湿った苔の上に横たわるような穏やかさがある。
一般にクーイーは危険な場所だとされる。迂闊に踏み込めば死ぬこともあるだろう。確かにここでは死は日常だ。しかしそれさえ静かで営みの一つとして成り立っている。死ねば、死んだ人間の持ち物はすみやかに生者のものとなり、祈祷師が手下をつれて裸の死体を運び去り弔いの花が撒かれる。死体は切り刻まれて河から海へ流される。それを赤い鱗を持った肉食魚が食べ、肥えた魚は更に海で鮫に食べられて、それを人は獲る。人は鮫を獲りはするが、決して赤い魚には手を出さない。バラックの下には象さえ住んでいる。森での仕事を終えた老いた象だ。象が死ぬとその肉は彼らの食料となる。ロータスがいつかそうしようと考えたことを、クーイーの人間は日常的に行っている。
ポピーは夜の明ける前に湿った寝床で目を覚ました。薄い壁の向こうからは機を織る音が聞こえた。寝ずの織りを続けている。納期が近いせいだろう。朝夕の沐浴の時以外、その音は止むことがない。
この街はただの貧民窟と思われがちだが、旧市街の経済を支える一大生産地でもあった。観光客用のマーケットで売られているものはクーイーの住民が作ったものだ。繊細な模様のスカーフや絨毯、絹織物に工芸品。観光客が持ち帰りガラスケースの中に仕舞う人形も、夜会で用いるエキゾチックなブローチも全て、このバラックの下に暮らす黒い指が作っている。
夜明け前の濁った暗闇に澄んだ鉄の音が響く。時を告げるそれに闇が静かに蠢き出す。
ポピーの眠っている湿った寝床には合わせて六人の男が横になっていた。皆一様に痩せて、半裸の肩が異様に盛り上がっている。そこに彼らは何十キロという荷物を載せて旧市街まで運ぶ。クーイーまでの細道には三輪トラックすらも這入り込む余地がない。全ては人の手によって運ばれた。ポピーはその人足の一人だった。
朝の挨拶も交わさず、彼らは黙ってバラック小屋を出る。通りにはもう人が並んでおりぞろぞろと河へ向かって歩いていた。ポピーも沈黙を守りその列に加わった。
背の低いバラックが犇めき、空は狭い。路地かと思ったものはいつの間にか家の中であり、往来で娼婦が仕事をする。酒を飲むのに椅子はいらず、車座になって飲み始めればそこが酒場だ。クーイーでは全ての境界が曖昧だ。
その代わり溶けこんだものは皆彼らの財産だった。家だけではない、女も、子どもも。子どもは共同体で育てられ、その中で受け継がれる伝統技術を習得するための弟子となる。機織りは永遠に機織りを続け、象遣いは象と共に生きて死に、その子どもが象牙細工を彫る。
時計もカレンダーもないが、ポピーの感覚はしっかりしていた。
今朝で二十日目だ。
現場から現場へ渡り歩き、目にしたものとわずかな会話からヒントを得、ほとんどターゲットの目星はついていた。ターゲットは定期的にリーリャン・シティを離れ、ジャングルに潜む。その姿を初めて見たのはクーイーに到着して四日目のことだったが、それからすぐターゲットとその一団は街を離れてしまった。あれから半月が過ぎ、そろそろ戻ってくる頃だ。運が良ければ、今朝の河にでも。
こと運というものに関してポピーは自分に味方するものがあると信じている。勿論、本当に勝負の女神が自分を気に入っているのなら博打で大負けするはずがないのだが、そこはそれ。川縁で太陽が昇るのを待つ。
東の空は熱せられたフィラメントのように白くなり、それが急に弾けた。
朝日だった。
人々は河の中に分け入り、朝日に輝く水を掬っては頭の上からかぶる。その中でも長身の人影をポピーは捜す。ターゲットは背が高く元々白人だ。それだけの特徴があれば、ポピーにとって捜すのは易い。
日焼けで真っ黒になった上に垢で汚れた背中、しかしそれをポピーは見つけ出した。直感があった。ポピーはより朝日に近づこうとする一団に混じって河を下り男の前に出た。
朝日を見上げる惚けた顔。十年前の満面の笑顔は面影もないが、このブルーアイズ。
ジャック・マゼラティ本人だ。
ようやく会えましたな、ターゲットさん。ポピーは周囲に倣って太陽に向かって礼拝を繰り返した。やはり自分はこと仕事に関して運がある。
川辺には水に足を浸さない数人の男。身体つきからして元軍人、いや現役と言ってもいい肉体だ。そしてここにまで持ち込んでいるライフルや刀。
なにも珍しくはない。クーイーの人間の中には奪うことを専ら仕事にする者だっているのだ。盗賊はクーイーに迷い込む鴨を狩るだけではない。密林まで出かけ、小径を走る車、大がかりな時は列車も襲う。半月働いては半月怠けられる仕事だ。
あれだけが仲間ではあるまいな、とポピーは全身を使って情報を収集する。ジャックに話しかけようとしている人間がいる。それを止めようとする人間も。その側でふざけて水を掛け合う男たち。彼らが話すのはこの半月の成果だった。ラジオが喋っていた新年早々列車が襲われた事件は彼らによるものだ。思いの外大きな組織らしい。
あの戦争中、密林の泥の中で人を殺す内に正義を失った者はいる。ジャックもその一人なのだろうか。盗賊はクーイーの他のコミュニティより関係が密だ。部外者を入れることはあるが、そのためには血の契約をしなければならない。実際に血が繋がっていないからこそ、彼らは結束を重んじる。リーリャン・シティの警察も盗賊には迂闊に手を出せない。一人殺せば、盗賊たちは倍の死体を警察署に前に積み上げる。
クーイーに向かう前、ロータスはターゲットが宗旨替えをしたのかもしれないと言った。ジャックは捕虜列車の事故に遭っている。そこから生還する際、神秘体験でも味わったか。この国の神に魅入られでもしたか。
ポピーは弛んだ腹を更にだらつかせ、ぐるりと白目を剥くと、足をふらつかせた。わざと蹌踉めく間でもなく、ごった返す人々がポピーの身体を突き飛ばす。
「ジャック、ジャック…」
か弱い老人の声で呼びながら、手を川面に彷徨わせる。すれ違う際にターゲットの体臭は覚えている。蹌踉めきながらもポピーはジャックに近づいた。
身体に触れると、怯えたように手を引く。勢いで水の中に倒れ込むと、手をばちゃばちゃと暴れさせた。
「ジャック、儂の坊や…」
若い腕がポピーの手を掴んだ。かかった、とポピーは内心ほくそ笑む。
「坊や、坊やかい…?」
「…………」
しかし返事は聞こえない。白目を剥いたままでその姿は見えないが、ジャックの手は確かにポピーを立ち上がらせた。しかしそれだけだ。
「儂のジャック坊や…」
「爺さん、はぐれたのかい」
声を掛けたのは別の人間だった。その手は親切にポピーを川岸へ誘導する。ターゲットの匂いが遠ざかる。ポピーは自分の手を引く人間からするりと逃れ、再び人混みの中からジャックを見た。
ジャックの様子は変わらなかった。相変わらず惚けたように朝日を眺めている。仲間の男達はもう立ち上がって帰りたそうな素振りをした。
「テッポウウオ!」
そう呼ばれて男が睨みつけると、げらげらと笑い声。それを一喝するようにライフルを持った男が呼んだ。
「行くぞ、アルナスル」
コミュニティ、特に盗賊達は親からつけられた名前ではなく役割をその名に冠することが多々あるが。
いささか面倒なことになったかもしれんなあ。ポピーは独りごち、クーイーの暗い路地に消えてゆく男の背中を見送った。
3
宣言通りマシュウは毎日ロータスの事務所を訪れた。ロータスが一階の飯屋でエピを囓っていると、もう通りに現れる。初日にその姿を見てから、ロータスは諦めた。マシュウはとにかく毎日やってくる。ロータスが社長机に腰掛けて新聞を読む。マシュウもホテルから持って来た新聞をソファの上で読んでいる。新聞を最後まで読み終えると、沈黙が沈黙らしく事務所を支配し始める。ロータスは椅子を傾け、窓から漏れ聞こえるラジオに耳を澄ます。マシュウは彫像のように動かずじっと待っている。待つしかないとロータスが言ったからだ、ポピーからの連絡を。
ロータスは昼食を摂りに階下へ行くが、マシュウは動かない。下の飯屋で食事はしないと決めたのか、まあそれも悪い決断ではない。正体不明のタンパク質の塊で腹を満たし事務所に戻ると、マシュウは出て行った時と同じ格好で首を垂れている。寝ているのではないのはサングラス越しにも分かる。鋭い視線が常にロータスに刺さる。しかしロータスは構わず昼寝の体勢に入る。長い午後をのんびり寝て過ごし、夕方、街角に竹琴の音が響くとマシュウは事務所を去る。これが四日繰り返された。
五日目、マシュウが荷物と共に現れた。段ボールから取り出されたのはティーセットだった。携帯用のコンロさえ持ち込んで湯を沸かし、紅茶を淹れる。そしてロータスに振る舞った。
「当てつけか?」
ロータスは有り難くそれを啜りながら尋ねる。
「こうしていると落ち着く」
「へえ」
「私は指揮官の通訳だった」
急な昔話だ。しかし情報ではある。ロータスは出かけた軽口を飲み込む。
「非常に優秀な人だったが、変わり者で、どんな時だろうと午後三時の紅茶を欠かさなかった。晴れた日は勿論、土砂降りのジャングルの中でも、鉛弾の雨が降り注ぐ下でも。紅茶を淹れるのは俺の役目だった。それからすっかり俺の習慣にもなった」
「美味いよ」
素直に感想を述べると、どうも、と低い返事。
「しかし戦闘中に紅茶を飲んでいるような指揮官で大丈夫だったのか?」
「人望のある人で、それに不思議とその人は弾に当たらないという、伝説のようなものがあったな。彼が泰然としている間はこの前線も大丈夫だという根拠のない…信仰にも近いものが部下にはあった。勝つと信じて戦うことができた。結構有名な人だ、マリアの息子と呼ばれていた人で」
「…マリアの息子?」
「弾が当たらないという伝説と、それに彼は本名をジェイコブと言ったんだ」
「面白い話だな」
ロータスは紅茶を飲み干した。二人が戦時中の話をしたのはそれきりで、その後ロータスはリーリャン・シティのことを自分から話しだした。戦時中までは王宮側の岸も賑わっていたこと。クーイーも今ほど凶悪な場所ではなく、貧しいながらも伝統を守って生きる人々の街だったこと。
「あんたも王宮が半壊したのは戦争のせいってことは知ってるだろ」
「有名な話だからな」
「王と王妃が死んだ。第一夫人だけじゃなくて、側室も全員さ。王は神官、王妃は巫女だ。国の中心だったし、国民の心の中心だった。それが死んでガラガラポンって訳だ。王宮の屋根が壊れてパンドラの箱でも開いたみたいにありとあらゆる災厄が街に蔓延った。戦争が終わって、生きてくためにはその真っ黒いのをどかさなければならない。災厄は全部クーイーに吸い込まれた。以来、あの街には太陽の光が射さない。真昼であっても地面を光が照らすことはない。晴れも雨も全部バラックの上の出来事だ」
「まるで伝承でも語っているかのようだな」
「酒場のジジイの受け売りだからな」
「あなたはこの街で何年になる、ロータス。戦前から?」
「あんたより長いのは確かさ」
ロータスは白のキングを動かす。ポピーの連絡を待って二週間が過ぎた頃から二人の間にはチェス盤があった。これもマシュウが持ち込んだ。ロータスはルールを知らなかったが教えられ指すことにした。何かを待つ時間というのはとにかく、長い。
「あんたも落ち着いてきたな、マシュウ」
ロータスが言うと、マシュウは心外だとでも言うように肩を竦めた。
「待ちわびる気持ちは変わらない。ただ社長の態度が怠惰なのではなく従業員への信頼によるものだと思うとそれなりに希望が持ててね」
「急いては事をし損じる、さ」
「その割には」
マシュウがナイトを進めると、ロータスはぐっと詰まったような声を上げた。
「盤上では拙速だな。チェックメイト」
ロータスはひっくり返りそうになりながらソファにもたれかかり溜息を吐く。
「これで俺の六戦全勝」
「お客様、人生山あり谷あり、一週間連勝だなんてことはこのロータス社運をかけてさせはしません」
「変な所で社運をかけない方がいいのでは?」
「明日こそ勝つ。オレが勝つ」
「あなたの戦法は、ロータス、意外と単純だ。勝利への最短距離を進もうとしている」
「キングを獲るゲームだろ」
「だから、あなたの手は見破り易い」
「何事も先手先手だ」
「先手と拙速は違う」
ムッとしたロータスが懐を探って煙草がないことに気づき不機嫌を重ねていると、ノックの音と共にドアが開いた。
同時に事務所に溢れる、まるで歌うかのような陽気な声。
「相変わらず変な匂いのする部屋だね、ロータスのロータス」
「…ブルーブロッサムのシャルル、一体何の用だ」
「おや、ごきげんよう。ピアノ屋さんのマシュウ」
「ベーゼンドルファーだ。ちなみに家業はピアノ屋じゃない」
「そうですか、そんなことより」
うんざりしたロータスに続きマシュウもちょっとうんざりしかけたところで、シャルパンティエが後ろ手に隠していたものを取り出した。
「今日はお土産だ、ロータス。この事務所は酷く殺風景だからね。リーリャン・シティの旅行会社らしく、客の目を楽しませるものを置きたまえよ、という訳でこれをあげる」
旧市街でよく売られている人形だ。死んだ王妃を象ったそれは幾重ものレースの衣装にくるまれている。シャルパンティエはそれをチェス盤の上に座らせた。人形はすぐに傾き、折角勝った黒のキングやクイーンもなぎ倒す。
「お前には俺たちが年頃の女の子にでも見えるのか? まあ大変お人形ちゃんが倒れちゃったって遊ぶとでも?」
「おままごとはしてるらしいじゃないか」
「アフターヌーンティーです、シャルパンティエさん」
マシュウまで加勢する。
「まあいいや。とにかくこれは僕の好意だから受け取りなさいよ。さっき旧市街のツアーから帰ってきたんだけどね、あっちですごくしつこい物売りに会ってさあ、お客さんに奢ってもらっちゃった、これ」
それを聞いてロータスは倒れた人形を取り上げた。もう一度座らせようとするが、人形はどうしても傾く。ロータスは引っ繰り返したり、レースの衣装を捲ったりしてそれを調べた。
「いやだわエッチ」
「黙れ」
シャルパンティエの軽口をロータスが黙らせる。
人形の背から伸びるほつれた糸をロータスは引っ張った。糸はどこまでも伸びる。衣装がほつれてバラバラになり、人形の背中が露わになった。糸が最後まで抜けると、人形の背中はぱっくりと開いた。
ロータスは腕時計を見た。日没まではまだ時間がある。
「…行きましょう、マシュウ」
「何? どうしたの?」
「シャルル、お前はとっとと帰れ」
「ロータス?」
急に立ち上がったロータスに、マシュウは懐かしくも鋭い視線を突き刺した。ロータスは真面目な表情の下、かすかに笑みを透かし人形の背から取り出したものをマシュウに見せた。
「夕方のクルーズです。川岸を埋め尽くす信心深い人々の姿は、リーリャン・シティの名物ですからね」
皺の寄った写真には、ジャック・マゼラティの現在の姿がはっきりと写っていた。
4
夕潮に逆らって進むボートは大きく揺れ、それでも先を急がせる乗客を跳ね上げる波でずぶ濡れにした。隣でロータスは苦々しい顔をしていたが、マシュウは構わなかった。胸の中には写真。ジャックが生きて、同じ空の下にいるという証拠がある。もうすぐ、彼に会える。
ボートは浜辺の桟橋に着く。ロータスが金を払う間にも既にマシュウは歩き出していたが、ロータスが何度も大声で止めるので仕方なく立ち止まった。
「逸りすぎだぜお客さん、スピードと拙速は違うんだろ?」
浜から河の上流を眺めても既に人が出ているのが分かる。しかしロータスは旧市街の通りにマシュウを連れて行く。色とりどりの布で飾られた店に二人は入った。伝統的な織物だ。
「変装か」
「俺たちにポピーみたいな真似はできないさ。せめて観光客らしい格好で行かないとな」
店の奥には太った老婆が座っていて、ロータスを見ると訛りの強い現地語で話す。マシュウも戦時中からこの国にはいるから日常会話に支障ないほどに習得していたが、老婆のそれは発音が独特で聞き取りづらかった。
「安いやつでいいんだよ婆さん、いかにも観光客っぽいやつで」
「お前様はこの綺麗な人にボロを纏わせようとのたもうかね」
老婆は一枚の布を取り上げると、太った身体を起こしくるくるとマシュウの周囲を回った。
「品あらばこそ、下々もそのとおりにそのお人を扱うことをよく承知するといいわ、小僧」
ずぶ濡れの服の上から腰布を巻かれ、青銅のブローチで留められた。
「神官様のできあがりでございますれば」
「俺にはカモにしか見えないね」
「それは小僧の目が節穴だからこそ」
小僧にはこれがお似合いだ、とロータスには地味な腰布を押しつけた。
マシュウはやれやれと腰を下ろした老婆に頭を下げる。
「ありがとうございます、奥さん」
「上品なお方、いってらっしゃい」
二人は観光客が即席信者になったような格好で表に出る。すると彼ら以外にも即席信者の姿がそこここにあった。
「すぐ側がクーイーとは言え、東岸は特別な場所だ。そこでは血を流すことも盗みも、あらゆる不徳が許されない。ま、河に出るまでがスリの天国だがな。今日も貴重品は置いてきたろうな」
ロータスに言われて初めてマシュウは自分が何も持たずにここまで来たことに気づいた。
「一フランも」
「上出来だ」
観光客の波に乗り、一度浜辺近くまで引き返す。そこから川沿いに上流を目指すのだ。
周囲の観光客もこれから見る光景に好奇心と期待を寄せたお喋りをしている。マシュウはただ黙りこくった。この先にジャックがいる。七年間、生死も分からなかったジャックが。
何度夢見ただろう。マシュウは瞼の裏に何度も何度もその光景を描いてきた。駅のホームで捕虜列車から降りてくるジャック。玄関のドアを開けるとそこに立っているジャック。戦犯収容刑務所の鉄の扉の向こうで自分を待っているジャック。そのどれもが現実にはならなかった。しかし。
写真の中のジャックは河に半身を浸し、目を細めていた。間違えようのないブルーアイズ。
ジャック。ジャック・マゼラティ。アパートの隣同士、兄弟のようにして育ったジャック。年齢を偽り志願兵になってまで追いかけてきたジャック。捕虜収容所で一生祖国には帰れないかもしれないという絶望が蔓延した時もジャックがいることが心の支えだった。戦争裁判の後、二年間灰色の塀の中に閉じ込められた時も、ジャックにもう一度会いたいからこそ心を折らなかった。
全ては、たった一言を伝えるためだ。
ジャック。
その時、肩を叩かれた。見るといつの間にかすぐ隣をポピーが歩いている。彼もまた観光客的装いをしていたが、腰布は巻かず首からはカメラ、頭にはパナマ帽を被っている。
「ご無沙汰ですな、いやお待たせいたしました」
特に声をひそめるでなくポピーは話しかける。
「ジャックは」
「そろそろ来ます。だが、わたしはあなたに一つご忠告申し上げたい」
「何を…」
焦れるマシュウの肩をポピーの腕が抱く。
「どうも興奮なさってるようだ。落ち着いてください。いいですか、彼は過去を捨てた男かもしれない」
戦争中に正義を見失った者がすっかりこの国に肩入れして、この国の人間になることはままある現象であり彼らは過去を捨てた男と呼ばれる。
「それだけじゃない、いいですか」
ポピーは急に声をひそめた。
「彼は現在盗賊団の一味です」
「盗賊…?」
「雇われじゃない。すっかり一味なんです。彼の近くには仲間もいる。だから迂闊に近づくことは…」
そこから先は聞こえなくなった。
観光客がばらばらと河の中に入る。パンフレットで見た作法を真似て河に足を浸し、掬い上げた水を頭から被る。そうやって広がった視界の中、マシュウの目はその姿を捉えたのだ。サングラス越しのぼんやりとした視界の中に、彼の姿だけ輝いて見えた。右目が痛み、すっかり視力を失った筈の左目からも涙が溢れ出るのが分かった。
「ジャック!」
旅行社の二人が制止するのも振り切ってマシュウはジャックに向かって走った。上半身裸のまま腰まで河に浸った男は大声にこちらを見た。ブルーアイズ。
「ジャック!」
マシュウは河の中に飛び込むとざぶざぶと水を掻き分けジャックの前に立った。
七年間会っていない、しかし目の前にいるのは確かにジャックだった。あの頃はまだ少年だった体躯もしっかりと筋肉がつき、日に焼けきっている。日焼けした赤毛は伸ばし放題で、乱雑に後ろで括られていた。だがあの目は変わらない。美しいブルーアイズ。取り替えの利かないジャック一番の魅力だ。
盗賊だって? そんな馬鹿な。ジャックの目は今でもこんな綺麗な色をしている。
「ジャック、俺は……」
用意した言葉を出そうとする。心の中では何度も練習した。七年間繰り返し続けた言葉を。
しかしブルーアイズのじっと見つめる中で、どうしても言葉はつかえてしまう。
「俺は…」
「どけ」
耳を打った言葉が何を意味するのか、マシュウは理解出来ない。
「え……」
「どけ」
目の前の男は繰り返し、自分に縋り付く手を引き離した。
「ジャッ…」
「誰だ、あんた」
マシュウはサングラスをかなぐり捨てて叫んだ。
「マシュウ、マシュウ・ベーゼンドルファーだ!400アパートの俺は441、お前は442、お前は俺を兄と呼び、俺はお前を弟のように可愛がったマシュウだ!十五歳のお前は年齢を偽って志願兵に…」
「知らん」
ブルーアイズが冷ややかに見下ろす。
「あんたのことなどオレは知らない」
後ろから腕を掴まれた。ロータスだ。しかしマシュウは振り返らず、もう一度訴えかけた。
「北部捕虜収容所で、五月二日、雨の降り出す前日だった、お前は俺に言ったじゃないか。一緒に故郷に帰ろうと。それに腕のタトゥーを…!」
「オレはジャングルで生まれた、捨て子だ」
「ジャック…!」
強く腕が引かれ、マシュウはそれに抗った。すると急に泥が緩み足を取られる。河にざぶりと落ちたマシュウを強く引っ張る腕。濁った水から顔を出し、マシュウは声を上げた。
「ジャック!」
「聞き分けがないぞマシュウ・ベーゼンドルファー」
低い声がして耳の横に衝撃。再びマシュウは河に沈む。濁った水が鼻と口から流れ込んだ。マシュウの目は最後までジャックを追った。ジャックは自分を見下ろしていた。感情のない、冷たい目で。
5
一番美味いものを、と注文すると山羊の丸焼きが出された。ロータスとポピーはそれを食べた。本当に美味かった。やはり正体の分かるものはいい。
テーブルの向かいではマシュウがビールのグラスを掴んだまま項垂れている。
相変わらず客のいない飯屋を通夜のような沈黙が支配していた。マシュウの様子はまるで喪主そのものだった。せっかく美味いものを食べたロータス旅行社の二人でさえはしゃがなかった。女将だけがいつもと変わらず不機嫌な顔で煙草を吸っている。
秋風街に辿り着くまでも一苦労だった。マシュウがターゲットにしつこく縋り付いたことで盗賊団の仲間が数人近づいてきていた。依頼は捜し出すところまで。見つけた後は知ったこっちゃないと考えていたロータスだが依頼人がむざむざと殺されそうになるのを見ている訳にもいかない。
成功報酬だってまだもらっていないんだ! と胸の中で叫んで自分を奮い立たせ、マシュウを無理矢理引き剥がしてあの場から去った。それでも尚も暴れるので、ロータスはとうとう自分の客を殴りつけなければならなかった。布屋の婆さんが賞賛した品のある顔は今両頬とも無残に腫れている。川辺で一発、船の中で目覚め河に飛び込んで東岸に戻ろうとしたところをもう一発。マシュウは二発目では気を失わずロータスに反撃をしかけた。しかしロータスはその拳を避けて相手の懐に潜り込み、腹にとどめの一発。蹲って嘔吐するマシュウを後ろ手に縛り、ようやくここまで来たのだった。
皿の上が骨だけになり、新たなビールが運ばれてくる。しかしマシュウのそれは最初の一杯のまま動かない。
「ベーゼンドルファーさん、ご報告申し上げます」
ポピーが静かに切り出すが、顔を上げない。ロータスはテーブルの向こうで動かない後頭部を見て音のない溜息をつくと、目顔で隣の男を促した。ポピーは頷いて話し始める。
「川辺でも申し上げましたが、彼は現在盗賊団の一味になっています。というか、随分長いらしい。クーイーには無数のコミュニティがあって盗賊団もその一つですが、彼の所属するそれはおそらく最大のものです。彼はその中でそこそこの位置を勝ち取っている」
「…ジャックは」
暗く籠もった声が聞こえた。
「ジャックは、そんなことをする奴じゃなかった」
「そこがまあ、わたしも判断の難しかったところで。過去を綺麗さっぱり捨て去っているのかと思いましたが、どうでしょうなあ…。本当に忘れてしまったのかもしれない」
「俺はジャックと一緒に故郷に帰る。約束をしたんだ」
「盗賊団から足抜けするのは不可能に近い」
「俺一人でもジャックを連れ戻す」
「社長」
ポピーの視線を受けてロータスが口を開く。
「はっきり言おう、マシュウ。無理だ」
「無理でも俺は行く」
「死ぬぞ」
「死んでも構わない」
暗い声が呟いた瞬間、ロータスはテーブルから身を乗り出しマシュウの襟首を掴んだ。顔が上がる。腫れ上がった頬、切れて血の滲んだ唇。右目がぎろりと睨め上げる。濁った左目さえ殺意を滲ませている。
「本気でそう思ってるなら口にするな。一人で勝手に行って勝手に死ね。俺たちには関係ない」
「…そうさせてもらおう」
「まあまあ」
ポピーが立ち上がってロータスの腕に手を置き、二人を座らせる。
「落ち着きましょう。ね、社長も、あなたも」
二人は睨み合いを続けながらゆっくりと椅子に腰掛けた。隣ではポピーが何度目になるか分からない溜息をつく。
「どうも仕事と感情がごっちゃになっているようだ。一つ一つ整理しますよ。まずベーゼンドルファーさん、あんたの依頼はジャック・マゼラティを捜し出すことだった。我が社はその仕事を受け、社長はわたしをクーイーに派遣した。わたしはジャック・マゼラティを発見し、社長とあなたに報告した。そしてあんたが当人と対面できるところまで導いた。いいですか、我々の仕事はもう完了しています。依頼を果たし終えた。よろしいか?」
「……確かにそうだ」
重い沈黙を挟んでマシュウが答えた。
「我々が求めたのは準備金と必要経費、それから成功報酬。これも間違いありませんな」
「間違いない」
「では、この件に関しては金を払ってもらえれば終わりです。問題は、あんたとジャック・マゼラティが再会を果たした際の筋書きが想像と違ったことだ」
マシュウは俯きかけたが、じっと上目遣いにポピーを見た。
「あんたも我々もターゲットが盗賊団に入っているとは思わなかった。更に過去を捨てたんだか記憶をなくしたんだか、あんなシーンが演出されるとは思ってもみなかった。あんたの想像では再会を喜び合って、それから祖国に帰るはずだったんでしょう。だが現実は真逆だった。しかも盗賊団の仲間があんたに近づいていた。わたしたちはあんたを放っておくこともできたんだが、そうしなかった。殴ってでも連れ戻した。成功報酬のこともありますよ、そりゃあ。でもね、目の前であんたに死なれたくなかったんです。あんたを助けたかった。分かってください」
ポピーが言うとマシュウはぎこちなく目を伏せる。隣ではロータスが斜睨みにマシュウを見ている。
「あなたがたには…」
マシュウは弱々しい声で言った。
「感謝もしている。嘘じゃない」
ロータスが何か言いかけて口を噤む。
「俺はジャックに一目会えればいいと思っていた。でも、目の前のあいつはまるで別人の顔で俺を見た。俺を知らないと言った。もう…訳が分からなくなったんだ。再会することができれば、それで全て解決すると…」
「何が解決すると思っていたんだ」
ロータスは静かな声で言い、テーブルの上に写真を差し出した。ポピーが人形に忍ばせて送ってきた写真だ。
「あんたはターゲットに何を言おうとしていたんだ。あんたとあの男の関係は何だ。刺青には何の意味がある」
指先が写真を叩く。ジャック・マゼラティの腕に彫られたタトゥー。図柄はハートに矢印の刺さったありきたりなものだ。
「ハートに彫られたMの字は?」
ああ…と小さな声を上げてポピーが目を覆う。ママじゃなかったか、と小さな声が噛み殺された。
「答えろ、マシュウ・ベーゼンドルファー」
長い沈黙が下りた。奥の椅子では、女将の足下に幾つもの吸い殻が落ちていた。厨房ではボーイが手持ち無沙汰にグラスを下げるタイミングを待っている。
マシュウはそれまで口をつけなかったビールを持ち上げ、ぐいぐいと喉を鳴らして一気に飲み干した。
ごとん、と音を立てて空のグラスが置かれる。
「七年前、捕虜解放の五月二日、最初の列車に乗り込む俺にジャックが言った。愛していると」
マシュウの静かな告白にロータスがげんなりと顔を歪めた。
「俺はすぐに返事をできなかった。軍隊じゃそういう関係もある。でも長く弟みたいに思ってきたあいつがそんなことを言うとは思わなかった。俺は何も言わず、逃げるように列車に乗り込んだ。返事もせず振り切った。あいつはタトゥーを見せてくれた。それから叫んだ。俺の名前を何度も、それから愛していると…。帰国した俺は戦争裁判にかけられ二年間服役した。その間、じっと考え続けた。そして俺が愛せるのもジャックしかいないと気づいた。しかし出所してもジャックの姿はなくて…俺は七年間捜し続けたんだ、ジャックに愛していると言うために」
「結局野郎同士の痴話喧嘩か!」
椅子を蹴ってロータスは立ち上がり飯屋を飛び出す。マシュウもポピーも呆気にとられてその後ろ姿を見送った。
奥でどしんと足音がした。女将が不機嫌そうに足を踏みならした音だった。
ロータスは階段を三階まで駆け上がり、ドアを開けて飛び込んだ。ロータスの私室だ。
事務所と同じ広さの部屋にベッドが一つぽつんと置かれている。壁には何故か真っ白なシーツが掛けられている。ロータスはベッドに横になり、しばらくじっとしていたが、発作的に「クソッ!」と叫んでベッドを蹴った。
ノックの音がする。
ロータスが返事をしなかったので、ドアは勝手に開いた。
「依頼人はホテルに帰りましたよ。取り敢えず、あたしがいなしておきました。ついでに社を代表して謝っておいた」
ロータスは黙って声の主に背を向ける。
ポピーは戸口に佇んだままベッドに近づこうとせず、そのまま話しかけた。
「あたしは、あんたがホモ嫌いだって誤解されようがどうだって構いません。あんたがそうじゃないことは、あたし知ってますしね。あんたが受ける誤解はあんたの問題だ。それで社の評判が落ちたとしても、元々人気なんかありゃしないし」
でもねえ、とポピーは優しい声を出す。
「誰も、人の愛をけなしたり貶めたりはできませんよ。許されません」
「誰が許さないんだ、お前お得意の神様か?」
「心です」
すっかり歪んだロータスの声を、ポピーは静かに諭した。
「あんたとあたしがあのジャングルで捨てなかった心です。明日、依頼人はまた来ますよ。ロータス、謝罪をなさい。そこで感じる恥や意地を心地悪く感じるかもしれない。でもそれでいいんです。それもあんたの心なんだから」
ロータスは背中を向けたままじっと動かず、返事をしなかった。ポピーは長居せず、狭い廊下に踏み出し、最後に一声かけた。
「おやすみ、ロータス」
静かにドアが閉まる。
闇の中でロータスは目を開けていた。彼はじっと闇を睨みつけていた。自分が心を捨てなかったというジャングルの光景を思い出していた。
瞼を閉じてもそこは真っ暗だった。目を開けても変わらなかった。ロータスはもう一度瞼を閉じた。ポピーの言ったおやすみの言葉が瞼の裏にふわりと浮かび、滲んで消えた。




