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第五話 初めて呼ばれた名

(なぜ陛下が……? いえ、それよりも!)

 桂麗は慌てて、詩を書き終えた木簡を隠そうとした。

 だが、それよりも早く夫・武徳に取り上げられ、桂麗の手は空を切った。

「あのっ、お返し下さいませ!」

 時すでに遅し。

 武徳は木簡を広げ、桂麗──春暁麗人の詩の一字一字をしっかりと目で追っていた。

 書き上げたのは、恋い焦がれている相手に振り向いてもらえない乙女の詩。切なさのなかに、春の花によせて明るい未来への希望を織り交ぜたものだ。

 だがどうしても悲しい言葉ばかりが浮かんで、何度も削ったせいで木の表面がボコボコだった。

 よりによって、そんな状態のものを見られてしまった。ただでさえ、この国において艶歌は、男性が書くものだというのに。

 それを、皇后自ら書いているなど──。

(ああ、どうしよう!)

 どんな罰を受けるだろうか。宰相である父や、側仕えの丹にも累が及ぶのはないか。

「お前が、春暁麗人だったのか」

 顔を伏せるのも忘れて硬直していると、驚きのなかに喜びが滲んだような、意外な声をかけられた。

「え……え? あの……」

「こんな運命があるのか……いや、俺が、お前のことを、もっと見ていればよかったのだな」

「陛下……?」

「春暁麗人。俺が唯一、惹かれた詩人だ」

 どくんどくんと、胸が高鳴っていく。

 こんなことがありえるのか。

「まさか、こんな近くにいたなど思いもしなかったな」

「あの、陛下……お怒りなのでは?」

「なぜだ?」

「だって、私は皇后です。こんな、男の人が書くものを、こっそりと書いているなんて。皆に、示しがつきませんよね」

 今起きていることに、感情が追いつかない。そのせいで、ぽろぽろと、結婚してからは封じてきた涙が雫になって、床へと落ちていった。

「──桂麗」

 ぽつりと、名を囁かれた。

(今、初めて……私の名前を……)

 結婚したときからずっと、李后と呼ばれてきた。

 李宰相の娘で、この国の皇后。

 そうとしか覚えてもらっていなかったと、ずっと思っていた。

 自分だけが想い続けていると、嘆いてばかりいた。

「私こそ、あなたを……見ようとしませんでした。ずっと、ずっと。夫婦なのに」

 武徳は、ちゃんと覚えてくれていたのだ。妻の名前を。

 見てほしいと願いながら、その実、今以上に嫌われるのが怖くて避けていたというのに。

「申し訳ありません、陛下──っ」

 頭を下げようとしたとき、ぐいっと引き寄せられた。よろめいた桂麗は、そのまま武徳に抱きすくめられた。

 涙がじわりと、袍の生地に吸われていく。

 汚れになってしまうと離れようとしたが、夫の腕はびくともしない。

 いや、本当は離れたくなかった。

「俺はあの詩に、心は自由だと教わったのだ」

 桂麗は、ぎゅっと武徳の袍を握った。

「好きなものは好きでいい、と。自分もこうありたい、誠実であるべきだと思っていたというのに」

「……陛下」

「全くその逆をしていて、追い求めた夢そのものが、こんなそばにいたことに気づかなかった。……今さらだが、許せ」

「……許すも、何もありませんわ」

 桂麗は顔をあげた。

「私も、もっと陛下に誠実であるべきでした。言いたいことがあるなら、もっと向き合うべきだったと」

「それは俺がさせなかったのだろう」

「いえ。勇気がなかっただけです」

 目を細める。

 夫が自分に向ける視線は、あの詩会で見た青年のものと全く同じなのが、灯りが弱くなっていてもわかる。

 もう、言葉は要らない。


 その夜。

 桂麗は二年越しに、夫と初めて結ばれた。

次の更新は、本日21:00を予定しています。

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