第一章
1
「雪が恋しい」
地球の片隅でそんな呟きがぽろりとこぼれた。
ユーラシア大陸南部、東南アジアに突き出た緑豊かな半島を大河に沿って下った突端。フナン河の広い河口によって二つの岸に裂かれた街、リーリャン・シティ。
古くは黎亮と書き表された東岸はこの国の中心であり王都だった。丘の上に聳える石造りの宮殿。かつてそこに住んだ王の見下ろした景色は、洋の東西の融合した独自の街並み、そして地平線までも広がる豊かな田畑。
しかし三年にわたり世界中を蹂躙した戦争は王宮の半分を瓦礫の山に変え、稲田のあちこちに巨大なクレーターを作った。クレーターは貯水池となり青々とした水が満たすが、終戦から十年経った今でも王宮に人影はない。
宗主国の敗戦によって独立を勝ち取ったこの国を治めるのはリーリャン・シティに変わりはないものの、その中心は河を隔てた向こう岸へと移ったのだ。
西岸。
石造りの王宮と対を為すように聳え立つ水晶のようなきらめきのビル群。今ではこの都市が水晶の都と呼ばれる由縁である。そこには古くから入植したフランス人の末裔と、自国民の中でも限られた富裕層のごく一部が暮らしている。
それを取り巻く華やかなヨーロッパ風の街並み。元々パリを模した造りで、その名も華街。一つの土地に貴と卑が入り混じり、その熱気には異様なものさえある。
猥雑さは川辺へ向かうごとにグラデーションのように濃くなり、水際で極まる。
西岸の外縁。河口の縁、海岸沿い。中央の整然たる様に比べ、いかにもゴミゴミとして背の低いビルが犇めき合い、はみ出したものは川面の上にまで増築を重ねる無秩序さ。人は犇めくがその誰も懐は乏しかろうことは一目瞭然であるそこは、いつしか秋風街と呼ばれていた。
先ほどの呟きは、その一角にある背の低い雑居ビルの二階から発せられたものだった。
扉には「ロータス旅行社」と書かれている。
ロータス旅行社はその秋風街の一角に事務所を構える、名の通りの旅行会社であり、今にも死にそうな顔でデスクにしがみついている男こそ社長であるロータスその人だった。
「雪…」
現地の人間にしては明るい栗色の髪はボサボサに伸び、顔を覆う。
「雪が見たい…」
いっそ食べたい、と胸の中で呟く。
澱んだ空気が、熟れ切ったオレンジのような西日に温められ、事務所内はひどく蒸し暑かった。天井ではファンがゆるゆると回転している。しかし部屋の空気は攪拌することも出来ないほどの密度で澱んでおり、呼吸さえ息苦しい。
どこかから漏れ聞こえるラジオの声が羽をもがれた蝶のように切り刻まれ、壊れて斜めに歪んだブラインド越しの西日が燐粉のようにきらきら光る埃と一緒に降り注ぐ。曰く、季節外れの雨は乾いた空気に潤いをもたらしたものの、この時期真面目に動いていた鉄道を寸断してしまったらしい。
潤いだと? この吸う息さえ気持ち悪く熱せられた湿気が、潤い?
「今日はクリスマス・イブなんだぞ…」
十二月二十四日、雪のないクリスマスはこれで何度目だろうか。
思えば短い生涯だった。生まれ故郷のヨーロッパを離れ、このように蒸し暑い冬の最中人生を潰えることになろうとは。
生まれてこの方、四半世紀。西洋人にしては体躯は小柄ながらも立派に戦争を生き延び、その甘いマスクで娼婦にはそこそこもて、若い身ながら会社も立ち上げ…、上々の人生と呼んでやりたかったがいかんせんこの会社が困窮していた。
理由は至極単純、客が来ないからである。
埃だらけのソファにテーブル。客はもう二月以上、ここを訪れていない。大手からのガイドや通訳派遣の依頼もない。
それでも何とか命を繋ごうと事務所を飾っていた骨董品、テレビなど少ない動産を売り、しまいには従業員の私物であったラジオさえ売り払った。
残る財産は紙ばかりだ。旅行会社らしく、所有する大小様々な微に入り細を穿つ詳細な地図がそこここに放り出されていた。商売道具であるそれらもまともに広げられなくなって久しい。
「ホワイト・クリスマス。ターキー。シャンパン……」
力無く腹が鳴った。
ああ、とロータスは嘆きの声を上げた。
唯一の従業員はロータスの懐に残っていた二枚のフラン札を握り締め、最後の晩餐の支度をしに行ったまま帰ってこない。トンズラこいたのだろう、とロータスは思う。常に逃げ足の速い男だ。しかも変装の名人であり、彼が本気になって逃げ出せば長い付き合いであるロータスをもってしても探し出すことは出来ない。
よかろう、ここで干乾びてやる、とロータスは開き直る。いいや、これは決意だね。それは曲がりなりにもオレが社長だからだ。ただあまりの空腹に、三途の川に辿り着く前に斃れてしまいそうだが…。これじゃ霊になっても浮かばれないな。
溜息を吐くロータスの背中を横縞の西日が焼く。熱い爪が食い込むようにロータスは感じた。背中に襲いくるのは飢えか乾きかそれとも過去か、何者にせよ彼はもう逃げる気もしなかったし嘲笑さえできた。
たとえ捕まろうとも、お前らなぞに屈するものか。
ロータスは伏せた顔を歪めて獣のような笑みを浮かべた。
上々の人生だったと笑ってやる。
若い人生の終焉を覚悟したそこへ、事務所のドアが軋みながら開く。ロータスはもう顔を上げようともしなかった。足音は散らかった事務所内を真っ直ぐロータスに向かってくる。途中まで真面目くさって重々しく床を踏んでいたが、靴音は応接の前まで来ると急に忙しく床を叩きタップダンスを踊った。
足は一しきり床の上で踊った後応接テーブルに飛び乗った。軽々しくスキップを踏み、二歩、三歩。大仰なジャンプをして、かつんと見事な着地。社長机の前に降り立つ。
「律儀に帰ってきたのか」
ロータスは顔を伏せたまま、ひらひらと手を振った。
「まさか本当に最後の晩餐を気取るなんて」
「何事も終わりが肝心だぜ、社長」
とん、と音を立てて何かが置かれる。ひんやりとした気配。ロータスが目蓋を開くと、目の前にはその中身の冷たさをありありと示すような汗を浮かべたミネラルウォーターのビンが置かれていた。
「が、神の肉を手に入れるには至らなかった。まあ、神の涙と、神の黄金の血で我慢しましょうや」
机の向こうでは、すっかりくたびれたアロハを着た禿頭の男がソファにどしんと腰掛け笑ったところだった。齢は不惑の半ばを越えたか、しかし好色そうというか軽薄そうな顔つきで、埃が盛大に舞い上がるのにも全く気にも留めない。
指輪をした左手にはスコッチが握られている。どうも神の肉が手に入らなかったのはそれによるものと思われた。
ロータスはミネラルウォーターのビンを頬に押しつけながら文句を言う。
「僕は社長だぞ。この扱いの差は何だ」
「これぞお互い最上級のウシュク・ベーハー、生命の水でしょうが。異論は?」
「ない」
にやりと笑い、ロータスは顔を上げた。指先が冷たいビンの蓋を弾く。
「そうでしょう」
禿頭の男は、これが最後の晩餐と自ら言いながらも、まるで明るくからからと笑った。
髪の毛の一本さえ残らない見事なハゲ。よく日焼けした肌に笑い皺が深く刻まれ、目の奥の光は眼前の状況を心から楽しんでいる。笑みは常の狡賢いものでも本心の窺い知れぬ仮面でもなく、芯から柔和に表情に滲み出ていた。スコッチこそが男の、ロータス旅行社唯一の従業員兼ガイド兼通訳のポピーにとっての喜びであり人生の幸福だったからだ。
ポピーの笑顔につられるように、ロータスは薄い水色のビンを軽く掲げた。ポピーもまたそれに倣う。
音のない乾杯で最後の晩餐は始まった。
自らウシュク・ベーハーと喩えたスコッチを一口飲み干し、ポピーはしみじみと言った。
「いやあ、進退窮まりましたなあ。背水の陣を布いて二ヶ月。大手におもねらず、高利貸しにへつらわず、客にさえ頭を下げず、無い貯金を食い潰したがこの有様だ」
「不服があるなら、それを売ったらどうだ。純金だろ」
よく冷えたミネラルウォーターを呷りながらロータスが指差すと、ポピーは左手中指に光る指輪を庇った。
「これだけは売れません。それを言うなら、社長だって懐のリボルバーなんかとっとと売っ払ったらどうです」
「嫌だね。魂を売り渡すくらいなら餓死した方がましだ。鶏口となるとも牛後となるなかれって誓いを立てたじゃないか」
「またチキンヘッドの金言ですか」
撃てやしないくせに、とぶつぶつ言いながらもポピーは笑い、スコッチをすする。
「結局今年も雪が見られなかった」
ロータスは冷たいビンに頬ずりをして溜息をついた。
「雪を密輸するだけの甲斐性が社長にもあればよかったんですがねえ」
「僕のせいか? 映画の見すぎだろ、お前」
「これが映画の話だって分かる時点で社長もご同輩ですよ」
どこだったかな、とポピーは地図の詰め込まれた段ボール箱を漁ったが、目当てのビデオテープは見つからなかった。しかし発見されたところで、それを再生するためのビデオデッキはおろか、テレビさえ売ってしまったのだ。今生最後の映画鑑賞も夢と消える。
どこからともなく竹琴の音色が響いてきた。誰ともなく奏でられる旋律は幾重にも重なり、響き合い、人々に日没とマーケットの終わりを告げる。
水晶の塔の向こうに西日は沈む。
家のある者は家路につき、家無き者は酒場か娼窟に足を向ける。対岸に聳える王宮の上には月が昇り、カタギは寝静まり、夜闇に乗じて蠢く影の勢いづく魔の時間だ。
「さて、どうするね」
スコッチのビンを空にしたポピーが上目遣いにロータスを睨んだ。
「ここで仲良くミイラになるなら、それなりの準備が要る」
「他の道だと?」
「それもそれなりの準備が要る」
「お前と心中は御免だよ」
「社の行く末を案じる一従業員としての意見ですが…」
アロハの腕が上がる。
社長はビンを傾け指名する。
「言ってみろ」
「会社の本質とは仕事であり、人間の働きであり、事務所という形ではないのではないか、と」
「ふむ」
「ビルなどただの箱! 我々が我々の仕事を為す限りロータス旅行社は存在し続けるのです」
「つまり?」
「逃げようぜ」
「よし来た」
ロータスもミネラルウォーターを飲み干し、立ち上がった。夜闇に溶け込むような上着を羽織ると、ポピーもよく光る禿げ頭を隠す山高帽を被った。後はビルの裏に駐めてあるジープに乗り込めばよい。
「やっぱりあの時、象を買うべきだったな」
窓から飛び降りる準備をしながらロータスは言った。ポピーは顔をしかめ、首をすくめる。
「あんな可愛い目をした動物を食べるつもりですか」
「ライオンは食べるらしい。窮すれば鈍す」
「狩りは獅子の本分でしょうが。鈍しちゃいない」
窓枠に足を掛けたままぺちゃくちゃ喋っている。この緊迫感のなさが災いしたか。
背後でノックの音。
繰り返し、二度。
二人は身体を固くし、振り返った。
視線の先には入り口のドアがある。かつて夢一杯で丁寧に描いた蓮の花と、ロータス旅行社の文字が浮かび上がる波ガラスが今一度、ノックに震えた。
「大家は」
ロータスは小声で尋ねる。
「まだ店を閉めちゃいない。さっきまでは下にいましたがね」
「敵か?」
「近々の心当たりはない、が」
二人は顔を見合わせ、ドアに向き直る。ロータスは音を立てずに窓を閉め、自分の机の前まで戻ると懐に手を差し込んでじっとドアを睨みつけた。ポピーは山高帽を帽子掛けに放り、それが奇跡的確率で引っ掛かったのも確認しないまま、ドアに近づく。
ロータスが顎でしゃくった。ポピーはぱっとドアを開いた。
ドアの向こうに立っていた男は、急な出迎えにも驚いた様子もなく、静かに佇んでいた。西日の残照に照らされたその顔は仮面のように凍てつき、夜闇のように黒いサングラスの向こうから鋭い視線がロータスに注がれていた。
「まだ、やっているか?」
男の白い指が波ガラスの上を叩いた。ロータス旅行社の文字が震えた。
2
実に八十日ぶりの客だった。
世が世であり人が人ならば世界一周も出来たろう、とポピーが噛み締めるように呟いた。
男は埃だらけの、もてなしに水の一杯も出ない事務所にも文句一つ言わず、ゴミの山が叩き落とされたばかりのソファに腰掛けた。ちなみに、これでもロータス旅行社としては精一杯のもてなしである。
男の風体は実に秋風街とこの事務所に相応しいものだった。この土地で流したのだろう汗と垢の染みた服に履き潰された泥だらけの靴。しかしロータスもポピーも、それが元々仕立ての良い品だったのだろうことは見て取った。皮膚も可能な限り清潔に保とうとしていたのだろうが、首筋は汗に濡れている。極めつけに、もう夜になろうとしているのに外さない色の濃いサングラス。カタギではない、あるいはカタギではいられなくなった人間に違いない。
こういった人間が訪ねて来るのは、客の姿がこのところ見当たらなかったことは棚上げするとして、この事務所ではさして珍しいことでもないのだ。中心街の大手旅行社が扱うことの出来ない客、即ち後ろ暗い過去、洗ったばかりの足、遥か遠方への切符、出来ることなら国境の向こうを望む人間達こそがロータス旅行社の客層である。
「お話を伺いましょう」
向かいに腰掛けたポピーが重々しく言う。ロータスはボサボサの髪を後ろに撫でつけ、自分の机の上に腰掛けた。櫛を入れることを怠った髪はバラバラと顔にかかってくる。ロータスはそれを煩わしそうに払いながら、煙草に火を点ける。しかし吸いはしない。指の間に挟み、時間を計るかのように揺らす。
「仕事の依頼をしたい」
男は懐に手を入れ、一枚の写真を差し出した。テーブルの上に置かれたそれを、ポピーがやや胸を反らし気味に見下ろす。それは何かを警戒するそぶりにも見えたが、実はただの老眼だ。
「この男を捜して欲しい」
男は静かに言った。
やや沈黙し、ポピーはロータスを見た。ロータスは目を細めて写真に目を遣っていたが、ポピーの視線を受け、軽く促した。ポピーは一つ頷き、再び重々しく口を開く。
「ロータス旅行社は、名の通り、旅行会社です」
「知っている」
男が頷く。
ポピーは溜息と共に吐き出した。
「ここにいらっしゃったからには、わたしらの承る旅行先についても多少はご存知なんでしょう。まあ些かにアンダーグラウンドな仕事もしますわい。しかしね、我々は何でも屋じゃないんだ。まして探偵でもない」
「だが、あなた方なら引き受けてくれるだろうと」
男は写真を仕舞っていたのと同じ内ポケットから、更に一枚の名刺を取り出した。
「この男が紹介を」
その青みがかかった厚い紙を見た途端にポピーは額に皺を寄せ、ロータスはあからさまに口元を歪めた。名刺には『ブルーブロッサムカンパニー』という社名がもったりと重い筆記体で印刷されている。
このブルーブロッサム社こそ、この都市最大手の旅行会社であり、困窮したロータス社が通訳の仕事を回してくれと頭を下げることを潔しとしなかった相手であった。
「シャルル・シャルパンティエはあなた方を非常に褒めていたが」
「旦那」
ポピーは男の言葉を遮った。
「よろしい。まずお話は伺いましょう。しかし。この事務所で。二度と。いいですか二度と! その名前を口に出されませんよう」
「都合が悪かったか?」
すると旅行社二人は、へん! と一声笑い口々に言い出した。
「あーんな、BBCとか!」
「どっかの国営放送みたいな名前の会社!」
「旗振って観光客連れまわしてるだけの」
「連れて歩くだけなら鴨だってできますわい」
「ロクな通訳もできないくせに!」
「おべんちゃらばかり勉強しおって!」
「高いわ気取ってるわ」
「こっちに仕事は回さないわ」
「社長の弟だからって」
「ちょっと金を持ってるからって」
「女にモテるからって」
「白マラ野郎」
「…あなた方も彼がお気に入りなようだ」
悪びれた調子もなく言う男が不意に首を逸らした。オレンジ色の火が男の頬を掠め、弧を描いてソファの上に落ちる。革の焦げる匂い。男はまだ燻っている煙草をつまみ上げると床に落として靴底でにじり消した。
「社長…!」
ポピーが振り向き軽く叱責する。ロータスは男に向かって煙草を弾いた手を伸ばしたまま、サングラスを取れ、と言った。
「話は聞こう。だけど、分かるだろ。僕たちがやってるのは信用の商売だ。顔と、名前。教えてもらうぞ」
サングラスの向こうから睨む視線を感じたが、今更怯むロータスでもない。男は黒いグラス越しにしばらくロータスと睨み合いを続けたが、やがて小さく息を吐き、ブランドをきちんと閉めてくれ、と言った。
「あいにく壊れてる」
「なら、せめて明かりは点けないでくれ。光が当たると、痛い」
そう言われずとも電球はもう何週間も前に切れていたが、二人は敢えて何も言わず男を促した。
「俺はマシュウだ。マシュウ・ベーゼンドルファー。探して欲しいのはジャック・マゼラティ。終戦三年後の捕虜解放と同時に失踪した」
男はサングラスを外しながら、わずかに左目を庇った。
瞳の輪郭さえ分からぬほどに白く濁った眼球。常に半眼を閉じ、おそらくもう視界だけに頼って生活をしている訳ではないのだろう。先ほど煙草を避けた仕草もそうだった。
二人は改めて名前を紹介された写真の人物に目を落とす。
写真の中の男は…、男と呼ぶにはまだ若い。少年の面影を残した笑顔。ジャングルを背景に、Tシャツ姿でこちらにVサインを向けている。
「軍人か? 結構若いな」
「元、な。この国の白人には珍しくもないだろう。これは入隊当時の写真だ」
「なぜこの街に」
ポピーはマシュウと名乗る男の左目を無遠慮に覗き込みながら尋ねる。
「関係のある街はどこも探し尽くした」
「思い出の街?」
ロータスが茶化した風に口を挟むのをポピーが振り返って睨むより速く、マシュウが睨みつける。ロータスは手のひらを差し出し、次の言葉を促す。
「絶対にこの国に、川沿いの都市にいるはずだと捜し続けた」
「故国に帰ったとは?」
「向こうの知り合いにも捜索を頼んだが帰国した形跡はない。それ以上に考えられない。とにかく俺は捜し続け、これを見つけた」
それは川辺に群がる人々の写真だった。
人物一人分を引き伸ばしたせいか、粒子が粗い。
裸の男が腰まで川に浸かり、洗い立ての顔を朝日に向けて呆然としている様だった。
「半年前の新聞に掲載された写真だ。新聞社に問い合わせ焼き増してもらった」
ポピーは写真を手に取り、残照の中目を細めそれを見つめた。
この街の下層住民は朝夕、川で沐浴をする。特に貧民街の人間は足腰の立つものほぼ全員が出かけるから、さながら民族大移動の体だ。その様子は確かに、信仰厚い人々としてカメラマンが題材にすることも多い。
「自力で探しあてたんだろ。ここで何故、僕たちに頼むんだ」
ロータスが二本目の煙草に火を点けながら尋ねる。
「彼は」
マシュウは忠告通り名前を呼ばず、指先で名刺を叩いた。
「ただ乗り込んでも骨になるのがオチだと」
まあそうだ、とポピーが相槌を打つ。写真を見るに、それは東岸の川岸だった。東岸、王宮のお膝元である美しい伝統的な街並みの周りには、クーイーと呼ばれる貧民街が広がっている。
クーイーは果たして道があるのかと思うほどバラック小屋の犇く広大な迷路である。ある程度の用意がなければ通り抜けることが出来ない。身包み剥がされても、そこから帰ることが出来れば御の字だ。ある意味では、この猥雑な秋風街や、娼窟やくざどもの根城の多い華街よりも物騒な場所である。
「ジャックとは戦前からの仲だ。兄弟同然に育った。何としても連れて帰りたい」
「朋友か」
ロータスは言い、ゆらゆらと煙草を揺らす。
「用意はある。捜し出してくれれば、それでいい」
「捜すだけねえ…」
と、もっともらしく呟くが背に腹は変えられない。
ポピーがぽん、と両膝を叩いた。
「まあ不可能じゃあないでしょう。見つけるだけなら。ね、社長」
「経費含め、相応にいただくことになるぜ?」
「構わない」
マシュウは短く、躊躇いもなく返答する。
ぱん、と両手を打ち鳴らす音が響いた。ポピーが立ち上がり、二人を見て笑う。
「即断即決も素晴らしいが、些か込み入った事情のようだし。ここは一つ下で詳しい話をしましょうか」
「下?」
マシュウは怪訝な顔をする。ロータス旅行社の事務所はこのビルの二階だけだ。一階は、何をしているのか分からない、怪しげな看板が出ているのみだった。
「まずは空腹をなんとかせんと、私も社長も頭が回らんのですわ」
そこで彼はようやく、さっきから鼻を掠める異様な匂いが、何かは分からないがとにかく料理の匂いだと知った。
3
日は落ちたが空はまだ明るく、秋風街の路地に明かりはぽつぽつと灯る程度だった。
ビルの一階も一応飯を出す店であることを主張する小さなネオン看板を持っていたが、半分壊れていて名前を知ることもできない。ロータスとポピーは先頭立って店の戸を開けた。マシュウが後ろに続く。
踏み込んだ瞬間、マシュウが小さく息を飲むのが二人には聞こえた。
狭い店内の天井からは祭の赤いぼんぼりが幾つも下がっていた。その合間をアルミで型抜きした象のオモチャが何十頭とぶら下がっている。反射光が光に弱いというマシュウの目を刺激したのだろう。
象の身体はぼんぼりの明かりを反射して真っ赤に光っていた。そしてテーブルの上も、奥で明らかに刀と思われるもので肉塊を叩き切っている女主人の顔も、やはり赤く染まっている。
女将ははち切れんばかりの豊満な身体をしているが、肉体の魅力とは裏腹にその顔は客商売のものではなく、煙草をくわえてこちらを睨みつけている。接客の言葉一つ発することはない。
三人が入口に佇んでいると、彼女はその細腕に似合わぬ肉の刺さった刀を俎板に叩きつけた。
「こんばんは、マダム」
ポピーがにこやかに挨拶をし、ロータスは黙って一番大きなテーブルについた。ポピーはマシュウの背を促して言う。
「安心してください。女将も我々も神の教えに背くようなものは口に入れてませんから」
「…それは……」
マシュウは何かフォローの言葉を継ごうとしたが上手くいかず、何も言えないままロータスの向かいに座らされた。
何も注文しなかったが、奥からは赤く汚れたエプロンを着けた女将の半分ほどの背しかない小男がビールを五本も持ってくる。やはり接客の言葉はなく、ビールはテーブルに叩きつけるように置かれた。
「ではまず乾杯を…」
「ちょっと待て」
マシュウは乾杯の音頭を遮り、丸見えの厨房をこっそりと指差す。
「あれは」
「この食堂の女将とボーイです」
「エプロンが真っ赤だった」
真っ赤、という言葉をマシュウは強調した。
「唐辛子ですよ。ここの味付けはそれしかないんです」
「注文もしていないぞ?」
「ここで出る料理っちゃあ飯と肉しかありませんからな」
ポピーの言葉に「あと酒」とロータスが付け加え、二人は可笑しそうに笑う。
「まあ、飯は来てから心配すりゃあいい。意外と口に合うかもしれません」
ポピーは栓を抜いたビールをマシュウに渡した。ロータスはビールを飲みたくてうずうずしているらしく、ポピーを急かす。ハゲは実のない笑顔でそれをあしらい、咳払いした。
「ではロータス旅行社八十日ぶりの仕事と、我々に労働と金と今宵たらふくの食事をもたらしてくれたええと…?」
「…マシュウ・ベーゼンドルファー」
「どこぞの楽器屋のような名前の救世主に乾杯!」
ロータスとポピーがビールの口を愉快そうにかち合わせる。マシュウは、目の前の若社長だけでなく、隣のハゲも思いの外失礼な人間であることに認識を改めながら黙ってビールを掲げた。
美人を台無しにする強面の女店主はタイミングを見計らった訳ではなかろうが、焼いた肉に寸胴鍋の中でぐつぐつと音を立てる真っ赤なスープをかけて三人の前に出した。ここでボーイが取り皿と箸を出し、この店も全く接客をする気がない訳ではないのが分かった。
しかしスープの赤さは尋常ではない。果たして天井のぼんぼりが過剰に染め上げているものか判別がつかぬほど赤い。マシュウの向かいでは、ロータスとポピーが皿がテーブルにつくや否や会話も止め箸と皿の音を響かせ肉と飯を掻き込んでいた。その様子があまりに無心で凄まじかったものだから、マシュウも恐る恐るレンゲにスープを一掬いと肉を一かけ口にした。
するとそれまで一心不乱に飯を掻き込んでいた二人が顔を上げ、まじまじとこちらを見つめる。マシュウは二人の視線を痛いほど受けながら義務的な咀嚼を続け、苦行の果てに嚥下のゴールに辿り着いたが、その後は黙って皿を押しやりビールを一気に干した。
若社長とハゲ頭の従業員は遠慮せず笑った。空っぽの店内に二人の笑い声はけたたましく響いた。
赤く染められたタンパク質の塊と正体不明の粥はロータス旅行社の二人の胃袋に全て収まり、テーブルの上がビールだけになるとマシュウが少しだけホッとしたような顔をした。
三人の他客のいない店内には酒を酌み交わす音、奥からボーイが皿を洗う水音の響く他、静かだった。女将は血を丁寧に拭った刀を壁にかけ、カウンターの椅子に腰掛けて煙草を吸っている。
ロータスはようやくビールから口を離した。
「さて、ターゲットの話をもう少し詳しく聞かせてもらおうか」
「待ってくれ」
「何だよ」
折角その気になったのに、とロータスが不機嫌そうな顔をすると、マシュウはサングラスの奥から気遣わしげに店の奥へ視線を遣った。
「人に聞かれたくない」
「それはご心配なく」
穏やかにポピーが応える。
「女将にゃ聞こえません」
言いながら両耳を手で塞ぐ。
「彼女は…耳が?」
「この国じゃ珍しくもないでしょう。旦那は目を、彼女は耳をという訳です。ボーイについちゃ安心してください。奴ぁ女将が命令しない限り最後の審判が来ても口を開きませんからね」
「しかもあの形相だ。客なんか滅多に来ない上に怪しい奴は追っ払ってくれる」
「密談向きの場所という訳です」
「さ、安心したら何もかもゲロっちまえ」
口の悪さにポピーがテーブルの下で蹴る。
何かとつっかかる若社長が口を噤んだことにようやく安心して、マシュウは喋り出した。
「ジャックは俺より九つ年下だ。今年で二十六。これは志願兵になって前線にやって来た時の写真だ」
二人の目の前には改めてさっきの写真が示された。なるほど、若いはずである。
「俺たちは国境警備の任に就いていた」
「じゃあ終戦したからってあっさりとは帰れんかったでしょう」
「ああ、終戦から捕虜解放まで三年間、北部の収容所にいた」
この半島だけではない、世界中を巻き込んだ泥沼の戦争が終結したのが十年前。敗戦した連合諸国は植民地を手放すことになり、多くの白人兵が熱帯の地に残された。
終戦から三年後の捕虜解放と同時に収容所も閉鎖されたが、帰国せずにこの国に残った者も多い。長い植民地時代に自らの文化と人生がこの地に根付いてしまった者達だ。
ヨーロッパに帰らんとする者達は半島に鉄道を敷いた。
一方この地に残る彼らは水晶の都を建てた。
「つまりあんたは鉄道組で、ターゲットはヨセフの仲間だったと」
「いいや違う」
急にマシュウは噛み殺しながら怒りの声音で呟いた。
「ジャックは私の次の便で帰国するはずだった。だがあの年の五月…」
「ははあ、記憶にありますよ。いつまで経っても雨が降らないんで更に国が荒れた。線路が爆破されて列車の襲われる事件が相次いだが」
「そうだ、ジャックの乗った列車も襲われた」
「死んだ…とは思わなかったのか」
ロータスは写真を取り上げ眺める。まだ本物の苦難を知る前の、脳天気そうな笑顔。
「私は今日までの時間を全てジャックを探し出すことに費やしてきた。死体の中にジャックはいなかった。が、故郷にも戻っていない。新聞の写真を見つけてからはこの国中の川という川辺を歩き探し回った。そしてとうとうこれを撮ったカメラマンも見つけたんだ。これはリーリャン・シティで撮られた写真だ。ジャックはこの街にいる」
全ての時間を費やした、それは嘘ではないのだろう。でなければこの世界にどれだけあるか知れない古新聞の中から一枚の写真を見つけ出すことも、上物のスーツや革靴がボロボロになるまで彷徨うこともできない。多くの元軍人にとって、この国のジャングルを彷徨った経験は決して楽しい思い出ではない、時には死を求める苦痛さえもたらすものであるのに。
ポピーはもう一枚の粒子の粗い写真に目を落とした。写真の中の男は上半身裸で、川に腰まで浸かり呆然とした顔を朝日に向けている。レンズに笑顔を向けていた無邪気な面影はない。少し垂れた目元に高い鼻、造形は確かに同じものかもしれないが、雰囲気がまるで別人である。
「行方不明になって七年ともなれば…」
ポピーが言い淀むのをロータスが受け継ぐ。
「こいつは自分の意志で身を隠しているんじゃないのか?」
ぴらりと写真を裏返し、ターゲットの笑顔をマシュウに向ける。
ゴツン、と大きな音が響いた。マシュウがコップをテーブルに叩きつけた。空気の振動を感じたのか女将が顔を上げ、ちらりと一瞥する。
「俺は、一目、ジャックに、会いたい」
一言一言をマシュウは絞り出した。
「頼む、捜し出してくれ」
その感情的な様、震える肩をポピーは同情の目で見つめ、ロータスは冷ややかに見下ろす。若社長はなおも手の中の写真をぴらぴらと弄んでいたが、それを自分のポケットに仕舞った。
「明日の朝、返事をする」
「明日だと…」
「これはどうも我が社の命運を賭けた仕事になりそうだ。一晩じっくり考えさせていただこう。あんたもあと一歩の所まで近づいときながら大金をドブに捨てることはあるまい」
「俺の心は決まっている」
マシュウは紙入れからフラン札を抜き取りテーブルに置いた。
「色よい返事を頼むぞ」
ぼんぼりの赤い光に照らされた背中が店を出て行くのを最後まで見届けることもせず、ポピーは新たに栓を開けたビールに口をつけている。テーブルの上のフラン札に、遠慮無く飲むつもりのようだった。
ロータスは男が店を出た後もじっと扉の向こうの夕闇を見つめていた。猥雑なネオンの光が秋風街の夜の訪れを告げていた。
4
事務所の暗い壁を手が探り、習慣的に電気のスイッチを押す。しかしそれはカチカチと軽い音を立てるだけだった。電球はとっくに切れているのだ。
ロータスはソファに腰を下ろし、背中を丸めて溜息をついた。
「結論は明日、ですか」
声と共にポピーが煙草を差し出す。それを一本受け取り口にくわえると、ライターの柔らかな炎が近づく。ロータスは火を吸いつけ、深く肺の奥まで煙を吸い込んだ。
「文句があるのか」
「あたしは即刻受けるものかと思ってましたよ」
ポピーは応接テーブルの上に尻を落とし、自分も煙草に火を点けた。
「どうしてだ。お前もあの客に言ってただろう。うちは旅行社で、これは旅行社の仕事じゃない。警察か探偵の仕事だ」
「でもあんたはやれる算段を立てながら客の話を聞いた。いや、それ以前にあんたはあの男を客扱いしたじゃないですか」
「今夜の飯のためならどんなポーズだってとるさ」
「口先だけの話はよしましょうや」
窓から入るネオンの明かりを反射して、ポピーの目がじろりとロータスを見た。
「受けるんですか?」
ロータスは暗闇に紫煙を吐き、しばらく肩を落としていた。その視線が見つめるものは電気の切れた事務所の夜闇ではない。遠い、しかし今でもすぐに瞼の裏に映し出されるような過去の景色だった。
「お前は言ったな」
ようやく一言吐き出し、ロータスは唇から煙草を離す。
「会社ってのは建物じゃない。俺がいてお前がいるならそれがロータス旅行社だって。なら、この仕事でどちらか片方が欠けたらどうなる」
「別にあたしとあんたも一心同体じゃあないでしょう。一人で生きてくだけでさぁ。しかしまあ一蓮托生ではある。残されたら悼む。放り出しゃしませんよ」
「俺が死ぬかのような言い種だな」
「あんたは強いが、逃げるのはあたしが得意ですからね」
「そうだな」
煙草を持った掌で顔を隠し、ロータスは物憂げな諦念を滲ませて笑った。
「酒をやり煙草をやり、吸うも打つものクスリをやって、ありとあらゆる快楽の害毒に身を浸しながら死神の手から逃げおおせているお前だ。最後の審判からも逃げる気か?」
「そしたら勲章でも貰えますかねえ」
「メダルなんか興味ないくせに」
二人は共感をもってくつくつ笑った。
笑いが止むと、どちらからともなく煙草を吸い気を落ち着かせる。
「やりおおせる確証はない」
「…本気ですか」
ロータスの言葉に、語尾は丁寧だがまるで父親が静かな叱責するような声でポピーは言う。ロータスは溜息と紫煙を吐いた。
「ブルーブロッサムのヒゲが思い当てたとおり、消えた男はクーイーにいるんだろう。この街に長く潜伏して知られてないとなれば、あそこで間違いない。その魔窟から、アリアドネの糸もなしにたった一人の人間を捜し出して、釣り上げ、連れて来いという」
「違いますよ、捜し出すだけだ」
訂正をするポピーをロータスは見上げた。
ポピーはもう笑っていた。
「あたしはもう乗り気です」
「お前が行くのか」
「潜り込み、捜し出し、脱出する」
一本一本指を立て、合計三本の指をロータスに突きつける。
「簡単なことです。あたしは何十も何百もそれをやってきた。それに、あんたも」
ロータスの煙草からぽとりと灰が落ちた。それはロータスの膝の上で砕けたが、彼は気にも留めなかった。
「また昔の泥に足を踏み込むのか」
「今更泥なんか気にしちゃいないでしょう。どうせあたしたちは死ぬまで生きるだけです。あたしも折角生きるんなら一つ刺激が欲しいと思ってたんだ」
「あの男の必死の願いも、お前には道楽か」
「あんたも内心ワクワクしたんじゃないですかい」
「誰が」
「あたしはね、あたしならできる、と思ったんじゃない。あたしらならできる、と思ったんですよ社長」
ポピーは立ち上がると足下で煙草を揉み消した。そのまま立ち去ろうとする背中にロータスは声をかける。
「どこへ行く」
「今夜の寝床ですよ。生きてるなら会おうとお花ちゃんたちに約束をしたんで」
おやすみ社長、と言葉を残してポピーの後ろ姿は消える。
ロータスは指を焦がす熱に気づいた。驚いて手を離すと、すっかり短くなった煙草が床に落ちた。ロータスはそれを靴底で踏みつけ、再び息を吐いた。
できる。
ポピーの言う通りだ、できるだろう。ポケットから写真を取りだし、かざす。暗闇の中から一人の人間を捜し出す。それはロータスの得意とするところだった。藁の束から一本のピンを捜し出す。それはポピーの得意とするところだった。確かに二人ならばやれるだろう、失敗することはまずあるまい。自分が何を躊躇しているのかロータスにもよく分からなかった。夕方まではこのまま朽ち果てる気だった。それから夜逃げする気になって、客を前にし話を聞く気になった。ロータス旅行社には金がない。ここで客を逃がす手はないはずだ。
ネオンの淡い光に若い笑顔が浮かび上がる。写真の中の男、話から察するにおそらく依頼者とは十ほど齢が離れているはずだ。
兄弟同然に育った。
全ての時間を費やし捜した。
一目会いたい。
「…そういうことか」
ロータスは独り言を呟く。
「ちぇっ」
ガキのような嫉妬だった。
おそらく自分は男の望みを叶えることが気にくわないのだ。苦労と苦悩の末、男が手に入れたかったものを手に入れるだろうことに嫉妬している。何故なら、自分たちが関われば確実に男の願いは叶うからだ。
ロータス旅行社の仕事は一時の夢を見せることだ。夢のような思い出を客に残し、さよなら、おしまい。普通の観光客であろうとも、高飛びの客であろうとも、自分たちの管轄を離れたらどうなろうが知ったことではない。
しかし仕事が終わった暁に男が手に掴むのは実体のない夢ではない。きっと夢にまで見た兄弟同然の確かな手を掴む。
「一目会いたい、じゃねえだろう…」
ロータスはポピーの去ったテーブルの上を恨めしく眺めた。そこに残っていたら抱擁し傷を舐め合おうと思った訳ではなかったが、自分ばかり女の胸に顔を埋めに行きやがってと思うとまたムカついて、随分子供じみた今夜の自分にうんざりもした。
ロータスはソファにごろりと横になった。靴を蹴り飛ばして脱ぎ、全身を脱力させる。力を抜くと久しぶりにアルコールが臓腑から全身に染み渡って、眠気が襲ってきた。腕で目を覆う。腕時計がこつりと額にぶつかる。日付が変わっていた。クリスマスだ。
「雪が見たいな」
懐かしい英語で呟く。
「雪」
日は暮れたというのに事務所はまだ蒸し暑い。その不快感も全部アルコールが喰い尽くしてくれるように、とロータスは瞼を閉じる。眠りの闇は、ロータスを夢のない世界へ引きずり込んだ。
5
さっぱりとした目覚めだった。ロータスはソファから身体を起こすと、斜めに傾いだブラインドを押し上げ、窓を開けた。涼しい風が事務所の中に吹き込み、淀んだ空気を押し流す。通りの至る所から竹琴の奏でが聞こえる。黎亮の民がフナン河で朝日に照らされた煌めく水を浴びている頃だろう
かさかさと音のするポケットに手を突っ込むと例の写真が顔を出す。十年前は満面の笑みを浮かべていたこの男も、今頃河の対岸で惚けた顔をして水を浴びているに違いない。宗旨替えをしたのかもな、とロータスは頭の片隅にメモし、写真を仕舞った。
替えのシャツが見つからず、裸の上半身に直接上着を羽織って階下に下りた。一階の飯屋はもう開いていて、開け広げられた戸の向こうに朝からきらきらと輝く無数の象の飾り物と不機嫌そうな女将の顔が見えた。ロータスは手を上げて女将に挨拶すると、通りに近い一席に腰を下ろした。
ボーイがエピに野菜を添えて運んでくる。果物は少し腐りかけていたがロータスは黙ってそれを口に入れた。甘くて美味かった。
少し堅めのエピをもぐもぐといつまでも咀嚼していると、ぼんやりと朝日の照らす狭い通りの向こうから見慣れた顔がやって来る。派手なアロハを来たハゲ頭の男は千鳥足で歩きながらロータスに手を振った。
「おい」
ロータスはボーイを呼んで酔い覚ましを注文する。
近づくにつれポピーのでれんとした顔と、そこに残る口紅の痕が分かった。好色男はふひひ、と笑いながらロータスの向かいの席に座る。
「ご機嫌麗しゅう、社長」
「ご機嫌だな、ポピー」
「天国の階段を昇ったり降りたりするうちに天使がキスしてくれてですなあ、雲の影でちょめちょめと…」
「そいつは重畳だ」
ロータスはボーイの運んできた真っ赤なショットグラスをポピーの前に置いた。
「迎え酒だ、飲めよ」
「ありゃりゃ、いいんですかい~?」
「奢りだ。遠慮するな」
ポピーはそれを一気に煽り、見事なゲップをする。
しばらく静かになった。
沐浴を終えたのだろうざわめきが河の方から徐々に蘇る。するとマーケットの始まりだ。三輪自動車のブレーキの音がけたたましく響き渡り、呼応するようにそこら中の鶏や猿や猫や犬が騒ぎ始めた。貧乏人の住み処その名は秋風街ではあるが、秋風街は秋風街なり人が生き生活を営む街角である。猥雑な賑わいが通りを覆い始めた。
「おはようございます、社長」
こつん、と空のショットグラスをテーブルに置きポピーが言った。
「目が覚めたか」
「ばっちりです」
ポピーはまだ中空を睨んだまま厨房に向かって手を上げ、ビール、と潰れそうな声を上げた。
「水だ!」
ロータスが言い直す。運ばれてきたどんぶりいっぱいの水をポピーは馬のように飲み干した。
往来に人が増え、それを眺めながらロータスはのんびり朝食の続きを噛み続ける。エピはなかなか柔らかくならない。ポピーも落ち着いたのか皿の上の熟れすぎたフルーツに手を伸ばす。柔らかな果肉を十分すぎるほど咀嚼し、追加の水をどんぶりで飲んだ。
「決断なさいましたかい、社長」
ポピーは三杯目の水から顔を上げ、言った。
ロータスはぶっきらぼうに一言答える。
「受ける」
「そうこなくっちゃ」
「金のこともあるし…」
「言い訳はみっともないですぜ。男なら黙って飲み込むもんです」
ロータスは口の中のエピを泥水のようなコーヒーで飲み干し、息をついた。まあ気分は爽やかだ。そこそこに身体も軽い。そんな上司の様子をポピーは嬉しそうに眺めた。親のような視線に気づいたロータスは急にムッとなって手を伸ばす。
「何です」
「昨夜の金」
「残ってませんよ」
「一フランも?」
「半フランも」
「じゃあお前のアロハを寄越せ。着る服がない」
「これから客を迎えようってのにそれじゃいけませんなあ。昨日までのシャツはどうしたんです」
「ベトベトして着てられるかよ」
「やれやれ」
ポピーはこれからマーケットに向かうのだろう行商を呼び止め、白いシャツを買う。五枚買えば四枚分の値段でいいと言うのを三枚分にマケさせロータスに押しつける。
「あるじゃないか、金」
「これで正真正銘スカンピンです。客が来たらたっぷり準備金をもらいましょう」
「カモだと思ってるだろ」
「いやいや依頼人には敬意をもって振る舞いますよ、わたくしも紳士の端くれ」
仰々しくお辞儀をするハゲの頭をポピーは笑いながら叩いた。
さて腹も満たした、と事務所に戻ろうとすると、目の前に女将が立ち塞がる。手には昨日肉を叩き切っていた本来は刀であろうとおぼしき包丁。
ロータスは手と口を同時に動かす。
「昨日の、白人に、払わせる。ツケといてくれ」
ロータスの手話を見て、女将は渋々道を開いた。
「シャツを買うくらいなら飯代を払えという顔でしたなあ」
「オレのシャツは飯以上に重要さ」
事務所に戻った二人はまず床に散乱するゴミを一所に集めると、両手にそれを抱え窓から通りへ放り出した。さっぱりした部屋に朝日を取り込み、テーブルの上にはリーリャン・シティ全図を広げる。
ポピーはよく光る頭をタオルで拭い、ロータスは真新しいシャツを着て髪を後ろに撫でつけると社長机に腰掛けた。二人は依頼人の訪れを待った。
丁寧なノック。ドアに嵌め込まれたガラスが震える。
ロータス旅行社。トレードマークは仏も座るかと思われる蓮の花。
ポピーが立ち上がり訪問者のためにドアを開ける。
サングラスの男が姿を現すと、ロータスは席を立ち仰々しいお辞儀をした。
「いらっしゃいませ、お客様」




