第49話 - 惑星降下
『全乗員へ通達します』
先ほどまでとは違う、抑揚を抑えたベルの声が響く。
『クレイドルは、惑星テロス北方大陸北西部の森林地帯へ不時着します。全乗員は、直ちに指定された耐衝撃区画へ退避してください』
正面映像の一角に、大気圏突入までの残り時間が表示される。私は艦長席へ深く腰を下ろした。座席の両脇から固定具が伸び、身体を包み込む。
『指定区画への到達が困難な乗員は、最寄りの耐衝撃区画へ退避してください』
「艦橋要員、着座! 全員、身体を固定しろ!」
管制員たちが次々と座席へ身体を沈め、固定具を作動させていく。ブリッジの各所で金属音が重なり、先ほどまで忙しなく動いていた者たちが、ひとり、またひとりと座席へ縫い付けられていった。
クロムも自らの席へ着き、最後まで端末を操作していたクレイが、私の隣へ腰を下ろす。
「避難状況は?」
「ほぼ全ての乗員が、耐衝撃区画への退避を完了しています」
その報告を聞き、胸の奥に詰まっていたものが僅かに緩んだ。
「間に合ったか……」
「はい。ベルが候補地の選定に時間を掛けてくれましたので」
「楽しんでいただけにも見えたが……」
クレイは何も答えなかった。その代わり、私の座席へ視線を落とす。
「マスター」
「なんだ?」
「固定具を確認してください」
「締めた」
「再確認を」
「……締めたよ」
私は言われた通り、胸部と腰部を固定する金具へ手を掛ける。どちらも外れる気配はなかった。
「問題ない」
「承知いたしました」
それを聞いて、クレイはようやく正面へ向き直った。
「大気圏突入まで三分!」
航法管制の声が響く。同時に、船体の各所で姿勢制御スラスターが短く噴射され、クレイドルは進入角と船首方位を僅かずつ修正していった。
正面に広がるテロスは、既に惑星としての全容を失っていた。青白い大気の縁は視界から消え、暗闇は濃い紺色へと変わり、その先に雲と大地が広がっている。
「高度九百八十キロメートル。速度、秒速九・一!」
「第二姿勢制御群、同期。第三群は予備として温存しろ」
「了解!」
「大気圏上層部まで、六十秒!」
ブリッジから会話が消えた。残ったのは報告と指示だけだった。
「二十秒!」
正面映像の端に、淡い赤色の線が浮かぶ。
「大気上層部へ接触!」
船体が震えた。僅かだった振動は急速に大きくなり、正面映像を赤い光が覆い始める。船首で圧縮された大気が熱を帯び、炎のように船体側面へ流れていた。
「熱負荷上昇!」
『第一耐熱層、正常に機能しています!』
「進入角、基準内!」
固定具が身体へ食い込む。船体各所に警告表示が増えていった。赤。黄色。そして、また赤。
「姿勢維持。減速噴射を継続」
「推進系、出力二十八パーセント。船尾構造、応力上昇!」
『予測範囲内ですよ! ……って、あー!』
ベルの声が裏返った。
「右舷外殻、第十四区画――構造固定部損傷!」
『固定具が三箇所同時に破断しました!』
右舷側から、金属を引き裂くような轟音が響いた。観測映像の端で、巨大な構造物が持ち上がる。
外殻だった。
クレイドルの右舷を覆っていた装甲板の一端が剥がれ、空気抵抗を受けて大きくめくれ上がっている。
「完全分離していません! 固定部、残り二箇所!」
めくれ上がった外殻が激しく振動する。もはや装甲板というより、一つの建造物と呼ぶ方が近い。
「残り一箇所!」
次の瞬間、外殻が吹き飛んだ。巨大な外殻片が赤熱しながら後方へ流れ、その一部がブリッジ前方を横切る。幾何学的な船体構造。露出した配管。赤熱した断面。
巨大な壁が、正面観測窓のすぐ先を通過していった。一瞬遅れて、クレイドルが大きく傾く。
「姿勢偏差拡大! 重心位置が変動しています!」
『ノアさん、質量の再計算を!』
『右舷第十四区画外殻、推定質量八千六百トン脱落。重心位置、左舷方向へ〇・七二メートル移動』
ノアの淡々とした報告を受け、クロムが叫ぶ。
「軌道補正! 第二姿勢制御群、右舷側全基最大出力!」
クロムの指示と同時に、右舷側の姿勢制御スラスターが一斉に噴射した。
床が大きく傾く。
身体が固定具へ押し付けられ、胸元を締め付ける圧力に思わず息を詰めた。正面に広がるテロスの地平線が、ゆっくりと横へ傾いていく。
「姿勢偏差、五・一……四・二!」
数値が下がる。船体を貫く振動は激しさを増していたが、クレイドルの姿勢は確実に戻り始めていた。
『船尾負荷が限界値へ接近しています!』
ベルの声と同時に、立体映像上の船尾構造が黄色から赤へ変わる。
「無視だ!」
『構造破断の可能性があります!』
「今戻さなければ、着地点を外れる!」
一瞬の間。
『……負荷監視を継続します』
ベルが引いた。姿勢偏差がさらに縮まり、傾いていた床がゆっくりと戻っていく。
「二・八……一・六!」
「基準範囲へ復帰!」
「第二群、噴射停止!」
身体を横へ押していた力が消えた。僅かに息を吐く。その暇すら、与えられなかった。
「船尾第四モジュール接続部、損傷拡大!」
鋭い報告が飛ぶ。
『構造の断裂を確認! だから言ったじゃないですか!』
正面の立体映像が切り替わる。船尾第四モジュール。その巨大な区画を囲む境界線が、端から順に黒く染まっていた。
『破断拡大! 接続強度、急速に低下しています!』
「第四モジュール、緊急切離し!」
「……切離シーケンス、応答ありません!」
「非常用爆砕ボルトを起動。残存接続部を一斉に切断しろ!」
「反応なし!」
クロムが舌打ちをする。普段冷静な男はその焦りを隠そうしない。
『接続部、破断継続! 残存二十七……十九パーセント!』
立体映像上で、第四モジュールを繋ぎ止める接続部が不規則に消えていく。
「まずい……一斉に切り離せなければ、最後に残った接続部へ荷重が集中する」
意味はすぐに理解できた。切り離すこと自体が問題なのではない。問題は、その切れ方だった。
残った接続部を同時に破断させれば、モジュールは船体から真っ直ぐ離れる。だが、一箇所ずつ不規則に千切れれば、最後まで残った固定部を支点に、巨大なモジュールそのものがクレイドルを引き回す。
『残存固定部、十一パーセント! 間に合いません!』
直後。船体が跳ねた。
「――っ!」
固定具が身体へ食い込む。腹の底へ響く轟音と共に、クレイドルの船尾が大きく振られた。最後まで残っていた接続構造が、第四モジュールの質量に耐え切れず破断したのだ。
立体映像上で、赤く染まっていた巨大な区画が船体に対して僅かに振れ――弾かれるように離れていく。
「第四モジュール、脱落!」
制御された切離しではなかった。全長一キロメートルを超えるクレイドルから、巨大な質量が、最悪の形で引き千切られた。
それは、私がこの船へ飛ばされてきた第四街区を擁する商業区画だった。私が最初に目を覚ました場所。この時代で初めて足を踏み出した場所が、今、クレイドルから切り離されていく。だが、それを見送る時間はなかった。
『質量変動を再計算中です! 数秒下さい!』
ベルの声が響く。
次の瞬間、クレイドルが大きく傾いた。先ほどとは比較にならない。身体が固定具へ叩きつけられ、正面の地平線が一気に跳ね上がる。
「姿勢偏差、十一・二! 進入角拡大! 予測軌道、着地点から外れます!」
「第三姿勢制御群を起動!」
「第三群、起動!」
一拍。
「……応答、二基のみ!」
クロムが管制員を見る。
「全基ではないのか!」
「三番、五番以外の応答がありません!」
『第四モジュール脱落に伴い、姿勢制御系への供給経路が切断されています!』
立体映像上で、船尾側へ伸びていた複数の供給経路が次々と消えていく。
クロムが再び舌打ちをした。
「チッ……使えるものだけで戻すぞ!」
その声がブリッジを貫く。
「第二群と第三群を同期! 左舷推力を絞れ! 右舷最大!」
「第二、第三群、同期! 左舷推力低下!」
「右舷最大出力!」
身体が横へ引かれた。固定具が脇腹へ食い込み、視界の中でテロスの地平線が大きく傾いていく。
「姿勢偏差、九・八……八・一! 進入角、なお拡大!」
戻らない。姿勢制御スラスターは確かに噴射している。それでも、全長一キロメートルを超えるクレイドルの巨体は、落下する勢いに引かれるように傾き続けていた。
『現在軌道を再計算しています』
ノアの声が響く。
『計算を待っている時間はありませんよ、クロムさん!』
「ああ、分かっている!」
クロムの両手が立体映像の中を走る。船体模型の周囲に無数の推力値が展開され、次々と書き換えられていく。
「第一群、船首側二基停止! 船尾側四基、出力十二パーセント増加!」
『船尾構造が――』
「十二パーセントだ!」
『了解です!』
直後、振動の質が変わった。高く細かな震えが消え、代わりに、腹の底へ沈むような重い振動が船体を満たす。
クレイドルそのものが。自らの落下へ、力ずくで抗い始めた。
「進入角、縮小!」
『予測軌道、修正範囲へ復帰しました』
「まだだ。基準姿勢まで戻せ!」
傾いていた地平線が、徐々に水平へ戻る。
「基準範囲に復帰しました!」
「全姿勢制御群、現在出力を維持!」
私は大きく息を吐いた。
『艦長さん』
先ほどまでとは違う、僅かに低いベルの声が響く。
『船体構造の再評価が完了しました』
正面の一角に、クレイドルの全体図が表示される。
船首外殻。右舷装甲。船尾第四モジュール。その他にも、幾つもの区画が失われている。立体映像は、至る所が欠けていた。
『現在の損傷進行率を維持した場合、地表到達まで船体構造を維持できる保証はありません』
赤く燃える大気の向こうで、雲に覆われた大地が確実に近づいている。
「……制御されているんだよな?」
『はい!』
少しだけ安心する。
『今のところは!』
「その一言はいらなかったな」
返事はなかった。
「高度百キロを通過! 速度、秒速六・一! 減速率、計画値を下回っています!」
「推進系、出力三十二パーセント。逆噴射を継続!」
「船尾構造の許容値を超えます!」
「何秒持つ」
「四十六秒!」
「十分だ。上げろ」
船体を貫く振動が強まった。
先ほどまでの細かな揺れとは違う。低く、重い振動が床から座席へ伝わり、固定具を通して身体の芯まで響いてくる。
赤い光の向こうから、白い雲が迫っていた。
「前方雲層まで二十秒!」
『外部光学観測系の精度が低下しています!』
「地形照合を測距系へ切り替えろ」
正面映像が切り替わる。山地。河川。森林。
無数の線で描かれた地形図。その中央を、クレイドルの予測軌道を示す赤い線が貫いていた。
「雲層へ突入します!」
次の瞬間、正面が白く染まった。
何も見えない。
白と灰色の雲が凄まじい速度で船体を流れ、雨とも氷ともつかないものが外殻を激しく叩いている。
「光学観測、喪失! 地表測距、正常!」
視界を失ったブリッジで、クロムの指示だけが異様なほど明瞭に響く。外には白い壁しかない。それでも高度計の数字は、止まることなく減り続けていた。
『船首側測距系、一系統喪失しました!』
「副系統へ切り替えろ。地形照合は」
「継続中! 着地点予測誤差、十二キロ!」
「五キロ以内まで絞れ」
地形図上で、予測軌道を示す光点が左右へ揺れる。赤い楕円の縁を掠め、戻り、また外れかける。
『第六補助エンジンの出力が低下しています!』
「壊れるまで回せ!」
警告音が幾重にも重なった。正面に浮かぶクレイドルの立体映像は、既に正常な区画を探す方が難しいほど赤く染まっている。
「雲層下端へ接近! 光学観測、復帰します!」
白い世界が、僅かに暗くなった。灰色。その奥に、巨大な黒い影が浮かび上がる。
「雲層を抜けます!」
視界が開ける。地面だった。地平線まで続く巨大な森林が、正面いっぱいに広がっている。
深い緑の中を、幾筋もの河川が蛇行していた。所々で森の色が濃淡を変え、緩やかな丘陵と谷の存在を浮かび上がらせている。
「高度一万六千! 速度、秒速三・二! 着地点、正面!」
森林の一角へ、赤い楕円が重なる。全長一キロメートルを超えるクレイドル。その巨体を、あの範囲へ降ろす。
先ほどまで立体映像上の記号でしかなかった不時着地点が、今は現実の大地として目の前にあった。
「最終減速開始まで、十八秒!」
「全推進系、最終減速準備!」
森林が急速に広がっていく。
「十秒!」
近づいているのではない。こちらが落ちているのだ。
「五秒!」
クロムが片手を振り下ろした。
「最終減速、開始!」
身体が座席へ沈んだ。
「――ぐっ!」
固定具が胸と肩へ食い込み、肺から空気が押し出される。クレイドルの巨体が、全推進力をもって落下へ抗っていた。
「第一、第二補助エンジン、逆噴射、最大出力!」
「第四補助エンジン、九十二パーセント!」
『これ以上は上がりません!』
「十分だ!」
高度を失うにつれ、緑一色だった森林に輪郭が生まれていく。樹冠の密集する場所。僅かに開けた空間。森を分断する河川。地表の起伏が、急速に立体感を増していた。
「高度八千! 速度、秒速一・九!」
『第一補助エンジン、推力低下!』
「出力を維持しろ!」
『燃焼室圧力が――』
轟音。船体後方から伝わった衝撃に、ブリッジ全体が震えた。
「第一補助エンジン、反応消失! 降下速度、再上昇!」
立体映像上で、一つの推力表示が消える。
「第二、第四補助エンジン最大出力! 姿勢制御群も減速へ回せ!」
クレイドルが傾いた。正面の森林が斜めに流れる。姿勢を維持するための推力まで、減速へ注ぎ込んでいる。
「高度三千! 速度、秒速八百!」
ここまで降りて、ようやく森の姿が変わった。それまで一つの地表を形作っていた緑が、無数の樹冠へと分かれていく。
一つ一つが巨大だった。その間を縫うように谷が走り、岩肌が所々で露出している。
「全推進系、減速噴射!」
再び、強烈な圧力が身体を座席へ押し付けた。視界の端が僅かに暗くなる。それでも正面から目を逸らせなかった。
『第二補助エンジン、限界です!』
爆発――非常照明の赤色が消え、観測窓から差し込む光が、ブリッジを照らしていた。直後、赤い非常灯がブリッジを染める。
「第二補助エンジン、推力喪失! 接地まで十八秒!」
「第四補助エンジンは!」
『最大出力です!』
クロムが一瞬だけ沈黙した。正面を見る。数値を見る。そして、決断した。
「……接地姿勢へ移行する。船首を上げろ。左舷側に傾斜。船体下面を進行方向へ向ける」
「了解!」
クレイドルの船首が僅かに持ち上がる。正面を埋め尽くしていた森林が下方へ流れた。もう、速度を殺し切ることはできない。
ならば。
船体そのものを使って、受け止めるしかない。
「接地まで十一秒!」
森は、既に景色ではなかった。巨大な樹冠が視界を埋め、その隙間に太い枝が見える。
一本一本の樹木が、こちらへ向かって飛び込んでくるようだった。
「八秒!」
巨大な樹木の先端が、船体下面へ触れた。
緑が弾ける。最初は数本。次の瞬間には、数える意味すらなくなった。クレイドルの巨体が森林へ沈み込み、進行方向にある全てを薙ぎ倒していく。
「五秒!」
轟音。船体を叩く衝撃の一つひとつがもはや認識できない。正面スクリーンの映像が激しく乱れる。
「三秒!」
再び船体が跳ねた。固定具が身体へ食い込む。
「一秒!」
「総員、衝撃に備えろ!」
樹冠が消えた。幹。土。剥き出しの岩盤。それまで大地を形作っていたものが、全て巨大な壁となって迫る。
そして――世界が、砕けた。




